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2005.01.31

MASK DE 41

最近はPRIDEやK1などの「一見本気風総合格闘技」が大人気で、定期的に開催される大会は必ずテレビで放映されているし、大晦日にいたっては紅白歌合戦の存在を脅かすほどにまでなっている。一方で昔ながらのプロレスはといえば、どうも調子が思わしくなく、老舗の新日本プロレスをはじめとして、ほとんどの団体がアングラ的な存在に堕ちてしまったようである。少なくとも昔からのプロレスファンである私にはそう思えてならない。スポーツとして結果が報じられないのは、プロレスもPRIDEもK1もみな一緒で、結局は同じ穴の狢であることが透けて見えているのだがなぁ。

ゴールデンタイムに猪木や馬場が吠えていた頃と比べると、ずいぶん風向きが悪くなってしまったものだ。なんとも大仰で時代錯誤を思わせる結構は、あたかも地球環境の動向に対応できずに絶滅した恐竜を見ているかのごとくである。もっともそんなプロレスが大好きで、私としては離れることができないのだけれど。プロレスは格闘技ではなく、鍛え上げた肉体(中にはまったく鍛えていないレスラーもいるが)を使った総合舞台演劇なのである。いつも同じ人が勝つのは、俳優の格で配役が決まってくる劇団と同じである。八百長ではなくあくまでも演出。必要なのは真の強さではなく、強いと思わせる演技力。還暦を過ぎたジャイアント馬場は、死ぬまで引退しなかったもんなぁ。ほとんど無形文化財、人間国宝ものである。

41歳の厄年を迎えた倉持忠男(田口トモロヲ)は、会社から突然のリストラ宣告を受ける。妻の恭子(筒井真理子)は家庭よりフラワーアレンジメントに入れ上げているし、二人の娘、春子(伊藤歩)とハルカ(蒼井優)もそれぞれの遊びに夢中になっている。この家庭崩壊の危機に忠男のできることは何もなかった。ただ一つ、若い頃から情熱を傾けてきたプロレスを除いては。忠男はプロレスファンが夜な夜な集まるカフェの仲間とともに、退職金を元手に夢だったプロレス団体を立ち上げることを決意した。プロレスへの情熱と家族への愛を武器に、ついに彼はリングに立った。忠男の第二の人生の首尾はいかに……。

「気合いだぁ〜」のアニマル浜口に弟子入りし、この映画のために肉体改造を施した田口の熱演がすべてである。確かにプロレスラーにしては貧弱だが、ありえないほどの貧しさではないところに感心した。そこをクリアすれば、あとは演技力だけである。上にも述べたようにプロレスラーに必要なのは真の強さではなく、強いと思わせる演技力である。田口の演技力に問題のあろうはずはない(もっともここでは強さは必要なかった)。中年の悲哀と孤独と現実を見事にプロレスの中に昇華していた。結末部分の「祝福されないロッキー状態」は笑うしかなかったけれど。脇役陣も妙に豪華で松尾スズキや小日向文世、片桐仁らが思い入れたっぷりに怪演している。惜しむらくは個々の場面の描き込みが今ひとつ(説明不足でわかりにくい箇所多々)で、主筋への求心力を欠いて上滑りしているように思われた。もっとも基本的にノリ重視のホームコメディである。明るい未来を想起させる結末に救われるだろうし、この映画はそれで必要十分だと思う。

MASK DE 41」は四年前に撮影完了していたものである。諸般の事情で公開が2004年まで遅れたとのこと。撮影に協力したプロレス団体のFMWはとうに崩壊してなくなってしまった。俳優として登場した冬木弘道は先年亡くなり、田口の相手役を演じたハヤブサは試合中の事故で半身不随となっている……。ああぁ、やはり現実はプロレスよりもはるかに過酷と言うべきか。

MASK DE 41の公式サイト

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2005.01.27

まとめて出して、雑然

suzu今日は小ネタ集。

■その1 なんで二人以上やねん!

いい値すごい値 JR西日本パス」というのを知った。三日間、JR西日本の列車がすべて乗り放題。新幹線まで乗り放題。それで料金は1万6千円ぽっきりである。「これはどこかに行くしかない!」と鼻息を荒くして説明文を読んでいたら、「二名以上が同一行程に限りお求めいただけるきっぷです」だって。一人旅禁止。

■その2 参加しなくちゃ

ポストカードプロジェクト3が始まった。ボトルメールのように、自分の作った絵はがきが見知らぬ誰か(いや、よく知っているあの人かもしれないけれど、汗)に届く。自分のところにも見知らぬ誰か(いや、よく知っている……以下略、笑)から絵はがきが届く。参加しなくちゃ。

■その3 安い、懐かしい

あんなCDやこんなCDが600円とか800円とか。廃盤CD大ディスカウントフェアというのが開催中である。割高に感じられる日本のCD市場ゆえ、いつもやっていてほしいと思うのは私だけだろうか。散財注意。

