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2004.12.30

約三十の嘘

長島有里枝が『not six』という写真集を刊行した。彼女の夫を被写体にしたポートレイト作品である。書店で手に取ってざっと眺めただけなのだが、あまり見たくないようなもの(ご想像にお任せします)もあれこれと写っていて、そのまま棚に戻してしまった。写真そのものは嫌いではないのだけれどね。さて、自らの配偶者を直視した写真家といえば、ただちに荒木経惟のことを思い浮かべるが、彼が陽子夫人を写した作品はぎりぎりの断崖絶壁を歩くかのような緊張感が漲っていた。特に夫人の病と死から目を逸らすことができなかった時期のものは、必然的にそうならざるをえなかっただろう。対して長島の写真はどこまでもいい意味で俗っぽくかつ下品である。そこが持ち味だと思う。少なくとも川内倫子や蜷川実香のような心地よさはない。しばらく更新はされていないようだが、こういう子育てサイトが飛び出してきて、少しは写真の雰囲気も変わるのかと思ったが、さにあらず。長島有里枝は長島有里枝だった。

ipodその長島がスチールを担当する映画「約三十の嘘」(公式サイトでは長島有里枝の撮影した写真や壁紙が公開されている)。大谷健太郎監督にとって「アベック・モン・マリ」「とらばいゆ」に続く第三作目となる。私は前の二作の会話劇を大いに楽しんだクチなので、高揚した気持ちで映画館に出かけた。にも関わらず、即座に映画のことを語らないで長々と枕に長島ネタを費やしたのは、残念ながらこちらが期待したほどではなかったからだ。もちろん楽しめないということでは決してなく、相応におもしろかったのだけれど、もっと楽しませてほしかったというのが正直なところである。

土田英生の戯曲を原作とし、大谷監督と渡辺あや(「ジョゼと虎と魚たち」脚本)が共同で脚本を仕上げている。映画では、六人の詐欺師(椎名桔平・中谷美紀・妻夫木聡・田辺誠一・八嶋智人・伴杏里)がチームを組んで北海道で大仕事をする、その前後の豪華寝台列車「トワイライトエクスプレス」(大阪・札幌間)内の出来事のみが描かれる。この物語は詐欺行為そのものを描くことを目的としているのではないため、詐欺師としての仕事ぶりはいっさい出てこない。騙すことを本業とする彼らが、仲間といかなる付き合い方をするのか、信頼関係を築き上げるのかという部分に焦点を合わせている。

大谷監督が土田の戯曲を取り上げたのは、長距離列車という密室で虚実入り乱れた丁々発止の会話が繰り広げられる点にあるとおぼしい。それはまさに彼が得意としてきた会話劇の最良の舞台の一つであるだろう。しかし、どうもそれがうまく機能していないように思えたのだ。以下箇条書きで並べてみよう。

・密室での会話劇なのに、肝心の会話の切れが悪く、絡み方や深め方も今ひとつ。
・きちんと一つづつエピソードを積み上げている手応えがない。
・結末にもう少し意外性がほしい。あまりにも予測可能すぎて肩すかしを食う。
・役者がメジャーになったことで、大谷監督のアクが薄くなっているのではないだろうか。
・物語の鍵を握る伴杏里が不発。
・ゴンゾウはユニークだが、キャラクター商売(ゴンゾウ.net)に走る前にすることがあるだろうと思った。
・トワイライトエクスプレスに乗って北海道に行きたい。

最後のは関係ありませんでした……。スタッフによる宣伝日記もある。傑作群像会話劇になる予感もあったのに、これでは一部の邦画ファンだけに受けるような間口の狭い、いや、底の浅い映画(繰り返すが、相応にはおもしろい)になってしまったように思った。テアトル梅田で鑑賞。

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2004.12.29

真実のマレーネ・ディートリッヒ

恥ずかしながら、この大女優の出演作品はひとつも見たことがない。歌はラジオで聴いたことがある。有名な「リリー・マルレーン」である。それくらい。

ディートリッヒの孫のディヴィッド・ライヴァは、二〇世紀を代表する女優の伝説を形象化するため、未発表のフィルムを多数集めるとともに、ディートリッヒと関わった人々(ビリー・ワイルダーやバート・バカラックら)による多角的な証言を得ることで、稀代のディーバの波瀾万丈の物語に具体的な肉付けをすることに成功した(と思われる、興味深く最後まで見ることができたから)。ただ私はディートリッヒのことを何も知らない。この映画のどこまでが知られたことで、どこからが新知見なのか、その境界線がわからないのがもどかしい。

1920年代からドイツで銀幕スターとして頭角を現したディートリッヒは、30年代に入ると活躍の舞台をハリウッドに移す。さらにナチスの圧政から逃れるために、アメリカへ移住し市民権を得る。やがてディートリッヒは戦地に積極的にでかけ連合軍への慰問活動を行うようになる。スターとしての彼女のもう一つの側面である。今ならさしずめ反戦活動だろうか。「リリー・マルレーン」はこの活動の象徴的存在である。

いずれにしてもドイツ人がアメリカのために働き、結果的に母国を打ち倒すという使命は、いかにナチスが絡んでいるとはいえ、簡単に説明できるようなものではないだろう。事実、戦後ドイツに赴いたディートリッヒに対するドイツ国民の反応は、愛憎相半ばするものだったらしい。ただ映画俳優としても歌手としても手詰まりになりつつあった彼女が生き残るには、こういう方法しかなかったというようにも見える。少なくともこの映画を見る限りでは。

ディートリッヒは七五歳まで現役として活動し、九一歳で亡くなった。けだし大往生であろう。そういえばディートリッヒの終生のライバル、グレタ・ガルボも観たことがないなぁ。宿題、宿題っと。

