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2004.11.30

町田康『猫にかまけて』

以前、愛猫を動物病院に連れて行った時、待合室で手に取った猫雑誌に町田康がエッセイを書いているのを読んだ。飼っている三匹の猫のことを「三人」と呼びたいという内容のものだった。書き捨ての雑文かと思っていたら、連載がまとめられて立派な単行本として刊行された。これが実に素晴らしいのである。

およそ世のペット本の大半は、単なる自己満足的な愛情表現に終始し、たとえ犬好き猫好きであっても、あまり共感できるものではない。そうした溺愛するものへの直接的な感情を出されても、こちらとしては困惑するばかりである。

町田のこの本は、いつもの町田節で自虐的に「猫にかまけて」いる自己を軽やかに対象化しながら、飼い猫や捨て猫との戯れを通して、彼と彼の妻の猫への深い愛情が行間から(いや本全体から)滲み出るような一冊になっている。写真もすべて二人の手になる。面白おかしいエピソードがあれば、哀しい別れの話もある。これはエッセイでありながら、極めて良質のドキュメンタリーであるといってよいだろう。手に汗を握りながら、猫の命と町田一家の生活の行方を見守っている自分に気がつく。そして目に霧がかかる。

猫好きには必読である。このブログで読んだ本の感想を愚にもつかぬことばで書き散らし、「別にそれを他人が読もうが読むまいがフフフン」なんて思っていたのであるが、『猫にかまけて』はぜひとも読んでもらいたいものだなぁと、めずらしくまじめに考えている。

なお町田一家と猫の関わりは、彼のサイトの日記で読むことができる。

Official Machidakou Web Site

『猫にかまけて』で活躍しているゲンゾーが、11月2日に亡くなったとのこと。冥福を祈りたい。(講談社、2004年11月)

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2004.11.27

小谷野敦『評論家入門』

なんだか身につまされる話が多くて、それが本当に他人事とは思えなくて、でもおもしろおかしくて、一気に最後まで読み切った。小谷野敦の『評論家入門』

「清貧でもいいから物書きになりたい人に」という副題を持つこの本、あまたの文章読本を読んでも決して文章がうまくならないのと同じように、これを読んだからといって物書きになれるわけではない。むしろ物書きを目指す気持ちが萎えるような話が満載で、そうした小谷野自身が体験した裏話的恨み節こそが、本書の勘所であろう。型通りの文章修行の話などはまったくおもしろくない。ひたすら彼の体験した悲惨な話や他の評論家への批判や悪口(!!)を拾い読むべし。そしてそれをもって他山の石とするのである。

小谷野は「これからはエッセイだ」という。いわゆる随筆である。確かにこれだけネット上に「(自称)随筆」があふれかえっている状況を鑑みると、それだけ需要があるのかと勘違いしそうである。しかし、実際にはほとんど読まれもしないまま消え去る文章が大半であろう(自らは棚上げ)。自分のなしえることは、虚空に向かって力なく言葉を紡ぐのみか……。

小谷野は言う。

現代においては、逆に言うならば、インターネットを使ってどんどん言いたいことを世間に公表できてしまう。私はむしろ、そんなことに自己満足しないで、たとえ安くてもいいから、原稿を売ることを目指してもらいたいのである。

変な下心を持っていると、耳が痛い。

売れる文章を書くこと、それが、学者と、評論家やエッセイストの違いなのである。そしてこの「売れる」というのは、「儲かる」ということではない。

もっと耳が痛い。この文言が一書の締めなのだから始末に困る。実感と一言で片付けてしまうには、あまりにも重すぎる。(平凡社新書。2004年11月)

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2004.11.26

島本理生『シルエット』

書き起こした文章の品の良さが印象的であった。

何ヵ月も何ヵ月も雨が降り続き、もしかしたらこのまま雨の中に閉じ込められるかもしれない。そう予感するような季節の中にいた。もちろん、わたし自身が。

高校生のわたしの、対人恐怖症的な心持ちを持つ同級生の冠くんや無邪気な大学生のせっちゃんらとの恋愛を描く。ストーリー自体には決して小さいとはいえないドラマがあるけれど、抑制の利いた筆致のせいか、意外なほどに静かな印象だけが残る。こうした淡いトーンは『リトル・バイ・リトル』でも感じたから、小説としての是非はともかく、島本ならではの色であると思う。

『シルエット』では雨や雪といった降るものが象徴的に使われる。それは時々の作中人物の心象風景ということでもあろうが、それらに包まれることによる閉塞感や他者と乖離した感覚が表されているとおぼしい。文庫本には収載されていない「単行本用あとがき」には、他者と関わる時の気持ちを描こうとしたとあったらしいから、その心的距離感に応じて天候が選び取られているのだろう。この喩として天候描写をはじめとして、直接的散文的な描写に頼ろうとしない点は、含みや余情が強く揺曳する詩的世界を思わせる。私は嫌いではない。

それにしても、である。同世代の綿谷りさや金原ひとみに比べて、芥川賞作家という肩書きを逃した理由を見出すことは難しい。むしろ二人に比べて早々に群像新人賞優秀作や野間文芸新人賞などを受賞したりしていたから、注目度では島本の方が高かったように思う。ただ唯我独尊の金原はともかく、この先も綿谷とは同世代の女性作家という括りで比較されることは免れないだろう。一時の流行で終わらない作品を生むのはどちらか。(講談社文庫、2004年11月)