■その4 行けるかどうか、微妙な時期だが走りたい

毎年、指を加えて見送っている浜名湖サイクルツーリングが今年も開催される。走ってみたいなぁ。でも3月20日はちょっときついかも……。

■その5 わちゃ〜

毎週おもしろそうなブログを紹介する「週刊粋人観察」。いろいろな意味で社会勉強になる。そこで紹介されていた「こんなブログは更新するな」は身に覚えのあることも多々あり、つい「もっといじめて」とMっ気が刺激されるような気がしないでもない(笑)。

■その6 楽しみ楽しみ

モノクロのマックをカラーに買い換える人が続出したという伝説のキラーソフト「アクア・ゾーン」が、マッキントッシュに帰ってくる。これを楽しみと言わずして何と言おう。

本日の写真。仕事の調子が上がってきたら、どこからともなく現れて邪魔をしようとする不逞の輩。

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2005.01.26

銀のエンゼル

子供の頃、森永チョコボールの懸賞であるオモチャの缶詰を手にしたことがある。地道に銀のエンゼルを五枚集めてもらったのであった。思えば、金のエンゼルは多大なる幸運によってもたらされる宝くじ的な性格が強く、基本的にはあちら任せの遠い存在である。しかし、銀のエンゼルは5枚を集めきるという意志や根気こそがまずは必要であって、しかもその間、目標(大袈裟)に向かって楽しんだり気持ちを高めたり興奮したりなどというすばらしさがある。もちろん集めきれないまま終わることもままあるだろうが、それもまた一興である。そんな銀のエンゼルを題材にした物語。

まもなくすべてを覆い尽くす雪が降り始めようとする北海道斜里町。この町の国道沿いのとあるコンビニエンスストアは、店長の佐和子(浅田美代子)が日夜元気に切り盛りしている。佐和子の夫でコンビニオーナーの昇一(小日向文世)は、店を彼女に任せきりにして気儘な生活を送っていた。ところが、娘の由希(佐藤めぐみ)の懇談にでかけようとした佐和子が交通事故を起こし、長期入院することになってしまった。やむなく昇一が代わりを務めることになったのだが、勝手がわからず、自信もなく、右往左往するばかりである。さらに図らずも二人暮らしとなってしまった娘とも、最近はまったく向き合おうともしなかったツケが巡ってきて、険悪な雰囲気だけが漂う始末である。娘は娘で父親に東京への進学のことが打ち明けられず、またコンビニに集まってくる客の多くも、今の生活から先への一歩が踏み出せずにいる。人生の転換期を迎えた彼らはどのようにして自分の「銀のエンゼル」を集められるのだろうか。

「運良くひとつ当たりが出ても5枚そろえるのは至難のワザ。それはまるで手に届きそうで届かない夢や幸せのよう……」とキャッチコピーが語るように、映画「銀のエンゼル」は、チョコレート菓子のクジの本質または存在意義を人の生き方のメタファーとして提示し、様々な人間模様とドラマに仕立て上げて描き出す。舞台は不特定多数の人生が交錯する現代の社交場ともいうべきコンビニエンスストア。ここには現状に甘んじて動かない人や目の前の問題から逃げてばかりいる人、さらには自分の生きる道の選択を人任せにしてしまうような人々が、次から次に現れては消えていく。コンビニは、刹那的な彼らを「銀のエンゼル」に結びつけ、「5枚集めきる(新しい幸をつかむ)」という明日への意志と行動力を促していく。そしてたとえ結果が悪くても、自分の選んだ道なら後悔はないとする。テーマとしてはいささかストレートすぎる嫌いもないではないが、幸せなメルヘンの気配が濃厚なこの物語にはそれが似合っていると思う。舞台を雑駁な都会のコンビニではなく、余計なものを雪が隠す北海道にしたことも、それに連動しているとおぼしい。鈴井貴之監督の演出意図を慮るべきところであろう。

穏やかな小日向文世の父親像が秀逸である。反発する娘、佐藤めぐみとのやり取りに痛いものを感じる人も多いかもしれない。エンディングでの涙には思わず……。また浅田美代子の母親もよい。いい歳の取り方をして、味わいのある俳優になっている。

子供の私が銀のエンゼルを五枚集められたのは単に欲深かっただけであるが、それにしてもあのオモチャの缶詰にはいったい何が入っていたのだろう。今となってはちっとも思い出せない。遠いと思っていたものが現実になった瞬間、夢は色褪せていくということか。パンフレット、1000円は高すぎ。シネ・リーブル梅田で鑑賞。

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2005.01.23

麻生久美子『いろいろないろ』

書名につく「いろいろ」を新しい『新明解国語辞典 第六版』(三省堂、2005年1月)で引いてみた。

〔もと、この色やあの色やというように違った色が数多く有る意〕そのものの状態・性質が一通りでなかったり関係するところが多面にわたっていたりあれこれと方法を尽くしていたりすること(様子)。

