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2004.08.30

『消えた受賞作 直木賞編』(メディアファクトリー)

内容や文章や価値は顧みられず、まずは「売れそうな本だけを売る」というのは今に始まったことではない。その結果、店頭にはどうでもよい文庫や雑誌ばかりが並ぶことになり、全国どこに行っても同じような顔をした書店が所在なげに佇むという風景が大量生産される。品揃えという点では、もはや書店とコンビニの線引きすら難しいのではないかと思われるほどである。

そういう文化的ファシズムから逃れるべく、どうしても必要な本はアマゾンやネット販売をする書店などで注文することになるわけだが、これで問題が解決するかと言えば、そうは問屋がおろさない。ほしい本だけを狙い撃ちするにはいいけれど、何より書店で実際に手に取って本を探す時の知的好奇心の広がりがないからである。書店の楽しみはアナログ的な散策にあると言っても過言ではない。目的の本を探しながら、領域外の脇道に逸れる、これこそが本探しの醍醐味であると思う。そうしてこの無駄な寄り道の中で多様な知や文化を知ることができるのである。そういう楽しみをほとんど奪われてしまっている現状は、本当に憂うべきものであると思わざるをえない。

さて表題の書である。これは大衆小説を対象とした日本最高峰の文学賞(商業的側面はひとまず措いておく)である直木賞を受賞しながら、もはや入手困難で読むことがほとんど不可能な小説ばかりを集めた一冊である。9編を収めて1500円は破格である。編者は以前紹介したことのある「直木賞のすべて」のサイト管理者である。収載された小説はもとより、解説やコラムも読み応えがある。さらに直木賞を巡るデータのうち、受賞全作品の現状(絶版・品切れ・発売中)のリストは非常に有益である。こうした書が世に出たことを喜ぶ一方、なぜ日本文学史上かくも重要な小説(しかも多数)が簡単に読めないのかということに、改めて怒りを覚えるのであった。

#この書に関する詳細は、上記のサイトでご確認下さい。

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2004.08.28

中島らも『お父さんのバックドロップ』(集英社文庫)

毎週火曜日の夜に国営放送局で重厚な語りを聞かせてくれる田口トモロヲ。あまたの邦画作品でバイプレーヤーとして巧みな演技を見せている彼が、9月公開予定の「MASK DE 41」では主役を演じている。家庭は崩壊寸前、しかもリストラに怯える日々を送る中年サラリーマンが、一念発起してプロレス団体を設立するという物語である。展開も結末もすべて見えるような映画だけれど、伊藤歩も出ていることだし、見に行こうとは思っている。プロレスファンだし。

そんなことを思っていたところ、同じくプロレスを扱う中島らもの小説も映画化されるという。さっそく買ってきた読んだ。プロレスラーの他、落語家、魚屋、テレビの制作をそれぞれ職業とする父親が主人公となり、家族(特に子供たち)との関わりを温かくユーモラスに描く。どれも「ちょっと変わり者の父親がマジになって何かを解決する」というパターンばかりで、どうにもつまらなかった。「解説の夢枕獏はほめるのが上手だなぁ」と別のところで感心して本を閉じた。

私は熱心な中島らもの愛読者ではないので、彼のファンの方々にぜひお勧めなど聞いてみたいところである。『僕に踏まれた街と僕が踏まれた街』のようなのはとても好きなのだが。さて映画の方はどういう出来なのだろうか。

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2004.08.26

夏の終わり

自転車に乗って感じる風は、すっかり秋のものだった。

向日葵

ひまわりに夏の残り香を求めても、その姿は過ぎゆく季節だけを強く感じさせる。壮絶な最後に豊穣の明日を予感する。

エンジェルトランペット JR

エンジェルトランペット。素晴らしい名を持つ花が高い空に向かって咲きそろう。

土手

なんとなく「青春」ということばを思い出した、夏の終わりの昼下がりだった。

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2004.08.23

高橋尚子対ラドクリフを望む

日本勢のメダルラッシュに湧くアテネオリンピック。メディアの狂奔する様子やいびつなナショナリズムの押しつけにうんざりしながらも、毎夜ラジオの中継を聞くともなく聞いてしまうのは、四年に一度の祭だからという意識のなせる業か。普段はニュースになってもほとんど関心を払いもしないような競技のことまで追いかける自分は滑稽ですらある。