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2004.11.24

ハウルの動く城・続

嶽本野ばらが「ハウルの動く城」を見て、「素直に泣かされてしまいました」と書いている。24日付朝日新聞朝刊の文化欄である。

嶽本の感激する点は至極明解である。すなわちハウルは「カッコ良くて、キザで、デモーニッシュなくせに、妙に無邪気で、弱い部分をぽろんと見せたりする」男であるからだ。「女のコにとっての理想の男子像」を持つハウルからのストレートな愛情に、「恋愛のビギナー」ソフィーが一生懸命に応えるという点も重要であるらしい。嶽本節全開である。まさにボーイ・ミーツ・ガールの典型といえよう。

こうした嶽本一流の「乙女の視点」からの分析は、立場がはっきりしているだけに、対象への評価に異論はあっても飲み込むことが容易である。もちろん嶽本は頭がよいので、「ハウルの動く城」を手放しで褒めちぎるような真似はしない。このアニメ映画への予測可能な批判もきちんと想定して記事に盛り込んでいる。曰く、「これまでの作品と比較すれば、ストーリーラインが粗く、ご都合主義、平凡な恋物語の要素が前面に押し出されているので、物足りなさを感じる人もいるはずです」と(私だ……)。これについては、深読み可能な作品群(「もののけ姫」や「千と千尋の神隠し」)を通過した者だけが口にしうる、「シンプル・イズ・ベスト」の境地に達したためであると説く。「インテリジェンスの放棄」とも。うまいな、嶽本。

シンプルな「ハウル」にも読み解く楽しみはもちろん存在する。あまり深入りすると鑑賞者の知的作業と愉悦を奪い去るのでほどほどにしようと思うが、ハウルの住む城自体がハウルの外見と内面を表すメタファーとなっており、それが物語の展開に伴って次第に変化していく。そのあたりは映画のテーマを知る上で重要な部分だろうし、誰しも気がつくと思うのだけれど、物語内で明示的に説明があるわけではない。他にも見た者が意味づけすることで生気を帯びる箇所はいくつかある。ただそうした箇所は前作や前々作に比べると少なく思えるし、知らなくても特にどうということはなさそうである。そういう意味では確かに「シンプル・イズ・ベスト」であろう。

嶽本の評を読み、なんだかおもしろいなぁと思ったので追記した。前エントリーの助けになれば幸いである。もっとも私には「乙女の視点」に立つのは難しいけれど。

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2004.11.23

ハウルの動く城

ドラえもんの声優が代わる。

2005年の春からドラえもんとともに、のび太・しずか・ジャイアン・スネ夫ら主要キャラの声優が交代することになったという。あまたのニュースや新聞で報じられており、すっかり国民的関心事になっているといってよい。大山のぶ代以下、担当していた声優たちの声は、すでにそれぞれのキャラクターの血肉となって、分かちがたく記憶されている。心情的には代わってほしくない。ただ彼らが高齢(平均年齢六〇代後半)であることは否めず、この先櫛の歯が欠けるように担当者が交代していくよりは、一気に世代交代をしてしまって、新生ドラえもんを生み出す方が得策かとも思う。ドラえもんと同じく声優の交代が難しそうなサザエさんでは、すでにカツオ(初代は大山のぶ代)など一部声が変わっているが、早くから馴染んでいるものには、部分的な変更に大きな違和感を感じてしまうからだ。

声優はキャラに寄り添い個性や人間像を創り出していく一方、決して生身の自己の存在を感じさせてはならない。私たちはドラえもんの声が大山のぶ代であることは知っているが、ドラえもんはドラえもんである。彼の声の向こう側のリアルな事情は、よほどのことがない限り脳裏をよぎることはない。それがアニメキャラと声優の幸福な関係であると思う。逆に演じる声優の生身の存在を感じると、たちまち物語そのものへの関心や感情移入が妨げられてしまう。こう感じるのは私一人だけのことだろうか。というのも、宮崎駿監督の新作「ハウルの動く城」で、いかに声優の顔が見えないことが、アニメにとって重要であるかを思い知らされたからである。

公開直後二日間の興行収入新記録を樹立した「ハウルの動く城」は、前作「千と千尋の神隠し」の勢いからすれば、ある程度予想できたことだろう。私は公開二日目、日曜日のシネコン・レイトショーの部で見たけれど、翌日が月曜であるのにも関わらず、超満員で驚いた。しかし、驚いたのはそこまでで、肝心の映画には最後まで違和感を感じながら、居心地悪く二時間を過ごしたのであった。誤解を恐れず言い切ると、これはハウルとソフィーの物語ではなく、キムタクと倍賞千恵子の物語である。