公式サイト

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2004.12.26

青い車

どんよりと曇ったクリスマス翌日。寝ぼけ眼で日曜朝刊(いつもの朝日)の書評欄を開くと、この一年を回顧する特集が組まれていた。自分の守備範囲から遠いものとか、見逃していたものとか、この機会に手に入れておきたい本をリストアップする。そして今年のベストセラーに目を転じると、「今年はみんな、泣きたかった」という書き出しに導かれ、『世界の中心で、愛をさけぶ』(300万部)と『いま、会いにゆきます』(100万部)が登場する。続いて『冬のソナタ』上下巻(合わせて100万部)。どれも感動のドラマに溢れ、涙涙涙涙涙……。まさに老いも若きも恋愛ドラマで号泣の一年か。思えば、現状を無批判無条件に肯定する人しか権力者(ブッシュ&小泉)になれないし、ベストセラー作家(片山恭一)にもなれないと島田雅彦は言っていたなぁ。愛と正義か。どっちもふりかざされると痛すぎる。

同じ恋愛ドラマを中心に置きながら、涙で浄化どころか、ずっしりと重い荷物を持たされたような疲労感を覚える映画を観た。奥原浩志監督「青い車」である。しかし、この疲労感は、感動と涙の嵐に翻弄されてくたくたになった身にはとても心地よい。

子供の頃に事故に遭い、目元に傷が残ったリチオ(ARATA)は、「生きているのがラッキー」だと思い、日々、孤独や苛立ちを感じながら生きていた。彼にはアケミ(麻生久美子)という恋人がいるものの、本気でのめり込むような恋愛感情を感じているわけではない。アケミはアケミで、そんなリチオを理解しきれず、同じように深い孤独感を覚える。ある日、出張先でアケミは交通事故にあって死ぬ。「ずっと幸せならいいな」と言っていたアケミがあっけなく消え、今、リチオの前にはアケミの妹のコノミ(宮崎あおい)がいる。コノミもまた退屈な高校生活に飽き飽きし、姉に内緒でリチオに会っていたのだった。事故の前日、その秘密を姉に打ち明けたコノミ。姉はどんな思いを抱きながら死んでいったのか。互いに愛情を感じながら、何もわかりあえない人々……。

よしもとよしとも原作の漫画が下敷きになっているが、映画化に際して大幅にアレンジされている。「ただ、どうしようもなく、好き。」といいながら、心の奥底で他者とつながりえない孤独感に苦しむのは、決して作中の人物たちだけのものではないだろう。「青い車」の人々は、生きていることそのものに深い猜疑心を持ち、誰一人として現状を肯定しない。彼らは世の中を諦めているわけではないから、苛立つことや腹立たしいことも多い。理不尽なこともある。人とわかりあえなくてつらくもなる。そうしたありきたりな日常の中にあるさりげない孤独や退屈や諦めに翻弄されながら、それでも生きていかなければならない現実をきちんと精算しようとしている。そこが重い。

恋人を失う悲劇。「世界の中心で、愛をさけぶ」を童話として捉えた行定勲(「文藝」2004年春号インタビューでの本人談)。甘くなって然るべきだろう。対する奥原浩志は別の方法論を選択した。それだけのことである。それにしても、どうしてみんな、そんなに泣きたいのだろう。私にはよくわからない。梅田ガーデンシネマで鑑賞。

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2004.12.24

はっぴぃ? かんぱい!

Have a happy weekend !!

ipod

元ネタ
作った道具 EasyToon(窓用)

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2004.12.22

グッバイ、レーニン!

美濃の長良川で鵜飼いを見た松尾芭蕉は、その時の心情を一句に吐露する。

  おもしろうてやがてかなしき鵜舟かな

「おもしろうてやがてかなしき」とは鵜飼いそのものへの直接的な思いを口にしたものではない。鵜飼いの向こう側にある、人間の営為や人間の存在そのものを凝視する複雑な感情である。「おもしろうてやがてかなしき」。芭蕉とはまるで無関係なドイツ映画「グッバイ、レーニン!」を見ながら、そして見終わってから、私の頭の中をこのことばがうるさいくらい「駆け巡って」いた。

アレックスは東ベルリンのテレビ修理店で働く青年である。ささやかな労働者向けアパートで、母や姉とともに暮らしている。十年前に父親が西ドイツに亡命した反動から、母クリスティアーネは深く社会主義に傾倒する教師として、国に忠誠を誓う生き方を選択した。1989年、建国40周年を迎えた東ドイツでは華々しい記念式典が開かれる。だが一方では民主化を訴える市民による街頭デモが行われていた。そのデモに参加し逮捕されるアレックスを見かけたクリスティアーネは、ショックのあまり心臓発作を起こし、意識不明の昏睡状態に陥ってしまった。八ヶ月後、彼女は奇跡的に意識を取り戻す。だがその間にベルリンの壁は崩壊し、東ドイツという国家は消滅していた。クリスティアーネに精神的なショックを与えることは致命的だと医者に宣告されたアレックスは、今も東ドイツが繁栄を極めている「現実」を、姉夫婦や恋人、仕事仲間らと捏造し続ける……。

コメディタッチのドラマである。母のために旧東ドイツの服や食料品、調度類を買い集めるアレックスらの姿は「おもしろくてかなしい」のであるが、テレビが見たいという母の要求に応えるため、友人と東ドイツのニュース番組をでっちあげるビデオを作成するくだりになると、「おもしろい」「かなしい」ではすまない普遍的な世界観を突きつけられているようで苦しくなった。私たちが知り得る現実はマスコミが恣意的に作り上げたものでしかないという危うい構図が、ここで見事にカリカチュアとして表現されている。単に旧社会主義国家の閉塞した状況を描いているだけではない批判精神をそこに見る。ユーモアがあって思わず笑ってしまうのだが、その後、妙にしんみりとした気分になる。これがまさに「おもしろうてやがてかなしき」の芭蕉の心境を呼び起こす。