とあって、これ自体は特にどうということもない。しかし、「新解さん」の本領発揮はここからで、「いろいろ」を使った用例文が奮っている。

世間はいろいろだ〔=やさしい、親切な人も居れば、だましてばかりいる悪い人も居る。人の心はさまざまで、一概には言えないものだ〕

asoそもそも「いろいろ」の用例としてこの文章を取り上げる理由がわからないし、なぜここまで詳細な解説を加えてしまうのか。「新解さん」はよほど生きることに苦労しているのかもしれない。この他を顧みない暴走こそが「新解さん」の真骨頂なのである。「公約」の語釈ではつい「実行を伴わないことも多い」と漏らしてみたり、「白桃」を「果汁が多く、おいしい」と満足そうに言い、深海魚である「あこう鯛」にいたっては「顔はいかついが、味はよい」と自身の好みを強烈にプッシュする。この辞書に客観的記述を求めてはいけない。読んで笑って、ついでに語の意味や使い方(かなり偏っているけれど)も知るというのがよいと思う。もっとこの辞書について知りたい方は、以下の二つのサイトまたは赤瀬川原平『新解さんの謎』(文春文庫)を御覧いただきたい。

新明解国語辞典を読む
WEB新解さん新聞

表題の本『いろいろないろ』は映画俳優麻生久美子の初エッセイ集である。これまで知りえなかった幼少期からのエピソードが自身(?)によって明かされている。麻生ファンにはお勧めするけれど、それ以外の人には無縁の本だろう。またこの本には蜷川実花が撮影したポートレイトが大量に収められている。わざわざ屋久島まででかけて撮影したそうだが、あまり必然性は感じられない。でもいいのだ。重度の麻生ファンだから。ニナミカの色が好きだから。好きに理由はない。まさに「世間はいろいろ」なのである。「だます人」がいる一方、「自らだまされる(だまされたい)人」もいるのだ。(幻冬舎、2004年12月)

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2005.01.22

名取洋之助『写真の読みかた』

写真は必ずしも真実を伝えるとは限らない。「真を写す」という名を持つメディアは、使い方次第で実にたやすく多くの人々を欺くことができる。前後の文脈から切り離した写真に新たな物語を付与することで、意図的に驚くべき新事実を捏造することが可能なのであった。日常にあふれかえる「嘘」や「やらせ」の片棒を担ぐ写真を、我々はどのように読み解けばよいのだろうか。

2002年にちくま文庫から出た新藤健一の『崩壊する映像神話』は、こうした写真や映像の持つ「魔力」について検証した書であった。誰もが知っているような事件を取り上げ、それを伝える写真と映像がどのように使われていたのか、具体的に考察がなされている。一人歩きするほどに写真に力を与えてしまった人間は、それによって自らが欺かれるという愚かな無限ループに落ち込んでいる。

魔術的な写真の持つ力を理解した上で、それらをいかに読むかということを論じた書が、名取洋之助の『写真の読みかた』である。初版が出たのが1963年でもう40年も前になる。長く絶版になっていた名著が昨秋リクエストで復刊された。もっとも岩波のリクエスト復刊は文庫も新書も足が速いので、もしかするともう店頭にはないかもしれない。見かけることがあったら、好著ゆえ、手に入れることをお勧めしたい。私もかつて読んで書架に収めたはずなのに、ついぞ見当たらないので、この度のものを買い込んだ。

圧巻は第1章「写真の読みかた」と第3章「二つの実例」である。前者は「写真は正確か」「写真の嘘と真実」「記号としての写真」など、上に書いたような問題点について説き明かし、後者では組写真の基礎的な技術を解説した後、写真の組み方(順・レイアウト・キャプションなど)によって伝えられる事実の相貌がまるで変わってしまう「トリック」を披露する。写真の虚実や文字と写真の関係、そして組写真のもたらす新たな物語の妙。写真を読むことを意識し始めると、今度は撮ることや見せることにも意識的になるのは必定であろう。ここに説かれた優れて汎用性を持つ「写真の享受方法」は、世紀を超えても決して古びることはないと思う。(岩波新書、1963年11月)

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2005.01.19

ミスティック・リバー

ショーン・ペンの前作「アイ・アム・サム」が好きで、この「ミスティック・リバー」も観たいという気持ちはあったのだが、いかんせん暴力や死が苦手で敬遠したままだった。評判の良さに背中を押され、ようやく見た。

貧しい労働者たちの住むボストンのイーストバッキンガム地区の路上で、ジミー、ショーン、デイブの3人の少年がホッケーに興じていた。その時事件が起こる。警官を装った二人組がデイブを誘拐したのである。デイブは男たちから性的虐待を受けたのち、自力で脱出を図る。しかし、彼ら3人の中の何かが確実に損なわれてしまった。それから25年後、同じ街で雑貨店を営むジミー(ショーン・ペン)の娘が何者かに惨殺された。事件を担当する刑事は、かつての親友ショーン(ケビン・ベーコン)である。やがて捜査の先に一人の容疑者が浮かび上がった。あのデイブ(ティム・ロビンス)だった……。