映画が公開される以前、漏れ聞こえる各種メディアの噂では木村拓哉の声優ぶりが酷いらしいとささやかれていた。しかし、実際に見たところでは技術的に問題があったようには思えない。むしろハウルがキムタクそのものに見えることが大いに困った。自然体といえば聞こえはいいが、役作りも何もないのではないかと思うしかない。私はスマップの映画を見に来たのではないのだがなぁなどと思っていると、今度はソフィー、いや倍賞千恵子である。俳優倍賞千恵子の演技力にはいささかの不満もない。ドラえもんでは七〇歳の人が小学校五年生を演じている。でも一八歳のソフィーは、どこを切っても六三歳の倍賞千恵子なのだ。木村ハウルよりこちらが遙かに問題だと思った。無理に一八歳から九〇歳まで一人で演じる必要があったのだろうか。そして倍賞自身に演じ分ける気持ちはあったのだろうか。そこがよくわからない。キャラクターに透明感がなくなる(俳優自身が見える)と、その澱みばかりが気になって、物語を楽しむどころではなくなってしまった。有名俳優を起用することは、今後一考を要するだろう。

いたずらに長くなってしまった。映画としては細部の描き方に杜撰さが感じられ、また展開も性急である。「もののけ姫」や「千と千尋の神隠し」と比べると、声優の問題は差し引いても全体の完成度は低いと思う。物語のあらすじやキャストなどは公式サイトで確認されたい。ワーナーマイカルシネマズ茨木で鑑賞。

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ロデオミーティング関西に参加

ロデオ軍団かつてパナソニックからロデオという自転車が販売されていた。この乗りこなすこと自体を楽しむ特異な自転車は、すでにカタログから消えて久しい。現役車種だった当時のキャッチフレーズは、ずばり「乗れるものなら乗ってみろ!」という、実に挑発的なものであった。逆に言うとこれほど非実用的な自転車もない。なんでも全出荷台数も微々たるものらしく、現在、ヤフーオークションなどでは、上級の黒は7〜8万の高値(ちなみに定価39800円)で推移するほどの人気である。なくなってから人気爆発というのは、どの世界でもあることですね。ああ、黒がほしい(私のは中級の赤)。右の写真でバタバタ倒れているのがロデオ。壊れているわけではない。

ロデオ軍団さてそのロデオを愛する人々の集まりが大阪で開かれた。関東の方では以前からロデオミーティングが開催されていたが、関西では今年の9月に第1回目が開かれた。企画されたぽんすさんとはこれまでにも何度かオフ会などでご一緒しており、昨年の千里竹林ポタではロデオランデブーも楽しんだ。残念ながら所用で1回目は欠席したのだが、21日の第2回目は万難を排し参加にこぎつけた。場所は大阪城天守閣脇にある旧大阪市立博物館(元旧陸軍第四師団司令本部)前である。1931年に完成したこの建物、重厚な石造りの外観は見事なものだが、用途を考えると複雑な思いがよぎる。そして今、戦争の証人の前で、奇妙な自転車が走り回っているというおかしさよ。

ロデオは全部で6台が集結。黒1赤2黄3。これほどの数は関東のロデオミーティングでもないとのこと。オーナーの方々や遊びに来た方々と自転車談義や乗り比べに興じる。初めて乗った黒は、さすがに赤で慣れているのか、さほど手強いとも思わず。しかしながら、それゆえにますますほしいという気持ちが強まる(日常の足として使えそう)。さらに内装3段変速を組み込んだ黄ロデオは、ポタリングにもツーリングにも使えるすばらしさだった。もちろんこれにも物欲を強く刺激される。オフ会は楽しいけれど、こういう誘惑が多くて(苦笑)。

スラロームや遅乗り競争などをやっていると、あっという間に時間が過ぎた。「秋の日は釣瓶落とし」とはよく言ったもので、午後4時を過ぎると瞬く間に暗くなる。名残を惜しみながら5時前に撤収。再会を誓って解散した。次も楽しみ。

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2004.11.21

華氏911

第57回カンヌ映画祭のパルムドール受賞作品。マイケル・ムーア監督の華氏911

私の苦手な戦争も血も死も出てくる映画なので、まったく見る気がなかったし、実際に劇場に足を運ぶこともなかったのだけれど、レンタル店でパッケージが壁のように並んでいるのに騙されて(!?)、つい手に取ってしまった。案の定、生理的に受け付けない描写シーンに思わず目を背けることになった(イラクでの戦闘はつらいものが……)。しかし、観賞後の印象はそれほど悪いものではない。

おそらくそれは世に喧伝されるほどの政治的なプロパガンダを感じなかったからということよりも、表現者としてのムーアの純粋さやひたむきさに心をうたれたからといってよい。ムーアの個人的視点によって描かれた本作は、ドキュメンタリーであってドキュメンタリーではない。それを偏見や誤解に満ちていると批判するのはたやすい。「華氏911」を欺瞞に満ちた映画だと決めつけた時点で、この作品はするりと身をかわして逃げ去るばかりである。

私たちは中立とか公平とか穏当という「世間の良識」をひとまず棚上げし、ムーアの語るところに静かに耳を傾けるべきであろう。それは思想や内容ではない。生きる姿勢といってよい。偏っていようと一面的な見方であろうと、自分の感じたままに自分の考えたことを自分の文法と言葉できちんと形象化する、その彼の信念と方法論こそが大切であると思う。私はその点において、「華氏911」は凡百の映像作品と一線を画していると思う。中立公平を標榜しながら、まずいことや肝心なことを何一つ伝えない某国のマスコミの酷さの方が、よほど偏向している。人畜無害どころか、極めて有害。そして無能。タランティーノのパルムドール決定に至る判断は、この映画の思想内容や刺激的な映像に対する評価ではなく、表現者ムーアの姿勢に対するものであったことを強く信じる。