しかし、こうした批判精神以上に「グッバイ、レーニン!」がすばらしいと思えるのは、何より人間の心模様をしっかり描いているところだろう。母の死が近づいた日、アレックスは最後の捏造ニュースを流す。ホーネッカーが退陣し、東側世界が「寛大な心」で西側を受け入れるとするニュースを見ながら、優しく息子に微笑む母の目は、慈愛の光に満ちあふれていた。すべてを知りながら息子への感謝の気持ちから最後まで知らないふりをする。母もまた「騙されるばかり」の人間ではなかったのだ。

とてもよい映画であった。たとえて言うなら正露丸糖衣錠(謎)。

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69 sixty nine

妻夫木聡と安藤政信の2枚看板に加え、脚本が宮藤官九郎と来れば、ある程度の質は保証されたようなものだし、事実どうしようもない代物ということもないのだが、何だか今ひとつ乗り切れなかったなぁという印象のまま、最後まで流れてしまった。李相日監督の「69 sixty nine」。

舞台は1969年の佐世保。アメリカ軍の基地のあるこの街の男子高校生は、「女の子に受けたい、もてたい」という究極にして原初的な目的のために、日夜発情し続けている。折しもベトナム戦争や大学紛争などがあり、反体制派を気取って目立つ行動をするためのネタには困らない。何も考えていないようで、何かを考えているケン(妻夫木)とアダマ(安藤)は、「何かを強制される集団は醜い」と学校に反発し、ついに屋上封鎖を敢行する。そして目指すは自由と愛に満ちあふれたフェスティバルの開催。憧れの女生徒への恋心も絡んで、事態はますます複雑化していく……。

原作は村上龍の同名小説である。戦争のダメージから抜け出し、高度成長期に突入する「われらがニッポン」をも背景にして、当時の文化や流行(11PMや「平凡パンチ」、奥村チヨ、ストーンズなどが登場)をふんだんに取り込む映像は、スピード感にあふれていた。しかし、である。それがどうも観客不在で走っているように思えて仕方がなかった。1969年への思い入れや当時の知識の有無、濃淡だけが問題ではないだろう。「こんなにすごいものを集めたんだぞ、どうだ、おもしろいだろ」という押しつけがましさを感じるのである。俳優陣はもとよりすべてにおいて金に糸目をつけない豪華さがかえって鼻につく。それが物語を心から楽しめない一番の理由であろう。体制に反発する姿を描く映画そのものが観客に立ちはだかる体制になっているという、大いなるパラドックス。

ありていに言えば、「好みに合わない」というこちら側の事情がすべてである。俳優たちの演技や脚本そのものに不満があるわけでもないし(原作者は好きじゃないけど)。結局、「大東映の看板」が……、というところに行き着くのかもしれない。なんだか時代錯誤でバブリー(無駄に資源を使う)な印象だけが残る映画だった。

そういえば「世界の中心で、愛をさけぶ」のヒロインの誕生日は、1969年10月28日だったなぁ。69年、今年の流行か!?

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2004.12.20

ゴジラ・ファイナルウォーズ

楽しみにしていたヘドラの登場時間は、おそらく10秒ほどだろう。10分ではない。10秒である。エビラとともに東京湾から出現したとたんに、ゴジラの熱線で雲散霧消した。

キングシーサーもアンギラスもラドンもクモンガもカマキラスもハリウッドゴジラも、まともにスクリーンで暴れる怪獣は皆無である。怪獣はゴジラの前に出てきた瞬間、熱線や尻尾の一撃で退場させられる。出番はゴジラに遭遇するまでのせいぜい数分間。千切っては投げ千切っては投げの繰り返しである。これはいったい何なのだろうか。これほど多くの怪獣を登場させる必然性がどこにもない。懐かしい面々の単なる顔見せだった。

そこではたと気がついた。監督の北村龍平は「あずみ」で上戸彩に百人斬(二百人だったかも)をさせていた。それとまったく同じ結構ではないか!

たくさんの怪獣を出して最初から最後までバトルシーンを並べれば盛り上がるのだと勘違いした世紀の大失敗作。さすが上戸彩の百人斬しか話題にならなかった「あずみ」の監督、北村龍平の考えることである。同じことをゴジラでやろうとしても駄目である(どうせやるならキングギドラを百匹、モスラを百匹出せばよい、ド派手でよろしい)。ゴジラ全作品の中でも最低の出来だと思う。東宝チャンピオン祭後期の「アイドル・ゴジラ」、混迷の平成ゴジラシリーズよりも圧倒的に酷い。怪獣のプロレスの合間に、地球人とX星人のプロレスが入る。ドラマはなきに等しい。ひたすら人間の格闘と怪獣の格闘が交互に描かれるのみ。こんなダイジェスト以下の映画の何を楽しめというのだろう(ちなみに楽しめたのはX星人役の北村一輝の怪演技のみ)。

興味深い記事がある。12月9日の朝日新聞朝刊「文化総合」欄に江戸木純なる映画評論家の評が掲載された。「ゴジラ・ファイナルウォーズ」公開直後のことである。私は江戸木の文章を読んで、さほど期待していなかった本作が大いに楽しみになった。曰く「2作目以降、シリーズ中最も面白いゴジラ映画の誕生」「究極の格闘技映画と捉えた今回の方法論は極めて正しい」「人間の登場人物にも怪獣並みのアクションをさせることで、怪獣シーンとドラマの間にあった違和感の解消に成功した」、そして「ここには怪獣映画に求められるものがすべて詰まっている」等々。書き並べていて空しさだけが残る。これほど酷い提灯記事を読むのも久々である。映画観賞後の怒り(いや、本当に怒ってました)は、おそらくこの江戸木の騙し討ちのような記事のせいもかなりある。

社会や歴史への痛烈な批判者として誕生したゴジラ。常に時代のメタファーを体現しながら存在し続けたゴジラ。物語そのものの巧拙はあっても、制作者や鑑賞者に愛されたゴジラ。そういうものがすべて欠落した最新作にして最終作のゴジラ映画に存在意義などない。消えろ北村、そして消えろ、ゴジラ。

