高橋尚子対ラドクリフを望む
日本勢のメダルラッシュに湧くアテネオリンピック。メディアの狂奔する様子やいびつなナショナリズムの押しつけにうんざりしながらも、毎夜ラジオの中継を聞くともなく聞いてしまうのは、四年に一度の祭だからという意識のなせる業か。普段はニュースになってもほとんど関心を払いもしないような競技のことまで追いかける自分は滑稽ですらある。
さて昨日は女子マラソンがあった。深夜にもかかわらず視聴率が27.8%という関心の高さである。並み居る強豪を振り切って見事に野口みずきが優勝し、二大会連続でこの種目の金メダルを日本にもたらした。しかし、シドニーの時の熱狂は私の中にはない。正直に言えば、私は驚異的な世界最高記録保持者であるポーラ・ラドクリフを応援していたのだ。そして同時にこのレースに高橋尚子がいないことをほんとうに残念に思っていた。
そう言うのは、五輪二連覇の機会を失ったからではない。この選手の素晴らしいところは、常に何か「とてつもないこと」をやるのではないかと期待させる点にある。それはたとえば「女子選手として史上初の二時間二〇分突破」「世界最高記録更新」など、あらかじめ目標として打ち出されるものが普通に強いだけでは達成不可能なものばかりであることによる。勝つのは当然、見ている人はその勝ち方を楽しみにできるという希有な存在である。彼女の独走は単なる独走ではなく、常に最高のタイムを記録するかもしれないというスリリングな愉悦に満ちあふれている。だから否が応でも期待感は盛り上がる。
ラドクリフも同様で、彼女たちのレースは小賢しい競り合いや駆け引きとは遠いところにあり、自分のためのタイムトライアル、いわば「レースを破壊する」ところに最大の魅力がある。その爽快感たるや。だからこそ高橋のいないアテネのレースではラドクリフに「とてつもないこと」を期待したのであった。野口の偉業を貶めるつもりはないけれど、おそらく彼女にそれを求めることは不可能である。堅実な瀬古利彦よりも破滅型の中山竹通を応援した自分を思い出す。
いずれ実現するであろう高橋尚子対野口みずきも、おそらく高橋は野口を意識することなく、自分のペースでレースを破壊しようとするだろう。ラドクリフもアテネで同じことをすればよかったのだ、と思う。気象条件や技術的な問題もあるのかもしれないが、最初からレースを破壊する気配のなかったことが惜しまれる。しかし、高橋がいたならば、きっと二人で「自分勝手なレース」をしたに違いない。結果として二人がつぶれたとしても、これぞ夢の対決という喜びを感じさせてくれたはずである。
そして私はシカゴかベルリンかロンドンで二時間一五分を巡る高橋対ラドクリフの究極のマッチレースを夢想するのである。
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コメント
>yoさん
ただ強い人でなくてよかったです。人間を感じました。きっと復活すると信じています。そして高橋やヌデレバと超絶対決をしてほしいと願っています。
投稿: morio | 2004.08.24 22:25
ラドクリフの涙の理由は何だったのでしょう。
36km地点を何度も見てしまいました。
子供の様に泣いていた。
理由はわからない。
僕にも もりちんにも。。。
投稿: yo | 2004.08.24 00:46