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2004.10.31

バーバー吉野

放課後の誰もいない教室で、好きな女の子のリコーダーの匂いをかぐ。

この描写一つで「バーバー吉野」という映画を許せそうな気がする。

とある山あいの田舎町には古くからの言い伝えがあって、男の子は全員が「吉野ガリ」という髪型にしなければならなかった。町唯一の床屋「バーバー吉野」のおばちゃん(もたいまさこ)が刈るその奇妙な髪型の伝統は、100年以上も続いているという。ある日、誰一人として「吉野ガリ」を疑問に思っていないこの町に、東京から茶髪のかっこいい転校生がやってきた。クラスの女子は彼に夢中である。それを見た「吉野ガリ」の少年たちに、ある思いとたくらみが湧き上がってくるのだった……。

「バーバー吉野」は、伝統の名の下に自由や人権を弾圧する権力者(大人)に対し、自らの権利を獲得しようと戦う子供たちの物語である、と言ってしまうと、この映画にはかっこよすぎる説明になる。正しくは、なんとかして女の子にもてたい男どもが、日夜発情して大騒ぎする物語というところであろう。その大人と子供の攻防の象徴が「吉野ガリ」という変な髪型なのであった。一種の少年たちの精神的成長譚とも言えようが、やはり女子の気を惹きたい男どものもがく姿を描く映画という方がふさわしく思われる。だからこそ説教臭くなく愛すべき佳作になっていると思う。

小学校高学年の男子がやりそうな「おバカな行動」が続出する。冒頭のリコーダー・ネタもその一つだが、なんだかニヤニヤとさせられることが多くて、それがなんとも心地よいほのぼの感を生んでいる。物語の鍵を握る東京からの転校生の描き方が薄っぺらいとか、反体制派(子供)が是、守旧派(大人)が悪というわかりよい対立関係を強調しすぎるとか、映画の中には生硬な部分も散見される。しかし、総体的にはとても楽しめる映画になっていると思った。第13回PFFスカラシップ作品として製作された、荻上直子監督の長編デビュー作である。今後に期待したい。

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2004.10.30

牛腸茂雄と野村恵子の写真集

最近、手に入れた写真集の話。

牛腸茂雄の名は飯沢耕太郎の書いた文章で知った。幼年時に煩った脊椎カリエスのために身体的に大きなハンディキャップを背負ったこの写真家は、わずかに3冊の写真集を残しただけで夭折した。牛腸自身のセルフポートレイトと霧の中に走り去る子供の群れの写真が特に印象的であった。彼の作品はなかなか手に入れにくいものであったが、今夏、東京と山形で開かれた展覧会に合わせて、彼のすべての著作をまとめた写真集が刊行された。それが『牛腸茂雄 作品集成』(共同通信社)である。先の2枚の写真ももちろん収められている。どの写真も息を潜めて世界を見ている感じがする。動きのあるスナップも、そこにシンクロするというより、対象と距離を置いた静けさのようなものを感じるのである。どこまでも静謐な世界。瞬間的に切り取っているはずなのに、じっくりと人間を観察したような写真。思慮深いというのはこういうことを指すのだろう。

atcyさんに教えられた野村恵子の『DEEP SOUTH』(リトル・モア)には、写真集全体が発散する濃密さに圧倒される。沖縄を撮影したこの本の濃密さや力強さを「沖縄らしい」というわかりやすい言い方で説明するのは、おそらく間違っているだろう。それは「らしさ」ではなく、「本質そのもの」だからである。「らしい」と感じるのは、往々にして外部の人間の思い描くステレオタイプ的な世界観や偏見に基づくものである。野村恵子が撮影したのは「沖縄らしい」ものではない。「沖縄そのもの」である。南国情緒やリゾート感を前面に押し出した観光地としての沖縄は、確かに私たちにわかりやすいイメージを与えてくれる。しかし、ここにはそのような沖縄は描かれない。戦後の沖縄がどのように形作られ、今に至っているのか。直接的ではないけれど(基地や兵士は登場しない)、かの地の人の生活をまっすぐ捉えることで、彼らの今のありようと痛みが強烈に感じられる。

