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2005.10.29

庭園植物記展

林檎自分で花や植物の写真を撮ることはあまりない。撮り方がよくわからないのだ(他はわかっているのかというツッコミは受け付けません :-P)。被写体そのものの美しさを主題化し再構築するだけの力が自分にはないのだと思う。だからもっぱら見る方に回る。

目黒にある東京都庭園美術館で開催中の「庭園植物記展」に出かけてきた。東松照明の印象的な「ゴールデンマッシュルーム 千葉」をあしらったチラシを見つけた時から、ぜひとも行きたいと思っていた展覧会である。この展覧会では日本における植物表現の歴史を辿ることを目的とし、江戸時代幕末期の植物画から現代の写真家による作品までを一堂に会して展示する。

アールデコ様式の旧浅香宮邸の建物全体に、まさに匂い立つような植物の絵や写真が飾られている。どれもが興味深く見飽きることがない。江戸時代から明治時代に描かれた植物画は、それらがもともと科学的な目的(カタログ・図鑑)でスケッチされたことを忘れさせるような美しさで、大変印象的である。また明治の頃から日本でも実用化された写真による植物の描写も、観察的手法でありながらモノクロの姿がたいそう美しい。生け花や植物をモチーフとした工芸作品も見応えがあった。

圧巻は現代の写真家による作品群である。先に紹介した東松照明は言うに及ばず、生々しい荒木経惟の花や極めて精緻な井津建郎のブループラチナプリント、鈴木理策の息づいているかのような吉野桜、色彩の渦を巻き起こす蜷川実花(ウインターガーデン一室がすべてニナミカワールドになっている)など、どれもがそれだけでも見に来た価値があるほどのインパクトであった。

図録の出来が秀逸である。こういうものを見ると、ますます自分で花の写真など撮らなくてもいいなと思わされることしきりである。11月6日まで。

補足 いくつかの写真集
蜷川実花の『Acid Bloom』(花の写真集)と『Liquid Dreams』(金魚の写真集)を手に入れた(ともに河出書房新社)。いずれ買おうと思っていた写真集であるが、今回の展覧会をきっかけにして矢も盾もたまらずという感じになってしまった。色彩が溶け出したような写真は好き嫌いが分かれるところだろう。しかし、理屈抜きにこのド派手な色彩が目を悦ばせてくれるときもあるのであった。それからこれも前からほしかった畠山直哉の『LIME WORKS』(amus arts press)もようやく見つけることができた。木村伊兵衛写真賞を受賞したこの写真集は、日本国内にある石灰石鉱山、石灰工場、セメント工場を撮影したものである。いわば植物(自然)の対極にある人工的風景である。これがはっとするほど美しいのだ。環境破壊などという道徳的なことは今は持ち出すまい。表現としてその美しさに敬意を表する。

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2005.10.26

せかいのおわり

風間志織監督の「せかいのおわり」で初めての東京ミニシアター体験となった。お昼過ぎからの「5時間歌舞伎鑑賞耐久レース@国立劇場」を乗り越え、渋谷に着いたのが6時過ぎ。とりあえずチケットを確保しなければとシネ・アミューズに急ぐ。

初渋谷。

人多すぎ。街の流れを感じることができず(たんに知らないだけ)、迷いそうになる。なんとか東急百貨店を探し当てて、道を挟んで向かいにある目的地に到着した。東急では大大阪博覧会なるイベントが開催中で、そこには通天閣のビリケンが史上初めて出張中であった。こんなところで巡り会うなんて奇遇である(入場していないけど)。ともあれ開場45分前に手に入れた整理券番号は1番だった。

盆栽ショップの店長である三沢(長塚圭史)とそこで働く慎之介(渋川清彦)。その店に慎之介の幼なじみであるはる子(中村麻美)が彼氏と別れて転がり込んできた。奇妙な共同生活を始めることになった三人。慎之介ははる子が気になりながらもナンパを繰り返し、はる子ははる子で慎之介の思いを玩ぶかのように知らないふりをしている。三沢はそんな二人を見守りながら、慎之介に愛情を抱いている。彼ら三人の感情と生活の行方はいかに……。

