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2005.05.07

またの日の知華

優れたドキュメンタリー映画を撮ることで知られている原一男監督が、初めて一般劇映画を撮影した。1970年代を舞台にした「またの日の知華」がそれである。

「ドキュメンタリーは虚構である」との原監督自身のことばは、つまり現実とは私たちが都合よく解釈した要素だけで再構築されて成立していることを示唆している。描かれたものが事実であっても、描かれざるものが排除された時点で、総体としてそれは虚構となる。原監督のことばの真意は那辺にあるのか、寡聞にして知らない。しかし、事実のどの側面を見せるかによって、現実世界の相貌は文字通り百面相の趣を呈するであろうことは、誰しも疑いえないことである。

谷口知華という女性の生を描く本作品の最大の特徴は、このヒロインを四人の俳優(吉本多香美・渡辺真紀子・金久美子・桃井かおり)に演じさせたことにあるだろう。知華と四人の男性との愛を描くことから、それぞれの男から見た知華(イコール現実、事実)は当然異なった存在としてあるはずだという原監督の考えに基づく。その試みは大胆で演出方法としての説得力もあるとは思うが、しかし、これが本作品にとって有効な方法で、うまく機能しているかと問われると、強い疑問を感じるといわざるをえない。

一つの連続した物語に見えないのだ。

作品世界の中心にあるべき知華の立ち位置や印象が一点に定まらないため、一話完結で理解をしてしまいそうになる。どうにも30分ごとに襲い来るリセット感を払いのけることができなかった。この不統一さはオムニバス映画のそれに極めて近いとさえ思う。しかも個々のエピソードが昼メロ風で俗っぽい。単調かつ浅薄な性格は寄せ集め感をよりいっそう強調する。四話とも知華が男性と絡み、思いがけなく人生の暗所へ落ち込んでいくさまが描かれる。相互のつながりは希薄かつ唐突である。ここには深化はなく変化だけがある。むろんこの不統一さは四人の俳優の個性の賜物と読み替えることも可能だが、たとえ好意的にそう解釈したとしても、一人の女性の描写としてのまとまりを欠くとの批判からは逃れられないだろう。この演出が大多数の人間は等価交換可能な匿名的存在でしかないというブラックユーモアだとしたら、それはそれでおもしろいかもしれない。もちろんこれは深読みにすぎるだろうけれど。

映像として象徴的で美しい場面はいくつもあった。音楽はやや叙情に流れすぎてうるさい。時代背景を映す映像(主に大学紛争、安保闘争、過激派など)が合間合間に挿入されるが、物語の核心にほとんど関与せず、それらを出すことの必然性に乏しい。世界はかくも激しく引き裂かれた断片的なピースとしてあると考えるべきであろうか。映画館を出て九条の商店街に戻ってきた時に流れていた「勝手にしやがれ」が、なんだか場末感を強調してひどくもの悲しく響いた。大阪・九条、シネヌーヴォで鑑賞。

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