二人の写真集を見るにつけ、自分の甘さを思い知る。

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2004.10.29

森山大道 in Paris

先日の椎名誠のレクチャーに引き続き、11月14日には同じ彩都メディア図書館で森山大道と石内都の対談がある。私には神様の降臨ともいうべき機会で、興奮を禁じ得ない。

その森山の映像作品「=森山大道」については、テレビ放映されたものを見たあと、予定調和的にDVDを手に入れて何度も見返している。新宿のあちらこちらに出没し、電光石火のごときノーファインダー・スナップを駆使する技は、何度見ても唸るばかりである。写真家の仕事ぶりは、紙面に定着した写真や本人の記した文章でしか接し得ないのが普通であるから、とても貴重なものであると思う。そして2004年春にまた新たな映像作品がリリースされた。今度のものは、昨年末にパリで開かれた「DAIDO MORIYAMA展」をめぐるドキュメンタリーである。

森山大道 in Paris」と題されたこのDVDには、2003年秋から2004年初めまで、パリ・カルティエ現代美術館で開催された個展の制作から完成までの全過程を収める。また森山本人に加え、細江英公、荒木経惟、中平卓馬、ウィリアム・クラインらのインタビューがある。さらにパリ滞在中に行われた撮影の様子もうかがうことができる。見応えのある60分である。

パリの街角に飾られる巨大な口唇のポスター。日本というコンテクストを離れて存在するその生々しさは、写真が視覚という言語によりかからないメディアであることを強烈に意識させ、極めて越境的で挑発的である。そして完全に自立している。展覧会場のレイアウトも森山自身が納得するまで練り上げられたもので、あの心がざわざわと搔き立てられるモノクロ写真が、圧倒的なスケールで展示されている。あれを現地で見られる僥倖に与りたかったけれど、望むべくもないことである。日本でもぜひ開催されることを強く願う。

もちろん欧州での森山の評価は、このDVDだけでは知ることができない(そもそも日本の写真家の何人が欧米で知られているのだろう)。ただアンリ・カルティエ・ブレッソンの国の人々に「森山大道という名の鋭い楔」を打ち込んだことを信じたい。

蜷川実花の9月分の日記に、森山のDVDを買ったという話が書いてある。ただそれだけなんだけど。

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2004.10.26

唯川恵『肩ごしの恋人』

発売中の「文藝」だったか「文学界」だったか、立ち読みですませてしまったのでよく覚えていないのだが、唯川恵がメルセデスベンツのごつい四駆車の前でポーズを決めているページがあった。そのページは有名人の愛車紹介をするコーナーで、目で記事を追いかけると「東京ではあまり活躍できなかったけれど、雪のある軽井沢に引っ越してからは威力を発揮している」とかなんとかいう内容であった。一読「なんと俗っぽくてつまらないやつだろう」と思った。非アウトドア派の私からは最も遠いところにある車にまったく魅力を感じないということもあるが(もちろん買えません)、「軽井沢で雪を跳ね上げながらベンツの四駆を駆る私」に酔っているようなことばに、心底吐き気をもよおしたのである。大阪で言うところの「いけすかんやつ」である。

なぜここまで嫌悪感を持ったのかと言えば、ちょうど唯川が直木賞を受賞した『肩ごしの恋人』を読み進めていたところだからであろう。この「愛車紹介」のトーンと『肩ごしの恋人』のそれはまったく同一の臭いがする。わかりやすいものをわかりやすい状況で使う。そこにはひねりもなにもなく、凡庸で陳腐な世界しかない。人物造形も設定もエピソードも展開も結末も、すべて薄っぺらでつまらない。滲み出るような知性とか教養も感じられない。解説の江國香織が褒める唯川のアフォリズムもうざいだけでちっとも心に響かない。「女はいつだって、女であるということですでに共犯者だ」とか、「我慢している女はみんな貧乏くさい顔をしている」とか、それがいったいどうしたって感じである。そもそもアフォリズムになりえているかすらあやしい。江國は「どうしたって、深くうなずいてしまう」と言うが、そんなそこらへんに転がっているような手垢にまみれた文言(というより偏見)にいちいちうなずくなよと言いたい。

