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2004.03.30

ヴァイブレータ

夜の新世界を歩き、フェスティバルゲートに向かう。ここはゴーストタウンかと見紛うほどの静けさである。固く閉ざされたシャッターが、ますます人を遠ざけている。遊興施設もメリーゴーランドくらいしか動いていない。8時35分からのレイトショーなので、先に軽く食事でもと思ったが、入る気になる店がモスバーガーくらいしかない。これではね。映画館も閑散としている。「ヴァイブレータ」最終回の客数は7名。

ある雪の夜のコンビニに、フリーライターの早川玲(寺島しのぶ)が酒を買いに来る。玲は日頃から頭の中で聞こえる声の存在に悩まされ、不眠、過食、食べ吐きをし、アルコール依存症になっていた。酒を見繕っている時に長靴の男(大森南朋)に目がとまり、「あれ、食べたい」と言葉が頭の中で踊る。後を追う玲は、その男のトラックに迷わず乗り込み、ゆきずりの関係を結ぶ。朝になり、一度はトラックから降りたものの、玲は岡部に言う、「道連れにして」と……。

梨園のしがらみを断ち切るかのような激しい演技を見せた寺島しのぶが圧倒的によい。また共演の大森南朋もたじろぐことなく寺島を受け止める。寺島のヌードや濡れ場がずいぶんと話題になったが、それらは男女の関係の深化を暗示する象徴的な意味を持つだけで、エロティックな印象はほとんど与えない。映画の大半を占める会話が生きたものになっているのは、この二人の俳優の力量が並々ならぬものであることを強く印象づける。

登場人物は寺島と大森以外ほとんどいない。舞台もほぼトラック内部に限られる。孤独に過ごすことが当たり前だった岡部と玲という二人の登場人物が、東京と新潟を往復する間、閉じられた空間で生きた会話をひたすら続ける。それによって二人の精神が柔らかく解き放たれていく。そこに主人公が転生を遂げる貴種流離の話型を透かし見ることができるだろう。かぐや姫は地上に舞い降り、地上で贖罪を果たし、元の世界へ帰っていく。かぐや姫を受け入れた人々もまた、かぐや姫によって人生の転機を迎える。岡島と玲の関係もそうした話型のバリエーションとして捉えられる。

ラストシーンで、岡島は玲を最初のコンビニで降ろす。物理的には物語の振り出しに戻っている。しかし、二人の人間の精神は確実に変化していた。「彼を食べて、彼に食べられた。ただ、それだけのことだった。ただあたしは自分が、いいものになった気がした。それだけでよかった。」という玲のモノローグで終わるエンディングは、実に深い余韻を感じさせる。字幕を多用する手法も言葉に支配される玲の意識を強く印象づけておもしろかった。

廣木隆一監督は「東京ゴミ女」でも倒錯した男女の意識をうまく描き出していた。赤坂真理の原作はかつて芥川賞候補になっている。最大の不満点はパンフレット掲載の上野千鶴子による「私は何でも知っているのだ」と言わんばかりの解説とその文体。玲ではないが、吐き気がした。動物園前シネフェスタで鑑賞。

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