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2005.03.25

鉄人28号

日本のロボット漫画・アニメ史上に燦然と輝く「鉄人28号」。その誕生からもう40年が経つ。同時代の漫画やドラマの多くが遠い過去の存在となるなかにあって、鉄人は何度もリバイバルし続けている。昨年も新作アニメが放映されていたし、プレイステーション2用のゲーム(これは傑作!)として発売もされた。海洋堂が制作担当したタイムスリップグリコやリアルな造形がマニアに人気の「超合金魂」にも加えられた。鉄人は立派に新世紀を生きている。そしてついに劇場用実写映画として登場したのである。

映画「鉄人28号」公式サイト
映画「鉄人28号」公式ブログ
映画「鉄人28号」予告編

この映画の基本は少年の成長物語である。どこにでもいそうな小学生金田正太郎(池松壮亮)が、さまざまな事件や人間関係に巻き込まれるうちに、次第に自分の能力や責任に目覚めていく。この流れは「非・バランス」や「ごめん」で少年少女の成長を丹念に追いかけた冨樫森監督の得意とするところであろう。鉄人という昭和の大ヒーローを擁するため、昔ながらの勧善懲悪アクション活劇の色は濃いものの、そこだけに甘んずることをよしとせず、人間のドラマに焦点を合わせようとする部分に冨樫流の味付けが行われていると見るべきか。東京破壊後の病院シーンの描写は、かつての初代ゴジラ(1954年)をほんの少しだけ思い出させた。

もう一人の主人公である鉄人28号にも触れないわけにはいかない。鉄人も敵のブラックオックスも金属製のロボットゆえ、日本の特撮が得意としてきた着ぐるみは使用できない。そこでこの映画では生身の俳優の動きをモーションキャプチャーし、それをロボットとして3DCG化するという手法を取っている。ただこれが今ひとつ画面に馴染んでいない。動き自体に不自然さは感じられないものの、ロボットに重みというか、リアルな存在感が薄いのである。主役がこれではつらい。逆にこのほのぼの感が昭和レトロでいいという意見もあるだろうか。

定番のロボット・プロレスシーンでも、派手な光線や壮絶な爆発などはない。また無節操な都市の破壊シーンもない。ひたすらゴンゴンという金属と金属がぶつかる音が響くだけである。戦闘シーンにド迫力や爽快感を期待する向きにはまったく評価されないほど、地味なバトルである。そもそも今時の飛び武器を備えていないロボット同士、しかもオリジナルの印象が古き良き昭和ゆえ、設定を変えてまでハリウッド風の派手な戦いをさせることはできなかったのであろう。しかし、それが正解だったかどうかは難しいところである。昭和30年代の建物を基準に考えられた身長20メートルは、21世紀の超高層ビル群の中ではいかにも貧弱である。ゴジラがどんどん大きくなりパワーアップしたのと同様に、鉄人も新世紀モードにしてもよかったかもしれない。ロボットがあまり魅力的でないのは、返す返すも残念であった。

脇を固める俳優はなかなかゴージャスである。私からすると夢のような共演である(笑)。蒼井優・田中麗奈・西田尚美・薬師丸ひろ子(田中と西田はちょい役)。ここに麻生久美子がいれば、完璧である(「鉄人」と同日、麻生久美子主演の「ハサミ男」も公開開始)。中澤裕子はまぁどちらでもいい。男性陣も香川照之・柄本明・中村嘉葎雄・高岡蒼佑・伊武雅刀らで、こちらも実力派が揃っている。結果、映画全体に落ち着きと締まりが感じられた。音楽は千住明が担当し、主題歌はもちろん「夜の町にガオー!」である。凝ったパンフレット(昔のカッパ・コミックスを模している)が楽しい。

「戦う勇気だけがあなたの武器なのよ」と蒼井優に言われたら、困るなぁ(何をだ!?)。とにかく正太郎くんは「信じて進め」を実践した、そういう映画だった。悪くはないと感じたが、好き嫌いは大きく分かれる映画だと思った。ワーナーマイカルシネマズ茨木で鑑賞。

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2005.03.24

自炊くん 続

concorde25日にジーコ・ジャパンのワールドカップ・アジア最終予選第2戦があるからではないが、思わず「僕にもできた〜!!」と快哉を叫びたくなった。

たまたまつれあいがとてもよい明太子をもらってきた。明太子といえば、先日買った「がんばれ自炊くん!」のパスタ編で取り上げられているものである。これ幸いと、初めて自炊に挑戦してみた。