あまりに読後感が悪いので、世評はどうだろうかと探してみたところ、2002年2月、朝日新聞に小谷野敦が書評を書いていたという。直木賞受賞直後のことである。

直木賞受賞作には、ときどき、別にその作品が優れているからというのではなく、この作家も頑張っているからそろそろあげよう、みたいなものがある。唯川恵といえば既に人気作家だから、これもそうじゃないかな、と思ったのだが、やはりそうらしい。
なんだかなあ。エピソードだくさんで、まるでドラマのノベライゼーションのようだ。それがいちいちどこかで聞いたような話のパッチワークなのである。(中略)これは安手のドラマやマンガではよくあることなのだが、直木賞としてはどうか。帯には「驚きに満ちた新しい恋愛小説」とあるが、どうです、凄いでしょう、新しいでしょう、珍しいでしょう、と言っているようで、げんなりする。

朝日新聞からの引用ではなくネットからの孫引きであるが、これがそのまま掲載されていたのであれば、「小谷野よ、よくぞ言ってくれた!」と快哉を叫びたい。

「女であることを武器にする女」と「それを呆れながらも否定できない女」と「継母に強姦された高校生」と「ゲイバーのマスター」と「ゲイ誌専門店の男」が出てきて、最後は「妊娠小説になる」この作品を、それでも最後まで読んだ。途中で読むのをやめればいいではないかという声も聞こえてきそうである。しかし、思い切り文句を言うためには、最後まで読むのが最低限の礼儀であろう。ここまで悪く言った小説は久しぶりだ。ファンや気に入った方には申し訳ないけれど、私、この小説とこの作家に何の魅力も感じません。(集英社文庫、2004年10月)

好意的な記事をお読みになりたい方のために。
アマゾンのレビュー
唯川恵のインタビュー

補足:『肩ごしの恋人』と同時に直木賞を受賞したのが山本一力の『あかね空』である。二つの作品間の距離の何と遠いことか……。

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2004.10.24

田口ランディ・山下大明『いつか森で会う日まで』

依然『シマダス』は机上の一角をしっかり占めている。少し息抜きにとページを繰り出すと、もともと何をやっていたのか忘れてしまう時もあったりして、ちょっとした現実逃避の具になっている。

それで流れ着いたひとつが屋久島であった。すでに田口ランディの『ひかりのあめふるしま 屋久島』を読み、あの島への憧れは高まる一方である。書店に行けば、さまざまな屋久島本や写真集を手に取っていたりする(買っていないのがせこい)。もっとも買わないのは自分なりに理由があって、多くの屋久島本はどうにも「あざとい」のだ。そう感じられる。秘境感や世界遺産であることを全面に押し出し、それにのみ寄りかかって商売しているように見えるのである。具体的にどれとは言わないけれど。

屋久島に住む山下大明の写真と非アウトドア派田口ランディの文章による本書は、そういう商売とはかけ離れたものに思える。ここには「屋久島」というブランド力に頼ることのない自立する創造力と、「好きなものは好き」という清々しい感性が詰め込まれている。そこに惹かれる。誰にでもすぐに役立つような内容ではないかもしれない。しかし、優れて個人的な体験や名もなき視覚情報は、むしろこの島の本質的な部分を確実に伝えていると思う。二人の作った穿孔はどこまでも深い。何度でも味わいたい。(PHP研究所、2002年7月)

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2004.10.21

バーチャファイター2(セガ)

十年待たせたな。

十年待ちました。

ファミコンやスーパーファミコンはまったく知らない。そんな私が初めて家庭用ゲーム機に手を出してしまったのが、1995年末のこと。買ったのはセガ・サターン。あのセガが唯一覇権を握れるかと錯覚させてくれたマシンである。その時に一緒に購入したのが、3D格闘ゲームの王者「バーチャファイター2」であった。アーケード版は全国に多数のバーチャ・ジャンキーを生み、社会現象にまでなったほどの人気ゲームである。

創刊間もない日本版「Wired」で、「バーチャファイター」を巡る状況について、特集が組まれていたのを思い出す。新宿ジャッキーや池袋サラ、ブンブン丸なんて名前はもちろん強度のバーチャ中毒患者しか知らないだろうけど。ゲームなどというものは、部屋に籠もって孤独にやるものだと思っていた。それが「バーチャファイター」を介して見ず知らずの他者と競うことで、やがて新しい関係や共同体を構築される。そういうコミュニティに新しさを感じ、社会のありように興味を持ったのがきっかけであるが、気がついた時には自分もその波に飲み込まれていた。こうなるとただのゲーマーである。

