« 2005年4月 | トップページ | 2005年6月 »

2005.05.29

交渉人 真下正義

東京の映画館で観る初めての映画となった。「交渉人 真下正義」。「踊る大捜査線」シリーズが好きで、テレビドラマも映画版も一通り見てきた。諸般の事情(いかりや長介が亡くなった、織田裕二と柳葉敏郎の不仲など)で続編の制作は難しそうだという話をどこかで漏れ聞いた。単なる噂で終わってもらいたいが、こればかりはじっと待つしかない。そこにこの番外編の登場である。行かないと。

クリスマスイブで賑わう東京で、地下鉄の最新鋭実験車両クモが何者かに乗っ取られた。遠隔操作されるクモは自在に地下鉄の路線を自走し始める。それは200万人の乗客の命が危険にさらされることを意味する。犯人の目的も明らかにならないまま、事態は悪化の一途を辿る。はっきりしていることは一つ、犯人は交渉の窓口として警視庁初のネゴシエーター真下を指名してきたのであった……。

ユースケ・サンタマリアというタレントは良くも悪くもコミカルな路線で売り出していると思うけれど、このシリーズでの位置づけも大体そういうものであった。主役として活躍するこの番外編においてもそのあり方は変わることがない。緊迫した場面と彼の3枚目キャラがよいコントラストをなしている。ユースケの自分をよく知る安定した演技は、悲劇的な結末のない「踊る大捜査線」シリーズの性質と相まって、最後まで安心して見ていられた(その分、パニック映画としての側面はやや弱いか)。主役が主役らしく軸がしっかりしているため、物語の展開がぶれることなく、さらにまわりを固める俳優たちの個性も際立ってくる。木島刑事役の寺島進と地下鉄総合指令長役の國村隼が、優柔不断に見える真下との対比でことに印象的であった。

娯楽作品としてとてもよくできていると思う。脚本自体は都合よく話を進めるテレビドラマ的ではあるが、資金のかけ方が半端ではないため、どの部分を取っても安物臭さがない。「売れる」という最大の強みを存分に発揮しているといえよう。思うに、これはお祭り、イベントなのだ。夏に公開予定の「容疑者 室井慎次」も期待できる。ワーナーマイカルシネマズ新百合ヶ丘で鑑賞。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005.05.28

クローサー

パンフレットクローサー」とは実に象徴的なタイトルである。この映画に描かれるのは「より近くに」と願う男女の「さまざまな別れ」であり、いわばタイトルはアイロニカルに響くものであった。4人の男女(写真家・医師・小説家・ストリッパー)の織りなす愛憎劇は、英国の劇作家パトリック・マーバーの舞台が原作で、マーバー自身が映画用に脚本をリライトしている。監督は「卒業」で知られるマイク・ニコルズである。

小説家志望のダンはロンドンの街角で旅行中のアリスと出会い恋に落ちる。同棲を始めて1年後、ダンは写真家のアンナに心惹かれるようになる。しかし、アンナは医師ラリーと知り合いやがて結婚する。4人は真実と嘘と愛に翻弄されながら、逃れようのない人間関係の渦に巻き込まれていく……。

ジュリア・ロバーツ、ジュード・ロウ、ナタリー・ポートマン、クライブ・オーウェンという豪華なキャストを起用しながら、彼らの名前だけで売ろうとしない挑戦的な脚本と演出がよい。俳優たちもまた単なるスターの競演という安易さに満足することなく、劇中の人間として生々しいドラマを現出させている。甘いラブコメ調はここには存在せず、苦みのある恋愛の諸相(かくも残酷で辛いものか!)が丁寧に描かれているのであった。舞台劇が元になっていることをうかがわせる、4人の手練れの繰り広げるシリアスでウィットに富んだ会話の鬩ぎ合いこそが、この映画の最大の見所であろう。英語をまるごと理解できない自分の無能さを呪った(無念)。