ジョージ・ブッシュは再選を果たした。ゴアに勝った時のような裏事情があるのかどうか知らない。しかし、非ムーア的な考え方をする人々(=ブッシュ支持)がかの国には多くいることもまた事実である。ここから先は私たちの問題である。

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2004.11.17

『阿佐田哲也麻雀小説自選集』

最初に断っておかなければなるまい。私は麻雀ができない。やったのは大学生の頃に少しだけ。初めて大阪以外の街に通うようになり(といっても隣なのだが)、すべてがもの珍しく思える一回生の時に教えられてやったのだった。今となってはアガリの役もよくわからない。もちろん戦術その他も。そんな私が阿佐田哲也の麻雀本を手に取ったのは、賭博小説の嚆矢かつ最高峰とされる小説がどんなものであるか知りたいという単純な好奇心からである。

戦後まもなくの殺伐とした裏社会を舞台に、主人公の坊や哲が手練れのプロ雀士と息詰まる勝負を繰り広げる。一読、極めて限定された範囲ではあるが、当時の日本の雰囲気や社会のありようを濃密に感じさせる。しかし、肝心の勝負の世界については、麻雀をしない人間にはうまく語れないと逃げるしかない。何と言っても披露される戦術や技、役の凄さがわかっていない。だから驚きがない。おそらく登場人物の個性の描き分けも、麻雀の打ち方に寄りかかる形で提示されているとおぼしいが、寄りかかる物自体がわかっていないので、一人一人に血肉を感じることができないのだ。これは作者の責任ではなく、無謀にもこの書を手に取った私のまったき責任である。

文庫本としては巨大すぎる七〇〇頁強のボリュームを読み切ったという達成感は得られたのだが、それ以上は何とも。色川武大の『凶人日記』(読売文学賞受賞)はおもしろく読めたのだけれど。(文春文庫、2002年12月)

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2004.11.15

森山大道と石内都の対談

森山大道のサイン写真表現大学彩都メディア図書館が主催する森山大道石内都の対談に参加した。

だいたいにおいて「神」と崇め奉るものは、得てして無関係な立場からは胡散臭いものと見られがちである。しかし、意識的に写真を撮ってみようと思い始めたきっかけとなった森山大道に関しては、「神」はともかく全肯定しひたすら憧れるだけの存在としかいいようがない。レクチャーの日が近づくにつれて普段にもまして挙動不審で落ち着かない状態になっていた私……。

とりあえず役得(謎)で、椎名誠の講演会に続き、最前列を確保した。定刻になり、全身黒づくめで首からGR21をぶら下げた森山が部屋に入ってきた(もちろん石内も入ってきた)。まだ何も話を聞いていないのに、すでに興奮は最高潮である(笑)。

二人の最近の仕事についての話の後、フリートークのような形で和やかに対談が進む。森山の話では写真に関する話とともに、撮影にまつわる武勇伝(?)が特におもしろかった。街のスナップが中心で、しかも「怪しい気配」のするところにしか行かない性分とのことなので、その手の話題には事欠かないようであった。また木村伊兵衛賞初の女性受賞者である石内の貫禄も相当なもので、しかも弁が立つ。横須賀の写真や40歳の人の手足だけ写したもの、人間の傷痕を写したシリーズなど、興味深く見ることができた。

あっという間に2時間半が過ぎ、その後、ショップで関連書籍を買った人へのサービスタイムとなる。まだ買っていなかった『プラットフォーム』を手に入れ、列に並ぶ。写真表現大学の講座ディレクターに自分のGRを手渡して、森山大道とのツーショット写真(快く了承してくれた)を撮ってもらった。ただ感激するばかり。サインは持参した大好きな『犬の記憶』(河出文庫)にもしてもらう。我ながら軽薄さ丸出しで、恥も外聞もないとは思うものの、いかんともしがたい(苦笑)。

森山大道の新作は来年2冊刊行される。一冊はハワイ、もう一冊はブエノスアイレスを撮ったものだという。間違っても風光明媚なものにはならないという話だった。楽しみに待つことにする。あとGR21が猛烈にほしくなっているのだが、これはもう完全に森山大道に毒されてますね……。

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2004.11.13

1980

蒼井優の出演した映画を探していたら行き当たった。演劇界で人気があるらしい演出家ケラリーノ・サンドロヴィッチ(どこの国の人かと思っていたら、日本人だった)の初映画監督作品であるが、彼のことは寡聞にして知らなかった。ただもう一も二もなく蒼井優。「1980」は1980年12月の東京を舞台にした三姉妹の恋愛や生活をコミカルに描く。

ジョン・レノンが暗殺された翌朝、元アイドルのレイコ(ともさかりえ)は教師になるべく母校に教育実習にやってきた。極度の恋愛依存症であるレイコは数々の醜聞をまき散らした挙げ句、芸能界から逃げるように引退したのであった。しかし、懲りることを知らない彼女は実習初日から男子生徒に手を出す騒動を巻き起こす。その高校は父(串田和美)が校長として、姉カナエ(犬山イヌコ)が教員として勤めていて、さらに妹リカ(蒼井優)が生徒として在学している。レイコを巡る一家の悩みは深い。そんな折も折、レイコの元マネージャー(田口トモロヲ)が彼女の過去をすべて曝す暴露本を刊行した。騒動はさらに広がる。カナエはカナエで、リカはリカで個人的な問題を抱えており、いっそう頭の痛いことになってきた。さて……。