謎解きのおもしろさやスリリングな展開は、ミステリーとして第一級の質を誇るであろう。加えて、単にストーリーを追うだけに終わらず、悲劇の淵に投げ込まれた人間の感情を丁寧に描くことに力を注いでいる。その重みたるや、生中なものではない。事件の真相は唯一無二であるが、それを解釈する人間の立場によって、まったく異なる相貌を持つリアルな現実として生成される。人間の愚かさ、弱さ、不完全さはもとより、愛の深さや善意までもが事態を悪化させることはままある。この映画では、生憎な悲劇の原因をそうした個々の感情の揺蕩いと複雑な錯綜に求め、過去の誘拐事件と現在の殺人事件に翻弄される人々の姿を冷徹に映し出そうとしている。

主演の3人はもちろん、脇を固める俳優陣も水際立った演技を見せる。監督はクリント・イーストウッド。音楽も手がける。全編がボストンで撮影された。それが一層の生々しさを生むことになったとは、ティム・ロビンスのことばである。

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2005.01.17

『安井仲治写真集』

写真評論家の飯沢耕太郎は私のピンホール写真を見てこう言った。

テーマとアイディアはよいが、写真はおもしろくない。ピンホール写真は変化に乏しくて飽きる。

なぜ私ごとき者の写真を日本を代表する写真評論家が見たのかということについてはおいおい明らかにすることにして、閑人の暇つぶしの趣味とはいえ、考えさせられることの多いご託宣であった。ああ、退屈な私の写真たち……。

ゴミ箱 ヒルトン 自転車 ボウリング 【退屈な写真たち】

その飯沢耕太郎が「不世出の天才」と呼ぶ写真家がいる。安井仲治である。「美術手帖」2004年12月号は「日本写真史がわかる!」という特集を組み、20世紀初頭から21世紀までの日本を代表する写真家の仕事を一挙に展望する。近年の作家ばかりが注目される中、こうして忘れられがちな歴史を辿るという姿勢は、今と将来を知るために必要不可欠なものである(ちなみに飯沢は昨年9月に『世界写真史』(美術出版社)という書も刊行している。これもまた興味深いものである)。

イントロダクションに続く全5章のうち、第2章と第4章が飯沢の担当になる。その第2章「安井仲治と『新興写真』の時代」において、安井の作品には当時の「写真表現の可能性のすべてが最大限の幅で含まれて」おり、彼の仕事は日本写真史という枠を軽々と飛び越え、同時代の世界の巨匠たちと比較しても決して遜色ないものであると言い切った。まずはこれ以上ないというほどの評価であろう。その圧倒的な凄みは、土門拳の「どうしてぼくにはこんな写真が撮れないのかと、口惜しかった」という言や、森山大道に「安井仲治とは、写真そのものなのです」と言わしめたところからもうかがいしれる。

1930年代、主に関西において展開した実験的先鋭的な写真表現を総称して「新興写真」と呼んだ。その只中に置かれる安井は、被写体の選択や写真表現の技術、作風において傑出した存在であったらしい。しかし、戦前戦中という混乱期でもあり、また安井自身が38歳という若さでこの世を去ったことなどから、彼の写真の全貌を掴むことは難しかった。それが安井生誕100年となる2004年秋の写真展に合わせて、ついにこの天才の偉業を網羅する写真集が刊行された。慶事である。生々しいモノクロ写真の迫力や、実験的とされる表現の数々は、どれも目を悦ばせ見飽きることがない。ここには時代の制約を易々と打ち破った者だけが持ち得る特別な普遍性が広がっている。

充実した内容と立派な装丁を持つこの写真集は、先の展覧会に合わせて刊行されたものであり、おそらく限定販売となろう。広く勧めたい。(共同通信社、2004年11月、4571円)

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2005.01.15

堀江敏幸『雪沼とその周辺』

「あのころの未来にぼくらは立っているのかな」(夜空ノムコウ)と歌ったのはSMAPだった。SMAPの曲では押しつけがましさが癇に障る「世界に一つだけの花」よりもこの曲の方が断然好きである。中でもこの一節が心に染みることが多くて、時折聴き返してはしみじみとしている。作詞はスガシカオ。

先に紹介した『熊の敷石』がとてもよかったので、すぐに最新作(といっても刊行されて1年ほど経つ)である『雪沼とその周辺』を買い求めた。七編を収めた短編集である。相互にあからさまなつながりは持たないが、いずれも雪沼近辺に住む人々を描くものである。中心に置かれるのは人生の夕暮れを迎えた人、もしくは迎えようとしてる人たちである。

物語の人々は今の自分の姿やこれまでやってきたことにとまどいや不安を覚える。本当にこの立ち位置でよかったのだろうか。もはやどこへも引き返すことができない時点で、自らの人生を振り返る人々。しかし、そこに後悔の念はなく、静かにこれまでの自分の生や関わりを持った人を回顧するだけである。その姿が穏やかかつ滋味豊かな文章で美しく象られる。ここまではこうだった、でもやはりこの先もこう生きるしかない。絶望ではなく希望を感じさせるところに救われる。閉鎖される古いボーリング場の老主人を語る「スタンス・ドット」が特に気に入った。

