堀江敏幸『熊の敷石』
本を読んでいて、読むこと自体が幸せに感じられる瞬間がある。あまりあることではない。それはたまさか訪れて、しばしその場にとどまり、気がついた時には消え去っていくような儚いものである。
堀江敏幸の文章は、繊細さに裏打ちされた勁い知性によって書かれている。
川上弘美は文庫本版『熊の敷石』の解説でこう語る。深く静かに安定した精神状態から、丁寧に選ばれたことばが紡ぎ出されていく。立ち現れる一語一語(決して難解ではない)が愛しい。喉の渇きを癒すために水を飲んだところ、水の味にだけ集中してしまい、なぜそれを飲んでいるのかという根源の理由を忘れてしまっている。この喩えはいささか観念的に過ぎる憾みは残るが、こういう感じが近いように、今は思える。
この本には表題作の他二作を収める。表題作は、フランス滞在中の主人公(翻訳などの執筆活動をする)が、かつてかの地で知り合ったユダヤ人の友人(カメラマン)と旧交を暖める。その数日間の出来事に連関する思索の蠢き、感情の揺らぎを描くものである。さりげなくちりばめられたメタファーは相互に引き合い、その象徴的関係性を読み解くことに心が震える。中でも表題となるフランスの寓話「熊の敷石」の意味(ここでは伏せる)を知った時、この作品の意図が奈辺にあるかが一挙に了解され、思わず膝を打った。「なんとなく」という感覚に支えられた違和感と理解。人とのつながりの根底にあるものは……。
第124回芥川賞受賞。何度も味読したい。(講談社文庫、2004年2月)
追記:そして大慌てで最新作の『雪沼とその周辺』(新潮社)も買ってきたのであった。
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コメント
>marinさん
ほとんど好き嫌いでのみ、ものを言ってますので、話半分くらいで読んでいただくのがよろしいかと(笑)。でも堀江敏幸の文章の穏やかさはじんわりと染みてくると思います。名前の件はどうぞお気になさらず。ここを御覧になっているのでご存じだと思いますが、ありがたくも自在に命名して下さる方が大勢いらっしゃるので、私自身が何者かも、少し前からわからなくなってきました :-P
投稿: morio | 2004.12.19 13:36
わぁー、よく見もせずにボタンを押してしまいました。「morioさん」と書いたつもりだったのですが...ごめんなさい。
投稿: marin | 2004.12.18 18:15
こんばんは。
また読んでみたい本が増えてしまいました。
もりおさんの書評の影響で後で読む本またはいつか読む本のリストが膨らみつつあります。実際に買ってしまったものもあるのですが、いつ読むんでしょうか...?
とにかく、今回もありがとうございました。
投稿: marin | 2004.12.18 18:13