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2005.01.13

ネットはカラオケ

承前(「日記とかエッセイとかブログとか」)。

森博嗣の浮遊研究室」のトップページに、インターネットは「カラオケと同じで、今にみんなが発信し、そして誰も受信しなくなる」という指摘がある。誰でも気軽に意見や立場を表明することができるものの、それが確かに他者に届いているかどうかは保証の限りではない。

その意見が他者に影響力を持つかどうか、あるいは読んでもらえるかどうかさえ、わかりません。意見というのは、鋭いか、正しいか、珍しいか、ではなく、あくまでも、その意見を発している人間が何者なのか、によって影響力が決まるからです。(中略)人は、得体の知れない人間の話には耳を傾けない、という共通傾向を持っているわけです。インターネットの匿名性が持っている最大のジレンマがここにあるでしょう。

ここで森の言うことに全面的に賛同するわけではないが、さりとて積極的に否定する気分にもならない。それは自分の中にも思い当たる節がないわけではないからである。先のエントリーにも書いたように、知らない人のものはよほどのことがない限り読まないのは確かなのだ。それはどこかの飲み屋で知らない人のがなり立てる歌を聴かないのと同じこと。手前の素性を隠しながら読んでもらうためには、圧倒的な知識や技術を見せるとか、積極的に各方面を巡回するとか、アクセス数を誇るとか、メジャーな媒体で取り上げられるとか、とにかく何らかの方途で「仮面を被った私の信頼度」を高めるしかない。

自分のための備忘録、もしくは記録と割り切ることで、この森の批判を回避することはできようが、「インターネット=カラオケ説」を無効化するまでには至らない。求道的に歌唱力(表現力)の向上を第一の目的としようとも、歌う(出す)以上はそれを誰かに聞かせたい(読ませたい)という色気を感じるからである。真に人に訴えかける気がないのであれば、ノートかパソコンに秘匿しておけばよいのである。

今のところ、自分の素性を曝す危険を冒したくない私としては、相互に敬意を示し合える節度ある人間関係を築くために、せいぜい森の言う「仮想の人物像」を磨くことくらいしかできない。もっともこの場で絶大なる影響力を発揮してやろうなどという野望はまったくない。ただ自分の感じたこと、考えたこと、調べたことを、自分自身の言葉で表現しよう、そして歌いっぱなしでなく、知っている人やすばらしいと思える人には、拍手(コメントを返す)をし続けようと思うばかりである。

昼行灯で寝言を言い続けるのも、それはそれでおもしろいのだけれどね。

付記:「日記とかエッセイとかブログとか」のエントリーを読んで下さったMuさんからメールが届き、その中で「森博嗣の浮遊研究室」のことを教えていただいた。記して感謝申し上げる。

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コメント

記事を書いた本人もよくわからなくなっています :-P

>winter-cosmosさん
ネット生活を始める理由は、おそらく「やりたいからやる」が大多数でしょう。始める時は人が見るとか見ないとかはほとんど意識していないと思います。もちろん野望を持っている人もいるでしょうが。小難しい話題を取り上げたものの、私自身も「やりたいからやる」という緩い気持ちで続けております。

>Muさん
森の発言の核心は「他者への影響」ということですから、ネットで情報を発信する側の事情や動機は、ひとまず度外視されていると思います。したがって公には個別のサイトの存在意義までを否定しているのではないでしょうね。もちろん心の内では舌を出していると思いますけど。

>yukiさん
現在主流のブログ、確かにおっしゃるように繋がりが鍵だと思います。ただ「その繋がりをどこまで広げる気になるのか」「無関係の他者への影響力」というところが、おそらく森の指摘した件に関係してくると思われます。結局、繋がりや影響力と言っても、現状は知り合い同士の狭い範囲ではないかという反論がありそうです。また匿名性について、「なくて七癖」と申しますから、隠れているつもりでも知人には暴かれるもんですね(笑)。

>marinさん
時折ブログにお書きになっている料理や習慣のこと、とても興味深く拝見しています。繋がりの量や質が自分にとって心地よいものであれば、ブログやホームページを開いている意味も大いにあると思います。表現活動はもともと抑えきれない内側の力を放出するものでしょうから、それに連動する心地よさがある限り、まだまだブログは栄えていくと思います。

>mi4koさん
そういうサイトは「圧倒的な知識」「貴重な情報」を溜め込んだものであって、それゆえに構築者(ネット上の仮想人格)が信頼に足る人物になっているとおぼしい。ちょっとした「町の名士」とでも言えばよいでしょうか。そういうところは、日常的に見る人がいようがいまいが、いつの日か訪れるであろう人のためにその時を待ち続けているのだと思います。

投稿: morio0101 | 2005.01.16 00:49

それでも、戦後間もない頃のカメラの情報を探すために検索エンジンに言葉を入れると沢山のサイトが見つかる訳です。知らない人のものだし、世間の多くは耳にすることなく自分の唄う歌を決めている最中なのかもしれませんが、その時はありがたやありがたや、と歌姫にすがるように見上げるのです。多くのものは埋もれて行くのでしょうけれど。
必要としている人が居る限り、それはリレーされていくのです。「検索したら見つかった」という新しい記事によって。カラオケではさすがに、輪唱しつづけるという訳にはいきません。