さて昨日は女子マラソンがあった。深夜にもかかわらず視聴率が27.8%という関心の高さである。並み居る強豪を振り切って見事に野口みずきが優勝し、二大会連続でこの種目の金メダルを日本にもたらした。しかし、シドニーの時の熱狂は私の中にはない。正直に言えば、私は驚異的な世界最高記録保持者であるポーラ・ラドクリフを応援していたのだ。そして同時にこのレースに高橋尚子がいないことをほんとうに残念に思っていた。

そう言うのは、五輪二連覇の機会を失ったからではない。この選手の素晴らしいところは、常に何か「とてつもないこと」をやるのではないかと期待させる点にある。それはたとえば「女子選手として史上初の二時間二〇分突破」「世界最高記録更新」など、あらかじめ目標として打ち出されるものが普通に強いだけでは達成不可能なものばかりであることによる。勝つのは当然、見ている人はその勝ち方を楽しみにできるという希有な存在である。彼女の独走は単なる独走ではなく、常に最高のタイムを記録するかもしれないというスリリングな愉悦に満ちあふれている。だから否が応でも期待感は盛り上がる。

ラドクリフも同様で、彼女たちのレースは小賢しい競り合いや駆け引きとは遠いところにあり、自分のためのタイムトライアル、いわば「レースを破壊する」ところに最大の魅力がある。その爽快感たるや。だからこそ高橋のいないアテネのレースではラドクリフに「とてつもないこと」を期待したのであった。野口の偉業を貶めるつもりはないけれど、おそらく彼女にそれを求めることは不可能である。堅実な瀬古利彦よりも破滅型の中山竹通を応援した自分を思い出す。

いずれ実現するであろう高橋尚子対野口みずきも、おそらく高橋は野口を意識することなく、自分のペースでレースを破壊しようとするだろう。ラドクリフもアテネで同じことをすればよかったのだ、と思う。気象条件や技術的な問題もあるのかもしれないが、最初からレースを破壊する気配のなかったことが惜しまれる。しかし、高橋がいたならば、きっと二人で「自分勝手なレース」をしたに違いない。結果として二人がつぶれたとしても、これぞ夢の対決という喜びを感じさせてくれたはずである。

そして私はシカゴかベルリンかロンドンで二時間一五分を巡る高橋対ラドクリフの究極のマッチレースを夢想するのである。

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2004.08.19

伊藤たかみ『ミカ!』(文春文庫)

児童文学の想定する読者層というのはどのあたりなのだろうか。

もう子供からはすっかり遠くなってしまった(と言うこと自体が不遜)今の私であるが、時折この種の書物を手に取って懐かしがったり違和感を覚えたりさっぱりしたりしている。そういうのは他の人も感じるようで、この小説の解説をものしている長嶋有も、「この解説は、一体だれに向かって書けばよいのだろう。子供にだろうか。大人にだろうか。」と困惑しながら吐露している。結局、長嶋は小説そのものの評価には踏み込まず、「大人とは何か、子供とは何か」とカテゴライズして、該当する箇所を小説から抜き出す作業に専心することにしたようである。騙された思いで本を閉じたが、そもそも彼は解説を頼まれるまでこの小説を読んでもいなかったのだから、それも致し方なしか。芥川賞作家の筆力でこなした頼まれ仕事なのだろう。

第49回小学館児童出版文化賞を受賞した「ミカ!」は、小学校6年生の少女を主人公とする。主人公ではあるが、彼女は徹底的に外部の目から語られ、彼女自身の心中が一人称の視点から明らかにされることはない。物語はすべて彼女の双子のきょうだいユウスケの目を通して語られる。この時期の少女を取り上げる時に、肉体と精神のバランスがうまく取れず、ためにさまざまな悩みを抱えている、そしてそれを克服して大人になるという陳腐な成長物語を描いてみせたとしても、いまさらどれほどの今日的な意味があるのか。個人的には疑問なしとはしない。『ミカ!』もそういう気配がなきにしもあらずなのだが、この小説には少々謎めいた結構がある。それはオトトイの存在である。