それから十年(正確には九年)。購入直後の年末年始、指から血を流すほど遊び、勢い余ってアーケード・デビューまでしたあの思い出深い「バーチャ2」が、現行機種であるプレイステーション2に完全移植された。当時の家庭用ハードでは能力的に限界があったため、アーケード版を擬似的に動作させていた。それが正真正銘の本物としてプレステ上に蘇ったのである。さっそくやってみた。ほとんど懐メロを聴く感覚である。最新ゲームのリアルな絵を見慣れた目には相当厳しいものがあるが、ゲームとしてのおもしろさという本質的な部分は決して古びることはない。何だか、当時のことまでありありと思い出して、妙に興奮してきた。セガにはこの勢いで「ファイティングバイパーズ」「電脳戦機バーチャロン」「セガラリーチャンピオンシップ」などの名作アーケードゲームを復刻してもらいたいと願う。

次の休日、仕舞い込んでいる『バーチャファイター2・マニアックス』(伝説の攻略本なんです)を引っ張り出そう。

※なお冒頭の台詞はパッケージの裏側に記されていたもの。「バーチャファイター」シリーズの主人公アキラの勝ち台詞「十年早いんだよ」がもとになっている。

参考 家庭用ゲーム機向け最新の「バーチャファイター」
Virtua Fighter 4 for PlayStation2
Virtua Fighter 4 Evolution for PlayStation2

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2004.10.19

吉田修一『パーク・ライフ』

10月18日の「オオサカハリアナツウシン」で「服部緑地はいいところ」というエントリーを立てた。そこで「特に何があるというわけではない。広い敷地には「緑地」の名の通り、緑豊かな空間が広がる。季候のよい時期には木陰のベンチでのんびり読書をしたり、公園遊びに興じる人たちを眺めたりする。何の生産性もないけれど、そういう時間はとても大切である」と書いた。この「何もしなくてもいい場所」という公園の魅力をなかなか味わえないことをもどかしく思う。たいていは自分自身の問題である。

吉田修一のこの作品の舞台は日比谷公園である。地下鉄で偶然話しかけてしまった見知らぬ女性が、公園のベンチでスターバックスのコーヒーを手にして座っている。何かに押されるように衝動的に彼女のもとに走る「ぼく」は、しかし、なぜそうしたのか、その理由さえ考えていなかった。改めて話しかけてみると、彼女もまた「ぼく」が公園で過ごす姿が気になっていたのだという。もっとも恋愛感情とか何か特別な気持ちによるものではなく、ただ公園の一風景として……。

村上龍は芥川賞の選評で『パーク・ライフ』について、「何かが常に始まろうとしているが、まだ何も始まっていないという、現代に特有の居心地の悪さ」や「あるのかどうかさえはっきりしない希望のようなもの」がこの作品には存在するという。確かに『パーク・ライフ』には物語を強力に前に運ぶ推進力のようなものや、腑に落ちる展開、結末などはない。代わりに「何もしなくてもいい場所」で点景として存在する人々のかすかに揺れる感情の残滓だけが方々に投げ出されている。もちろんその感情の行方は記されることなく物語は閉じられる。おそらく直木賞候補になるような作品だと、ここから物語が広がるのだろう。

思わせぶりな結末と揺曳する気配から何が始まるかは、私たちが考えるしかない。それこそが楽しみであろう。いや、展開よりもそこにある「公園の生活」そのものを味わうのがよいか。いずれにしても何もしないために公園に行く贅沢を味わいたい今日この頃。第127回芥川賞受賞。文春文庫。

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2004.10.17

ジャバラ式アルバムを作った

ジャバラ式アルバム秋晴れの日曜日、彩都メディア図書館のワークショップ「ジャバラ式アルバムをつくろう」に、小学生の娘と一緒に参加してきた。先週の椎名誠のレクチャーに続いて、二週連続のお楽しみである。