主演の二人(ロバーツ、ロウ)より助演のポートマンとオーウェンが圧倒的にすばらしい。今年度のゴールデン・グローブ賞を揃って受賞しているとのこと。諾なるかな。劇中歌として流れるモーツァルトのオペラ「コシ・ファン・トゥッテ」(恋人の貞操を試そうとする物語)も、映画の内容と深く関わりながら、彼らの関係を見事に浮き彫りにしている。美しく巧みな選曲である。恋人たちの価値観は善悪や倫理とは無縁であり、ただ自分の感情に素直にあり続けようとするのみである。それが幸福なことなのか、不幸なことなのか、にわかには決しがたい。ワーナーマイカルシネマズ新百合ヶ丘で鑑賞。

余談:ナタリー・ポートマンの演ずるストリッパーの役名、アリスだよ……。「パシューン、パシューン」とハッセルブラッドのシャッター音を響かせるジュリア・ロバーツ。あの音にくらくらした。あとは巨大な水槽のロンドン水族館に行ってみたいと思わされた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005.05.27

村の写真集

5月20日に東京都写真美術館に行った時に、そこのホールで「村の写真集」を公開しているのを知った。でももう公開終了である。タイトルと簡単な内容は東京に出てくる前につかんでいたのに、新生活の雑事に紛れているうちにすっかり忘れてしまっていた。ああ、見に行きたい。

東京では公開が終わるところ、幸いにも大阪ではまだやっていた。上京前の朝一番の回にでかけた。

 徳島県花谷村。まもなくダムの底に沈むことになる村に、古い写真店があった。店主の研一(藤竜也)は昔気質の職人で、妻を亡くした後は香夏(宮地真緒)と二人で静かに暮らしている。カメラマンを目指す長男の孝(海東健)は、研一に反発し東京へ飛び出し、長女の紀子(原田知世)もまた結婚を巡って家を出たまま、長く音沙汰がない。
 ある日、孝のもとに村役場の野原(甲本雅治)から連絡が入った。ダムの底に消えていく村のすべてを写真集として残したいという野原は、研一と孝に撮影を依頼してきたのだった。孝は研一とうち解けることのないまま、険しい山道をともに歩き、写真を撮り続けていく。やがて孝はその父の姿から何かに気づき始めていた……。

徳島の風景がことのほか美しい。この景色を見るだけでも映画の価値はあるのではないかと思ったほどである。昨年、一昨年と続けて撮影に使われた地(池田町・祖谷)を訪れていたこともあって、山の澄んだ空気や深い緑の鮮やかさ、柔らかく滑らかな水音などが蘇ってくるような思いがした。ストーリー自体は、昔気質な父と今時の若者である息子の対立から和解に至る道筋が外連みなく示されており、ために叙情に流れすぎという批判があるかもしれない。善人ばかりかと思わされる村人たちの温かさもしかり。ただこのわかりやすさは「ヒロインなにわボンバーズ」「ドッジGOGO」などを手がけた三原光尋監督の持ち味であろう。人情もの、ご当地ものとして、こういうのもありかと思う。

写真がテーマのこの映画、監修は徳島出身の写真家、立木義浩である。何にどう関わったのか、映画を観る限りではよくわからないのだが、「徳島出身でも三好和義ではないのね」とはいうまい。劇場内は徳島県人会と化していたけれど、やっぱり映画館で観るのはいい気分である。OS劇場CAPで鑑賞。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2005.05.24

お父さんのバックドロップ

中島らもの同名小説を原作とする映画「お父さんのバックドロップ」を観た。原作の小説については、かつてこのブログで述べたことがある。収められている4つの短編はいずれも「ちょっと変わり者の父親がマジになって何かを解決する」というパターンを繰り返すばかりで、ありていにいえば面白味に欠ける小説だと思った。それを原作とするこの映画は果たしてどうなることか。残念ながら原作以上に語るべきもののない映画というのが正直な感想である。

小説とは異なる父子家庭という設定には含むところはない。小説は小説、映画には映画の世界があってよい。しかし、父子の強い情愛を軸としてお涙頂戴という、作り手側の安易な意図があからさまに透けて見えるのがいやらしい。展開として父子の不和から感動のエンディングというのも、なにを今さらという感じである。随所にちりばめられる幼なじみとのラブロマンスもありきたりだ。どこかで見たようなお約束の展開がこれでもかという形で繰り広げられる、なんとも陳腐で凡庸な90分であった(ひどい言いよう)。また小説では悪役プロレスラー一家の様子が子供(息子の友人)の目から相対化されるという新鮮さがあった。それが映画では第三者的な全知視点からの描写となり、ただでさえどこにでもあるような物語をより一層平凡なものにしてしまっていた。大阪を舞台としながら、俳優の下手な大阪弁がいっそう見る者の感情の温度を低くする。

