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2004.04.17

小林紀晴『アジアン・ジャパニーズ』(新潮文庫)

帯に踊る「大ベストセラーを記録したデビュー作、ついに文庫化!」という宣伝文句にピンとこないほど、小林紀晴という写真家について知るところはない。もちろんどんな写真を撮って、どういう評価を受けているかも知らない。ただある時には著述家以上に巧みにことばを操る写真家の存在もあるので(たとえば敬愛する森山大道がそうだ)、この「ベストセラー・ノンフィクション」(やはり帯にこうある)を読んでみた。

小林はもともと新聞社のカメラマンであったらしい。3年半勤めた後、あまりにも安定志向の現状を厭って捨て去り、カメラとフィルムを携えて主に南アジアから西アジアの国々を巡ったという。その旅の中で出会った日本人に取材しポートレイトを撮影する。本書はその記録をまとめたものである。ここには実にさまざまな「種類」の日本人が登場する。

小林が取り上げる日本人は、単なる観光目的でかの地を訪れているわけではない。何らかの強い思いを抱いて、もしくはのっぴきならない事情から立ち離れるために、日本を飛び出している人がほとんどである。「新しい自分を探す」「日々との戦い」「とりあえず何かしたい」……。それは取材される側だけではなく、取材する小林自身の問題でもあった。そして日本での生活に安閑としている狭小な私には、その熱く深い思いに居心地の悪さを感じる。憧れはない。

「嫌だったら、逃げればいいんだ!」という、本音とも建て前とも判断しにくいことばに裏打ちされる海外渡航の正体はいかなるものなのか。ドラマチックな海外での非日常的生活によって育まれた彼らの心は、その後いかなる行動や判断(すなわち生活)を生み出していっているのだろうか。ノンフィクションというには少々演出が過ぎる文章に軽い苛立ちを覚えながら、海外に行けば何かがあるのだとする人々への拭い去りがたい違和感について、あらためて考えさせられた。

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コメント

>atcyさん
言いにくいことをずばり言い切って下さいました。確かに多くの人がアプリオリに思い描く「アジアの世界と放浪する日本人」という、いかにもなステレオタイプを見せている、まさにご指摘の通りの内容だと思いました。藤原新也は彼のことばが苦手です。同じインドものでも鬼海弘雄さんのは好きです。土門拳賞をお取りになりましたね。よかった。

>サノさん
はじめまして。コメントありがとうございます。「自分探し」というのは聞こえはいいですが、結局、「今は違うけれど、いつかはそうあるはずの自分」をちょっと確認したいだけだと、個人的には考えています。つまり探しているのではなくて、ほんとはそれに気が付いていて、そうなりたいと願っている状態なのではないでしょうか。HPも拝見しました。とてもかっこいいです。

投稿: morio0101 | 2004.04.23 01:06

初めまして。

僕も小林さんのこの著作については、共感できる部分がなかなかありませんでした。小林さんの著作は、乱暴に言いますと大体において「自分探し」が大きなテーマである感じを受けます。

当方、写真学生です。小林さんの「写真学生」という小説は、鬱気味になると何度も読みます。自分の感情が素直に小説の中へと入っていける気がします。

この違いは何なんかな、と、このコラムを見て考えようと思いました。

写真、特にモノクロームのん素敵です。おなし場所で撮っている写真をお見受けして、ちょっと恥ずかしく、にやけました。

投稿: サノ | 2004.04.21 00:36

一通り皆さんの意見が出た後なので、好きに書かせていただきます。(笑)
例えば小林紀晴、例えば藤原新也。この人達は自身が旅行をして、その記録を写真集や単行本という形にして世に出ました。ハッキリ言うと、ワタシはこの人達の書籍に嫌悪感を持っています。何故かというと、うまく言えないのですが、予め結論を出して、それをなぞるような旅をしているように見えるからです。大上段に構えた通俗的な解釈を持って、それを確かめるような印象を受けます。
例えば森山大道、例えばジャック・ケルアック。この人達は、旅そのものを写真や文章にしてしまった稀有な作家です。彼らとて、旅に目的や到達点などがあった訳ですが、語られているのはもっと抽象的な旅であり、その行き着くところは、彼らの育った路地の面影や、将来への不安など、人として根源的なもののような気がします。だから結論なんて出ないし、出せない。
うまく言えないけれど、どうも小林のこの本に対してはネガティブな印象を持ってしまっている訳です。
勝手にうだうだと書いて申し訳ないです。