ジャバラ式アルバムというのは、表紙になる二枚の固いボードを繋ぐ形で写真貼付用の台紙をジャバラに折って貼り付けるというものである。台紙の部分は異なった色のケント紙を背中合わせに貼り合わせている。表紙のボードは剥き出しのままでもいいのであるが、今回は綺麗な和紙のような表情のある紙で包み込んだ。これだけでもずいぶん見栄えが違ってくる。折りたたんだ時のためのリボンも付けた。もう少し簡単なアルバムを想像していたのであるが、けっこうしっかりした本格的な造りで、うまくできた完成品は十分プレゼント用に使えると思う。

こういう自分の手で何かを作る−工作でも裁縫でも調理でも何でもいい−というのは、充実感や達成感がはっきりと感じられていいものである。久しぶりにこうした感触を味わった。本当は持参した写真も貼り付ける予定であったが、時間切れになってしまった。あとはゆっくり家で続きを楽しもうと思っている。同図書館の今年度分のワークショップはまだいくつか予定があるので、時間が許せば参加されるのもよいかと思う。

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2004.10.16

イン・ザ・カット

若い頃のメグ・ライアンが好きだった私には、ここ何作かの「無理矢理ラブコメする姿」は、正直言って見ていて辛いものがあった。むろん老年や中年のラブコメディもある。しかし、メグ・ライアンのそれは、どう見ても「恋に恋するうら若き乙女」もしくは「美しき結婚に憧れる女性」の物語である。大学生には小学生を演ずることはできない。その種の違和感をどう精算するのか。はたして「ラブコメの女王からの脱却」を目指す彼女が選択したのは、女性性を全面的に強調したサスペンスであった。

タイトルの「イン・ザ・カット」は公式サイトの解説によれば、「ギャンブラーが、他人のカードを盗み見るときに使う言葉。意味は隙間、隠れ場所。語源は女性性器。転じて、人から危害を加えられない、安全な場所のこと」という意味を持つスラングであるという。とすると、このタイトルは実に見事にこの映画の内容をトレースしている。物語の端緒はフラニー(メグ・ライアン)の覗き見であり、殺人事件発生後は、物理的に隠れ家たる住居から引き出され、心理的には深く封印されていたとおぼしい性的な情熱をさらけ出す。そして凶悪な渦に巻き込まれながらも、最後には安息の場(男である……)を得るのである。この共鳴する関係はうまいと思う。主題曲の「ケ・セラ・セラ」も象徴的に響く。

結局、「イン・ザ・カット」はサスペンスらしい事件の謎解きよりも、ヒロインの内面的な変貌を描くことを主としている。したがってサスペンスとしては物足りない憾みがある。しかし、それもメグ・ライアンの新境地開拓のためとあらば、致し方ないことかもしれない。この映画が注目される最大の理由はそこにあるはずだから。ただメグ・ライアンほどの人生経験を積んだ女性がこの役を演ずると、どうしても新境地開拓というより単に自分の経験をさらけ出しただけという感じがしてしまう。難しいものである。

こうしてメグ・ライアンが濡れ場に挑んだ映画として記憶されるであろう本作は、荒木経惟の言う「メグ・ライアンのおっぱいが最近はやりの巨乳よりずーっとエロい」ということばに尽きるのかもしれない。もっともこの作品を女性が見た場合、どういう受け取り方をするのかということは気になる。結末には少しだけ救われたが、血生臭い描写があちこちにあって、苦手なものには辛い絵となることも言い添えておこう(私は目を細めて見た)。監督ジェーン・カンピオン、制作総指揮ニコール・キッドマン。なおサスペンスゆえにストーリーの紹介は極力控えることにした。あしからずご了承願いたい。

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2004.10.13

珈琲時光

台湾の侯孝賢監督が小津安二郎生誕100年記念のオマージュを捧げた。キャッチフレーズは「21世紀の東京物語」である。

小津の最高傑作と言われる「東京物語」は半世紀前の東京を舞台にしたものだった。尾道に住む老夫婦(笠智衆、東山千栄子)が東京で暮らす息子や娘を訪ねるというストーリーは、劇的なドラマも感動の押しつけもなく、淡々とそれぞれの人物の立場と感情を紡ぎ出す。その静謐な世界と映像美は、小津映画の最高峰にふさわしいものであると思う。「珈琲時光」が「東京物語」の嫡子であると名告る以上、どこまであの傑作に迫っているのか、公開前から気にならないはずはない。