小気味のよい展開で、二時間を一気に突っ走る。細かな笑いを呼び起こすフックがそこかしこに仕込まれており、気がついた分だけ笑えるような造りになっていると感じた。ジョン・レノン暗殺に始まり、聖子ちゃんカット、スライム、ルービックキューブ、YMO、テクノカット、横浜銀蝿、初代ウォークマンなど、1980年当時の風俗や小道具が満載である。しかし、これらの小道具はあの時代の雰囲気や空気感を感じさせるために機能してはいない。もっぱら現実(現代)とは異なる異世界を形成するモノとして働いている。それは一種のファンタジーであるこの映画にふさわしいやり方だと思われる。無理矢理1980年に依存するような演出をすれば、かえって不自然な展開を生まなければならなくなっただろう。火星人が火星でどんな生活をするかを描くことに、我々はリアルさなど求めない。それと同じである。

姉妹を演じた三人はいずれ劣らぬ個性を発揮して楽しませてくれる。犬山イヌコっておもしろい人だ。また脇を固める俳優たちも監督の人脈の力でおもしろおかしい人たちが続々と登場していた。及川光博の演じる演歌歌手は最高である。ミッチーはああ見えて歌が上手いですね。最後に。蒼井優の聖子ちゃんカットは似合わないなぁ。そしてそれ以前にあの髪型、今見たらとても不自然で変なゴージャスさがある。80年代は良くも悪くもあの髪型の印象そのものの時代だった。

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2004.11.10

福耳

脚本家の宮藤官九郎が唯野未歩子とともに出演したビタミン剤のCMが好きだった。フリーマーケットで変なものを売っているという設定である。二人してあまりやる気のなさそうな緩さが、フリマの雰囲気をよく醸し出していたと思う。他にも二人で電車に乗って無駄話をしているというのもあったはずである。いずれにしても脚本家として飛ぶ鳥を落とす勢いとなる前の話である。その頃は唯野未歩子にだけ惹かれて、宮藤官九郎の方は貧相で気の薄いやつだなぁという印象しかなかった。その宮藤官九郎が俳優専業で主演したのが「福耳」である。

浅草にある高齢者向け高級マンション。その場限りのことしか考えていないフリーターの高志(宮藤官九郎)は、ここのレストランで働くことになった。初出勤の日に入口で妙な老人(田中邦衛)に声をかけられる。しかし、直後にその老人、富士郎はすでに亡くなっていたことを知らされる。富士郎はマンションに住む憧れの千鳥(司葉子)の行く末を思い、高志に取り憑いたのであった。一つの体に二つの人格を持つことになった高志は、自ら思いを寄せる元看護士の珪(高野志穂)と千鳥の間で揺れ動く日々を送ることになったのであった。さて二つの恋の行方は……。

フリーターと高齢者の増加は、ともに社会問題として取り沙汰されて久しいけれど、両者を組み合わせることで一つの物語が生み出された。物の怪、死霊が登場するという点で、完全なるファンタジー、絵空事の世界である。しかし、見終えた後には現実的な手応えを感じた。この世に思いを残している死者とこの世でなすべきことを持たない生者という、相反する存在が一つの体で共存することのおもしろさがまずあるが、何よりこの絵空事に素直に入り込めるのは、一人の人間の成長と変化という「リアルな現実」を見て取ることができるからであろう。人間の成長譚をストレートに描きすぎると、独特の臭みのようなものを感じるが、この作品ではユーモラスな描写の効果でその種の臭みもうまく消されていると思った。

コンビニの前で意味なくへたり込んでいそうな今時の若者を、宮藤官九郎が違和感なく形象化している。田中邦衛や司葉子以下、ベテラン有名俳優陣のはつらつとした演技も、彼らの楽しさがよく伝わってきて好ましい。監督は劇場用映画初監督となる瀧川治水。脚本は、今村昌平監督の「うなぎ」「赤い橋の下のぬるい水」の冨川元文による。

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2004.11.08

蛇イチゴ

私たちは意識しようがしまいが、常に何者かになりながら毎日を過ごしている。家では子供として、父として、妻として……。外では友人として、上司として、同僚として、客として……。さらにそれぞれのキャラクターに色を付けるべく、優しい父として、物わかりのよい子供として、貞淑な妻として……と、これはもうあげていくとキリがないほどである。「蛇イチゴ」はある日突然家族がそれまで演じていた役割を捨て、仮面を脱ぎ去ったらどうなるかという物語である。何が真実であるかが厳しく問われる。

ベテランサラリーマンの父は、堅固で誠実な人柄で、周囲からも厚い信頼を得てきた人です。父は一家の要、敬い、慕ってやまぬ大樹のような存在です…ということになっていました。 そんな忙しい父を支え、家庭をきりもりする母は、ここ数年痴呆の重くなってきている祖父の介護を厭うこともなく、強く朗らかに毎日を受け止めています…ということになっていました。 温かい家族に見守られながら、幼い頃からの夢だった小学校の教師として働いている私ですが、職場で出会った優しい恋人と、もうすぐ結婚…ということになっていました。(公式サイトより)

