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2004.12.19

予告編の大掃除

左のサイドバーに設置した「エントリー予告編」。自分自身の備忘録として載せているのだが、いつまで経ってもエントリーにしないものが増えてきた。特に書籍類。まるで宿便である(お下劣)。すっぱり消すのも忍びないので、まとめて放出する。いずれその気になったら、個別に書くことにします(たぶん無理、書くならさっさと書いているはず)。

久保田淳『富士山の文学』(文春新書、2004年10月)
 霊峰富士。一片の風景にとどまらないこの山が、古代から現代までの日本語文献にいかに描かれてきたのか。完璧な美として憧れ、霊的な存在として崇め奉り、精神的な支柱として仰ぎ見る。時代や思想によってその相貌を変える富士山、その享受史のありようを知ることができる。

村上征勝『シェークスピアは誰ですか』(文春新書、2004年10月)
 日本語の文章を計量分析で解き明かす。村上の「計量文献学」は、文章の数量的な分析から著者や作品の真贋を割り出すことを試みようとするが、「バラバラの刺身から元の魚は復元できないし、その姿も愛でられない」のではないだろうか。何より作品として読むことが後回しになっているという点にも危うさを覚える。傾向は示せても、真実は示せないと考える。

井上真琴『図書館に訊け!』(ちくま新書、2004年8月)
 何でもネットでの気楽かつ気儘な検索で事足れりとする時代に、図書館の存在意義を改めて問いかける。一種のハウツウ本ではあるが、著者の図書館と本に対する多大なる愛情を感じて好ましい。近所の優しい物知りの兄ちゃんが何でも教えてくれるという風情である(強引な喩え)。

五味太郎『日本語擬態語辞典』(講談社+α文庫、2004年6月)
 オノマトベ(擬音語擬態語)は、現実の世界の音や状態を、言語として用いる音によって写し取ったことばである。したがって同じ言語を使う者同士では暗黙の了解、阿吽の呼吸で理解することができるが、異国語異文化に住む者にはひどく難解なものとなる。この本は日本語のオノマトペの解説を日英両語で示し、さらに五味太郎のキュートな挿絵を添える。日本語学習者はもとより日本語話者にも発見のある書である。

阿辻哲次『部首のはなし』(中公新書、2004年7月)
 矢継ぎ早に漢字本を出す阿辻だが、どれを読んでも同じ印象がある(いきなり言い切ってしまった)。今回は部首に着目している。浅薄な雑学本よりは濃い内容なので、多少なりとも知見を深めるのに役立つ。

柴田武『ホンモノの敬語』(角川oneテーマ21、2004年5月)
 御年86歳、国語学界の重鎮が日本語を啓蒙する。敬語の使い方はもちろん難しいのだが、何よりもまず他者を尊重する気持ちと、自らの品性を大切にする心がけが重要ではないかと思う今日この頃……。それができれば敬語なんて自ずから使えるようになるように思う。敬語以外の話題も満載。

田中貴子『古典がもっと好きになる』(岩波ジュニア新書、2004年6月)
 田中貴子は物知りのわりに詰めが甘いと思う。大雑把といってもいい。ちくま新書の一冊として出ている『日本古典への招待』なども酷いものだった。少し前に紹介した小谷野敦の『評論家入門』に「たくさん本(注:一般向けの啓蒙書の類)を書いているような学者は、どうしても杜撰であることが少なくないし、時には、まともな学術論文など一本も書いていないのではないかという場合もある」というくだりがあった。静かに頷くばかりである。少なくともこれを読んで古典に関心を示す高校生はいないと思う。

島内景二『文豪の古典力』(文春新書、2002年8月)
 「遺伝子」とか「DNA」とか、およそ文系の書物とは関係なさそうなことばを持ち込むところに怪しさがあるが、近代文学者がどれくらい自国の古典文学に親しんでいたのか、それを自分の著作活動に活かしているか、ということについて述べている。「文化の継承」というのは大きな問題として忘れてはならない。しかし、それを忠実に実行していたとする明治期の人々の心を知ることで、閉塞しつつある現代文化を活性化できるとする島内の言はいかがなものか。

普段からよけいなことをおしゃべりせずに、こういうふうに短く書けばいいのだろうが、元来がしゃべりなのできっとまたエントリー候補として溜め込むことになると思う。その時はまた大掃除。