投稿: atcy | 2004.04.20 20:25

コメントを下さった皆様、どうもありがとうございました。まず誤解を受けないように申しておくと、国境を股にかけ、グローバルに活躍の場を求める人たちには大いなる敬意を抱いており、本書に登場するような人々とは一括りにしていません。ただエントリーに言葉を継いでも、自分の抱えている思いをうまく説明できそうにないので、とりあえず違和感を感じた部分を引いておきます。

それは小林紀晴が日本からの観光客をして「彼らの姿がうっとおしかった」とし、「何故か違う種類の人間に思えてしまう」とする部分です。観光目的でない自分を含む人々を特別視する感覚がどうにも鼻につきました。そこから「じゃ、日本ではダメなのに海外に行けばなんとかなるの?」という意地悪な思いを持ったわけです。この国から出るに出られない人間の、素朴な疑問として受け取ったいただけたら幸いです。

投稿: morio0101 | 2004.04.19 17:16

私も海外に脱出したい組です。老後・・・笑(^^)
老後、年金暮らしが流行ってるとTVでやってました。
ニュージーランドとか、スペインとか、ベトナムだったかな。
私の時代、年金がどうなってるか判らないから、
全くの夢でしか無いですけど。(^^;)
(あー話の方向ズレてしまってる。すみません。)
ラミゼラブルの本買ったら、五冊セットでした。(^^;)
長過ぎ、笑。
本が一気に読めない私には、半年かかりそうです。(^^;)

投稿: mamma_mia | 2004.04.18 00:32

少なくとも母国の中にいるよりは、自分の国のことが見えてくるのが海外に逃避することのひとつの意味のような気がします。海外に逃げる人の中には、「日常」から逃げたいだけの人から、国から追われて逃げるしか選択肢のないひとまで様々なのです。そこには、いつでも帰ろうと思えば帰れるのと、二度と母国に帰れないという違いはあるものの、いつか「生活の場」なんてどこでも同じだということに気づきます。そのときに、帰る/別の地に行くことを選択するか、そこに留まるかそれだけのこと。
たぶん、日本でもそれは顕著だと思うのですが、グローバルな視野で仕事(または研究)出来る人は、いとも簡単に海外へ逃亡してしまいます。それらの知的財産が母国に還元されるかどうかは、その国の成長の度合いによるのではないかと思います。
いまや、日本は何でも手に入る国です。この何もかもが少しずつ不便なイギリスに暮らしていると、日本人仲間で話すことは「やっぱり、日本だよねぇ」。でも、誰一人として帰りたいとは思っていないのが不思議なところなのであります。

投稿: yuki | 2004.04.17 21:10

海外に行けば何かがあるのも事実だと思うし、身の回りに大事な何かがあるのも事実かと・・・ そして、逆にどちらにしろ何も見つけることができないことも・・・
「XXへ行けばOOなる」という言葉を聞くと、「この街に住んでいるから出会いがない」「この会社に勤めているから出会いがない」と、溜息をつく若者を思い出しますw

投稿: sugulu | 2004.04.17 20:59

インスタントで新鮮な何かは必ずあります。「海外に行けば何かがある」というのは、「身の回りに何も見つけられない」という、鈍磨した感受性の逃げ道です(重々ご承知かと思いますが)。

投稿: WindCalm | 2004.04.17 20:17

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