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2005.11.30

文字の美

太陽の塔シャープのワープロ専用機「書院」を買ったのはもう二十年も前のことになる。初めて手にした電脳機器である。まだ漢字もJIS第1水準くらいしかまともに表示することができないのに(第2水準は別にフロッピーを差し込んで表示させる)、今ならアップルのPowerBook G4が軽く買えるほどの値が付いていた。大枚をはたいたのは、どうにもならない悪筆から逃れるためである。もともと文章を書くことは嫌いではないが、肝心の自分の書く非芸術的な字はあまり好きではない。大量にテキストをものす必要もあったので、効率化と見栄えのために思い切ったのであった。

それゆえ美しい肉筆の文字には大いなる憧れといくばくかの妬みがある。

出光美術館で開催中の「平安の仮名 鎌倉の仮名」は、従来、文字史や書道史の観点から論じられることの多かったひらがなを、「和歌を記す文字」として捉え直そうという試みの展覧会である。古今和歌集成立から1100年、新古今和歌集から800年の記念すべき年にちなむ企画としては出色のものであろう。国宝2点「歌仙歌合」(伝藤原行成、久保惣記念美術館蔵、ただしこれは展示期間終了)、「見努世友」(出光美術館蔵)を含む平安時代から鎌倉時代までの古筆名筆を集成した展覧会は、見る悦びに溢れたものであった。ほの暗い中で見る流麗かつ優美な書体は、伝統的な文学を盛り込む器として、時には和歌以上の存在感を持って紙上に輝きを放っていた。図録の出来も秀逸。

さて、溜め込んでいた日本の美についての書を二つばかり。まず榊原悟『日本絵画の見方』(角川書店)は、広くわが国で人気を博す西洋絵画に比べて、一部の好事家のものになっているとおぼしい日本の絵についてわかりやすく解説した鑑賞手引書である。制作事情をはじめ、画材、表装、落款、画賛などの絵の要素と、掛幅・絵巻・屏風・襖絵などの画面のありようなどから、真贋や来歴、制作意図などを解く。もう一冊は高階秀爾『日本の美を語る』(青土社)。こちらは『日本の美学』に掲載された日本人の美意識についての対談を集めた書である。対談者は秋山虔、磯崎新、今道友信、大岡信、大橋良介、河合隼雄、河竹登志夫、小島孝之、佐野みどり、田中優子、芳賀徹、橋本典子、丸谷才一、山口昌男と、日本の各界を代表する豪華なラインナップである。 「見立て」「尽くし」「間」「笑い」「水」「橋と象徴」など多彩なテーマが語られている。高邁良質な知に圧倒される。
 

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2005.11.26

日常の旅

柴崎友香 奥田英朗 角田佐内
大阪と東京の二つの「日常」を行き来する距離感は、日々の生活に濃密な「旅情」を感じさせる。そうした根無し草感覚から得難い何ものかを引き出すことができるのかどうか、まだ定かではない。でもいまのところ、そんなに悪いものでもないと思っている(思い込もうとしているだけだったら嫌なのだが)。

柴崎友香『青空感傷ツアー』(河出文庫)は、映画化された『きょうのできごと』(同)に続く第2作である。失恋直後の女と退職直後の女が二人であてどもなく旅をするというものである。東京→大阪→トルコ→徳島→石垣島と巡りながら、しかし、この小説は観光案内のごとき内容にはならない。描かれているのは非日常の中の日常である。トルコにいても石垣島にいても、彼女たちの精神は大阪での生活、大阪でのありようから離れることはない。それぞれの地は大阪と相克し、二人の日常を相対化していく。それを手垢にまみれた「自分探し」などという括りで記すことはすまい。柴崎独特の極めて映像的な文章はここでも健在である。まだそれほど知名度があるとは言えないこの作家を、1作目2作目の解説を担当した二人の芥川賞作家(保坂和志・長嶋有)が手放しで褒めている。同郷同窓としては何となく嬉しい(笑)。

直木賞受賞後に発表された奥田英朗『サウスバウンド』(角川書店)もまた日常の中の旅を描く。伝説の元過激派を父に持つ少年は、父親の無軌道な生き方に振り回されつつも、どこかでその群れることを嫌う精神に惹かれてもいる。父が東京で問題を起こし、そこにいられなくなった一家は沖縄、波照間、石垣へと居を移していく。父にとって自らの信じる「楽園」を求める人生は、まさに旅そのものであろうし、彼とともに運命をともにする少年や家族達の日常生活もまた、旅の精神に満ちあふれたものとなるだろう。奥田一流のユーモアに富んだ文章が、ともすれば深刻な筆致になりがちな社会問題をも軽やかに笑い飛ばしている。少年の冒険文学としておもしろく読み切った。