公式サイト
前に書いた関連記事

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2004.12.19

予告編の大掃除

左のサイドバーに設置した「エントリー予告編」。自分自身の備忘録として載せているのだが、いつまで経ってもエントリーにしないものが増えてきた。特に書籍類。まるで宿便である(お下劣)。すっぱり消すのも忍びないので、まとめて放出する。いずれその気になったら、個別に書くことにします(たぶん無理、書くならさっさと書いているはず)。

久保田淳『富士山の文学』(文春新書、2004年10月)
 霊峰富士。一片の風景にとどまらないこの山が、古代から現代までの日本語文献にいかに描かれてきたのか。完璧な美として憧れ、霊的な存在として崇め奉り、精神的な支柱として仰ぎ見る。時代や思想によってその相貌を変える富士山、その享受史のありようを知ることができる。

村上征勝『シェークスピアは誰ですか』(文春新書、2004年10月)
 日本語の文章を計量分析で解き明かす。村上の「計量文献学」は、文章の数量的な分析から著者や作品の真贋を割り出すことを試みようとするが、「バラバラの刺身から元の魚は復元できないし、その姿も愛でられない」のではないだろうか。何より作品として読むことが後回しになっているという点にも危うさを覚える。傾向は示せても、真実は示せないと考える。

井上真琴『図書館に訊け!』(ちくま新書、2004年8月)
 何でもネットでの気楽かつ気儘な検索で事足れりとする時代に、図書館の存在意義を改めて問いかける。一種のハウツウ本ではあるが、著者の図書館と本に対する多大なる愛情を感じて好ましい。近所の優しい物知りの兄ちゃんが何でも教えてくれるという風情である(強引な喩え)。

五味太郎『日本語擬態語辞典』(講談社+α文庫、2004年6月)
 オノマトベ(擬音語擬態語)は、現実の世界の音や状態を、言語として用いる音によって写し取ったことばである。したがって同じ言語を使う者同士では暗黙の了解、阿吽の呼吸で理解することができるが、異国語異文化に住む者にはひどく難解なものとなる。この本は日本語のオノマトペの解説を日英両語で示し、さらに五味太郎のキュートな挿絵を添える。日本語学習者はもとより日本語話者にも発見のある書である。

阿辻哲次『部首のはなし』(中公新書、2004年7月)
 矢継ぎ早に漢字本を出す阿辻だが、どれを読んでも同じ印象がある(いきなり言い切ってしまった)。今回は部首に着目している。浅薄な雑学本よりは濃い内容なので、多少なりとも知見を深めるのに役立つ。

柴田武『ホンモノの敬語』(角川oneテーマ21、2004年5月)
 御年86歳、国語学界の重鎮が日本語を啓蒙する。敬語の使い方はもちろん難しいのだが、何よりもまず他者を尊重する気持ちと、自らの品性を大切にする心がけが重要ではないかと思う今日この頃……。それができれば敬語なんて自ずから使えるようになるように思う。敬語以外の話題も満載。

田中貴子『古典がもっと好きになる』(岩波ジュニア新書、2004年6月)
 田中貴子は物知りのわりに詰めが甘いと思う。大雑把といってもいい。ちくま新書の一冊として出ている『日本古典への招待』なども酷いものだった。少し前に紹介した小谷野敦の『評論家入門』に「たくさん本(注:一般向けの啓蒙書の類)を書いているような学者は、どうしても杜撰であることが少なくないし、時には、まともな学術論文など一本も書いていないのではないかという場合もある」というくだりがあった。静かに頷くばかりである。少なくともこれを読んで古典に関心を示す高校生はいないと思う。

島内景二『文豪の古典力』(文春新書、2002年8月)
 「遺伝子」とか「DNA」とか、およそ文系の書物とは関係なさそうなことばを持ち込むところに怪しさがあるが、近代文学者がどれくらい自国の古典文学に親しんでいたのか、それを自分の著作活動に活かしているか、ということについて述べている。「文化の継承」というのは大きな問題として忘れてはならない。しかし、それを忠実に実行していたとする明治期の人々の心を知ることで、閉塞しつつある現代文化を活性化できるとする島内の言はいかがなものか。

普段からよけいなことをおしゃべりせずに、こういうふうに短く書けばいいのだろうが、元来がしゃべりなのできっとまたエントリー候補として溜め込むことになると思う。その時はまた大掃除。

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2004.12.18

安野モヨコ『美人画報』

「いつでもどこでもキレイのヒント」という帯の言葉を真に受ける読者がいるのだろうか。これはそういう意図で書かれた本ではない。

髪型・化粧・ファッション・エステ・ダイエット・整形・海外旅行・インテリア・食事・気孔そして太極拳……。「女は、なぜかくも”美”を目指すのか?」という命題を解き明かすべく、安野は自ら実践を試みる。もちろん成功することもあるし、失敗して笑いを取ろうとすることもある。どちらかと言えば、後者が多いか。「洒落のめす」ということは決してしないが、「やりたいと思っても、結局無理!」と開き直る。文章のスタイル、視点の持ち方、語りの立ち位置は、さくらももこに似たものを感じた。端から半ば諦めながらも、「もしかしたらうまくいく!?」と楽しんでいる安野の姿と、そうした行為に実は舌を出している気配(巧妙に隠蔽しようとしている)を、こちらもまた楽しむのが王道(この言い方、変ですね)。

だからと言って連載も二年近く続いた現在、私が美に近づいたかと言えば、それはまったくもってあまり変化がないのです。ま、どんな世界でも口うるさくイロイロ言ったり考察したり評論したりしてる人ってのは、得てして自ら行動してなかったりするものです。