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コメント

 コメントありがとうございます。
 こんな誰が読んでいるのかわからないような場所(ここは去年の夏に更新を終えています)の、しかも2年前以上も前のわずかな記事を読んでくださり、感謝いたします。また「素人さんの感想文」に過ぎない拙文に対し、後期成績処理、入試業務や卒業論文の後始末で忙しいであろうこの時期に、ありがたい「教育的指導」までいただき、感激することしきりです。
 さて、私はかくもあやういネット上に実名やら公の立場やらを公開する蛮勇は持ち合わせておらず、残念ながらそちらのご期待には添えそうにありません。また「詰めのきいた論文で反論されたし」「できるのであれば」という刺激的なおことばにも、「論文や書評に取り上げる値打ちのある本ならばそうするかもね」とだけ申し上げておきたく存じます。せいぜいアマゾンあたりでどなたかがやっているような嫌味たっぷりのカスタマーレビューがよいところでしょうか。まぁ匿名だし、これ以上はやめておくことにします。こんなところで挑発し合っても建設的ではないですから。
 もっともまったく批判の論拠をあげないのも卑怯なので、一つだけ。御著21頁。源氏物語と定家の関わりについて書かれたくだりがあります。
  藤原定家が行った第一の業績は、こうした『源氏』の写本をできるだけ
  たくさん集めて、紫式部の書いた本を復元しようとしたことです。
 これは事実とは異なります。定家の書写、校訂活動についてはすでに多くの研究がなされていますが、彼の第一義的な目的は原典の復元ではなかったことはすでに広く知られているところです。たとえば貫之自筆本を見ていたはずでありながら、土佐日記の大幅な改変を行ったことなどは彼の校訂方針をよくうかがわせているでしょう。したがって28頁に「藤原定家は、中世における言葉の変化を『言葉の乱れ』と感じたのでしょう、必死で平安時代の言葉を守り抜いています」というのも当たりませんね。なにせ伝聞の「なり」を「といふ」に変えているのですから。「守る」どころの騒ぎではありません。
 さて、源氏物語については、長く証本となるべきものを失っていたため、家中を挙げて書写を行ったわけですが、複数の伝本の本文からよい部分をパッチワークよろしくつないで幻の紫式部自筆本を復元しようとしたのではなく、定家の目から見て信頼できる一本に手を入れたものが現在の青表紙本系の祖となったと考えられています。田中さんのいうような校訂をしたのは河内本系を生み出した源光行・親行の方ですね。論理的に考えると、青表紙本は一つの系統をなすものではなく、河内本成立以前の別本の一つ、さらにそれは定家の見識にしたがって改変された可能性も含む本ということになります。了悟の『幻中類林』に「京極自筆の本とてこと葉もよのつねよりも枝葉をぬきたる本」とあることなども思い起こされるでしょう。
 このことについてもすでに平安文学研究者の間では周知のことになっています。詳しくは古くは池田亀鑑、山岸徳平、山脇毅、近年では阿部秋生や池田利夫、石田穣二、片桐洋一、伊井春樹、室伏信助らの研究を御覧になればよろしいかと思います、と書いたものの、博学の田中さんがご存じないはずはないとは思いますが、一応念のため。でもご存知なら「紫式部の書いた本を復元しようとした」なんて「驚くべき新説」は絶対に出てこないはずだし、まったくもって不思議です。どこにそんなことが書いてあるのでしょうか。
 校訂と関わることですが、定家仮名遣いのありようについても同様です。彼は当時のアクセントに基づく書き分けを行い、厳密な正書法ではなく同時代人にとって効率的な用字法としての仮名遣いを目指しましたが、これも奈良・平安の「オリジナル」とはほど遠い産物でした。そういえば同じ28頁に「歴史的仮名遣いを定家仮名遣いと呼ぶことがあるのはそのためです」とお書きになっていますが、いわゆる歴史的仮名遣いとは江戸時代の契沖の仮名遣いがベースになっているのではありませんか。定家仮名遣いがいきなり結びつけられるのは驚きです。日本語学の基本的文献である大野晋や築島裕、小松英雄らの仮名遣いの論考や著書はお読みではないのですね。いずれにしても定家の書写活動の「原典尊重」とはほど遠いダークな部分は、決して忘れてはならないということだけは確かです。
 以上「素人さん」の戯れ言を疑わしくお思いになるのであれば、平安文学か古代日本語が専門の大学の御同僚またはお知り合いにでもお聞き下さい。
 ともあれ、いかに中高生向きの入門書であっても、事実と違うことを固定観念や先入観で堂々とお書きになるのは許されるものではないでしょう。研究者の看板を掲げているのならなおさらです。きちんと先行研究を踏まえ、それを活かすべきです。私は、あの本を読んだ中高生が、学問の裏付けのない「奇矯なる新説」を疑いもなく信じてしまうであろう不幸(指導している学生にも同じ話をしているのでしょうか?)を、心から残念に思います。「詰めが甘い」「大雑把」と言ったのはそういうことです。

投稿: morio0101 | 2007.02.13 21:02

拙著へのご批判ありがとうございました。
しかし、『古典がもっと好きになる』はあくまで専門書ではなく、古典入門というスタイルのものですので、学術的な意味で「詰めが甘い」といわれてもどうしようもないです。それより、人を批判するのであれば、もっとちゃんとした論拠(たとえば、ここのここのところがどう甘いか)を示すべきでしょう。そうでなければ、単なる素人さんの感想文にすぎません。
ネットでは、匿名で言いたい放題ですから、こういったそれこそ「詰めの甘い」感想文がまかり通のでしょう。
これに怒りを覚えられたら、「詰め」のきいた論文で反論されたし。そのときは当然実名公表で。
できるのであれば、ですけどね。

投稿: 田中貴子 | 2007.02.11 23:04

>atcyさん
たんなる手抜きです :-P 説教臭くならないように、なんて考えていると、全然書けなくなります。あああ。いずれにしても読後にぱっと書かないと、もうだめですね。一体型マックのことは、書くと自己暗示にかかって、ポチッとする可能性が高いので、自重しています(笑)。なんだか近所でiMac G5を買ったホトロガがいるようなので、インプレなどはそちらでよろしく>某Pさん

>ふりぷれさん
「さる・るるる」、もちろん架蔵してますぞ。るるる。

>よさん
五味太郎好き、多いなぁ。問題は誰に贈るかだな :-P

投稿: morio | 2004.12.20 22:14

クリスマスシーズンってことで
五味太郎『まどから☆おくりもの』なんてどでしょ?
しかけ絵本でね、あったかいよ。

投稿: yo | 2004.12.20 21:02

一言だけ…
マイベスト五味太郎は、やっぱり「さる・るるる」です。
(最近のはあまり読んでませんが…)

投稿: freeplay | 2004.12.20 19:22

こういうダイジェストもよろしいな。どれもこれもここで見るまで縁のない本ばかりだから、余計に取っつきやすく感じます。
「一体型マックへの愛」を長い間待ってるのですが。。

投稿: atcy | 2004.12.19 22:35

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