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2004.03.27

岡本太郎『今日の芸術』(知恵の森文庫)

恥ずかしながら、岡本太郎の書いたものをこれまで読んだことがなかった。近所の書店に岡本のコーナーが設けられていて、手軽に読めそうなこれを手に取ったのだが、警句に満ちた言説を巧みに操る筆力に舌を巻いた。発想や感覚の勝った人で論理的な部分はいささか欠いているのではという先入観を、この書によって見事に打ち壊された思いがする。

芸術は「きれいであってはならない」、「うまくあってはならない」、「ここちよくあってはならない」と言い、わからないことの魅力や芸術における新しさの意味を説くあたりは、目から鱗が落ちる記述がよどみなく畳みかけられて痛快である。一つ一つについて思うところを述べたい誘惑に駆られるのだけれども、ここでは自転車仲間のブログでにわかに盛り上がっている書き手の匿名性と記事の関連について、岡本のことばを借りながら思うところを書いてみたい。

問題点を整理すると、ブログやウェブの十全なる理解のために記述者の名前や紹介が必要かどうかということである。他人を俎上に載せるのは憚られるので、私を例にすると、この「1/365」というブログに来てくださる方々が、「morio0101」という人物の名前(実名またはハンドル)なり実在人物としての私のありようを知ることが、記事の理解にどれだけ寄与するかということである。

個人的にはなくてもまったく問題なしというスタンスをとる。あればあったで幾許かの理解の支えにはなることを否定するわけではないが、ネット上では誰でも何者かになりすますことができるため、自己紹介とて完全に信憑性があるとは言い切れない。となると、誰が書いたかよりも、何を書いたか。ネットでは目の前に提示された表現こそが重要であり、唯一にして最大の手がかりである。おもしろければ通い続けるし、おもしろくなければ去るのみ。

そして岡本太郎は言う。

たとえば、腕を前に突き出しているところを、真正面から描こうとすると、その突き出している拳と肩との関係が、どうもうまく描けません。握りこぶしが前に出てこないで、肩のところにかさなって二重マルになってしまったり、穴が開いたように見えてしまったりして、ひじょうにむずかしい。はじめて絵を描く人や不器用な人はずいぶん悩まされ、もてあますものですが、セザンヌの描いたデッサンがまさにその調子でした。すわっている裸婦を正面から描いたものですが、前にでているはずの膝小僧が下腹にめりこんでしまって、きのどくなほど不手ぎわでした(このときいっしょに行った日本人画家が、これを見て、「さすがセザンヌ、うまいもんだ」と奇妙に感心してみせるので、バカバカしい気がしました)。

時には名前がニュートラルな評価を妨げることすらあるということも忘れてはならない。日々の生活の中で「あの人の言うことだから……」というわけのわからない理由で納得させられた経験は、一度や二度では済まないし、自分自身も意識しないでそういう判断をしていることが多々ある。しかし、匿名であることが優先されるネットでは、そういう呪縛から逃れたところで享受する愉楽を味わえるのである。これを楽しまない手はないと思う。

古代の日本文学には署名がない。状況証拠で作者を推定するのみである。源氏物語はそれでも世界に誇る文学として評価されている。まずは表現ありきである。『紫式部日記』には、一条天皇が源氏物語を人に読ませて、「この作者は日本記を読んでいるだろう」と述べたという記事が見える。一条天皇の批評や享受の仕方は、表現の背景に透けて見える記述者の資質を射抜こうとする点で、まことに正しいものであったのである。岡本太郎の芸術享受の方法もまた同じ地平に立つ。

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コメント

>一人だけが書くと、
>まとまったとたん匿名性はなくなるのと同じだと思う。
>本名を知らないだけで、
>そのサイトにはどうやってもその人が見える。

kabunさんがお書きになったこのくだりがネットではすべてではないでしょうか。実名も含めて、履歴書に記すようなことを明かさない以上、表現されたものでしかその人を判断することはできません。不特定多数の人々が行き交う場で、すべてを晒すのはあまりにも危険です。プライバシーの問題を考えると、これで十分ではないでしょうか。さらにネットの匿名性ゆえに、晒した情報すらどこまで信じてよいかも定かではありません。ならば出さない。したがって、表現の信憑性は、すべて享受者の判断に委ねるしかありません。

ネット人生に必要なのは、他との差異と関係性を持つための仮の名だけ。生み出された表現は生身の私から完全に乖離し、享受者の慰み物になりながら、morioという人物の血となり肉となると考えます。あたかも太陽の塔から岡本太郎の芸術の一端をうかがうことができるのと同じように。

投稿: morio0101 | 2004.03.29 23:07

とても面白い問題提起だと思います。
ある雑誌で、編集者が記事を書く際に記名にしたら、その編集部からはプロのライターとなった人が続々出現しました。名前が売れるということもあるけれど、名前を出す際に生まれる責任感のようなものが、自分が書く記事と真摯に向き合うきっかけとなり、その結果内容も密度の濃いものになって、高評価に繋がるのかも知れません。
また、ル・グウィンの「ゲド戦記」というファンタジー小説の世界では、名前を持った瞬間に、その人の個性や善悪や、運命までも決まってしまいます。そして名前は誰かにそう呼ばれた瞬間に定まってしまうのです。自分ではコントロール出来ないところなど、このエントリーを読んで思い出しました。
岡本太郎、大好きです。大阪人は太陽の塔というオカモト的象徴を背負って生きていると思います。(笑)

投稿: atcy | 2004.03.28 12:06

かなり面白い話だなあ。
第一印象ではちょっと太郎さんの言葉との距離感が感じられるけれど。
今回の引用で感じたのは、その人の「ブランド」を名前だけで信じては
いけないということかな?

名前ってなんだろう。。じゃあ必要ないと考えてみれば、
ページタイトルさえいらなくて、urlさえいらない。
そのネタが集まる
匿名掲示板のようなブログに色々な人が書き込む事で
いいのかもしれない。

そこでひらった言葉に、画像に興味を持たれればそれでいいと
すれば。。。。

でも、そこにその個人とのその後の発展した
コミュニケーションはない。
人とのコミュニケーションは一発屋ではないもんなあ。

固定したサイトでの匿名化。
一人だけが書くと、
まとまったとたん匿名性はなくなるのと同じだと思う。
本名を知らないだけで、
そのサイトにはどうやってもその人が見える。
「匿名」と「名前は知らない」の違いかなあ。

人との付き合いをネットと考えるか、
芸術だけの発表の場と考えるか。
どちらでもなく。

ドチラモやってみたい。
けして、個人のブログは強制されるものではないから。


投稿: kabun | 2004.03.28 09:26

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