男から女へ、女から男へ、そして男から男へ。愛情のベクトルは向き合わず、つねにそれは一方通行のものとして立ち現れる。「冬の河童」や「火星のカノン」と同じように、「せかいのおわり」でも複数の男女の少しもの哀しくて、見ようによっては喜劇的でもある感情のすれ違いが展開されている。しかしながら、そのすれ違いは決して不毛ではないと映画は語っているようだ。微妙にずれる人間関係は、あたかも螺旋階段を昇っていくかのように進行する。そしていつも同じ風景しか見えないと思っていても、実は一段の高みへと確実に歩を進めている。その妙味。深刻さと緩さの匙加減がほどよい。

世界の終わりの喩としての「落とし穴」は、確かに閉塞感や絶望感に包まれてはいるものの、落ちたものは皆等しく光の来る方向の見つめるという、決定的に希望に満ちあふれた場所でもあった。だからこそラストシーンにおいて、落とし穴という「せかいのおわり」で同じ空を見つめるはる子と慎之介の視線に、少し幸せなものを感じて救われる思いがするのだろう。私にとっての風間作品のベスト。

全編がデジタルビデオカメラによる撮影。シネ・アミューズのような劇場で観る限り、画質がどうこういうものはなかった。パンフレットには資金難をぼやく文章(いや、達観か)も綴られていたが、私は次の風間作品も心待ちにしている。

せかいのおわり 公式サイト

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2005.10.24

綿矢りさ『インストール』

インストール長々としたモノローグと奇を衒った映像(と主演アイドル)に頼った映画「インストール」は、最年少芥川賞作家綿矢りさのデビュー作を原作としていた。映画を観たときにはまだ小説を読んでいなかったのだが、単行本から4年が経ち、ようやく文庫本として登場した。

受験勉強からドロップアウトした女子高生朝子と小学生のかずよしがコンビを組み、風俗チャットのアルバイトで新しい世界を覗き見るという、有り体にいえばマスコミが喜んで飛びつきそうな今時の十代の物語ではあるが、この小説はそうした描かれた内容で耳目を集めようというものではなかった。素直にそこに広がる作家の日本語に感服した。無論欠点をいくつもあげつらうことは可能であろう。しかし、そうすることの無益さを思い知らされるほどの妙なるものがここにはあると思った。

物語はほぼ全編が朝子のモノローグによって紡ぎ出されていく。映画はそれをそのまま枠組みとして利用しようとしたため、観客は上戸彩のあまり上手くない退屈な朗読をひたすら聞かされることになってしまった。ところが、小説では右へ左へと揺れる息の長い文章が朝子の心理の揺蕩いや定まらぬ視線をそのまま形象化したように見える。綿矢りさのフラフラする文章、侮りがたし。「インストール」はそうした片々たる感情や視線の積み重ねの総体としてそこにある。解説の高橋源一郎が「完璧!」「快感!」と有頂天になってしまっているのはどうかと思うが、今はよしとしておこう。

二日酔いの気分で起き上がり汗ばんだ髪の間から前を覗くとちょうど夕暮れで、ぎらぎら煮えたぎって揺れ落ちる地獄の落陽が、部屋を有害な蜜色に染め上げていた。またその照らされた部屋の汚さがホラーで、参考書の山や湿った汗臭い服、緑の網タイツに二日前のお好み焼き、プラス何故買ったのかイギリスの国旗、の転がった奇怪な阿片窟、私はゴミに囲まれたまま呆然とした。(中略)さらに外から、豆腐屋のプー…プー…というやるせない笛の音色が段々近づいてくるのが聞こえてますます歯がゆく、弱り、このまま私、廃人になってしまうのではないかと本気で怯えた。しかし私は大掃除、という愉快な企画をふっと思いついたのでなんとか救われた。単なる掃除だけじゃ物足りない、全部捨ててやろうと、ただ単純労働を求めてうずうずしている体のために巨大な本棚を部屋から運び出す。破天荒なり。

