魅力ある警句といえば芥川龍之介の『侏儒の言葉』を思い出す。あまりにもメジャーすぎて気恥ずかしい気もするけれど、それはお許し願いたい。「人生は一箱のマッチに似ている。重大に扱うのはばかばかしい。重大に扱わなければ危険である。」などは特によく知られているものだろう。ただ警句というのはだいたいにおいて説教臭くていけすかない。天の邪鬼の私はついそう感じてしまう。
ある女学生はわたしの友人にこういう事を尋ねたそうである。
「いったい接吻をする時には目をつぶっているものなのでしょうか? それともあいているものなのでしょうか?」
あらゆる女学校の教科の中に恋愛に関する礼法のないのはわたしもこの女学生と共にはなはだ遺憾に思っている。
どうでもよいことをまじめに論じるこんなのは好き。
嶽本野ばらの『それいぬ 正しい乙女になるために』は、もともと「花形文化通信」というフリーペーパーに連載されたエッセーをまとめたものである。当時から静かに熱くファンの支持を集めていたらしいが、私は読んだことがなかった。この文庫版には当時入れられなかった文章まで収録されており、嶽本自身が完全版と宣言するものになっている。
副題の「正しい乙女になるために」が示すとおり、ここには今やどこにもいないのではないかと思われる乙女の作法や心得が満載されている。一見、一般人には遠い世界の話であるかのように見える。しかし、一本筋の通った主張と論理は、優れて警句となって立ち現れてくる。それらは実に魅力的である。月並みな言い方になるが、「目から鱗が落ちる」とはこういうことかと思った。たとえば「努力と根性」。
「努力」とは、目標があってそれに達する能力が不足な際、目標に到達出来る為の実力を身につけようと精進する、けなげな秀才論的方法論のことです。一方「根性」とは、目標に達する実力がないにも拘らず、何とか欲望を充たそうとする横紙破りな意志力のこと。つまり「根性」には「努力」と違い、正当な順序を経て目標に到達しようという常識の手順が欠落しているのである。
座右の銘を「根性」とする嶽本は両者をこのように規定する。
「努力」は自分のいたらなさを克服しようといたしますが、「根性」は自分ではなく、状況のいたらなさを捻じ曲げようとする自分勝手なパワーです。(中略)面倒くさい「努力」よりも、時空を歪ませワープするダイナミックな「根性」のほうが、ラクチンでドラマチックです。
嶽本や彼のファンにおもねるわけではないが、私はここで快哉の声を上げる。いくら「努力」を積み重ねても極みに達することのないサリエリに対し、遺作となる「レクイエム」とオペラ「皇帝ティトの慈悲」の二作と並行して、「根性」で傑作オペラ「魔笛」を二か月弱で作曲してしまうモーツァルトのことを思い出すのもよいだろう。どう考えても「努力」ではなしえない離れ業である。「根性」万歳。
「いい張る」「思い込む」「反省しない」は生活の三原則。祈れば奇跡はおきなん、です。
参りました。今度、観光地へ行ったら、「根性」と焼きの入った木刀でも買ってくるか。
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