オトトイはミカとユウスケが大切に育てる謎の生物である。この生物の解釈が本作の勘所であろう。オトトイはミカの流した涙を食べて大きく成長する。これは何を意味するのか。生活の中で流されるミカの涙は、彼女の過ごした時間の喩的存在である。したがってそれを吸収して成長するオトトイは、ミカの記憶または思い出の集積したものと見なすことができるだろう。何よりオトトイ(=一昨日)という名前がそれを象徴的に表している。やがてオトトイは大雨とともに消え去る。ミカに激しく涙を流させたオトトイの消失は、すなわち幸せな子供の時間への決別である。自らの過去を客観視し、精算することで次の段階へ進むということを、オトトイの成長と消失という形で描いたと思われる。そして新しいミカが誕生した。オトコオンナと言われたミカがオンナになったという結末には拍子抜けするしかないが、それは言っても詮ないことか。

ところで、かの長嶋有は解説でオトトイのことにまったく触れていないのだが、果たして彼は本当にこの小説をきちんと全部読んだのか、少し疑いたくなる。

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2004.08.17

ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS

1954年に誕生した初代ゴジラから数えて28作目、50周年記念作品「ゴジラ ファイナルウォーズ」をもって、このキング・オブ・モンスターもメディアから姿を消すという。監督が北村龍平というところですでに期待薄ではあるが、登場予定の怪獣はどれも懐かしい東宝チャンピオン祭を思い出させるもの(ガイガン・ミニラ・ヘドラ・モスラ・カマキラス・マンダ・クモンガ・アンギラス・キングシーサー・エビラ)で、それだけは楽しみにしている。併映されるハムスター映画目当ての子供に紛れながら、劇場で観ることになるだろう。

さて表題の作品は昨年末に劇場公開された27作目である。薄っぺらい近頃のゴジラシリーズは好きではなく、金子修介が監督した「ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃」(これは傑作だと思う)以外は、劇場はもとよりビデオでもほとんど観賞していない。これも先日レンタルで出たので借りてきた次第である。

何度もゴジラが日本を襲うのは、ゴジラの骨から作られた機龍(メカゴジラ)があるためだといい、それを放棄することで真の平和を得ることができるという論理は、すぐさま現代社会の核の存在や抑止力の問題を思い起こさせる。テーマや問題提起そのものは現代的ではある。しかしながら、結局はゴジラと機龍を戦わせなければならない必然性(=全面核戦争!)に、怪獣プロレス映画の限界や哀しさがある。観客層を考えると、ゴジラ映画は「ボウリング・フォー・コロンバイン」にはできない。初代ゴジラが極めて社会への問題提起に富んでいたことを思うと、同じようなテーマを選びながら天と地ほどの差がある。

映画の中のちょっとした場面に心は躍るものの、取り上げようとした重大かつ今日的なテーマがきちんと形象化されていないので、終わってみればあっさりとした印象しか残らなかった。これで残りあと一作か……。

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2004.08.15

是枝裕和・川内倫子他『あの頃のこと』(ソニーマガジンズ)

あの頃のこと是枝裕和監督の「誰も知らない」のスチールは、川内倫子が担当している。最近のいくつかの邦画では当代の人気写真家が同じような形で映画に参加している。たとえば川内は以前「blue」(安藤尋監督)でスチールを撮り、同題の写真集を出していたし、「ジョゼと虎と魚たち」(犬童一心監督)では佐内正史が、「きょうのできごと」(行定勲監督)では野口里佳・森山大道・野村佐紀子・吉永マサユキらが、そして「ドラッグ・ストア・ガール」(本木克英監督)では蜷川実花が、やはりスチールやポスター撮影を担当して、別に写真集などを刊行したりしている。映画にとっても写真家にとってもよいプロモーションになるのだろう。総じて観客動員に悩むB級邦画ゆえに、こうした一種のコラボレーションが少しでも話題になり、人々の関心を喚起できるならば、たとえ「まず商売ありき」だとしても、ファンとしては歓迎したい。

あの頃のこと Every day as a child」は、映画「誰も知らない」にも描かれる「子供の世界」「子供の記憶」をテーマにして綴られる。前半にはこの映画を記録した川内倫子の写真が置かれ、後半は是枝裕和以下、中村航、湯本香樹実、佐藤さとる、やまだないと、中村一義、島本理生、堀江敏幸、しりあがり寿による小説やエッセイが収められる。文章には出来不出来があるものの、川内倫子の写真集が1900円で買えることを思うとたいした傷ではない。そしてその川内の寄せた短文が「あの頃」をよく思い出させてくれる。