角田光代・佐内正史『だれかのことを強く思ってみたかった』(集英社文庫)は、直木賞作家と木村伊兵衛写真賞作家によるコラボレーション。佐内の撮影した東京のスナップ写真と角田の東京を舞台にしたショートストーリーが交互に登場する。これもまた日常の旅である。ただ看板はものすごいけれど、この本自体の出来は今ひとつだと思った。とりわけ角田の短編がひどい。作り物臭さばかりが鼻につき、物語に入り込むことができない。これならば写真に合わせたエッセイとか東京散歩紀行にでもした方が、はるかによかったのではないか。せっかく二人で東京を「ほっつき歩いた」(角田談)のに。虚構が虚構以外に見えない時ほど哀しいものはない。

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2005.11.25

ハサミ男

ハサミ男・麻生少女の喉にハサミを突き立てるという手口の連続殺人事件が起きる。犯人は父親の自死によって精神のバランスを欠くことになった若い娘(麻生久美子)と謎のパートナー(豊川悦司)の二人。マスコミは犯人に「ハサミ男」の名を与え、社会問題となる。ところが、同じ手口をまねた別の殺人事件が発生した。ただし「別人」の犯行であることを知るのは「真犯人」である彼ら二人だけ。真犯人による犯人捜しが始まった……。

殊能将之の小説「ハサミ男」(講談社)を原作とするミステリーである。血生臭い場面も多く、そういうものが苦手な私ではあるが、麻生久美子の出演作とあっては見ないわけにはいかない。「贅沢な骨」(行定勲監督)や「魔界転生」(平山秀幸監督)などで見せた麻生の陰鬱な凄みがよく発揮されていたと思う(自殺を試みるシーンの痛々しさ!)。さて物語は真犯人こそ明らかにされているものの、それ以外の多くの謎は手つかずのまま解明されるのを待っている。いや、真犯人の実体も謎のひとつであった。ただそれらの謎が次々に明かされても、予測可能な答えばかりで驚きがないのがどうにも。ミステリーとしての肝心な部分の底の浅さが惜しまれる。合間合間に入る警察側の描写が妙にコミカルなのも違和感を覚えた。

主演の二人の力に見合った脚本と演出がほしかった。麻生演ずる知夏に電気ポッドで殴り殺される若い男の顔が幸せそうに見えたのは気のせいか。主人公達の歪んだ精神を浄化するかのごとく喉に屹立する十字のハサミは印象深かった。池田敏春監督作品、他のはどうなのだろう。

「ハサミ男」公式サイト http://www.media-b.co.jp/hasami/top.html

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2005.11.22

変身

変身・蒼井優近頃、蒼井優はル・クルーゼで料理することに凝っているという。少し前までは「鯖の味噌煮」だったのが、今は「牛肉のワイン煮」である。おそるべし、フランス鍋! しかし、この重い鍋を使えばもっとおいしい料理が作れるのか、食べたことのないような逸品が作れるのかなどと、甚だしい勘違いをしながら物欲を刺激されている。もっとも鍋ひとつに二万も三万も出せるかという現実的な問題があるのだけれど。

その蒼井優の出演する新作映画「変身」を観た。「変身」は東野圭吾の同名小説を原作とする。ある事件に巻き込まれ頭部に銃撃を受けた青年(玉木宏)が、脳移植手術を受けることで奇跡的に一命をとりとめる。ところが、移植部分の影響によって日を追うごとに人格や行動が変わっていく。周囲の人々とトラブルを起こし、恋人(蒼井優)を愛する気持ちすら失ってしまう。自分自身が消え去る前に彼らに何ができるのだろうか。

「変身」公式サイト http://www.henshin.cc/main.html

すべてにわたって湿度の高すぎる演出が鼻についた。とりわけ劇中に流れる音楽がいただけない。悲しい場面でもの哀しい音楽、緊張感の高まる場面でおどろおどろしい音楽、楽しい場面で爽やかな音楽と、まったく何も考えていないような選曲である(音楽担当は崎谷健次郎)。高まる気持ちも一気に萎えた。主演の二人、「変身」していく青年を演じる玉木宏と、それを「変わらず」見守り続ける蒼井優の演技がよかっただけに惜しまれるところである。むしろ音楽など何もなくてもよかった。映画音楽の難しさを思う。なお脚本は細部の描写より展開重視のものである。よしあしは人によるだろう。