物語はフリーライターの陽子(一青窈)、古書店に勤める肇(浅野忠信)を中心にして、彼らが陽子の両親や肇の親友たちと過ごす夏の日々を描く。人の生活とはこういうものだと言わんばかりのドラマのなさが、かえって重みを感じさせている。選ばれる舞台も今時の東京ではなく、高円寺、神保町、御茶の水といったいわゆる昭和的な空間が主となる。このことで、現代的な要素(携帯の多用、積極的なシングルマザーなど)を取り上げながら、どことなく懐かしい雰囲気を濃厚に漂わせることに成功している。また俳優陣の静かな佇まいと振る舞いもそうした雰囲気作りに寄与していると思われる。さらに小津的演出として、低いアングルからの視点、場面転換を印象づけるための乗り物、真横から撮影する食事の風景……。これらもまた懐かしさに連動する。

全編、自然光だけで撮影された映像は、独特の空気感と広がりを感じさせて、とてもすばらしいものになっている。東京の空気はこれほど綺麗なのかと驚かされた。パンフレットによると、すでに撮影済みのシーンでも、別の日に光の状態がよければ、幾度でも撮り直しをしたそうである。俳優やスタッフにはたまらないことだろうが、できあがる作品にとってはこれ以上の幸せはない。そういう部分にふんだんに資金を投入する撮影のあり方に深い共感を覚える。

丁寧に作り込まれた「珈琲時光」は、淡々と流れゆく人の生活のある部分をきちんと浮き彫りにした。「21世紀の東京物語」になりえているかはにわかに結論を出しにくいが、一過性の刺激や感動を一方的に押しつけるジェットコースター・ムービーがもてはやされる今、こうした静かで穏やかな映画の存在は貴重である。テアトル梅田で鑑賞。

珈琲時光 公式サイト

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2004.10.11

椎名誠の写真世界など

台風が過ぎ去ったあとの大阪は、絶好の行楽日和になった。10日も11日も万博公園やエキスポランドは大賑わいである。楽しそうな人々を横目に、万博公園にほど近い彩都メディア図書館に赴いた。開催中の「アートと本のおまつり」のメインレクチャー、「椎名誠の写真世界」に参加するためである。

1時間前に到着したのだが、すでに開場を待つ人が列をなしている。それを見ながら図書館に入る。前日も鑑賞したユージン・スミス/アイリーン・スミスの「水俣」を見る。真実を強く訴える重厚なモノクロ写真で、圧倒的な迫力を持ってこちらに迫ってくる(展示されている写真は10枚ほどなので、これだけを見に来ると少し肩すかしを食らうかもしれない)。そして図書館に付設されているショップで『写真集 水俣』(三一書房)が販売されているのを見つけ、迷わず購入した。僥倖であろう。

#補注
この写真集はatcyさんのエントリーで紹介されていたように、現在は手に入れることができない。著者のアイリーン・スミスが水俣病被害者たちの声を聞き入れ、再版や販売を中止したためである。しかし、アイリーン・アーカイブを持つ彩都メディア図書館が、今回の展示に合わせて特別に販売をしているという。数に限りがあるので、購入希望の方は図書館に確認してもらいたい。

サインをする椎名誠レクチャー会場に向かう。開始30分前になって開場となる。いつもは写真表現大学の講義などで使われる大きな部屋が、参加者であふれかえるほどである。さすがに小説やエッセー、写真などで幅広くファンを獲得しているだけのことはあると思った(なんだか不遜な言い方だ)。うまく最前列に陣取り、椎名誠の話術とスライドを堪能した。世界各地を巡ってきた経験を踏まえた話は変幻自在で、時にユーモアも交え、本当に見事であった。写真については、「撮られる側も撮る側も幸せな気持ちになる写真しか撮らない」ということばが印象に残った。人物を撮影したものが大半で、そのどれもが思わず穏やかな気持ちにさせられる優しさに満ちていた。これまでは文章のみで接していた椎名誠の世界を、写真ででも触れてみたいと思わされた。