「すべてが思うほどうまくはいかないみたいだ」(夜空ノムコウ)

こうは確かに思うものの、人生はなかなか捨てたものではない。

『雪沼とその周辺』は昨年末に店頭に並んでいた読書雑誌「ダ・ヴィンチ」2005年1月号で、2004年推薦書の第1位にもなっていた。谷崎潤一郎賞・川端康成文学賞・木山捷平文学賞の各賞を受けている。(新潮社、2003年11月)

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2005.01.13

ネットはカラオケ

承前(「日記とかエッセイとかブログとか」)。

森博嗣の浮遊研究室」のトップページに、インターネットは「カラオケと同じで、今にみんなが発信し、そして誰も受信しなくなる」という指摘がある。誰でも気軽に意見や立場を表明することができるものの、それが確かに他者に届いているかどうかは保証の限りではない。

その意見が他者に影響力を持つかどうか、あるいは読んでもらえるかどうかさえ、わかりません。意見というのは、鋭いか、正しいか、珍しいか、ではなく、あくまでも、その意見を発している人間が何者なのか、によって影響力が決まるからです。(中略)人は、得体の知れない人間の話には耳を傾けない、という共通傾向を持っているわけです。インターネットの匿名性が持っている最大のジレンマがここにあるでしょう。

ここで森の言うことに全面的に賛同するわけではないが、さりとて積極的に否定する気分にもならない。それは自分の中にも思い当たる節がないわけではないからである。先のエントリーにも書いたように、知らない人のものはよほどのことがない限り読まないのは確かなのだ。それはどこかの飲み屋で知らない人のがなり立てる歌を聴かないのと同じこと。手前の素性を隠しながら読んでもらうためには、圧倒的な知識や技術を見せるとか、積極的に各方面を巡回するとか、アクセス数を誇るとか、メジャーな媒体で取り上げられるとか、とにかく何らかの方途で「仮面を被った私の信頼度」を高めるしかない。

自分のための備忘録、もしくは記録と割り切ることで、この森の批判を回避することはできようが、「インターネット=カラオケ説」を無効化するまでには至らない。求道的に歌唱力(表現力)の向上を第一の目的としようとも、歌う(出す)以上はそれを誰かに聞かせたい(読ませたい)という色気を感じるからである。真に人に訴えかける気がないのであれば、ノートかパソコンに秘匿しておけばよいのである。

今のところ、自分の素性を曝す危険を冒したくない私としては、相互に敬意を示し合える節度ある人間関係を築くために、せいぜい森の言う「仮想の人物像」を磨くことくらいしかできない。もっともこの場で絶大なる影響力を発揮してやろうなどという野望はまったくない。ただ自分の感じたこと、考えたこと、調べたことを、自分自身の言葉で表現しよう、そして歌いっぱなしでなく、知っている人やすばらしいと思える人には、拍手(コメントを返す)をし続けようと思うばかりである。

昼行灯で寝言を言い続けるのも、それはそれでおもしろいのだけれどね。

付記:「日記とかエッセイとかブログとか」のエントリーを読んで下さったMuさんからメールが届き、その中で「森博嗣の浮遊研究室」のことを教えていただいた。記して感謝申し上げる。

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2005.01.10

リアリズムの宿

山下敦弘監督の「ばかのハコ船」。タイトルからして強烈な吸引力を持つこの映画、上映時に見逃し、レンタル店には並ばず、挙げ句の果てにCS放映時でも録り損ねるという憂き目を見た。見たいのは憂き目ではなく映画なのに。

何となく負けたままDVDを買うのも癪だと思っていたところ、山下監督の新作「リアリズムの宿」がタワーレコードに並んでいるではないか。そういえば、これまた劇場で見逃していたのであった。昨年末に発表された「朝日ベストテン映画祭」でも堂々の日本映画第9位にランキングされている。迷いなく手に取った。「ばかのハコ船」は悔しいからそのままである。いずれ見る機会もあるだろう。

顔見知りではあるが、さほど親しくない二人の男、木下(山本浩司)と坪井(長塚圭史)が、共通の友人である船井(山本剛史)に誘われて、山陰を旅行することになった。ところが、待ち合わせ場所に船木が現れない。二人は落ち着きの悪いぎこちなさを感じながら、仕方なく貧乏旅行をすることになった。日本海を眺めている時、そこに半裸の若い女、敦子(尾野真千子)が現れた。真冬の海で泳いでいる最中に服も荷物も流されたという。ここからなんとなく三人の旅が始まるのであった……。

つげ義春の漫画(「リアリズムの宿」「会津の釣り宿」)を原作とするものの、これを忠実に映画化したのではなく、ちょっとしたエピソードとしてそこここに盛り込む形にアレンジしている。言わば、つげワールドのエッセンスを調味料として使っている。ただつげの漫画を読んだことがない私には、どこまで有効に機能しているのか、判断することができない。通奏低音のように映画全編に流れ続けるほの暗いトーンが、つげ漫画から来たものだとしたら、うまく生かしていると思う。映画自体は一種のロードムービーである。あまり親しくない人間が集まった時の妙な間の悪さがおもしろい。こういう感覚は日常生活の中にも確かにある。二人だと煮詰まるところ、そこにもう一人、しかも女性が加わることでドラマとしてきちんと転がっている。劇的なことは何も起こらないけれど、微妙な起伏を味わいたい向きの期待には十分応えてくれる。