  日なたに干した
  ふかふかのふとんにくるまって眠る夜
  うとうとしながら
  となりの部屋の大人たちが立てる音を聞く
  昼間に感じたぬるい風
  土の匂いをくりかえし思い出す
  なんでもない、とても幸福な一日の終わりがあった
  そうだった

映画本編の評判も上々のようである。だんだん日が短くなり、朝夕に秋を感じさせるこの季節は、記憶の中の懐かしさを強く刺激する何を持っているように思える。この本を読みながら、ふとそんなことを思った。

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2004.08.14

サンダーバード

カウントダウンとともにオープニングのアニメが始まり、あのテーマ曲が流れ始めた。モダンにアレンジされているが、紛れもない「サンダーバード・マーチ」である。鳥肌が立ち、全身が痺れた。懐かしい友達が帰ってきた。しかし……。

国際救助隊サンダーバードは世界各地で発生する災害から人々を助け出す謎の組織で、今や世界的なヒーローとなっている。しかし、かつて彼らに救助してもらえなかったことを逆恨みするフッドは、サンダーバードに復讐を企んだ。フッドは宇宙空間に浮かぶ5号をミサイルで攻撃し、その救助に向かった兄弟のいない本拠地トレーシーアイランドを乗っ取ることに成功する。すべての制御を敵に奪われたサンダーバードは最大の危機を迎える。この危機から兄弟や父親を救うため、まだ正式隊員ではないアランが仲間とともに反撃に転じたのだった……。

イギリスと日本以外ではほとんど知られていない「サンダーバード」が、ハリウッド資本によって実写化されると知った時、勧善懲悪を強調した単なる冒険活劇になったら嫌だなと思った。果たせるかな、その心配は現実となってしまった。これはかつてのサンダーバード物語の前史で、末弟のアランがサンダーバードに加入するきっかけになる事件を描く。誰からも認められなかったアランが絶対的なヒーローとして悪と対峙し、最後は勝利を収めることで望みのものを手に入れる。けだし、ハリウッド映画の常套手法であろう。そしてそれはオリジナルのサンダーバードが持っていた最大の魅力を消し去ることになってしまった。

オリジナル・サンダーバードは、高度に発達した科学技術がひとたび暴走すると人知の及ばない大災害をもたらすという、まさに21世紀の我々が直面する問題を40年も前にテーマ化していたのである。このドラマの魅力は、善悪の戦いにあるのではなく、人類の存在を揺るがすほどの大災害から人々を救助し、過信しすぎた科学技術へ警鐘を鳴らし続けたことにある。この先見性に先進メカが組み合わさって、かつての子供たちは熱狂したのである。それはあたかも小さな子供が赤い異形の車に乗る消防士に憧れるのに似ている。

その視点を失ったハリウッド・サンダーバードは、続編を作ることになっても次々に敵役を生み出すしかないだろう。技術は最新にして旧態依然の内容しかない空疎なハリボテ映画にしかならない。たとえば原子力発電所の深刻な事故をきちんとした科学的な根拠を提示しながら救助活動をする、超高層ビルで発生した同時火災(911が脳裏をよぎるが)から人々を助け出すなどという今日的な問題を扱ったならば、さらにこの物語の歴史に厚みというものを加えることができたと思う。

近年のハリウッド大作は日本語吹き替え版が必ず作られる。今作はアイドルグループのV6が担当した。それはそれでよいのだが、なぜ昼間の時間帯は吹き替え版ばかりが上映されているのだろうか。字幕版は多くの劇場で夜の部1回限りというところが多いようである。V6は主題歌の日本語版も歌っている。アイドルグループのプロモーション映画として使われるようなサンダーバードには、当然魅力はない。昔の友達も随分変わってしまったということか。ワーナーマイカルシネマズ茨木(レイトショー)で鑑賞。

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2004.08.13

誰も知らない

梅田ガーデンシネマも心斎橋パラダイススクエアもあふれる人でごった返しているだろう、そう思って、新世界のシネフェスタで観ることにした。是枝裕和監督の「誰も知らない」。