「ということになっていました」との文言からわかるように、これらはすべて「仮の姿」である。父(平泉成)はリストラされ、あちこちに多額の借金を抱えながら、今も会社に勤めている振りをする。母(大谷直子)は気の休まらない家庭に不満を持ち、介護にも心底疲れ果て、ひどい円形脱毛症に悩んでいる。そして祖父の死をきっかけにして、それまでの隠された真の姿がすべて表に出る。葬儀に押しかけてきた金融業者によって父の秘密はばれてしまうし、祖父の死の危機に見て見ぬふりをした母もすっかり居直ってしまった。温かい家庭だと「勘違い」していた倫子(つみきみほ)の恋人は、「だまされた」といって離れていった。家庭崩壊である。そこに現れたのが、父から勘当された生来の詐欺師である長男、周治(宮迫博之)だった。

周治はいろいろな「顔」を使い分けることで、世間を渡ってきた。それは家族に対しても同様である。彼こそが人間関係とは互いにある役割を演じ合うことであるというのを、最もよく理解していた。周治の多面的な生き方は父のよくするところではなかったが、結局、そこにこそ真実があったのである。「蛇イチゴ」の実のある向こう岸、周治が飛び越えた川を倫子は飛び越えることができなかった。それはいつも「よい子」で生きてきた倫子だけが、仮面を脱ぎ捨てられずにいることを象徴しているのかもしれない。少しもの哀しいラストシーンは、しかし、なぜか温かい気持ちになるものでもあった。

西川美和監督はこれがデビュー作である。脚本も監督の手による。今年は「誰も知らない」でよい年となったであろう是枝裕和監督がプロデュースする。佳作。

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2004.11.07

笑う蛙

平山秀幸監督の代表作といえば、原田美恵子の凄みのある演技が強烈に印象に残る「愛を乞うひと」であろうか。思えば昨今社会問題として顕在化している児童虐待を、あれほどまでに明確に映像化している映画は珍しいと思われる。もっとも大作、秀作ではあっても、描くものがものだけに後味のあまりよくない映画ではあるのだが。好き嫌いというレベルでいうと、むしろ平山監督の映画では牧瀬里穂が好演した「ターン」や、「笑う蛙」でも主役を演じた長塚京三の「ザ・中学教師」がおもしろかった。あまり肩に力の入りすぎない娯楽作である。

笑う蛙」は藤田宜永の『』を原作とするもので、主演は長塚京三と大塚寧々である。これをそのまま映画化すれば、たいそう深刻かつエロティックなものになったと思う。でもこの映画ではそうならなかった。

銀行の支店長を務める倉沢逸平(長塚京三)は、バーのママ(南果歩)に入れあげた挙げ句、マチ金に多額の負債を抱える。その埋め合わせとして銀行預金を横領するが、すぐに発覚して指名手配されることになった。逃走を重ねてたどり着いたのは、妻、涼子(大塚寧々)の実家の持つ別荘だった。涼子は涼子で平凡な夫婦生活に飽き飽きしており、夫の不祥事に乗じて家を処分し、別荘に移り住んでいた。思わぬ場所で鉢合わせをする二人。逸平は涼子に匿うことを願い出るが、すでに新しい恋人(國村隼)のいる彼女は自首を勧める。そして涼子は彼が離婚届に判を押すことを条件に、一週間だけ匿うことを約束した。かくして逸平の納戸生活が始まった。外界と彼を繋ぐのはわずかに空いた節穴のみ。そこから見える世界は……。

ギャグである。コメディである。精神的に成熟しない「大きな子供」ばかりが集まったかのような家庭劇が展開される。それぞれがそれぞれの立場から勝手なことばかり言ったりしたりする。そこがおもしろおかしいのだ。シリアスな場面はすべてはぐらかされて変なところに落とされる。なぜか心地よい。覗き見しながら妻への怒りを燃やす逸平(そんな資格なし!)の姿や、全員が出揃ってからのちぐはぐな攻防が見所であろう。こういう間の抜けた映画(わかりやすい感動などどこ吹く風)、好きである。映画を見終えると、「虜」という原題が「笑う蛙」という漫画的なものになったことも納得できよう。

典型的なB級邦画である。劇場公開時に見逃し(あっという間に公開終了)、レンタル店にも並ばないこの作品が、地上波で放映された。こんなこともあるのだなぁ。

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2004.11.06

新国立国際美術館とデュシャン展

音楽会娘の小学校の校内音楽会に行った。世間話に忙しい人たちの間をこそこそと抜けて、壁際に座り込んで聴いた。小学生といっても、高学年になると相当鍛えられている。私の下手なウクレレなど、彼らの立派な演奏の足元にも及ばない……。舌を巻くような合唱や合奏を楽しんだ。

仕事に一区切りがついて時間ができたので、文化の日にオープンした新しい国立国際美術館に行くことにした。すでに何度か書いたように、旧国立国際美術館は吹田市の万博公園内にあった。しかし、施設の老朽化や交通の便の悪さを理由に今年の1月をもって閉館となった。すでに解体工事が始まっており、来春には完全に姿を消してしまう。そして新館が中之島に建設されたのである。