そもそも「読むたびに涙する伝説の名作」などと自ら語られると、天の邪鬼ゆえに思い切り斜に構えてしまうのだ。原作文庫本の帯にある「読むたびに、観るたびに、涙が出る。」というキャッチコピーは、少なくとも私にとってはまったく説得力のない虚言であった。さらに鼻白むのが同じ帯に書かれた中島らもの映画に寄せた一言である。

この映画はプロレス界を背景にしているが、凡百の「格闘技映画」ではない。父と息子の繋がり、情愛を描いた感動の名作である。

違うと思う。

格闘技部分の映像も同時期に公開された田口トモロヲ主演の「マスク・ド・41」に遠く及ばないし、もちろんドラマを支える脚本自体の練られ具合も比ぶべくもない。「マスク・ド・41」がプロレスへの愛(オマージュやパロディ満載!)をひしひしと感じさせるのに対して、こちらはたまたまプロレスラーを役割として登場させてみたという程度の重みしか感じさせない。「おお!」と思わされたのが大日本プロレスの面々が登場したところくらいではなぁ。

なんてちっともほめたくならないのは、きっと私が中島らものことをなんとも思っていないからだろう。ちなみにこの映画の中にもちらりとご本人が登場しています。今となってはそれが貴重か。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005.05.23

写真はものの見方をどのように変えてきたか

東京都写真美術館にはそのうち行きたいと思っていた。

金曜日の夜、職場の会議が早く終了した。それはそれでありがたいことだが、予約をしておいた大阪行き夜行バスの発車時間まですることがなくなってしまった。そこで近くのコンビニで「ぴあ」を立ち読みし、ここに行くことにした。

「写真は物の見方をどのように変えてきたか」という催しは、19世紀半ばの写真の誕生から現代の写真のありようまでの歴史を、全4部(約半年間)に分けて展覧する。現在は写真黎明期の展示を行う第1部「誕生」が開催されている。フランスで生み出されたダゲレオタイプや、ほぼ同時期に考案されたネガ・ポジプロセスなどによる写真を数多く見ることができた。長時間露光が基本なので、ピンホール写真とよく似た印象を受けた(映像自体はずっとシャープだが)。また世界初の写真集といわれるタルボットの『自然の鉛筆』も公開されている。見る機会があまりないものだろうから、とても貴重である。この頃の写真はアートというより記録または実験の色合いが強い。新しいメディアに対する当時の人々の熱がよくうかがえた。4部の共通チケットを買ったので、残りの3部も楽しみにしている。

ところで、東京都写真美術館は木・金の閉館時間が夜の8時である。平日の昼間や休日に時間の取りにくい人間にはとてもありがたい。私が訪れたこの日も、遅い時間でしかも地味な展示なのに、けっこう人が多かった。こういうところに東京らしさを感じる。もっとも閉館のアナウンスとともに館やショップのシャッターがぴしゃっと閉まったのは笑うしかない。さすがお役所である。

美術館から外に出ると、遠くに赤く輝く東京タワーが見えた。カメラは持っていなかったので、写真は撮れなかった。風景はともかくその時の気分は残したかった気がする。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005.05.20

写真集、3冊

東京という都市を覗く装置として窓を使う中野正貴の『東京窓景』(河出書房新社)。中野の手法はとても興味深い。月並みな言い方になるが、どこにでもありそうな東京の風景が、見事に一幅の絵として成立している。おそらく同じ風景を同じ窓の外側から撮ったとしても、ちっともおもしろくなかったであろう。それがフレームとして窓を映し込むことでこれほど劇的な効果を生み出すとは。決して動くはずのない風景に強烈な生きたドラマを感じる。まさに窓の向こうには劇場があるという趣である。それにしても「金のウンチ」が窓の外、すぐ目の前にある生活というのはどうなんだろ? 第30回木村伊兵衛写真賞受賞。