自ら踊っていると見せかけて、踊っている人間を冷静に対象化し分析している恐ろしい一冊。したたかです。女性の美を巡るブランドその他の固有名詞はほとんど理解できなかったが、おもしろく読み終えることができた。(講談社文庫、2004年11月)

安野モヨコ公式サイト つい壁紙をダウンロードしてしまった……

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2004.12.17

堀江敏幸『熊の敷石』

本を読んでいて、読むこと自体が幸せに感じられる瞬間がある。あまりあることではない。それはたまさか訪れて、しばしその場にとどまり、気がついた時には消え去っていくような儚いものである。

  堀江敏幸の文章は、繊細さに裏打ちされた勁い知性によって書かれている。

川上弘美は文庫本版『熊の敷石』の解説でこう語る。深く静かに安定した精神状態から、丁寧に選ばれたことばが紡ぎ出されていく。立ち現れる一語一語(決して難解ではない)が愛しい。喉の渇きを癒すために水を飲んだところ、水の味にだけ集中してしまい、なぜそれを飲んでいるのかという根源の理由を忘れてしまっている。この喩えはいささか観念的に過ぎる憾みは残るが、こういう感じが近いように、今は思える。

この本には表題作の他二作を収める。表題作は、フランス滞在中の主人公(翻訳などの執筆活動をする)が、かつてかの地で知り合ったユダヤ人の友人(カメラマン)と旧交を暖める。その数日間の出来事に連関する思索の蠢き、感情の揺らぎを描くものである。さりげなくちりばめられたメタファーは相互に引き合い、その象徴的関係性を読み解くことに心が震える。中でも表題となるフランスの寓話「熊の敷石」の意味(ここでは伏せる)を知った時、この作品の意図が奈辺にあるかが一挙に了解され、思わず膝を打った。「なんとなく」という感覚に支えられた違和感と理解。人とのつながりの根底にあるものは……。

第124回芥川賞受賞。何度も味読したい。(講談社文庫、2004年2月)

追記:そして大慌てで最新作の『雪沼とその周辺』(新潮社)も買ってきたのであった。

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2004.12.16

雨鱒の川

初恋。

甘美な響きを持つこのことばをそのまま映像として定着させようとしたのが、この映画である。監督の磯村一路も「『雨鱒の川』は初恋の物語です」とパンフレットの解説で語る。遠い昔に過ぎ去り美化される一方の初恋というのは、一種のファンタジーである。ここに故郷と母の愛情という甘い要素まで絡んでくるから、勢い非現実的な描写まで駆使することになり、結果、存在感に乏しい夢見がちなおとぎ話になってしまった。

広い北の大地に母(中谷美紀)と二人で生きる心平(須賀健太)には、小百合(志田未来)という幼なじみがいた。小百合は聾唖の障害を抱えるが、心平とだけは深く心が通じ合っていた。将来を固く誓う二人を釣り師の秀二郎(柄本明)はいつも優しく見つめている。やがて成人した二人(玉木宏・綾瀬はるか)は、ともすれば現実の波に押し流されそうになりながら、互いの胸に秘めた思いを貫こうとする。ある日、絵の腕を見込まれた心平に、東京へうって出るというチャンスが巡ってきた。初めて離れて暮らすことになる二人の仲はいったいどうなるのか……。

異能者(画家としての心平)と妖精(ピュアな存在としての障害者小百合)の恋物語という究極のおとぎ話的設定はひとまずよいと思う(捉え方が古くさいけど)。ところが、そこここに盛り込まれたエピソードがお手軽なので、映画全体が安普請に感じられてしまう。たとえば恋のライバルが登場するとか、遠い地へ片方が流されるとか。あまりにもありきたりな展開というほかない。さらに演出面で意図があったのか、俳優の演技がどれも軽い。ふわふわとした甘いお菓子のように軽い劇を、そのまま北海道の美しい自然の中に置いてみましたという感じしか受けない。ドラマとしての見せ場である小百合を巡る男たちの諍いや感情のやり取りもどこか芝居じみて見えるし、どうせうまくいくのだろうという先の読める展開はいかがかと思う。説得力を欠いたおとぎ話に魅力はない。

物語の鍵を握る二人の友人の雨鱒(魚です)がキューピッドの役目として登場してくる。映画のタイトルにも使われる重要な存在である。しかし、CGで描かれた嘘臭い動きの魚を見るたびに気分が萎えていったのは私だけだろうか……。人生の伴侶を見つけた雨鱒と同じように、心平と小百合が筏に乗って川を下っていくラストシーンは、鼻白む思いで見るしかなかった。葉加瀬太郎の素敵な音楽も、物語と合わさるとその文脈に引っ張られてしまい、微妙にずれているというか、齟齬があるように感じられて落ち着かなかった。

磯村監督、傑作青春映画「がんばっていきまっしょい」を撮った後は、どうも迷いがあるように思えるのだが、どうなんだろう。梅田ガーデンシネマで鑑賞。

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2004.12.14

ロスト・イン・トランスレーション

渋くてかっこいい映画だと思った。趣味のよい大人が地に足をつけてきちんと作った映画である。なんだか軽いまとめだけれど。

ハリウッド・スターのボブ・ハリス(ビル・マーレイ)は、コマーシャル撮影のため来日した。しかし、慣れない異国にいる不安感に苛まれ、しだいに気持ちが沈んでいく。同じホテルには、写真家の夫(ジョバンニ・リビシ)の仕事に同行してきた若妻のシャーロット(スカーレット・ヨハンソン)が滞在していた。夫は仕事に追われるばかりで一向にシャーロットに構わず、彼女もまた言い知れぬ孤独と不安に襲われていたのであった。ある夜、ホテルのバーで居合わせた二人は、同じ心の揺れを持つことを感じ取り、急速にうち解けていく……。

コッポラといえば、フランシス・F・コッポラを思い出す私は、かなり遅れているかもしれない。この映画の監督ソフィア・コッポラはそのフランシスの娘である。これまで俳優やモデルとして活躍してきたという。