国立国際美術館この美術館の地上部分は竹をモチーフにした巨大オブジェがあるだけで、展示室などはすべて地中に置かれた完全地下型の施設になっている。主に現代美術を収蔵する。新館の開館記念展に選ばれたのは、マルセル・デュシャンである。芸術の存在を疑い、作者の存在を否定するデュシャンの作品は、引用やずらし、コピー、模倣などを駆使し、およそ独創性やプライオリティといった「旧来の価値観」からは遙かに遠いところに存在する。デュシャンによれば、既製品すら誰かがそれを指して芸術であると呼べば芸術になるのである。

銀橋展示品を見る。頭が混乱する(笑)。まじめな顔をして便器やスコップをまじまじと見つめる、自分のその姿を思うと、いい意味で馬鹿馬鹿しくなってくる。便器そのものが芸術なのではない。つまりは、レディメイドの便器を芸術だとしたデュシャンの意識こそが重要である。したがって極端なことを言えば、展示物はなくてもよいのだろう。デュシャンの発想や考え方そのものを引き出す装置としての便器。わけのわからないものを次々と見せられ、気分がどんどん高揚した。ホームセンターあたりに転がっていそうな道具を前にして、小綺麗な淑女紳士が難しい顔をして鑑賞(?)している姿は、何とも言えず、喜劇的な情景ですらある。

満足して美術館から出る。ピンホール写真を撮りながら中之島方面へ戻り、そのまま天満から毛馬まで大川沿いの自転車道をゆっくりと走る。こういう時間も久しぶりである。銀橋のたもとでは浚渫作業をしている船がいた。背景の夕焼けが美しかったので、一緒に写真に収めた。

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2004.11.05

オーバードライヴ

いささか古くさい例で申し訳ない。

「巨人の星」の大リーグボール
「あしたのジョー」のクロスカウンター
「タイガーマスク」のウルトラタイガードロップ
「サインはV」のX攻撃

他にもまだまだあるはず。

主人公たちが困難に直面する。そして復活する。その時には必ず「必殺技」をひっさげて復活する。決して丸腰で立ち上がるヒーローやヒロインはいない。しかもたいていは「別世界での鍛錬」を伴う。ああ、そういえば、ルーク・スカイウォーカーも惑星ダゴタに赴いて、ヨーダのもとでジェダイになるべく修行に励み、中途半端にフォースを身につけたのでありました。

乱暴に話を進めると、おそらくこうしたパターンはこの種のヒーローものには定番といっていい展開であろう。日本の古代物語にもよく見られる話型(貴種流離譚、異郷訪問譚)で、特に珍しいものではない。光源氏だって、都の政争から避けるため、須磨明石へ流離したけれど、しっかりと未来の后となる娘(これが貴族の必殺技)を明石君に孕ませて帰ってきたのであった(本来ならば折口信夫のことにも触れないわけにはいかないが、今はうっちゃることにする)。ようやく本題に。「オーバードライヴ」はまさにその貴種流離譚そのものの展開を持つ。

人気絶頂のバンド「ゼロデシベル」の記者会見で、天才ギタリストの弦(柏原収史)はヴォーカルの美潮(鈴木蘭々)から突然追放を宣告される。男女の痴話喧嘩の果ての騒動であった。泥酔した弦は謎のタクシー運転手に下北半島まで連れ去られ、そこで津軽三味線の後継者として芸を叩き込まれることになった。そのタクシー運転手こそが伝説の津軽三味線家元の五十嵐五郎(ミッキー・カーチス)であった。やがて腕を上げた弦は三味線王座決定戦「アルティメット大会」に出場することになった。しかし、そこには悪魔に魂を売り魔性の技を会得した倉内宗之助(新田弘志)がいたのである。さて戦いの結末は、そしてゼロデシベルの将来はいかに……。

ヒーロー(弦)が追放され、異界(下北半島)に赴く。そこで必殺技(津軽三味線)を身につけ、はなばなしく復活する。貴種流離譚そのままである。この映画は細部をリアルに描くことよりもとにかくストーリーを面白おかしく転がすことを優先している。もちろん同じモチーフ、同じ展開でも、もっとリアルに三味線修行を描き云々ということもできたはずなのに、この映画ではそれをやらなかった。したがってCG、アニメも含めて、非現実的な描写が続出する。「オーバードライヴ」はそういう映画なのである。だからそれは欠点や短所にはならない。わははわははと笑い飛ばせばよいと思う。すごい演奏だと嵐になって観客が吹き飛ぶし、ジミー・ペイジの置き土産だというダブルネック三味線だって登場します。

主人公の弦を取り巻く女性陣についても一言述べておこう。鈴木蘭々は久しぶりに見た。子供が小さい頃よく「ポンキッキーズ」を見ていた。スチャダラパーのBOZEと電気グルーヴのピエール瀧、そして安室奈美恵に鈴木蘭々が進行役を務めていた。なんとも中途半端にゴージャスな組み合わせであった。それ以来。懐かしい。また五郎の孫娘役の杏さゆりは、NHKの100語の英会話でおなじみである。コーパス君の女性アシスタントがまさか津軽三味線家元の孫でぬんちゃくを振り回すとは思ってもみなかった。テアトル梅田で鑑賞。