【用意したもの】
スパゲティ(適当)・明太子(たくさん)・バター(適当)・納豆・海苔

concorde【手順】
1 鍋でスパゲティを茹でた。
2 6分ほどで火から下ろした。
3 スパゲティをザルに待機させている間に、茹でるのに使った鍋にバターと明太子を入れて混ぜ合わせた。
4 そこに湯を切ったスパゲティを投入して、ひたすらかき混ぜた。
5 皿に盛りつけて、海苔を置いた。
6 食べた(笑)。

こういう具体的な手応えを感じるのは久しぶりである。しかもけっこう楽しい。なんとか東京でも生きていけそうです(大袈裟)。明日は鍋釜バケツ類を買いに行く予定。

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2005.03.21

自炊くん

concorde完全なる一人暮らしに欠かせないこと。それは自炊。まったく自慢にも何にもならないが、日々食べるような料理はほとんどしたことがない。しかし、それでは来週からやっていけない。すべて外食という手もあるけれど、味付けもカロリーも衰えと緩みの目立つ体にはきつかろう……。

仕方がないので、本屋で料理本を物色してきた。これがもう目も眩むほどの種類があって、何が何だかよくわからない。とりあえず料理の写真がやたらおいしそうで、作り方も簡単に見える千葉真知子『完全自炊主義』(文化出版局、2002年)を手に入れる。それだけではちょっと不安だったので、さらに手抜き料理が期待できる、ほぼ日刊イトイ新聞編『がんばれ自炊くん!』(角川書店、2001年)も援軍として採用した。

問題はこれを読んでいる時間があるのかということ……。そうこうするうちにあっという間に来週が来るのだ(とほほ)。冗談抜きで東京一人暮らし日記でも公開して、毎食のレシピをコメントかトラックバックで教えてもらいたい気分である。

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2005.03.18

太田順一『ぼくは写真家になる!』

太田順一はドキュメンタリーを中心に活動する写真家である。在日朝鮮人に向き合う『女たちの猪飼野』(晶文社、1987年)、大阪に移住した沖縄の人々を撮った『大阪ウチナーンチュ』(ブレーンセンター、1996年)、ハンセン病に取り組んだ『ハンセン病療養所 隔離の90年』『ハンセン病療養所 百年の居場所』(ともに解放出版社、1999年・2002年)などの代表作は、いずれも重大な社会問題を扱っている。

困難な仕事である。被写体が社会的な弱者であればあるほど、余所者が自由に写すのはむずかしくなる。とりわけ大阪における在日朝鮮人や沖縄県人の過去は苛烈なもので、ふらりと立ち寄ってスナップを撮って終わりということには絶対にならない。ハンセン病問題もしかり。太田自身が写真家とは「そこにいた人」と定義するが、自然にそこに存在できるようになるまで、いったいどれほどの時間が費やされていることか。本書にはその撮影の過程での艱難辛苦が平易な文章で綴られる。

ドキュメンタリー写真は、こつこつと足で稼ぐよりほかに方法のない地味な仕事なのだ。

あとがきで「人間」を撮り、「人生」を撮り、「永遠」を撮りたいと太田は言う。長くプロフェッショナルとしてその世界で生きてきた人ならではの重みを感じる。岩波ジュニア新書には、大家権威が片手間に書いたとしか思えない箸にも棒にもかからないような手抜き本がある一方、こうした渾身の一冊もある。読みながら背筋が伸びる気がした。(岩波ジュニア新書、2005年2月)

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2005.03.16

角田光代『対岸の彼女』

角田光代。私の頭の中では長い間大平光代とごっちゃになっていた。極道の妻から弁護士、大阪市助役となった『だからあなたも生きぬいて』(講談社)と叫ぶ彼女は、小説もたくさん書いているのだなぁと……。今は間違えていない(笑)。