少し早めに映画館のあるフェスティバルゲートに着くと、さすがに夏休みである、普段は感じられない活気のようなものがあった。屋内遊園地の目玉でありお荷物であるジェットコースターも、今日は走り続けている。二階の中央広場には特設リングが据え付けられており、その回りを大勢の人が取り囲んでいた。この建物でおそらく一番の観客動員力を誇るであろう大阪プロレスが無料のイベントを開いていた。周辺には縁日を模した屋台が出ている。派手で薄っぺらい場所に満ちる猥雑さ、いかがわしさ、そして人の匂い。こういう雰囲気は嫌いではない。

その喧噪をしばらく楽しんでから七階に上がると、また別種の賑わいがあった。この映画館では見たことのない景色である。「誰も知らない」には一番大きなスクリーンが割り当てられており、入口には開場を待つ人が群れなしている。さすがはカンヌで大きな賞を取った話題作である。ただ映画自体は万人受けするようなわかりやすさを持つものではなかった。子供を置き去りにするという事件から予想される悲惨さや悲しさ、教訓、社会的悪への制裁意識などのわかりやすさを期待する向きには、とまどいしか残らないと思う。誤解を恐れずに言えば、これは子供の幸福な時間を描いた映画である。

フェリーの甲板母親に置き去りにされた子供たちの秋から夏までを描く。この映画が1998年に起こった通称「西巣鴨子供四人置き去り事件」をモチーフとしていることは、すでに広く知られている。ただしドキュメンタリーではないので、脚本では設定も含めて大きく手を入れている。そういう意味では育児放棄、児童虐待といった社会問題を一般的に捉え直しているといってもよい。ただ忘れてはならないのは、是枝監督は「誰も知らない」によって、上記のことを社会悪として徹底的に糾弾しようとしているのではないということである。おそらく問題提起という意識もない。描こうとしたことは彼らの体験していた「豊かさ」であると、パンフレット掲出の監督自身のノートにある。

この映画にある種の幸福感が漂っているのは、そういうところから来ているのだと思う。客観的な状況は極めて悲惨であるにもかかわらず、そうした部分で感情を揺さぶられることはほとんどなく(一部ある)、懸命にというよりはむしろ自然体で生き続ける子供たちの姿に懐かしさや暖かさを感じるのである。ただ生きようとするエネルギーがある。それは、ともすれば生きることに慣れてしまった大人たちの、すっかり忘れてしまったことであろう。私たちはそういう子供の時間を積み重ねてここまで来たはずなのに。カメラはそこを徹底的に掬い取って提示する。

この映画には明確な結末がない。なぜなら明日もまた彼らの生活は続くからである。エンディングのシーンは、それでも彼らが生き続けなければならないことを象徴的に表していた。「誰も知らない」は特異なモチーフを選び取りながら、それによって観る者の感情を煽るようなことを最後までしない。その潔さと優しさにこそこの映画の真髄があると思う。けだし、カンヌの高評価も諾なるかなと納得した。柳楽優弥の最優秀男優賞受賞もタランティーノの日本贔屓だけが理由ではないと信じていたし、観賞していっそうその意を強くした。ゴンチチのウクレレをベースとした音楽も幸福感を演出する。映像はスチールを担当した川内倫子の写真を彷彿とさせる淡いカラーの穏やかな色調で、あたかも彼女の写真集を見るかのような印象を受けた。また観たい。

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2004.08.12

遊園地と針穴と夏休みの宿題

リニューアルオープンした香川県のニューレオマワールドは、予想以上の人々で賑わっていた。アトラクションの多くは過剰な刺激よりもわかりやすい楽しさが優先されているので、若い人たちよりも小学生くらいまでの子供を連れた家族が目立つ。ジェットコースターや急流滑り、3Dシアターなどを巡りながら、ピンホールカメラでカラフルな園内をぽつぽつと撮影していた。

遊園地とピンホール写真といえば、先頃刊行された徳永隆之『Amusement Park』(新風舎)あたりが代表的なものであろうが、あの写真集では少し寂れた遊園地とノスタルジックな絵を生み出すピンホール写真の相性の良さを打ち出すように撮影がなされている。そこには当然のように人はいない。同じ題材を同じようなトーンで撮影してもおもしろくないし、何よりピンホールで人を撮るのが意外性に満ちていて楽しいと思っているので、できるだけ遊興施設だけでは撮らないようにしていた。当然、人が集まる場所でカメラを構えることになる。