レクチャー終了後、階段下で参加者を待つ椎名誠の前には長蛇の列ができている。それには並ばず、図書館から出る。目の前には傾きかけた夕陽に太陽の塔が美しく光っていた。いい秋の一日になった。

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2004.10.09

花とアリス

論理的なドラマだけを展開するのではなく、また感覚的な映像美のみを追求するわけでもない。いい意味での緩い作りがとても好ましく、私にとっての岩井俊二作品のベストとなった。2時間15分、決して長くはない。

花(鈴木杏)とアリス(蒼井優)は幼なじみである。冬のある日、花は通学途中に見かけた高校生・宮本(郭智博)に一目惚れする。春になり、二人は宮本のいる高校に進学する。なんとか宮本に近づこうとする花は、彼の所属する落語研究会に入ったところ、ある事件が起きる。花はそのチャンスを逃さず、宮本を記憶喪失だと暗示にかける。そして自分は宮本から愛の告白をされたと言い含めるのであった。その嘘を取り繕うため、さらに嘘をつくことになる花。やがてアリスまで巻き込む大騒動となるが、今度は宮本がアリスに恋心を抱くようになる……。

もとはショートフィルムとしてネットで配信されていた作品の劇場公開版である。主役の二人、鈴木杏と蒼井優がとてもよい。それぞれが与えられたキャラクターを明確に演じており、時にシリアス、時にコミカルな凸凹関係は、女性版「弥次喜多」(旅はしないけれど)を見るような思いがする。前作の「リリイ・シュシュのすべて」について、「優れて美しくセンスのよい映像と心に染み入る音楽を持ちながら、肝心の脚本と描写には絶望的なまでに映画としての訴求力を欠いていた」とかつて述べたことがある。それはあまりにも作中世界のすべてを没個性的に一般化しすぎたことによる。ステレオタイプ化された総体としての「14歳の心理と行動」には目新しさもおもしろさもなかった。それが「花とアリス」では細部を細部としてきちんと描いているため、物語そのものに沈潜しやすい。そして一人一人が生きている(登場人物を絞り込んでいるのが奏功)。しかもそこには美しい絵と音が満ちあふれている。描写は軽やか、だが存在は重い。

ああ、褒めすぎかもしれない。騙された人、ごめんなさい。書いていることに嘘はないつもりです(笑)。

花とアリス 公式サイト

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2004.10.08

ディボース・ショウ

「バーバー」や「ファーゴ」で名を馳せたコーエン兄弟の新作は、意外にもラブコメディであった。メイキングの中で「自分たちには商業的すぎる」と語ったことが本音であるならば、その思いが映画の出来映えに影響してしまったのではないだろうか。ジョージ・クルーニー、キャサリン・ゼタ・ジョーンズ、ジェフリー・ラッシュ、ビリー・ボブ・ソーントンらの豪華な俳優陣を揃えても、監督が作品を愛していなければ、いいものにはなりようがない。

ディボース・ショウ公式サイト

マイルズ・マッシー(クルーニー)は、離婚訴訟専門の辣腕弁護士である。どんなに不利な係争でも必ず勝利を得る。夫の浮気現場をおさえたマリリン(キャサリン・ゼタ・ジョーンズ)は、多額の慰謝料を手にするはずのところ、夫の雇ったマッシーの巧みな戦術のために、何も得られないままとなった。マリリンは次から次へと富豪を狙い、結婚と離婚を繰り返すことで莫大な財産を築こうとしているのであった。その後もさまざまな手を使い、あくどくも合法的に相手の財産を手に入れようとするマリリン。そんな危ういマリリンに次第にマッシーは惹きつけられていく。やがて二人は……。

結婚を金稼ぎのための方便にするヒロインとその悪巧みを知りながら心惹かれる弁護士。敵対するはずの者が恋に落ちるというのは、ラブコメの王道であろう。最後はお約束通りのハッピーエンドとなるが、どうにも爽快感がないのである。変わり者や個性の強すぎる者、おかしなエピソードなど、ラブコメらしい仕掛けも十分あるし、主役の二人の演技にも特に気になるようなところはない。おそらくラブコメならではの破天荒さに欠けているのだと思う。「それはないだろう」という出来事を覆すさらに嘘臭いエピソード。その繰り返しと揺曳を楽しみながら、結末まで走っていく。それこそがラブコメの楽しみだと思う。ところが、この映画では深刻な事態も「何となく」過ぎ去り、その解決方法も「何となく」生み出される。だからノレないのだ。