■角田光代あれこれ
作家に聞こう
作家の読書道

『対岸の彼女』は立場の違う女性間の友情をテーマにする。主人公楢橋葵の高校生時代と現在の生活とが交互に組まれている。高校時代の方は葵の一人称視点で描かれ、現在の方では小夜子という葵の会社に勤める主婦の視点から客観的に描かれる。実験的というほどではないが、「かつてこんなふうに考え行動していた人が、今は第三者から見てこうなっている」という枠組みがおもしろいと思った。ただ肝心のストーリー展開が緊張感に乏しく、惹き込まれるという感じが薄い。中学、高校時代のいじめや働く母親とその家族、さらに昨今の「負け犬」やら、今時のものがちりばめられてはいるものの、それらはそこにあるだけで、どこにも進んでいったり、掘り下げられたりすることはない。文藝春秋のサイトには、

30代、既婚、子持ちの「勝ち犬」小夜子と、独身、子なしの「負け犬」葵。性格も生活環境も全く違う二人の女性の友情は成立するのか!?
「負け犬」という言葉が社会的に認知されたいま、ついに書かれるべくして書かれた小説が登場しました! 独身の女社長・葵と、夫と子供を持つ主婦の小夜子は共に三十四歳。性格も育った環境も違う二人の女性に、真の友情を築くことはできるのか——。働く女性が子育て中の女性と親しくなったり、家事に追われる女性が恋愛中の女性の悩みを聞くのは難しいもの。既婚と未婚、働く女と主婦、子のいる女といない女。そんな現代女性の“心の闇”がリアルに描かれます。

とあるけれど、このあらすじがある意味『対岸の彼女』のすべてである。そう言ってしまうと身も蓋もないか。角田自身は、己や相手の立ち位置を区分けしようとする女性の姿や気質、そして異なる立場にある女性同士でどういう通じ合い方ができるかを書こうとしたようだが、「ホップ・ステップ・ジャンプ」のような進行では陳腐の謗りは免れないだろう。もちろんことばや文章を味わうという小説でないことも確かである。そのあたりが物足りなく思った。

第132回直木賞受賞作である。山本文緒、乃南アサ、村山由佳、唯川恵、宮部みゆき、江國香織ら、ベストセラー量産の当代人気女性作家が軒並み直木賞を受賞した今、「やっともらえてよかったよかった」ということだろうか。他の作品を読んでいないので憶測でしかものが言えないのだが、どの部分に角田の特徴があるのか、私にはよくわからない。今は多くの女性作家の中に埋没しないように「だからあなたも生きぬいて」というしかない。(文藝春秋、2004年11月)

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2005.03.14

ありがたき幸せ

concorde先月からいくつか送別会をしてもらっている。とてもありがたい。そして13日の日曜日はfotologで知り合った写真仲間が会を催してくれた。会を開いてもらえるだけでももったいないのに、いろいろな贈り物などもいただいたりして、感謝感激である。右の花束は「持って帰る時に恥ずかしい思いをさせる」ために用意されたド派手な花束。真冬並みの寒さの中、熱帯植物の乱舞!?

帰りの電車の中で好奇の目を集めましたが、ちゃんと持って帰りましたよ!>姐様たち

全国各地(笑)への個別のお礼は改めてメールにて。明日から少しずつ荷造りをして、2週間後には東京の人になります。で、次のミータップは大阪城の花見ですかね :-P

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2005.03.11

トニー滝谷

一生かかっても着尽くせないほどの服を買い続ける女と、その女を失い孤独の淵に沈む男の物語。

映画を観た後に、久しぶりに村上春樹の『レキシントンの幽霊』(文藝春秋、1996年)を書架から取り出して、「トニー滝谷」を読み返した。市川準監督の「トニー滝谷」は小説と同じ空気感、同じトーンで貫かれている。小説と映画が同じになる必要はない。しかし、これは村上春樹の小説が要請した必然であると、市川自身が映画のパンフレットの中で語っている。

この映画のあらゆる映像が、現実の具体的な場所や物では描けないというイメージを抱きはじめ、いままでの自分の映画のようにリアルな世界で描くと、この小説に流れている透明感や、温度の低さを表現できないし、村上春樹ファンを裏切ることになる、と思い始めました。
小劇場のようなシンプルな舞台を高台の空き地に建てて、その舞台の微妙なアングル替えと、簡単な飾り替えだけで、ほとんど全てのシーンを撮影したことも、主人公の男女二人にそれぞれ二役を演じてもらって登場人物を極力少なくしたことも、プリント手法に脱色処理を施して色調を浅くしたことも、全て村上春樹氏の、硬質でありながらも、現実の地上から何センチか浮いているような小説世界が、いつのまにか私に要請したことだったと、今になって思います。