その木村伊兵衛写真賞を受賞した写真家の作品を集成した書も刊行されている。『36フォトグラファーズ 木村伊兵衛写真賞の30年』(朝日新聞社)がそれである。第1回の北井一夫から上記の中野正貴まで、戦後の日本写真界を代表する作家の見応えのある写真が居並んでいる。ダイジェストではあるが、この国の写真の歴史の一端を見ることができよう。なお同内容の写真展が川崎市市民ミュージアムで現在開催中である。こちらもぜひ見に行きたい。

もう一冊。『The Polaroid Book』(TASCHEN)はその名の通り、ポラロイド写真ばかりを集めたものである。しかし、ただ寄せ集めたのではない。「こんな人まで!」と思わせる写真家を含む224人もの圧倒的なボリュームによって、独特の風合いを持つポラロイド写真の魅力を余すところなく伝えている。コレクションはポラロイド社の創設者エドウィン・ランドと写真家アンセル・アダムズによってなされているという。さもありなん。ポラロイドフィルムを模した銀のカバーや、レインボウカラーのきれいな装幀など、細部まできちんとデザインされた完成度の高い写真集である。こんなのをつらつらと眺めていると、またいらぬ物欲が沸き上がるのであった。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2005.05.18

銀座と針穴写真展

田所写真展東京生活を始めたといっても家と職場の往復だけで、東京という土地を楽しむことはこれまでほとんどなかった。わずかに4月中旬に針穴友の会の撮影会(@麻布・六本木ヒルズ)に参加したことくらいである。ポタリングもままならず、かなり欲求不満……。

田所美惠子さんは日本における針穴写真の草分け的存在で、私がピンホールカメラで写真を撮るようになったとき、エドワード・レビンソンさんとともにまず名前を覚えた針穴写真家であった。とりわけパリ生活中の針穴写真は独特の魅力を放っていて、すっかり虜になっていたのである。その田所さんが銀座のポーラミュージアムアネックスで個展を開催することを知った。はやる気持ちを抑えながら、初めての銀座行きである。

「銀座といえばアップルストアだなぁ」「甘食、買うかも」などというよけいな煩悩も脳裏を駆け巡るが、地下鉄の出口を出るとめくるめく大東京が出現、めまいがした後、我を忘れた。どこから見てもおのぼりさん風情全開できょろきょろしながら目的地を探すのに精一杯であった。かろうじてアップルストアの看板の写真を携帯で撮影しただけで、一直線に写真展へ向かった。

甘食パリの写真ばかり、全60点の作品のクオリティは極めて高く、行きつ戻りつしながら何度も繰り返し見た。モノクロの針穴写真の圧倒的な魅力、迫力はいうまでもなく、今回の展覧会にあわせて作成されたという針穴写真を組み合わせた造形物が特にすばらしかった。田所さんともお話しすることができ、濃密な時間を過ごすことができた。針穴友の会の宣伝もできたし、名刺まで交換してもらって(「覚えやすい名前ですね」と言われたよ)、すっかり舞い上がってしまった。ミーハーであるという自覚はあります :-P

最後に。アップルストアでAirMac BaseStationを買わなかったので、よく似た形の甘食をご披露しよう。最近、一部でにわかに注目されている食べ物はこれです(笑)。

| | コメント (6) | トラックバック (1)

2005.05.16

角田光代・岡崎武志『古本道場』

今も実家のある街では、初夏から晩秋まで、六のつく日に夜店が並ぶ。月に三度のその日は小遣いを握りしめて、友達や妹と一緒に出かけていった。人のよく集まる場所には金魚すくいやヨーヨーつり、スマートボールなどの人気遊技があり、それらと競うかのようにたこ焼きやミルクせんべい、フライまんじゅう、綿菓子などの店が並んでいた。乏しい小遣いの大半はそのあたりでたいてい消え去ってしまう。