どうせならコーエン兄弟らしいブラックユーモアたっぷりの実験的な「アンチ・ラブコメ」でもやってくれたらよかったのに。「餅は餅屋」ということを改めて知った。ラブコメが似合いすぎるあの女王様の新境地を描く映画についてはまたあらためて。

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2004.10.04

アイデン&ティティ

原作みうらじゅん、監督田口トモロヲ、脚本宮藤官九郎。演じる役者は峯田和伸・中村獅童・大森南朋・マギー・麻生久美子。これだけの人を集めて作られた「青臭い青春映画」は、意外なまで剛毅木訥でごつごつとした味わいであった。まさにストレート勝負の「アイデン&ティティ」。

バンドブームはあっという間に終わった。中島(峯田和伸)率いるスピードウェイ(中村獅童・大森南朋・マギー)は辛うじてメジャーデビューを果たしたものの、本当にやりたい音楽と売れる音楽のギャップに悩んでいた。メンバーの間にも微妙な亀裂が走る。「ロックって何だ?」と悩む中島の前に、ある日ボブ・ディランそっくりのロックの神様が現れた。ディランのメロディで啓示を与え続ける神に対して、中島は何を思い、どんな行動を起こしていくべきだろうか。中島を静かに鼓舞する恋人(麻生久美子)は、「君が何を伝えたいか、君自身のアイデンティティは何なのか、それが問題だ」と言い放つ。やりたいことを続ける楽しさと苦しさを抱えて、メンバーはステージに向かう……。

B級邦画としては、キャスト・スタッフの豪華さは特筆すべきものである。しかし、公開時にはほとんど話題になっていない。麻生久美子が出るというので楽しみにしていたのに、関西での公開はなかったか、あっという間に終わったか、どちらかである。惜しいことである(いや、麻生がというのではなく、映画が知られないまま消えたことがである)。映画自体は日本の古い物語によく見られる伝統的な貴種流離譚(苦境に陥った英雄が援助者の力で復活し繁栄する)の話型に沿ったもので、何のけれんもないシンプルな作りになっている。佳作といってよいだろう。

「やらなきゃならないことをやるだけさ。だからうまくいくんだよ。」

けだし至言である。閉塞した状況にある時に見ると、いろいろと考えさせられたり、身につまされたりするかもしれない。ただあまり小難しいことを考えずに、娯楽的な音楽物語として楽しむ方がよいと思う。人生教訓的なものを引き出そうとすると、たちまち俗っぽい腐臭にまみれてしまうだろうから。

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2004.10.01

Fotologデビュー1周年

ロデオ

写真閲覧ブログFotologに「Osaka GR Diary(現photo 1/365@fotolog)」を作ったのは、2003年10月2日のことだった。それからちょうど1年が経った。上のモノクロ写真は最初にアップロードした思い出深い写真である。ロデオに乗って近所を散策した折のこと、たまたま止めた自転車の影がとても綺麗に見えたので、買ったばかりのGR1vのシャッターを切った。写真を公開できるだけでいいと考えていたところ、思いがけずunsqueakyさん、atcyさん、 l_karma(markal)さんからコメントをいただいた。とても嬉しくてありがたかった。

丸ポスト 工場
パチンコ クリーニング

これらも始めて間もない頃の写真である。今より素直に撮っている気がする。当初は一日一枚のペースを守り、その後ドネーションを支払って金カメラも取得したが、Fotolog経営陣への不満からこの半年ほどは思いついたら写真を出すという形に落ち着いている(もちろん非金カメラ)。

風神雷神

しかし、何より私にとってありがたいのは、Fotologで知り合った数多くの写真仲間の存在である。当のFotologは財政破綻のようであるが、あの場所がなくなっても人のつながりはなくしたくないと願っている。仲良くしてくれる仲間に改めて感謝。

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