まず「ロスト・イン・トランスレーション」では絵が極めて印象的である。ここでソフィアが写真家としても活動していたことを思い起こすのもよいだろう。冒頭、来日したボブがタクシーの中から東京の煌びやかネオンの洪水に目を奪われるシーンがあるが、東京の俗悪さや胡乱さが見事なまでに美しさに昇華している。目が悦ぶと言っては言いすぎだろうか。異国の相貌に目を奪われるのはボブだけでなく、観客もまた同じ立場から映画の中に一気に引きずり込まれる。この後もステレオタイプ的に東京や日本を捉えるのではなく、なるほどこういう見方をするのかと思わされる描写が続く。とてもおもしろい。

ドラマも秀逸である。過剰な演出、押し付けがましい感動、嘘臭いドラマは用心深く排除されている。見知らぬ大人が異世界で親密になっても、その関係は進展することもあるし、しないこともある。さらに微妙な距離感を残して終わることもある。この点をドラマとして描ききった点に深く共感する。ビル・マーレイとスカーレット・ヨハンソンは、異文化の中の異邦人の不安、そして中年男と若い女性の関係を余計な感情表現をせずに丁寧に浮き彫りにした。

映画はユーモア、インテリジェンスにあふれ、演出には抑制が利いている。無理矢理感動させようとする煽りもない。なんでもかんでも「ホテルへゴー!」したり、「異国の中心で愛をさけべ」ばいいというものではないのだ。こういう映画がもっと多くの人に知られることを切に望む。

公式サイト

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2004.12.11

今年の朝日ベストテン映画祭

前年12月からの1年間、関西の劇場で公開された映画を対象にした「朝日ベストテン映画祭」の今年の入選作が発表された。日本映画のベストテンは以下のものである。

  1 誰も知らない
  2 父と暮らせば
  3 ヴァイブレータ
  4 血と骨
  5 ジョゼと虎と魚たち
  6 ふくろう
  7 隠し剣 鬼の爪
  8 花とアリス
  9 リアリズムの宿
  10 下妻物語

見事にツボである(笑)。観たもの、観ようと思いながら行けなかったものばかりである。パスしたいのは4と7くらい。「きょうのできごと」がないのは残念なところである。朝日ベストテン映画祭のいいところは、これらをまとめて安く再上映してくれることである。劇場で見逃したのはぜひとも行きたいなぁ。特に「花とアリス」。DVDでもう十回以上は鑑賞したけれど、大きな画面で蒼井優を見たいのだ。また外国映画もあるが、ほとんど見ていないからリストは出さない。「ミスティック・リバー」「グッバイ、レーニン!」「モーターサイクル・ダイアリーズ」あたりはレンタルも開始しているので見てみようと思う。

さてこれらの秀作、いくつかを除いて、きっと来年2月の日本アカデミー賞では完璧に黙殺されるはずである。乞うご期待(笑)。権威(たとえばカンヌ)に弱いから「誰も知らない」は必ず入るだろうけどね。

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世界の中心で、愛をさけぶ

とてもよくできた予告編である。全編を見終えた後、DVDに特典として収められているものを見て、そう思った。そして同時に、「これだけでいいではないか」という身も蓋もない感想を持った。ありていに言うと、本編はこの予告編を2時間18分に引き延ばしたものでしかない。「泣かせよう、感動させよう」という饒舌なあざとさがない分、素直に物語の山場を並べる予告編の方が本編より遙かにできがよい。

興味深い記事がある。「文藝」2004年春号(2004年2月)は行定勲監督の特集を組む。この雑誌の巻頭に行定のロングインタビューが掲載されている。まもなく「きょうのできごと」と「世界の中心で、愛をさけぶ」が続けて公開開始となる時期のことである。行定は言う。

『きょうのできごと』が一番ドラマがない(注:行定作品を振り返ってのこと)。でも一番やりたかったのはこういう映画だっていう感じはすごくしているんです。今のところこれが自分のベストワンだっていうことは言えると思います。多分しばらくは超えられない。

もちろん直後に公開される作品の批判などできるものではない。しかし、少なくとも行定の中で「きょうのできごと」と「世界の中心で、愛をさけぶ」の序列または愛情のかけ方に結論は出ている。私はここで行定の撮った東映の大作「GO」を思い出す。

「GO」では要するに、自分のスタンスとか自分のポジションとかはまったく何も考えなかった。ただ東映っていうプレッシャーだけ。東映が満足するものって。

このことばの「GO」を「世界の中心で、愛をさけぶ」に、「東映」を「東宝」に置き換えれば、実にうまく理解できる。それくらい「世界の中心で、愛をさけぶ」は行定作品の色から遠く異質なものである。「世界の中心で、愛をさけぶ」は行定が最もやりたくないはずの「ドラマにあふれた」物語であるのはいうまでもないだろう。行定の持ち味である日常生活のあるかなきかの微妙なうねりを掬い取るような繊細さは、この映画にはまったくない。これは純愛の名を借りたジェットコースタームービーであり、いったん乗ったが最後、涙を無理矢理流すまで止まってくれない。涙を流せない人は度し難い不快感を胸一杯に溜め込んで終わる。

アテネオリンピックが佳境を迎える頃に掲載された朝日新聞の文芸時評で、担当の島田雅彦は片山恭一(「世界の中心で、愛をさけぶ」原作者)に対して「世界を舐めきった態度に唖然とした」と言い放った。片山の何が島田の言を呼び込んだのか。9・11を迎える時期に多くの文学者が社会との関係性についての態度表明を行った。その一人に片山がいたのである。片山は、テロリズムのはびこる世界情勢をアメリカ的価値観がもたらした閉塞感、空虚感が導き出したものだとし、だからこそそういうものとは異なる生の様式=純愛を人々は求め、『世界の中心で、愛をさけぶ』がベストセラーとなったと言うのだそうだ(私はオリジナルは未見、島田の要約に仮に従う)。この「自分も改めて生と死を見つめていく」という作家は、白血病でヒロインを殺し、その死を見つめながら、「自分探し」をするメロドラマで巨額の富を得たのであった。どこが9・11とつながるのだ? テロリズムはメロドラマが解決するのか。片山にはぜひ「イラクの中心で、愛をさけんで」もらいたい。