西島秀俊による、ほぼ小説に忠実なナレーション(穏やかな語り口)に従って、映画は淡々と進んでいく。屋外に組まれた必要最小限のセットが場面ごとに象徴的にはたらいており、西島の朗読と相まって、まるで小劇場の舞台を見ているかのようなライブ感がある。確かに市川の言うように、完璧なセットのもとリアルで具体的な描写を積み重ねても、あの世界観は出すことができなかったと思われる。

とりわけ印象的なのは、オープンセットならではの風である。吹き抜ける風に揺れる髪や衣装がとても心地よい。またおそらくは屋外ならではの特権として自然光を活かしたとおぼしき画面も、あざとさがなくとてもシンプルで好ましい。場面や舞台が代わる時、画面は静かに右から左へ流れていく。あたかも写真集をめくるかのようである(または古い絵巻物の展開)。静かな絵に坂本龍一のピアノ曲がよく合っている。イッセイ尾形と宮沢りえの抑制の利いた演技もすばらしく、上品な絵の中にきちんとなじんでいる。

物語のテーマである「孤独」を濃密に感じさせながら、描写はどこまでも淡泊でからりとしている。映画と小説の唯一の違いである結末の変更もまったく違和感がない。どちらがよいというものではなく、どちらも成立する。丁寧に仕立てられた静謐な映画。その仕立ての良さはヒロインの求める上質の衣服のようである。テアトル梅田で鑑賞。

余談:『レキシントンの幽霊』には「めくらやなぎと、眠る女」が収録されている。「蛍」(『蛍・納屋を焼く』新潮文庫、所収)とともにとても気に入っている村上春樹の短編の一つである。ともに「ノルウェイの森」に連なるものであるが、この二つは特別な輝きを放っていると思う。

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2005.03.10

重松清『流星ワゴン』

先日エントリーした玄侑宗久『中陰の花』は、「死んだらどうなるのか」ということを生者の側から描いた小説であった。重松清の『流星ワゴン』はその先、つまり生と死の狭間に落ち込んだ人々の物語である。

不幸な事故により命を落とした父子の乗るホンダ・オデッセイが、「もう死んでもいいかな」という思いに囚われる人の前に現れる。家庭崩壊、リストラに見舞われ、生きる意欲をなくした主人公がその車に乗り込み、人生の分かれ目に連れて行かれる。しかし、やり直しはいっさいできない。できるのは、見て見ぬふりをしてきた過去の出来事の意味を噛み締めるだけである。妻や息子、そして長く仲違いしていた父親らとの関係があらためて問い直される。

『流星ワゴン』の中心には三組の父子が置かれる。いずれの父子も現実の世界では決定的なズレを感じたまま、もはや修復不能なところまで来てしまっている。それが生と死の狭間というギリギリの地点に立たされたことで、虚心に互いを相対化し素直な感情を取り戻すことができた。しかし、それを現実の世界には反映できないところに哀しさがある。実現することのないもう一つの人生。

生者と死者が一つの乗り物で旅をするという枠組みは、宮沢賢治『銀河鉄道の夜』のジョバンニとカンパネルラの旅を思い起こさせる。賢治の傑作はもちろんファンタジーである。小市民的な『流星ワゴン』をファンタジーと呼ぶにはいささかためらいもあるけれど、これが今時のファンタジーなのかもしれない。結末には希望への階があって救われる。もっともご都合主義的な臭いがしないでもない。先を急がせる力はあると思った。空き時間の埋め草にはなる(酷い言いよう!)。講談社文庫、2005年2月。

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2005.03.07

写真集中毒のススメ

concorde表題の特集を「STUDIO VOICE」最新号(2005年4月号)が組んでいる。示唆に富む記事が多く、実に読み応えがあった。内容の当否を評価するにはあまりにも私に力がないのでひとまず置く。しかし、この特集で打ち出されている「中毒になるくらい写真集に浸ろう」という主張は、大いに意味のある行為であると思う。

  一枚をじっくり楽しむ。
  それから……。

  なぜこの写真がこの位置に置かれているのか。
  前後とどういう関係(流れ、構成)にあるのか。
  総体としてのテーマはなんだろうか。
  その写真集が写真家の仕事の中でいかなる位置を持つのか。