長々と引用していたら町田康を思い出した……。

第38回文藝賞発表

併録の書き下ろし短編「You can keep it.」が実は綿矢の芥川賞受賞第一作である。大学生活を書き残したくて書いたという小説らしい。最悪を回避するための方策が最悪を招き、それでも最悪と最悪のズレがかすかな幸せをもたらすという、なんともいろいろな場所に連れて行かれる小説であった。(河出文庫、2005年10月)

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2005.10.16

ふたつの「東京」

町田の空「東京はずるい」とmi4koさんが言った(mixi日記でのことなのでリンクはしない)。「この二文字を付けるだけで、いっぱしのブランドのように見えてしまう」というご託宣にはなるほどと首肯せられるところがある。方法としてひねりがなく、漠然としたイメージにのみ頼っているところは安易の謗りは免れないだろう。あっ、私の日記の名前……、「東京たるび」 :-P

「東京」の二文字を名に持つ書を二冊紹介したい。いずれも「東京」という名に頼ることのないよい本である。私の日記とはまるで違う(当たり前)。

川上弘美の『東京日記 卵一個ぶんのお祝い。』(平凡社、2005年)は、月刊雑誌「東京人」(都市出版)に連載中の記事をまとめたものである。川上には『椰子・椰子』(新潮文庫、2001年)という嘘日記の名作があるが、こちらは「五分の四くらいは、ほんとうです」(あとがき)とあり、基本的には彼女の日常生活の出来事を書いたものになっている。しかし、ここに描かれる世界はいつもの川上ワールドの不思議な空気感やおかしさに満たされており、なんでもないことが特別なことに見えてくる。

 ツボ押し器を三種類買う。蛙の形のものと、四面体のものと、杖形のもの。蛙の形のものを「タツヤ」と名づける。タツヤという名の人に知り合いがいないので。でもちょっと知り合ってみたい名前なので。
 夜、タツヤに腰と肩のツボ押しをさせたけれど、あまり効かない。

いいなぁ。この脱力感。ちなみに私にはタツヤという知り合いがいる(笑)。門馬則雄のシンプルな挿絵もよい味わいを醸し出している。

もう一冊の「東京」は東京都写真美術館の総合開館記念展の図録『写真都市TOKYO』(1995年)である。1980年代以降、写真家たちが変貌し続ける東京をいかに捉えてきたかということを探るもので、東京に造詣が深い実力派の作家が居並び見応えがある。長野重一・森山大道・潮田登久子・宮本隆司・林隆喜・瀬戸正人・鬼海弘雄・奈良原一高・須田一政・山﨑博・大西みつぐ・田村彰英らの寄稿文からは、彼らの東京観や写真についての考え方がうかがえて興味深かった。この写真総点数220枚全240頁の図録がわずか1000円、東京都写真美術館を訪れた折には手に取って見られたい。

写真は今日の町田の曇天。なお「東京たるび」はこれからもあんな感じです :-P

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2005.10.14

いい椅子がほしい

ミラ・チェア週に何日かは立ちっぱなしでプレゼンのようなことをしてはいるが、基本的には座り続けることが仕事のようなところがある。若い頃はどんな椅子に座っていても平気だったのに、近頃はすぐに腰や背中が疲れてきて、ただでさえよろしくない作業効率がますます悪化の一途を辿っている。死活問題である。

実は椅子の前に作業用の机にも難儀していたのだが、一人暮らしの小さな部屋に大きな机とテーブルを並べることなど不可能なので、両方に使える無印良品の テーブルを手に入れた。これは広さも十分で、安っぽい感じもなく気に入っている。そして次はいよいよ椅子である。