それでも夜店の列が途切れるところまで必ず歩いた。その切れ目にはいつも同じ店が二軒あった。一軒は植木屋、そしてもう一軒が古本屋である。これらの店があるあたりは街灯も少し暗くて、明らかに異世界という風情だった。子供にとって植木屋は興味を引くものではなく、またとりわけ本が好きというわけでなかったこともあって古本屋にもたいした関心はなかった(子供向けと思われる本も少しは置いていた)。結局、すべての夜店の前をきちんと歩く、そう決めているという理由だけで眺めているのであった。

しかし、この2軒の無縁だった店が、今も記憶の中に強く残っているのは不思議なものである。そして古書店との付き合いが切っても切れなくなってしまっていることも。縁とは異なものである。東京にやってきて楽しみにしていることの一つに、関西では難しい古書店巡りができるというのがある。いくらネットで本が買える時代になったとはいえ、古書独特の匂いに包まれた狭い店内で意外な書と出会う楽しみは、他では味わえない特別なものである。

古本道場』は、「古書初心者」の角田光代が「古書師範」の岡崎武志の出す課題にしたがって、東京各地の古書店を巡って買い物をしてくるという顛末を描くものである。なんだか古書の匂いまで感じるような気がして、微笑ましい内容だと思った。もちろん同じ店を探索したいと思ったのはいうまでもない。(ポプラ社、2005年4月)

付言:東京の書店事情がわからなくて、同僚に尋ねたところ、「ブック・ナビ東京」という本を教えてもらった。至便。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2005.05.13

清水真実の引退

清水真実という名前を見て、この人が誰かがわかる方はかなりの邦画好きであろう。映画やテレビの出演は数えるほどしかない。ちなみに出演した映画は以下のもの。

  1998 がんばっていきまっしょい
  1998 テツワン探偵ロボタック&カブタック 不思議の国の大冒険 (V)
  1999 流★星
  2000 ブギーポップは笑わない
  2001 忘れられぬ人々

主役はない。テレビでも脇役・端役ばかりのようである。写真集では、佐内正史が太宰治の『女学生』をモチーフにして撮影したものにモデルとして登場している。目立ったところはそれくらいである(これが目立っているかどうかはともかく)。

実は蒼井優(アリス!)のことを調べていて(何をしているという声が聞こえそうだ……)、同じ芸能事務所に所属していることに気がついた。蒼井は売り出し中とあって、たいそう大きな扱いをされている、その一方、以前は確かにあった清水の名前がどこにも見つけられない。どういうことかと思ってファンサイト「MAMI's@home」を探ってみたところ、なんと2004年春で活動休止(事実上の引退)したとあるではないか。

清水のことは磯村一路監督の「がんばっていきまっしょい」で知った。「なっちゃん」でお馴染みの田中麗奈がこの映画の主役としてデビューしている。作品の出来不出来という議論はひとまずおくことにして、好き嫌いという生理に訴えかけるレベルで見た時に、この映画は私が最も好きな邦画である。どれくらい好きかというと、推定で50回以上観てなおまったく飽きていない。それくらい好きである(30回目くらいまではきちんと勘定していたけれど、その後面倒になってうやむやになった)。この映画に対するあれやこれやは、ブログ以前に作っていた自転車サイトの独り言ページに何度も書いたので、ここでは繰り返さない。

清水は田中麗奈扮する主人公悦子のボート部の仲間として出演していた。役割はコックスである。コックスは4人の漕ぎ手のペースを調整する声掛けをするのであるが、清水の発する声は「がんばっていきまっしょい」の通奏底音、もっといえば主題として非常に重要な働きをしている。それほどの重みがある。清水の声はいつまでも耳に残り、彼女の存在感をいや増すことになった。しかし、清水が俳優として生き残るにはあまりにも毒がなさ過ぎた。今は芸能界を離れ、彼女なりの新しい人生を生きているのだと思う。彼女の幸せを「がんばっていきまっしょい」のファンとして祈りたい。

そんな折、飛び込んできたニュースがある。今夏からテレビドラマとして「がんばっていきまっしょい」が放映されるというではないか!