最後に一言、付け加えておこう。公式サイトの著名人コメントは、私のために用意されたのかと勘違いしそうになった。蒼井優と麻生久美子が褒めているから、この映画はよい映画だと思います(謎)。

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2005.01.09

日記とかエッセイとかブログとか

人の日記やエッセイを読むというのはどういう心持ちがさせるのだろうか。

インターネットが特殊な環境でなくなり、情報を受けるだけでなく発信する人が爆発的に増えた。各自の興味・関心・専門に基づいた特殊な知識を開陳するものが、かつての「ホームページ時代」には多かった(もちろん今も多い)。それがここのところのブログ人気で、いわゆる日記やエッセイのようなものが格段に増えたように思う。もちろん以前からホームページに付随する形で日々の出来事を記すところもあったけれど、今のブログベースの日記・エッセイの隆盛とは比ぶべくもない。

ただあまたの日記やエッセイが公開されていても、続けて読みたいものはさほど多くない。基本的には本人を知っているとか、趣味が同じだとか、話が合うとか、何か特別な理由がないと読み続けられない(知り合いに機知や諧謔、教養に溢れた人が多いのは幸運である)。まれに書いている人についてまるで知らないのだけれど、文章がすばらしいので読みたいというところもあるが、こういうものにはなかなか行き当たらない。どこかのビールではないけれど、キレとかコクを感じさせてほしいと、自戒の念も込めて言ってみる。

著名な人物のサイトに公開される日記やエッセーは、「生身のあの人」を知ることができるというミーハー精神を満足させてくれるありがたさゆえに、ついつい毎日アクセスしてしまうのであった。たとえばよしもとばななの日記は、取り上げる話題がそこらへんのおばちゃん風情でとてもおもしろい。まめに更新されるし、文章が長いのも読み応えがある。まめといえば町田康もそうだが、こちらはキーワードの羅列といった趣で、やはり個性が出るものだなと思わされる。写真家だったら、蜷川実花川内倫子らの日記をよく読みにいく。芸能人では眞鍋かをりがアイドルらしからぬ放言、暴言で楽しませてくれる。

さて、よしもとばななはサイト上の日記を、定期的に本にして出している。商売としては一粒で二度おいしい。すでに新潮文庫から五冊が出ている。私は四冊目の『こんにちわ! 赤ちゃん』(新潮文庫、2004年7月)を買った。ここにはよしもとの出産体験記が記されているということと、書名の「こんにちわ」が日本語の誤用例として貴重だと思ったからである。文章自体はサイトで読んでいたから、いまさらどうもこうもない。

#日本語の誤用といえば、近時、北原保雄編『問題な日本語』(大修館書店、2004年12月)という本が出た。これについてはまた別に書くかもしれないけれど、ひとまず紹介だけしておく(言いたいことがいろいろ)。「最近の若いやつは」とつい言ってしまいそうになるあなた、ご一読を。

ネットにブログやサイトを持っていない人たちの日記やエッセーは本で読むことになる。もちろんそういう味わいも大好きだ(寝転がって読めるしね)。川上弘美『ゆっくりさよならをとなえる』(新潮文庫、2004年12月)には、小説と同じ匂いの川上弘美的空気感が充たされていた。心地よかった。書き起こしの一文がうまいなと思わされる。川上弘美といえば、「ほぼ日刊イトイ新聞」での糸井重里との対談も、二人の組み合わせが意外な感じがしておもしろかったなぁ。

いたずらに長いだけで、ひねりもオチもないまま終了……。

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2005.01.06

スーパーサイズ・ミー

ここ5年くらいだろうか、ファーストフード店の物が食べられなくなってきた。無理に食べると、気持ちが悪くなるのである。自分の年齢を意識する瞬間である。とほほ。

植島啓司『快楽は悪か』(1996年、朝日新聞社)は「われわれをこれまで律してきた倫理・道徳に対して、徹底的に批判を加えなければならない」という立場から、世に行われている「偽善」を暴き糾弾するという、ある意味ではインモラルな放言に満ちた刺激的な書であった。要するに「そんなことしちゃいけませんよ」という常識的な忠告やお節介に対して、「うるせぃ! 何寝ぼけたこと言ってやがる!」と反駁するものである。刊行当時は結構話題になっていたし、植島の勤める大学にも苦情が寄せられていたらしい(あんなのがいるところには子供はやれない云々……、やれやれ)。