一般的に作家からその種の説明はいっさいない。それを自分なりに考え読み解いてみるのがとても楽しい。作家の差し出すものに踊らされてもいいし、享受者の特権をふりかざしてもいい。まったく自由である。一枚一枚の写真と向き合いながら、トータルとしての写真集の世界観を味わう愉悦は何物にも代え難い。繰り返し自分の好きなものに沈潜する喜びは、次に進む原動力となってくれる。もちろんより多くの写真集を見ることで、もっと大きな写真史という流れを知ることもできる(歴史を知るというのは、どの世界のことであれ、他者への敬意を育み、自己変革を促すという意味において、重要な行為であろう)。

閑話休題 :-P

長々と訳知り顔で語りモードに入ったけれど、私は何より写真集の「モノとしての存在感」を愛でる。本の手応えが好きなので、つい買わなくてもいい物まで買い込んで、部屋を散らかしている(ああぁ)。

■森山大道・荒木経惟『森山 新宿 荒木』(平凡社)
新宿に縁の深い二人が「新宿」に帰ってきた。森山の凄み、荒木のエロさが全開。森山信奉者の私には荒木は夾雑物に思えなくもないが、二人の写真が交互に出てくることで生み出されるアクの強さは圧巻である。同じタイトルの写真展が現在東京オペラシティで開催中である。行くチャンスがあったのだが、果たせず。

■森山大道『サン・ルゥへの手紙』(河出書房新社)
1990年に刊行された写真集が新装版として復刊された。版画かと見紛えるほどの強烈なコントラストのモノクロ写真が居並ぶ。こんなふうに世界が見えたら辛くて仕方がない。ざわざわと心が掻き立てられる一冊であった。

■川内倫子『the eyes, the ears,』(FOIL)
川内の前作『AILA』の続編のような印象がある。しかし、ここでは写真に詩のような短文が添えられる。fotologなどでもよく見かけるスタイルだが、果たしてその言葉は写真にどういう影響を及ぼしているのか。言葉は強い。どうしてもその方向に引きずられてしまう。ついているのはいいような悪いような。

■川内倫子『CUI CUI』(FOIL)
無条件に好きである。川内が13年間撮りためた家族の写真をまとめたものである。写真に写っているのは川内一家であるが、見ているうちに彼女の思いにこちらの思いが重なっていき、自然と自分の家族を思い浮かべることになった。いろいろな感情が湧き上がっていった。私の中では『うたたね』を越えた(あくまでも俺ランキング)。

澤田知子『OMIAI』(青幻社)と長島有里枝『not six』(スイッチ・パブリッシング)はジュンク堂書店大阪本店で立ち読み完了(笑)。癖が強くて好き嫌いが分かれる内容だと思った。

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2005.03.06

my first "KEITAI"

concorde東京では固定電話を引かないつもりなので、携帯電話を持たざるをえなくなった。頻繁に外部と連絡を取り合うような職業ではないし、何も持たずに行方をくらますという選択肢もあるのだが、さすがにそうもいかないわけで。

機種どころか、携帯電話会社にどういうものがあるのかも知らない。つれあいはドコモを使っているけれど、某筋(笑)のお勧めに従い、auにした。ちょうど春のキャンペーンで割り引いてくれるようだったので、まさに「渡りに舟」である。

飛び込んだauショップでは、若いauお姉さんが熱心にいろいろ説明してくれる。ちょっとずつ携帯事情が飲み込めてきたものの、実際に使ったことがないから曖昧な相づちを打ちながら時を過ごすしかない(笑)。肝心の機種をどうするかということになり、「パコパコしない(開閉しない)」「メールがほとんどで通話はちょっと」「カメラはどうでもいい」「できるだけ軽い」などというこちらのリクエストに応えて勧められたのが、talbyという機種だった。なんだか真っ二つに折れそうな気もしたが、「迷わず行けよ、行けばわかるさ」というイノキの声がまた聞こえてきたので、これにした(笑)。

ということで、今、黒のtalbyが目の前にある。草間彌生のカボチャストラップをつけてみた。そこまでである。使い方がわからない……。

以下、お願い。
私のことをリアルにご存じ(または現実以上にご存じ、笑)で、携帯の番号とアドレスを教えてもよいという方、どうぞ以下のパソコンのアドレス(爆)にご連絡下さい。折り返し、こちらの番号とアドレスをお知らせします。すべて1バイトの小文字で「morio0101@yahoo.co.jp」です。なおまったく知らない方からのお申し出にはお返事いたしかねます。あしからずご了承下さい。