ネットや雑誌でいろいろと物色していると、Herman MillerAeron ChairMirra ChairSteelcaseThinkLet's Bあたりがよいなと思わされる。背もたれ高さ調節・座面高さ調節・座奥調節・肘掛け上下調節は体に合わせるために必須である。人に見せるものではないが、デザインもそれなりに美しいものであってほしい。そんなことをつらつら考えていると、必然的に候補は絞り込まれ、同時に値段もそれなりのものになっていくのであった。UCHIDAの椅子なども機能的にはよさそうだが、いかにもビジネス然とした造りが気持ちを萎えさせる。

自転車のサドルと同じく人がいいという意見はあまり参考にはならない。自分自身に合うかどうかは賭けのようなところがあって、しかもそれは長時間試してみて初めてわかるというものである。店頭で試しに座ることは決して無駄ではないだろうが、五分や十分くらいの時間ではどの椅子も「いい気持ちだなぁ」程度のことしかわからないはずである。十時間くらい連続で座らせてもらえるとありがたいが、そんな奇特なサービスをしてくれるメーカーや店舗などあるはずもなし……。

結局は財布と相談しながら「えい!やっ!!」と決めるほかない。アーロンチェア、どうして十五万もするの……。「座る」ことにかけて一家言お持ちの方々、どうか椅子へのこだわりをお聞かせ下さい。ああ、今も背中が痛いよ。

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2005.10.13

恋は五・七・五!

長澤まさみの映画主演第一作は文系根性映画「ロボコン」(2003年)であった。実際に開催されている「ロボットコンテスト」を題材にして映画化したものである。まさに青春映画の王道を行く佳作であったが、いかにも低予算でB級邦画な雰囲気が濃厚だった。飛ぶ鳥を落とす勢いの長澤もまだまだ地味に見えるところが今となっては懐かしい。モスラの小美人をしていた少女がロボコン熱血女子高生や薄命の美少女(「世界の中心で愛を叫ぶ」)を経て、今や浅倉南(「タッチ」)なのだ。人生ゲームだと大富豪への道になるのだろうか。

「ロボコン」と同じく高校生の文系根性映画「恋は五・七・五!」は、馬鹿馬鹿しくもおもしろかった「バーバー吉野」の荻上直子監督の作品である。毎夏愛媛県松山市で開催されている「全国高校生俳句甲子園大会」を題材にしている。大阪の地元の高校がこの大会の常連校で、市内ケーブルテレビは大会の前後によく特集番組を組んでいた。これがなかなかおもしろい。詠まれる句のすばらしさもさることながら、それぞれの句を巡ってのディベートがとても熱いのだ。

総じてこの映画は「俳句甲子園」大会のエッセンスを上手く掬い取り映像化していると思う。さらりとしたタッチのユーモラスな場面や昔懐かしいちょっとエッチなシーンなどが軽やかなリズムを形成する。漢字の書けない帰国子女の治子(関めぐみ)が、平易でありながらうまく感情をまとめ上げる句「南風わたしはわたしらしく跳ぶ」を詠み、「風雪に耐えたる春の城址かな」という相手方の重厚な句を打ち破るクライマックスなどは、現実の俳諧の世界における伝統と革新の鬩ぎ合いを見るかのようである。治子に思いを寄せる写真部のつっちー(細山田隆人)の句「印画紙に写せぬ君の笑い声」も青臭いところがいいなぁ。

  「俳句はポップなんだから!」(by治子)

然り。同系統の文系青春映画「スウィング・ガールズ」の完成度には及ばないけれど、先の「ロボコン」には十分太刀打ちできるものだろう。関めぐみが長澤まさみほどブレークするかどうかは今後の展開次第か。

補足
最近刊行された枡野浩一ドラえもん短歌がなんだかおもしろいなと思った。
  失恋をグウで殴ってもう決めた私今日からジャイアンになる
  自転車で君を家まで送ってたどこでもドアがなくてよかった
ちょっと自分でも作ってみたくなる。ミーハー?