監督の手を離れた作品は観客のものになっているから、最終的な評価を下すのは享受者である。その意味では「世界の中心で、愛をさけぶ」は成功した映画である。物語にすべてを預けてひたすら泣きたい人にはお勧めするが、しかし、自分の想像力と感性で対象を味わいたい人には、決して勧めない。考える余地を残した数分の予告編を私が褒める理由もおわかりいただけようというもの。なお片山恭一の原作本はまったく読みたいと思わないが、川内倫子の空の写真を使った表紙だけはほしいと思う。

いたずらに長くなった。後日、整理するかもしれません。ひとまず閉じる。

肯定派のためにファンサイト
もうひとつ。大量の感想リンクあり。Kazuakiの映画日記

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2004.12.08

幸せの敷居の高さ

ipodiPodを手に入れて、とても幸せな気分に浸っている。「たかがデジタル機器が」と侮るなかれ(そういえば、「たかが選手」は流行語大賞には選ばれなかったなぁ)。CDを棚ごと何百枚も持ち歩ける愉悦は言いようのないほどである。これまでは少し長めのオペラの全曲すら、外で聴くことがかなわなかったのだから(持ち歩けません……)。それが今や私のアリス(iPodに命名、笑)には、モーツァルトの全ピアノソナタ、全ピアノ協奏曲、グレン・グールドのすべてのバッハ演奏、村治佳織の全CDなどが吸い込まれ、まだ南極大陸ほどの広大な空き領域が残されている。おそらく溜め込んだクラシックのCD(とにかく大量)は軽々と収めてくれることだろう。どこでも自分の好きな音楽に浸れる。とにかく嬉しい。幸せ。

さて話は変わるが、私の新婚旅行の行き先は熱海だった。十数年前のことである。かつては熱海といえば、新婚旅行のメッカとして賑わっていた頃があったと思うのだが、当然、そんな時代のことは知らない。ではなぜそんなところにわざわざ行ったのか。

  おもしろそうだから。

これ以外に理由はない。人から「どこに新婚旅行に行ったの?」と聞かれて、「熱海」と答えた時の相手のちょっと困ったような反応が楽しい。「なんでそんなところに」「よりによって熱海?」「他に行くところはいくらでもあるはずなのに」。人の興味なさそうなところで楽しがるのがいいのだ(と思っている)。今となっては何が何だかというあやふやな記憶しか残っていないけれど、「ほぉ」とか「へぇ」とか「うぉー」とか、とりあえず楽しんで帰ってきたのは確かである。MOA美術館の尾形光琳「紅梅白梅図」(毎年2月のみ公開)がよかったのはもちろんだが、これは「熱海の新婚旅行」というコンセプトからすると、望外の喜び、おまけのようなものである。

こういう性癖が一般的なのかどうか、自分にはよくわからないのだが、東京するめクラブ『地球のはぐれ方』(文藝春秋)には間違いなく同じ匂いを感じる。村上春樹・吉本由美・都築響一の3人が選んだのは、「ちょっと変なところ」である。すなわち名古屋・熱海(出た!!)・ハワイ・江の島・サハリン・清里。これらの地で3人が「驚天動地の発見」をしていく(ちなみに「変」という認定は彼らによるものである、念のため)。都築はあとがきでこう言う。

いちばんよく受ける質問のひとつが、「いまどこがおもしろいですか?」というやつだ。はっきり言って、こういうことを聞かれた時点で、「つまんないやつだな、こいつは」と思ってしまう。どこかへ行っておもしろがるというのは、その場に身を置けば、なにかがやってきてくれるというような受動的行為ではなくて、どうやってここをおもしろがろうかとみずから動き回る、能動的な行為なのだ。

そうなのだ。「つまらなく見える人生を、なんとかおもしろがろうとする努力」こそが大切と説く都築には、木村伊兵衛賞を受賞した『珍日本紀行』(ちくま文庫)という傑作があるが、確かにこの精神があってこそなしえた仕事であろう。だれも見向きもしないであろうゲテモノや醜悪なもの、ガイドブックには載りそうにない珍スポットばかりを集めたこの一冊、図らずも(いや、図ったのかもしれないが)現代日本の一側面をまるごと封じ込めることになったのである。そしてそうした場所を訪ね歩くことが心の底から好きである、幸せであるということがひしひしと感じられる。見習いたい。

「幸せの敷居を低くするのが、人生をハッピーに生きるコツなのかも」と『地球のはぐれ方』の最後で語る都築のことばは、少なくとも私に限っては至言と言うほかない。今やあまりにも低すぎて地べたに這い蹲るほどである。

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2004.12.05

サイレントナイトはありえない

ipod自宅で使っているiMacの内蔵80GBハードディスクがほぼ満杯になった。原因は仕事のやりすぎではなく、音楽データと写真データの増殖のためである(恥)。持っているCDやレンタルしてきたものを次々と取り込んでは、iTunesで流して喜んでいる。また写真もすべてフィルムスキャナで取り込みデジタルデータ化し溜め込んでいる。こんなことをしていては、どんなに大きなハードディスクを使っていてもお手上げである。ここ数ヶ月は新しいフィルムを読み込んでは、トコロテン式に古い写真データをCDに焼く繰り返しで、なんだか面倒なことになっていた。しかし、もうちまちまやるのは耐えられない。