テレビ版がんばっていきまっしょい1
テレビ版がんばっていきまっしょい2

映画で田中の演じた主人公は、なんと鈴木杏(花!)が演じるという。「花とアリス」のコンビがこんなところで関係するなんて。奇遇としかいいようがない。

付言:長らく絶版になっていた敷村良子の原作が6月に幻冬舎から文庫本として発売されるとのこと。坊ちゃん文学賞受賞作品である。

| | コメント (4) | トラックバック (1)

2005.05.10

女性専用車両

連休も終わり、東京に戻ってきた。町田でJRから小田急に乗り換える時に「5月9日から女性専用車両を導入」というお知らせに気がついた。「ふーん」などと思い、帰宅。夜のニュースで関東の各鉄道で同車両がいっせいに導入されたことが報じられていた。

いや、てっきりこちらでもやっていると思っていたのである。関西は確か3年前くらいに始まったはず。別に早いからいいとか悪いとかということではなくて、単に意外なことだと思った。さらにニュースは利用者のインタビューもおこなっていたのであるが、「ありがたい」「男性差別だ」「ややこしい」「別に」などなど、どれもこれも既視感を覚えるような内容だった。

数ヶ月もすれば、誰(一部の反対活動している人たちは除く)も何も言わなくなると思います。:-P

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2005.05.09

松樹剛史『ジョッキー』

「日本の競馬小説は数多い」と藤代三郎は本書の解説で指摘する。およそ20ほどがリストアップされた作品の中には、直木賞(新橋遊吉)や江戸川乱歩賞(岡嶋二人)、吉川英治文学賞(宮本輝)などを受賞した「大物」も名を連ねている。その中のいくつかは競馬に縁のない私でも読んだことがあるし、他にも寺山修司や古井由吉、吉村昭ら錚々たる面々が書く『日本ダービー十番勝負』(小学館文庫)や武豊の一連のエッセイ本(超一流の騎手は文章も読ませる)、さらに競馬ミステリーの傑作を続々とものすディック・フランシスの作品など、気がつけばそれなりに手を取っている。文芸作品ではないが、映画でも競走馬を扱ったものをやはり観ている。

ドラマがあるのだろう。栄光と挫折、勝利と敗北、成功と失敗。さらには夢やロマンも。時には恋愛もある。競走馬という選ばれたエリート(負け続ける馬もある意味ではエリート)を巡って、生産者、調教師、オーナー、騎手、そして彼らを見つめる家族やファンといった、さまざまな思いを持つ人々が存在する。そして強い求心力を持つレース(これは必ず盛り上がる)という山場も用意されている。つまりはドラマである。作品の巧拙、優劣はもちろんあるが、同工異曲の物語が大量生産されるのは、それなりの理由があるのだ。

『ジョッキー』は生活を保障されていないフリーの中堅騎手が主人公である。彼には金も人脈もないが、技術と誇りがある。なんだか設定があまりにもわかりやすくて、それだけで引いてしまいそうになったが、細部の描写に優れている物語にはうねるような緩急の妙があり、引き込まれながら一気に読み終えてしまった。ともすれば絶望的な境遇に陥りそうになる主人公を、愛情の注がれた軽妙な描写が救っている。深いという感じではないけれど、読後の爽快感はなかなかのものである。そういう気分を味わいたい時にはお薦めの一冊である。第14回小説すばる新人賞受賞作品。(集英社文庫、2005年1月)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005.05.07

またの日の知華

優れたドキュメンタリー映画を撮ることで知られている原一男監督が、初めて一般劇映画を撮影した。1970年代を舞台にした「またの日の知華」がそれである。

「ドキュメンタリーは虚構である」との原監督自身のことばは、つまり現実とは私たちが都合よく解釈した要素だけで再構築されて成立していることを示唆している。描かれたものが事実であっても、描かれざるものが排除された時点で、総体としてそれは虚構となる。原監督のことばの真意は那辺にあるのか、寡聞にして知らない。しかし、事実のどの側面を見せるかによって、現実世界の相貌は文字通り百面相の趣を呈するであろうことは、誰しも疑いえないことである。