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2004.11.03

文化の日の散歩

コスモス畑

昼前に完成した書類を宅急便で相手先に送る。これで一仕事終わった。開放感を味わいながら、久しぶりに針穴写真機を持って、自転車でポタリングに繰り出した。あまり遠くには行けないので、コスモスフェスタをやっている万博公園に向かう。でもちょっと遅かったようである。花弁を落とした花が多いし、何より観光客に踏みしだかれた花々が痛々しい。上の「m4ショット」もまともな花の方が少なくて情けない。

プラタナス並木 コスモス

今日は園内の施設が無料開放される日であった。もう少し早い時間だったら、国立民族学博物館にも行けたのに。残念。一方では、いよいよ万博ホールと国立国際美術館の撤去工事が始まってしまった。来春には完全に姿を消す。

万博公園西口には立派なプラタナス並木がある。たいていはモノレール駅のある中央口か、ガンバ大阪のホームスタジアムのある東口から入ってくることが多いので、一般的にはあまり知られていないかもしれない。高い木を見上げると気持ちが晴れやかになる。とても素敵な並木道である。

工場の空

結局、針穴写真は数枚撮影しただけ。でもひさしぶりに青い空の下で体を動かせたという実感があって、晴れ晴れとした気分で帰ってきた。

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2004.11.02

笑の大学

月に一度の「映画の日」である。たまたま空いた時間があったので、何かを見に行くことにした。ちょうど「笑の大学」と「オーバードライブ」の2本が公開直後で狙い目である。ところが、後者を上映しているテアトル梅田は、独自に第1水曜日を「映画の日」にしている。ちぇ。仕方がないので、ワーナーマイカルシネマズ茨木で上映している「笑の大学」にする。混雑して座席がなくなると困るので、e席リザーブで予約をした(あいかわらず手数料を100円取るのはどうなんだろ)。

平日昼の時間帯にしては観客が多いのは、やはり1000円の威力だろう。私の真後ろに座っている人からの見えない圧力(おそらく120キロ超)と耳に喧しい鼻息が気になったが、それは言ってはいけない。しかし、映画が始まるやいなや、この巨躯男、大きな鼾をかき始めるではないか。それはもう映画館では言語道断だろうと思えるほどの「大音声」である。おそらく人よりは映画館によく出かけているはずだが、ここまで大胆不敵に熟睡する人に出くわしたのは初めてである。彼は1000円で仮眠場所を求めていたのだと思うことにする。「心頭滅却すれば火もまた涼し」である。

閑話休題。

笑の大学の舞台三谷幸喜の関わる映画は「12人の優しい日本人」「ラヂオの時間」「みんなのいえ」「竜馬の妻とその夫と愛人」に続いて5作目となる。「笑の大学」はテレビドラマ「古畑任三郎」でコンビを組んだ星護に監督を任せ、自身は脚本を担当する。三谷といえばまず舞台ありきで、過去のテレビや映画になった作品も、もともとは舞台用であったものが多い。「笑の大学」もそうした作品の一つであるが、他の作品と決定的に違う点がある。それは「笑の大学」が三谷作品のベスト、最高傑作であるという評価がすでにできあがっていることである。このハードルは極めて高い。しかも登場人物がたった二人の密室劇である。これをいかに2時間の映画として見せるのか。

昭和15年、警視庁保安課取調室。検閲官向坂睦男(役所広司)は、劇作家である椿一(稲垣吾郎)の書いてきた新作の検閲をする。「喜劇など上演する意味がない」とする向坂は、椿の試みをことごとく否定するが、椿は椿ですべてを受け入れながらさらにおもしろいものを作り上げてくる。期せずして、向坂の否定的発言は、皮肉にも脚本をどんどんおもしろくする方向に働いてしまうことになった。やがて芽生える友情。そして完璧な喜劇台本が完成する。ところが……。

密室でのドタバタ劇(つまりは演劇的な舞台設定)は「12人の優しい日本人」や「ラヂオの時間」でお馴染みのスタイルであるが、出演者の少ない「笑の大学」は、さらに濃密な演劇的時空間を意識させる。二人だけでどうなるかと思われた点については杞憂に終わった。舞台となる場面を変えるとか、新しい登場人物によって別の人間関係を構築するなどの方法が取れないだけに、すべては二人の器量にかかってくる。役所広司と稲垣吾郎の話芸、腹芸、演技が実に知的でスマート、さらに熱意も感じられ、しっかりと画面に惹き込まれた。冷徹な向坂が椿という触媒によって次第に変化していく様が破綻や飛躍することなく丁寧に描かれている。そしてこの映画にとってはそれがすべてであろう。星監督と三谷の挑戦は成功していると思う。

もちろん映画は映画であり演劇では決してないのであるが、そういうジャンル分けをひとまず忘れてもよいのではないかと思わされた2時間であった。ワーナーマイカルシネマズ茨木で鑑賞。

余談:ところで、三谷脚本の大河ドラマ「新撰組!」は、御贔屓の麻生久美子(おりょう役)が出ているのだけれど、一度もチャンネルを合わせたことがない。おもしろいのかなぁ。

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