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2005.10.07

村上春樹『東京奇譚集』

平凡な生き方をしているせいだろうか、これまで奇譚と呼べるような体験をしたことがない。それが幸せなのか、そうではないのか。微妙(若者言葉)。いずれにしても、それを体験することで何か人生に決定的な変化や違いが必ずしも起こるわけではないことだけは確かであろう。

村上春樹の新作『東京奇譚集』は五編の小説を収めた短編集である。書き下ろしの一編を除き、いずれも「新潮」に掲載されたものである(2005年3月号〜6月号)。タイトル通り「不思議な、あやしい、ありそうにない話。しかしどこか、あなたの近くで起こっているかもしれない物語」(帯宣伝文句)を描く。奇譚といっても驚天動地の出来事が起こるということはない。どの事件も実にささやかなもので、その渦中にいるときはそれなりの騒動に巻き込まれたり、動揺したりするものの、過ぎ去ってしまえば、もはやそれがあったという痕跡しか残っていないほどのものである。そんな出来事を語る。

五編のうち最初の「偶然の旅人」が方法論的にも内容的にも最もよくできていると思った。語り手として設定された「村上春樹」が登場し、その村上が聞いた奇譚を語るというスタイル。展開にも無理がなく、不思議な出来事にきちんとしたリアリティの意匠が施されている。これが二編目以降になると、少々強引かと思えるような話の運びとなり、奇譚ゆえに作り物臭さが感じられてしまう。この作り物臭さというのは初期長編に見られた独特の虚構の世界とは異なる質のものである。初期の小説群は独特の臭みを臭みとして押し切る力(読ませる力)があったと思うのだが、『東京奇譚集』にはその力はないように感じた。

出来のよい短編集を読みたいのならば、春に刊行された『象の消滅』(新潮社)をお勧めしたい。最新作は村上春樹の作品を追いかけてきた人に。(新潮社、2005年9月)

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2005.10.03

サマー・タイムマシン・ブルース

ドラえもんの道具ならタイムマシンよりどこでもドアがほしい。

時間を行き来するより空間を行き来する方が人生をより豊かにしてくれそうだからという物言いは気取りすぎかもしれないが、やはり人生は一回的に生きるものではないかと思うからである。もちろん本人の意志や努力とは無関係に悲劇的状況におかれた人々が世界中に存在しているのも確かなことであって、タイムマシン不要とは一概には決めつけられないことも承知している。あくまでも個人的感想ということで。

「サマー・タイムマシン・ブルース」は、とある地方大学のSF研究会の面々が壊れたエアコン用リモコンを奪ってくるために時間を行き来するという、一発芸もしくは身内受けネタのような映画である。もともとは京都の小劇団「ヨーロッパ企画」の演目であったのを、「踊る大捜査線」の本広克之監督が映画化した。映画自体はそれなりにおもしろいところもあるのだが、劇団に所属している俳優たちの見せる大仰な芝居臭さが鼻につき、その点がなんともあざとくて冷めた気分になった。演出の時点で何とかならなかったのだろうか。「それをおもしろいと思っているのは、あなたたちだけではないの?」というものがあまりにも多すぎるように思われた。せっかくの上野樹里や真木よう子がちっとも生きていない。もったいない。

けだし、これは生の演劇で見る方が数段楽しいのではなかろうか。タイムマシンを観客の想像力で存在するものとして脳裏に思い描く。CGでそれらしく見せるよりその方がはるかにリアルに感じられると思う。タイムマシンが本当に必要なのはこの映画自体なのかもしれない。ワーナーマイカルシネマズ茨木で鑑賞(約1か月前に見たのに今の今まで記事に書かなかったのは……以下略、察してください)。

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