谷口知華という女性の生を描く本作品の最大の特徴は、このヒロインを四人の俳優(吉本多香美・渡辺真紀子・金久美子・桃井かおり)に演じさせたことにあるだろう。知華と四人の男性との愛を描くことから、それぞれの男から見た知華(イコール現実、事実)は当然異なった存在としてあるはずだという原監督の考えに基づく。その試みは大胆で演出方法としての説得力もあるとは思うが、しかし、これが本作品にとって有効な方法で、うまく機能しているかと問われると、強い疑問を感じるといわざるをえない。

一つの連続した物語に見えないのだ。

作品世界の中心にあるべき知華の立ち位置や印象が一点に定まらないため、一話完結で理解をしてしまいそうになる。どうにも30分ごとに襲い来るリセット感を払いのけることができなかった。この不統一さはオムニバス映画のそれに極めて近いとさえ思う。しかも個々のエピソードが昼メロ風で俗っぽい。単調かつ浅薄な性格は寄せ集め感をよりいっそう強調する。四話とも知華が男性と絡み、思いがけなく人生の暗所へ落ち込んでいくさまが描かれる。相互のつながりは希薄かつ唐突である。ここには深化はなく変化だけがある。むろんこの不統一さは四人の俳優の個性の賜物と読み替えることも可能だが、たとえ好意的にそう解釈したとしても、一人の女性の描写としてのまとまりを欠くとの批判からは逃れられないだろう。この演出が大多数の人間は等価交換可能な匿名的存在でしかないというブラックユーモアだとしたら、それはそれでおもしろいかもしれない。もちろんこれは深読みにすぎるだろうけれど。

映像として象徴的で美しい場面はいくつもあった。音楽はやや叙情に流れすぎてうるさい。時代背景を映す映像(主に大学紛争、安保闘争、過激派など)が合間合間に挿入されるが、物語の核心にほとんど関与せず、それらを出すことの必然性に乏しい。世界はかくも激しく引き裂かれた断片的なピースとしてあると考えるべきであろうか。映画館を出て九条の商店街に戻ってきた時に流れていた「勝手にしやがれ」が、なんだか場末感を強調してひどくもの悲しく響いた。大阪・九条、シネヌーヴォで鑑賞。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005.05.03

村上春樹『象の消滅』

concorde村上春樹を読み始めたのは友人に勧められたのがきっかけで、ちょうど長編小説『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』(新潮社)や短編集『回転木馬のデッド・ヒート』(講談社)などが出た頃であった。1987年から86年あたりのことである。『世界の〜』にすっかり惚れ込んでしまった私は、手当たり次第に既刊の単行本や文庫本を読みあさった。『風の歌を聴け』『1978年のピンボール』『羊をめぐる冒険』『中国行きのスロウボート』『カンガルー日和』『螢・納屋を焼く・その他の短編』などの小説群、さらに『村上朝日堂』や『象工場のハッピーエンド』といったエッセイ集も手に取った。気に入ったものは読み終わった直後にまた最初から読み直したりもしていた。今はそんなことはできない。若かったのだと思う(苦笑)。そして1987年に大ベストセラー『ノルウェイの森』(講談社)が出ることになる。当時の甘酸っぱい思い出とともに、村上春樹の初期作品群の数々は強烈に脳裏に刻み込まれている。

新作『象の消滅』は実は新作ではない。この一書は、1993年にアメリカのクノップフ社から刊行された村上の初期短編集『The Elephant Vanishes』の日本語版なのである。ただし日本語版といっても英語に訳された作品を再翻訳したわけではなく、原則としてオリジナルテキストをそのまま収めている。したがってかつての作品を読んで知っている人間にはさほど魅力的なものではないかもしれない。しかし、当時の村上作品のトーンをこよなく愛する者にとっては、初期ベストアルバム的性格を持つ本書はとても素敵な贈り物に思える。実際はいくつかの作品には村上が手を入れているし、「レーダーホーゼン」という短編はアメリカの雑誌に掲載されたショートバージョンを新たに日本語に翻訳して収録している。まるでセルフカバー・アルバムのようではないか。装幀もアメリカのペーパーバックのような雰囲気に満ちていて、とても洒落ている。村上春樹の初期を味わいたい人と味わい直したい人に。(新潮社、2005年)

村上モトクラシ(公式サイト)

| | コメント (2) | トラックバック (1)

« 2005年4月 | トップページ | 2005年6月 »