この日はZERO2000を使っていた。木の箱にしか見えないカメラがしっかりとした三脚の上に載っかっているわけだから、こちらに気がついた人はちょっと不思議そうな顔をしながら通り過ぎていく。何人かからは声もかけられた。そしてある四人家族が近づいてきた。見たところ、私とほぼ同世代の父親と母親、その後ろで少し恥ずかしそうにしている男の子の兄弟が二人。父親が口を開く。

「これはピンホールカメラですか」「はい、そうです」

聞けば、上の男の子が小学校の夏休みの自由研究でピンホール写真をやりたいとのこと。いくつかの本で調べてみたものの、今ひとつよくわからないし、教えてもらえるような人もいないので困っていると、これは母親が説明してくれた。それでほんとうに少しだけだけれど、知っていることを話した。なんだかとても嬉しそうにしてくれるので、こちらの気持ちも軽くなった。別れ際、父親が手持ちのビデオカメラで私のピンホールカメラを映していた。男の子は、やっぱり最後まで少し恥ずかしそうにしながら、それでも私のカメラをしっかりと見つめていた。

フェリーの甲板「うまく写真が撮れて、いい自由研究になるといいな」と思ったのはもちろんであるが、いつも以上に熱心に話をしたのは、他でもない、自分の娘が自由研究の課題にピンホール写真を選んでいるからである。他人事とは思えなかった。そして「自分は何を夏休みの宿題にしたのだろう」と遠い記憶をたぐり寄せようとするのだけれど、それは淡い霧の向こうで霞んでしまってうまく思い出すことができないままである。

写真は帰りのフェリーの甲板で娘と一緒にピンホール写真を撮影しているところ。綺麗な海と空が撮れただろうか。

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2004.08.08

棒たおし

高校生があるスポーツに夢中になる。その無償の行為、無心に取り組む姿を描くだけで感情を揺らすドラマとして成り立ち得るので、このモチーフは映画やテレビでさまざまな形で取り上げられている。近年のヒット作品「ピンポン」や「ウォーターボーイズ」は記憶に新しいところであろう。私が心から愛する「がんばっていきまっしょい」(磯村一路監督)も、愛媛の高校の女子ボート部を鮮烈に描く映画として深く心に残っている。

「棒たおし」は、かつて運動会でよく見かけたこの競技を中心に据える男子高校生の物語である。2002年の城戸賞を受賞した松本稔の脚本を、前田哲監督が映画化する。主演とその取り巻きは男性アイドルグループLeadとFLAMEのメンバーが務める。でも誰が誰やらよくわからなかった。皆、同じに見える(たぶんそれは私の衰えた脳力のせいだとも思うが)。結局、最初から最後までだらしなくのびきった金太郎飴のような一本調子で終わってしまった。

ということを最初に書いてしまうのは、この映画には上記の三つの秀作にあった、朴訥だけど真実を見せるような清冽な演技、そして劇中ながらその競技に深く入り込むことで確実に成長する姿といったものに、ついぞ出会えなかったからである。なんだかグラビア誌に踊るようないかにもアイドル然とした定型化したパターン(顔・ポーズ)が画面に切り貼りされているだけで、そこからはちっとも血も汗も涙も感じられない。工業科に馬鹿にされている普通科の生徒が、運動会での棒たおしで見返すというわかりやすい勧善懲悪を描くわけだから、持っていき方によっては絶大なる観客の共感(そして爽快感)を得られるはずなのだが、あまりの学芸会ぶりに最後まで醒めた目でしか見ることができなかった。これでは単なる格好をつけたアイドルプロモーション映像でしかないだろう。

キャッチコピーで「卓球、シンクロナイズドスイミングの次は棒たおしだ」というくらいなら、内容面でもきちんと受け継ぐものを見せてもらいたかった。意味も欲得もなく何かに熱中する若い人の姿をもっとストレートに見せてくれたら、それだけでいい映画になると思うのだが。

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2004.08.07

ある暑い日のできごと

暑いのに京都へ行った。ブロンプトンで輪行して、阪急京都線西院駅からまず金閣寺へ。次が龍安寺。この二つを廻るだけで、もうグロッキーになった。あまりにも暑すぎる。そこから南下する。当初は細見美術館(リクエスト展)と京都国立近代美術館(横山大観展)へも行くつもりだったけれど、とんでもない。向日市ご自慢の向日葵畑を見て、早々に退散することにした。帰り道で見た夕焼けは滅多に見られない美しさで、月並みだけど感動した。