そこで私は考えた(モット大事ナコトヲ考エロ……>自分)。

  1 外付け大容量ハードディスクを買って、写真データを放り出す。
  2 iPodを買って、音楽データを放り出す。

どちらが幸せになれるだろうか。それはもう断然白い箱(笑)。

実はここのところsa10kazu氏のブログで、iPodのことが話題になっていた。彼が「何を買うべきか」で迷っていらっしゃるので、思い切りiPodを勧める言説を展開していた。すると、気がついたら、自分の手元にiPodが来ることになってしまった。不思議である(笑)。どうやら自分で自分を洗脳したようである。:-P

いいのだ。とても幸せな気分になったから。まずは手持ちのクラシックから絶賛取り込み中。

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2004.12.03

デュシャンと安倍なつみ

泉英国の美術関係者を対象に行われた調査で、二十世紀で最も影響力のあった芸術作品にマルセル・デュシャンの「泉」が選出されたという。「泉」は現在、新国立国際美術館で開催中の「マルセル・デュシャンと20世紀美術」で見てきたばかりということもあり、非常に興味深く思った。何と言ってもあのピカソを押さえてのことというのが画期的だろう。既製品の便器がゲルニカに勝利したのである。

これは芸術品としての完成度というより、他への影響力という観点からのものなので、デュシャンの芸術に対する思想や姿勢そのものが評価されたとおぼしい。11月6日のエントリーに次のように書いたことを再度引用しておく。

芸術の存在を疑い、作者の存在を否定するデュシャンの作品は、引用やずらし、コピー、模倣などを駆使し、およそ独創性やプライオリティといった「旧来の価値観」からは遙かに遠いところに存在する。デュシャンによれば、既製品すら誰かがそれを指して芸術であると呼べば芸術になるのである。

便器そのものはもちろんデュシャンの創作物ではない。しかし、いったんそれが「泉(原題Fountain)」と名付けられ芸術作品として定位された瞬間に、このものはデュシャンの作品となった。引用や読み替えは盗作ではない。それは極めて高度な知的創作作業である。

そして盗作といえば、元モーニング娘。の安倍なつみの所業が話題になっている。メモしていたお気に入りの詩やフレーズを自作に盗用したという。これが発覚したことで、年末の紅白を辞退したり、来春発売予定の新作が延期になったらしい。アイドルとはいえ、一定の社会的な影響力を持つ身であるゆえ、こうした社会的な制裁を受けて然るべき行為であった。他者の知的著作物は基本的に尊重すべきである(某音楽関係団体の著作権を笠に着た悪徳商法は許し難いが)。

翻ってネットを彷徨っていると、こうした盗作紛いのサイトにしばしば行き当たる。fotologあたりでも人の写真を自分のところに平気でアップロードする輩がいるし、文章中心のサイト・ブログでも明らかに他のサイトの文章を丸ごとコピーして貼り付けているものもある。しかも出典や引用先は書かれていない(ある程度の長さをコピーしてグーグルあたりで検索すると元ネタがすぐにばれる)。これらは立派な盗用であり剽窃であり他者の権利を侵害する行為である。おそらく当人にはそれがしてはならないことだという意識がないのだろう。しかし、有名人だからダメ、一般人だから許される、ということは、決してない。

すでに社会的な制裁を受けている安倍のことはこれ以上糾弾すまい。彼女のことはそれほど嫌いではないし(爆)。いや、それはともかく、デュシャンと安倍の二人を見て、すべからく表現というものは、自分で考え、自分で構成し、自分のことばや方法で発するものであるという、当たり前のことを思い知らされたように感じる。←ありきたりなまとめで我ながらつまらない……。

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2004.12.01

手帳アナーキズム

モールスキン112月になった。いよいよ今年も残すところわずかである。来年用の手帳やカレンダーは品揃えが豊富な今が選び頃である。折しもきまたさんmi4koさんが手帳のことをエントリーに書いていて、物欲を激しく刺激された。

文章その他の情報は、直接マックで入力、編集するようになって久しいものの、手帳に何か書き付けてどうこうすることも多い。この手帳に書き付ける癖がなくなると、本当に字を書かなくなってしまうだろう。ブランドなどにはこだわりはなく、時々で気の向くままに買って使ってきた。ここ数年持ち歩いているのはもっぱら無印良品の小型リングノートである。これになんでも書き付けてきた。スケジュールはもとより思いついたことや考えたことなどをざくざくと書く。上の写真の汚い字で埋め尽くされたのがそれ。書くスペースの多い手帳がありがたい。

で、行ってきましたよ、梅田ロフトへ。ロフトにしたのは、二人とも話題にしていた、そしてmi4koさんが実際に購入した「ほぼ日手帳2005」が少しく気になったからである。通販以外では、ここでしか売っていない。

モールスキン2「ほぼ日手帳」は全色が揃っていた。さっそく品定めしたものの、どうも私にはファンシーすぎる気配濃厚(苦笑)。一日一頁とか開いたままになる製本とか、手帳の基本的な仕様は大いに気に入ったのだが……。しばらく悩みながら他の手帳を物色する。そこで見つけたのがモールスキンである。黒地の表紙に種類によって色の違う帯が掛けられている。これが実に格好いい。ダイアリー(スケジュール帳)は一日一頁でたくさん書ける上に、何より持った時の重みとか紙の質感がとてもよい。いわゆる一目惚れである。

イタリア生まれのモールスキン、何でも二百年の歴史を誇るそうである(何も知らない私)。かのゴッホやピカソ、ヘミングウェイらもこれを愛用していたと聞くと、もう形から入る私としては迷う余地なしである。2005年用ダイアリーとプレーンなノート(何でも帳)と二冊買った。他にもスケッチブックやミュージックノート(五線紙)、ジャバラアルバム(ほしい!)など豊富なラインナップを誇る。使いもしないのに全部並べてみたくなった。意味なし。

私の説明では胡散臭いとお感じの方、ぜひ公式サイトとかこんなところを御覧下さい。新しい手帳の、来るべき年を意識させる「リセット感」が心地よい。

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