「他人に迷惑をかけさえしなければ何をしようが個人の自由だ。ヒステリックに批判するほうが間違っている。タバコ、酒、ギャンブル、セックス、自動車のどれにしてもそうだが、個人の嗜好は、だれによっても管理されるべきではないのである」と語る植島は、30代になって強度のハンバーガー信徒となった。何でも年間200食を食べていたとのこと。「正しい食生活」や「健康ブーム」を憎む彼はまた味の素も肌身離さない。個人的な快楽の前にはどんな説法も通じないし、それはそれで確かにとやかく言うものではない。しかし、こういう嗜好が社会の枠組みと衝突を始めたらどうなるのか。

もはや旧聞に属するが、アメリカで「毎日マクドナルドを食べ続けたから肥満になってしまった」と訴訟を起こした少女がいた。当人が好きなハンバーガーを毎日食べて太っていくことには何の問題もない。しかし、「マクドナルドがあるから、私は太ったのだ」となると、話は難しくなってくる。選択肢として「自ら食べない」というものがある以上、相手に全責任を負わせることは不可能だろう。受動喫煙の害とは違う。せいぜい食べたものと自らの肉体、精神の変化の因果関係をできるだけ科学的に証明するのが関の山である。

モーガン・スパーロック監督は自らの肉体を実験台として、この偉業(?)に挑戦した。「スーパーサイズ・ミー」は一ヶ月間毎日三食マクドナルド製品を食べ続けると、いったい人はどうなるかを検証しようとした映画である。ただしこれをノンフィクションの社会派ドキュメンタリーとして捉えるのは無理がある。あくまでもフィクションを排した脚色付きのエンターテイメント作品である。肉体や精神の変化という現象面での実験結果はおおむね予想の範囲だが(性生活へのあけすけなコメントを出す監督の彼女には笑わされた)、その先に透けて見える部分、すなわちジャンクフードがはびこる食生活の抱える根本的な問題がたいそう恐ろしく感じられた。政治や経済と絡むと、人間はどんなえげつないことでもやるのだ。子供の給食がオレンジジュースとチョコバーと冷凍フライドポテトとは……。

なお同じくエンターテイメント的ドキュメンタリーを得意とするマイケル・ムーアの新作のターゲットは製薬業界らしい。これまた切ればどす黒い血だの膿だのが吹き出しそうな対象である。日本にはこういう分野に挑戦する人はいないのかしら。ガーデンシネマ梅田で鑑賞。

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2005.01.05

アイーダ(劇団四季)

aida & lamy何かと慌ただしい年の瀬。梅田に出たついでにいくつかの買い物をする。阪神百貨店の文具売り場で、気軽に使える万年筆がほしくて、ラミーサファリを買った。カラフルなバリエーションの中から赤を選んだ。黒いモールスキン手帳にもよく似合いそうである。

その後、見よう見ようと思っていた劇団四季の「アイーダ」に行く。すでに1年を超えるロングランとなり、2月末をもって千秋楽を迎える。買い物でいっぱいにふくれたディパックを背に、梅田から大阪ビジネスパークまでBD-1を飛ばしていく。

「アイーダ」とくればヴェルディの同名オペラを思い出す。しかし、このミュージカルは同じ題材を扱うものの、音楽はエルトン・ジョン(曲)とティム・ライス(詞)の手になる完全な別仕立ての作品である。ライス自身はこの仕事をするまで「アイーダ」のストーリーも知らなかったという。そのライスの言葉を借りると、「ヴェルディの『アイーダ』から音楽だけ捨てて他のすべてを残しておいた」とのこと。ただそうはいうものの、そこはディズニー、必ずハッピーエンドで締めくくるという伝統はしっかり生きている。オリジナルの悲恋物語を悲劇的結末で易々と終わらせはしない。古代エジプトの物語を現代劇でサンドイッチにし、幸せな物語に変換してしまった。善し悪しの問題ではない。制作者、演出者の思想のありようとして、これもまた「アイーダ」の一つの形として認めるべきであろう。

転じて劇団四季のミュージカルとして見た場合、どうだろうか。「キャッツ」や「ライオンキング」などに比べて、激しい動きや群舞が少ないため、朗々と歌い上げる演歌歌手の大歌謡ショー(見たことはないけれど)のごとき印象を受けた。とにかく声が圧倒的である(濱田めぐみ、壮絶!)。声の存在感、力というものを、生々しく感じることができた。肉体そのものといってもよい声は、見るもののプリミティブな感覚に訴えかけてくる。優れて抽象化された舞台セットや衣装、シンボリックな色彩の使用などとも相まって、シンプルな表現方法がかえって骨太な力強さを現出させる。

悲恋ものを強引にハッピーエンドにしてしまうディズニー的手法に異論を持つ向きもあろうが、これはこれで楽しめた。なお物語が転がり始めるまでの第一部前半、やや退屈を覚え、夢の彼方に旅立っていたことは、小さな声で付け加えておくことにする。あとは泣く人がやっぱり多い……。大阪MBS劇場で鑑賞。2005年2月20日千秋楽。

【当日の主要キャスト】
アイーダ:濱田めぐみ・ラダメス:福井晶一・アムネリス:森川美穂
メレブ:有賀光一・ゾーザー:大塚俊・アモナスロ:石原義文
ファラオ:岩下 浩・ネヘブカ:井上麻美