 
【左:人でごった返す金閣寺の撮影スポット 右:金閣寺のお守りは一休さん】

暑いのにさすが世界遺産である。次から次に観光客がやってくる。私もその一人ですけどね。金閣の正面は撮影スポットになっており、他人抜きの写真を撮るのは不可能に近い。おみやげに買い求めたお守りは一休さんである。その名も「ちえまもり」という。ご存じの通り、幼少の一休さんがとんち問答をした将軍様こそが、他でもない金閣寺を建立した足利義満であった。裏には金閣の刺繍が施されている。実は今日のお目当てはこれであった。日本の某所に空輸される予定(笑)。もちろん自分のも買い求めた。衰え気味の脳には「ちえまもり」がたいそう効くことだろう。

 
【左:石庭の右側の石 右:石庭で和む人たち】

続けてお隣の龍安寺へ。ここも人気スポットである。石庭の静寂さなんてとても味わえない。縁台は人でごったがえしている。暑さで疲れ果てていたので、針穴写真を撮りながら、端の方で転がっていた。観光客はそれぞれグループを形成し、中でも歴史に強い人が声高に講釈していた。いろいろ知識が増えた(笑)。

 
【左:向日市の向日葵畑の背の高いやつ 右:安威川の夕焼け】

向日市にまとまった向日葵があるということなので、ついでに立ち寄った。今日のもう一つのお目当て。三カ所あるが、そのうちの二カ所に行った。これだけのまとまった数はなかなかないけれど、「ふーん」くらいで終わってしまう。街中だから仕方ないです。帰りに安威川で見た夕焼けは年に何回あるだろうかというくらい綺麗なものだった。

で、今は日焼けしたところが痛い……。

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2004.08.04

「coyote」と『4区』

coyote少し前に蒼穹舎の太田通貴のレクチャーを受ける機会があった。写真の並べ方やページ単位の割り振り、全体の構成の仕方など、写真集を数多く刊行している出版社の編集代表者ならではの内容が聴けて、とても有益だった。特に森山大道とも長く深い関係を続けており、その方面の興味深い話もありがたいものであった。ワイズ出版の刊行する写真叢書の1冊『4区』は、森山大道がポラロイド(モノクロ)で撮影した東京のスナップ写真を収める。この書の編集も太田が担当している。ポラロイドの不安定な現像の濃淡が、かえって私たちの記憶の濃淡を表現しているようで、とても生々しい。書店でもよく見かけると思っていたのだが、すでに版元には在庫がなく、流通分で終了と聞き、あわてて買い込んだ。

朝日劇場今日は雨に降られるのを気にしながら、新世界からなんばまでゆっくりと歩いた。天気が悪いためか、平日の新世界はほとんど人気(ひとけ)がなく、いかにも地元という雰囲気を発散させている人しか見られない。大衆演劇場で新しく始まった出し物にも、どれほどの人が集まっていることか。普段は行列のできている串カツ屋も、空席があっていつでも入ることができる。なんばに向かう途中の日本橋では、大手家電量販店系列のCDショップで時間を過ごす。持っていたはずなのに、なぜか自宅のCD収納棚に見当たらないクライバー&リヒテルが演奏するドヴォルザークのピアノ協奏曲が再販されていたので、迷わず手に入れる。

千日前の某カメラ店でエプソンのR-D1を見てくらくらしながらデジカメ用の充電池を買う。なんばのジュンク堂書店では「coyote」という雑誌を見つけた。創刊第1号である。旅と写真がテーマのようで、第1号では森山大道が特集されている。これが実に読み応えがあり、また掲載される写真も見応えがあり、とても1000円の本とは思えない充実ぶりである。紙質もよく広告は極めて少ない。これだけ上質で志の高いムックはあまりない。ぜひ実物を手に取って見ていただきたい。それにしてもホンマタカシの森山大道へのインタビューがとてもおかしい。ライカを買ったものの寄れないからフィルム一本でやめにしたとか、試し焼きなしでいきなり四つ切りで何でも焼くとか、とにかく気合いで数を焼きまくるとか、いやもうホンマが泡喰ってるのが目に浮かぶ内容だった。なお第2号の特集は星野道夫。