投稿: mi4ko | 2005.01.14 21:27

私の場合住んでいるのが小さく閉ざされた地方都市であり、この街では特殊ともいえる家族構成から地名すら出さずにいるのですが(つまり、夫と同じ国籍の人が3人しかいない)、そこがちょっと息苦しくもあります。知り合いに読まれて困るようなことを書いている訳でもなく、読まれる可能性自体ゼロに近いとは思うのですが。

適当に始めてしまった上に、そんな曖昧なスタンスでありながらも細々と続けていられるのは、こんな「閉ざされた」場所に住んでいる上に時間的余裕も少ないからこそ、ここではなかなか手に入れられないものを求めているためなのかもしれません。手軽に更新できる「発信」の場としてだけならblogがここまで急速に人々を取り込んでいった訳もなく、私自身続けていられたかどうか疑わしいところですが、上のyukiさんのおっしゃるような「繋がり」があるからこそのblogだと思っています。

このことについてはあまり真剣に考えたことがないので、止めるべき時が来たら、止める理由を考えてみたいと思います。

投稿: marin | 2005.01.14 15:04

ワシも結局「表現」の一部なのではないかと、客観的に推測します。
そこにそういう媒体があったから なのかなぁと。
やったりやらなかったりのWebサイトも当初はblogという形でこそなかったけれど、かれこれ10年。その間にon/offの仲間が出来、10年のうちにはその仲間が結婚したり、学生だった人が講師になったり(←授業参観に行ったことも・笑)。ああ、話が逸れてしまいましたが、そんなことを考えてたら、そーいやあ15の頃からミニコミ誌なんか作ってたんだっけ と思い出す。たぶん、その延長上にwebサイトやblogがあったわけで、その有り様はblogの数だけあっていいんじゃないかと思ったりしています。あるものを使う、現象(流行とも言う)を利用したまでということなのでしょう。
blogの真骨頂は、trackbackやRSS feedなどに見る「繋がり」なんだと思います。さっきもそんな話をしていて、携帯を手放せない人たちの気持ちがちょっとだけ分かったような気がしました。

匿名性に関しては、あまり考えていないなー。そもそもblogに関しては、日本の友達に「達者でやってるで」という連絡板のつもりではじめたものだから。(逆に、今現在の同僚などにはあまり知られたくないというのが本音です・苦笑)
しかしですね、隠しても分かる人には分かってしまうものなのです。
先日知り合いのChatに呼んでいただいて、その知り合いは私をあだ名(=昔のハンドル)で他の人たちに紹介したのですが(それは本名とは全く関係ないあだ名)、そのうちの一人の方が(もちろん面識なし)「もしかして○○○○さんですか?」と私の本名(しかも漢字もあっている>よく間違えられる)を尋ねてきたのには、かなりびびりました。同じようなギョーカイとはいえ、会ったことのない人に素性がばれるというのは恐ろしいものであります……(また、話が明後日の方へいってしまって恐縮です)

投稿: yuki | 2005.01.14 11:15

morioさん、難しい内容ですが、一言。
私にとって、表現行為は二方向あります。

1.自分自身
2.他者

1は錯綜する自分自身を明らめておきたい。
 そのために、リンクやトラックバックの自己参照、目次化など多様性を生かせるblogは、干天の慈雨です。自分自身を仮想的に階層組織化できる可能性があります。それで、自分がしっかり見えてきます。アホかカシコか、とかね(邪笑)

2は反応を見たい。私とは独立した別の人間システムの反応を知りたい、見たい、という好奇心です。この点で、blogの様々な方法論は最適ですね。そして一般に、よき反応は支えになり、悪しき反応は反発という負のエネルギーを増強させます(笑)

*.表現するということは、発声器官と言葉があるのですから、幾分自然発生的というか、社会に生きている限りついて回ることでしょうね。
 相手が身内、友人知人というちっこい村、団体とか中規模の村、世界とか大きな器、多少ニュアンスが異なりますが、友に向かって歌うのと、世界に向かって絶唱する違いは、あんまり、ないです。

 もちろん、blogやHPを開設する人の、それぞれの事情とか、あるいは必然性とか、あるいは力のこめようは多様でしょうね。

 匿名性については、別途いろいろありますが。よう、まとまりません。

 

投稿: Mu | 2005.01.13 16:21

 新年おめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。(ご挨拶、遅くなりました。一応まだ松の内ですので)
 私はまだ始めたばかりですが、何となく理由は、なくてもいいような気がしています。
 友達からは、本能のままに生きているやろ(笑)、と言われますので。いえ、普通(?)に暮らしていますよ(笑)。

投稿: winter-cosmos | 2005.01.13 10:50

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