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2005.01.03

MT奮戦記

小錦か曙(@総合格闘技六連敗中)クラスの重さだったジュゲムから脱出し、新しい「オオサカハリアナツウシン」を立ち上げようとした。移転先として無料レンタルブログをいくつか試してみたのだが、いまいち乗り切れなかった。

昨年の2月からロリポップでサーバーをレンタルしている。そこにMovableType(以下MT)をインストールし、「photo1/365」を立ち上げていた。今回はそれも統合する形で新たに「オオサカハリアナツウシン」を構築する。「photo1/365」を作った時は、スタイルシートもMTもよくわかっていなかった(今もよくわかっていない)。それで余所をぐるりと見回して、HINAGATAというところからテンプレートを取ってきて、そのまま利用していた。実は今回もHINAGATAのテンプレートやスタイルシートを使うつもりで手を入れていた。ところが、私の知識と技術と経験のなさから、わけのわからないことが続出し、すっかり嫌になってしまったのだった。試行錯誤の末、思い切って一から自分で作ってみることにした。

困った時は先達に学ぼう。参考書を買ってきた。

『ブログ徹底カスタマイズ術 MovableTypeで自分好みに!』(技術評論社)
『MovableTypeスタイル&コンテンツデザインガイド』(毎日コミュニケーションズ)

前者はMTが初期設定で立ち上げるブログの仕組みを詳細に解説する。テンプレートとスタイルシートのどこをどう触れば、何がどう変わるか、実にわかりやすく書かれている。まさに「僕にもできた〜(@サッカー日本代表監督)」である。そして後者はMTのテンプレートタグの詳細な解説と、ブログの実践的なデザイン方法を掲載する。奇しくも私にとっては基礎と応用の関係になった。そして完成したのが、これである。

普通です(笑)。左サイドバーをfotolog風にしたところは満足しているのだが、これとて上記の本の例をアレンジしただけで、自慢にもならない。ともあれ、この二冊はMT超初心者の私にも優しい本だった。MTでお困りの方(笑)、一度御覧になってみて下さい。

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恩田陸『夜のピクニック』

これが実質的に今年最初のエントリーである。映画「スーパーサイズ・ミー」とどちらにしようかと思ったのだが、読み終わってからしばらく経ってしまっている恩田陸の『夜のピクニック』にした。新春らしく爽やかに。まずは帯の文章を引用することにする。うまくあらすじがまとめてあるので(楽だし)。

夜を徹して八十キロを歩き通すという、高校生活最後の一大イベント「歩行祭」。生徒たちは、親しい友人とよもやま話をしたり、想い人への気持ちを打ち明け合ったりして一夜を過ごす。そんななか、貴子は一つの賭けを胸に秘めていた。三年間わだかまった想いを精算するために……。今まで誰にも話したことのない、とある秘密。折しも、行事の直前には、アメリカへ転校したかつてのクラスメイトから、奇妙な葉書が舞い込んでいた。去来する思い出、予期せぬ闖入者、積み重なる疲労。気ばかり焦り、何もできないままゴールは迫る……。

中心になるのはあらすじに登場する貴子である。彼女の賭けとは同じクラスに在籍する異母兄弟の融と話すこと。そして和解した後に長く付き合いを続けること。小説の結末はほぼ予想できる。したがって、その予定調和的な結末に向けて、どのような紆余曲折があるのか、そこまでの組み上げ方がこの小説の勘所となる。文章は平易で読みやすく、「歩行祭」の歩調よろしくリズミカルに前へ前へと進んでいく。しかもその「歩み」に次々と謎をかけるような出来事が起こるのだから、これはもう目が離せない。小説の早い段階でパチンとスイッチが入ってしまってからは、最後まで一気に読まずにはいられない状態になった。うまいと思う。

青春とノスタルジーと謎解き。題材なりの独特の臭みはあるが、そういうものに抵抗感がない人にはたまらなく魅力的な小説だろう。

長い歴史と伝統を持つ学校というのは、往々にして馬鹿げた行事を頑なに守り続けている。小説に描かれた「歩行祭」もそうであろう。当事者でいる時は、それらが何のためにあるのか、ちっともわからない。ところが、やり遂げたから何かがあるというわけではないのに、気がつくと寝食を惜しんで注力している。「やりたいからやる」というシンプルな考え方は、実行可能だった時代が遠くに過ぎ去った頃に時折蘇り、生への新たな力となる。そんな気持ちを呼び起こしてくれたという点で、収穫の多い小説であった。(新潮社・2004年7月)

このブログを始めて、先日の大晦日でちょうど丸一年になった。いつも読みに来て下さる皆様に心より感謝いたします。どうぞ今年もよろしくお願いいたします。

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2005.01.01

けふもいちにち

sora

今年は新しいことにチャレンジする一年になりそうだ。

  けふもいちにち風をあるいてきた

山頭火の気分で、毎日をきちんと実感しようと思う。

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