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陰陽師2

今さらながら「陰陽師2」を見た。なんだか今ひとつ乗り切れず、よくわからない映画だった。

出雲の国の末裔と安倍晴明の戦いを描く。都人によって村を滅ぼされた幻角(中井貴一)は、かつて大和朝廷によって出雲が侵略された歴史を自らの悲劇に重ね合わせ、素戔嗚尊と八岐大蛇の力を借り復讐を企てる。八岐大蛇は幻角の秘技により二人の子供にそれぞれ痣となって宿る。やがて成長した須佐(市原隼人)は次々と人を襲い、最後に姉である日美子(深田恭子)を喰らって素戔嗚尊として転生を果たす。幻角は須佐の力で都を破壊し始める。危機を察知した晴明(野村萬斎)は女舞を演じ、天の岩戸から天照大神となった日美子を呼び出そうとする。壮大な物語の結末はいかに。

と盛り上げて書いたけれど、心情的にはあまり盛り上がらなかった。

都と出雲の対決、荒ぶる素戔嗚尊、さらに八岐大蛇の出現、そしてそれに対抗する天照大神と安倍晴明とくれば、もっとエキサイティングな作り物語ができそうなものなのに、なんだか力が入らないのである。それはおそらく最後の解決方法がはっきりと白黒つけるものではなく、女装した安倍晴明の舞によって、すべてがなんとなく軟着陸した(丸く収まった)ことによる。いや、野村萬斎の芸が巧みなことはよくわかるけれど、その現実的な才能がストレートに映画の幕引きに使われると、それはちょっと安易じゃないのかと思ってしまうのである。天の岩戸とアマテラスと来れば、一も二もなく踊りが来るしかないのはわかっている。幻角と晴明が直接戦うのも、晴明が都の代表としての自覚が希薄だから(そもそも晴明を為政者側の人間とすること自体無理があると思う)、対出雲、対都といった代理戦争にもなりにくい。だからああするより他に手はなかったのかもしれない、といちおう好意的に解釈しておくことにする。

大いなる爽快感の得られないアクション映画は、見終えた後に疲れが来る……。

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2004.08.02

茶の味

映画の日が休日と重なり、めったにない大混雑の中、シネリーブル梅田で「茶の味」を観てきた。ほのぼのとした佳作で、2時間半に近い上映時間を長いと感じさせないものであった。

山あいの小さな町で暮らす春野一家。催眠療法士であるノブオ(三浦友和)は、妻の美子(手塚理美)が自宅でアニメーターの仕事を再開したのを快く思っていない。同居するノブオの父轟木アキラ(我修院達也)も元アニメーターで、最近美子と仲がよいのでますます落ち着かない。長男のハジメ(佐藤貴広)は失恋直後の高校1年生、今度は転校生の鈴石アオイ(土屋アンナ)に一目惚れをし、彼女の趣味である碁を始める。小学1年生の長女幸子(坂野真弥)は、自分を見つめる巨大な自身の幻影が現れることを悩んでいる。春野家には東京でスタジオミキサーをしている美子の弟アヤノ(浅野忠信)も時々出入りする。豊かな自然とゆったりとした時間の流れる春野家の今日のできごとは……。

一本筋の通ったストーリーや無理矢理感動を押しつける仕掛けはこの映画にはない。ひたすら春野家とその周辺人物たちの小さなエピソードを積み重ねるように描くだけである。彼らはそれぞれ人に言えない、人に言うほどでもない悩みを抱え、しかし、それが決定的に人生に影響を及ぼすわけでもなく、何となく時間が解決していく、そういう日常を営んでいた。このありようこそが私たちの知っている人生そのものであろう。春に公開された行定勲監督「きょうのできごと」よりは設定、発想、映像ともに非現実の方向に振ってあるけれど、描こうとするものは同質である。強引な感動や結末はなく、詩的で曖昧で暢気でユーモラス、そして観客の想像力に強く訴えかけてくる。それが心地よい。

幸子の逆上がりの練習、ハジメとアオイの相合い傘、そしてアキラの残したスケッチブックなど、ついホロリとさせられる場面もあざとい見せ方をすることなく、さらりと描く。三浦友和と手塚理美がいい感じ。リトルテンポののんびりした音楽もきちんと世界を彩っている。何度も映し出される空・雲・夕焼け・緑がほんとうに綺麗であった。石井克人監督の作品は初めて観たが、これはとても気に入った。シネ・リーブル梅田で鑑賞。

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