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2005.03.02

そうだ 東京、行こう。

開催中の写真展に並べるポートフォリオ用の材料を買いに江坂の東急ハンズにでかけた。先週の土曜日のことである。ハンズの一階にある書店に立ち寄ったところ、目に付いたのが『そうだ 京都、行こう。』(淡交社)である。このムックにはJR東海の京都キャンペーン十年分のポスターが収められている。美しい写真に添えられたちょっとユーモラスで捻りの利いたコピーがいい感じである。コピーに関しては賛否両論あるかもしれない。しかし、「なるほどそういう切り口もあるか」と思いながら読めば、自分の感じる京都とは違う面が発見できて楽しめる。一枚の写真と短いコピーだけで「ここに行ってみたい」と思わせる力は確かにあると思った。

「そうだ 京都、行こう」公式サイト

しかし、今年の春からは気ままに京都を訪れることができそうにない。4月から東京で働くことになった。文字通り「そうだ 東京、行こう」である。生まれてこの方、関西から出たことがなく、しかも単身赴任ゆえ初めての一人暮らしになる。無事にやっていけるのかという不安感と、未知の世界に飛び込む期待感とが相半ばしている。

【今の悩み その1】
 ついに携帯電話を持たなければならない。何がどうだかさっぱり……。
【今の悩み その2】
 写真ブログ「オオサカハリアナツウシン」のタイトルをどうするか。
【今の悩み その3】
 たこ焼きとうどんが食べられなくなるのではないか。

悩みといってもしょせんこの程度である(笑)。

 道    アントニオ猪木

  この道を行けば
    どうなるものか
  危ぶむなかれ
    危ぶめば道はなし
  踏み出せば
    その一足が道となり
    その一足が道となる
  迷わず行けよ
    行けば分かるさ

今の気分は「元気があればなんでもできる、1・2・3、ダー!」である。さすがイノキ。:-P

これまで関西で仲良くして下さった仕事関係の方々、自転車の方々、写真の方々、お知り合いの方々、どうもありがとうございました。週末はこちらに戻ってくることが多いので、また機会があれば遊んでやって下さい。
関東の仕事関係の方々、自転車の方々、写真の方々、お知り合いの方々、一人寂しくしていることが多いはずなので、いろいろとおつき合い下されば幸いです。各種オフ会や食事会、はりきって参加します。ダー!! (数週間後に迫った引越の準備がめんどくさいよ……)。

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長嶋有『猛スピードで母は』

長嶋有の小説を何か読んでいると思っていたが、よくよく考えてみると、これが初めてであった。島本理生の小説『シルエット』(講談社文庫)の解説を書いていたのが頭に残っていたらしい。その解説では同年にデビューした島本を「同期の桜」のように感じるなどというたぐいのことが書いてあったと記憶するけれど、一回り以上年齢の違う「おじさん」からそんな風に言われて、今時の大学生は何を思うのだろうかと、これは余計なお世話であった。

さてこの本には表題作「猛スピードで母は」と「サイドカーに犬」の二編を収める。両編に共通するのは片親に育てられる子供の視点からの物語ということである。それぞれの親は自分の世界をしっかりと生きており、時には子供の存在などないものであるかのように振る舞ったりもする。そういう親を観察し、子供なりにつかんだものが情報として断片的に提示される。親の内面もいっさい語られることはない。感情や思考はあくまでも振る舞いや行動として提示されたところから判断するしかない。

子供の目から見た親の生活は、もちろん全貌が明らかにされることはない。むしろ隠されたままになっている部分が圧倒的であろう。しかし、子供にとってはそれこそが真実の世界である。知り得ない部分について、子供は想像力を働かせ、感情を震わせる。子供と同化する私たち読者も、同じように心細さや嬉しさを味わうことになる。物語の世界をすべて把握する全知視点からの語りでないがゆえの新鮮さがあった。直木賞受賞作のように軽く読める。そういうことが褒めていることになるのかどうか、難しいところだが。重松清との違いがよくわからないという物言いは、あまりにも大雑把に過ぎるか。

それにしても私たちは親のことをどれくらい知っているのだろう。家族のことをどれくらい理解しているのだろう。第126回芥川賞受賞作。(文春文庫、2005年2月)

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