さて今年は出演作が目白押しだった蒼井優、あとは年末の「男たちの大和」を残すだけとなった。これは見に行くかなぁ? ワーナーマイカルシネマズ多摩センターで鑑賞。

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2005.11.20

杉本博司 時間の終わり

杉本博司上下が白と黒に色分けられた写真。どこかの海を写したものだと知り、以来その作家がとても気になっていた。杉本博司が代表作を収めた評論集『苔のむすまで』(新潮社)を刊行したのは今年の夏のことである。深い思索の跡がうかがえる文章は、杉本の写真と疑いなく同質のものであり、読む者は彼の文章の背後にある「何か」に思いをいたすことになる。

形而下から形而上へ。視覚が絶対的な権力を有する写真でありながら、見えているものはむしろ問題ではない。無限遠の向こうにある建築物や鈍い光を放つ映画館のスクリーン、そして白と黒の間で揺らめく水平線。ここでは写真から立ち上がってくる気配や感情、思想、伝統、歴史などこそが重要である。人類の叡智といってもよい。むろん他の写真家にもその種の思索を強いるものはあるだろう。しかし、杉本はそれなくしては作品自体が意味をなさない。それくらい徹底している。見る者に考えること、感じることを強要する杉本の写真は、楽な気持ちで鑑賞できるような甘い顔を決して見せない。

それは杉本が展覧会において、会場全体を作品とする姿勢にも通じる。会場は単なる展示場ではなく、これもまた杉本の作品そのものなのである。森美術館で開催中の展覧会「杉本博司 時間の終わり」の非常なる緊張感に満ちた空間は、ミニマルアートやコンセプチュアルアートの最も良質な部分を存分に味わわせてくれる。極めて刺激的であった。

補記:私が訪れた日はロシアのプーチン大統領が六本木ヒルズにやってくるということで、ものものしい警備体制が敷かれていた。これも「杉本的」に考えるならば……。備忘録代わりに記しておくことにする。

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2005.11.17

浅草の鬼海さん

鬼海ぺるそな「情熱大陸」(TBS系)で鬼海弘雄が取り上げられたのは、『PERSONA』(草思社、2003年)が刊行された直後のことだった。家族や親類に支えられながら、好きな写真の世界で生きている姿を描こうとしていた。番組の中では鬼海の収入のことにも話が及んで、要するに「写真だけで食っていくのは大変だ」ということなのであった。華やかそうに見える世界の裏側には残酷なことも多いのだろう。

件の番組では浅草寺でポートレート撮影する鬼海を映し出していた。じっと人の流れを見ながら、これはという人に声をかけて撮影させてもらう。それをひたすら繰り返す。鬼海のポートレートのおもしろさは、本来多面的な存在であるはずの人間の一面だけを切り取り、ことばによってそれをデフォルメする点にあるとおぼしい。写真に添えられた一言が写真の中の人物の生き様を一挙に炙り出すように機能している。見る者にはわずかな情報しか与えられないのに、なぜか背後に広がる大きなドラマを感じさせるのだ。想像力が刺激されて愉快痛快としか言いようがない。

新しい『ぺるそな』は新たな写真と鬼海のエッセイを加えた普及版である。前作からぐっと買いやすい値段(2300円)になって嬉しい。人を撮る、人を見る楽しさを堪能できる。

鬼海の担当するエッセイ http://web.soshisha.com/archives/cat8/

さて、溜まってきた写真関係の本を一挙に大掃除することにする。

蜷川実花『Floating Yesterday』(講談社)
ひとつ前のエントリーで感想を述べたように、ニナミカ色全開の中に見え隠れする影が印象的である。凝った装幀で紙質も悪くないのに、常に買いやすい値段を守り続けるのは、この人の信念なのだろう。もちろん数が出るということが安くできる最大の理由なのだろうが。

野口里佳『in-between チェコ、キプロス』(EU・ジャパンフェスト)
欧州シリーズのトリを務めるのは野口里佳である。引き気味の視点から撮影された写真が居並ぶ。何を中心に置いているのか考えさせられる手法は健在である。それを読むことが楽しい。

『in-between 13人の写真家 25カ国』(EU・ジャパンフェスト)
シリーズに加わった13人の写真家による共演。全員が「食」「言葉」「人」「石・壁」などといった共通のテーマで撮った写真がまとめられている。普段のスタイルや被写体から離れた写真に、意外性の妙味が横溢する。

大西みつぐ『ほのぼの旅情カメラ』(えい文庫)
「水」をテーマにして日本各地を撮り歩く。なにげないスナップでありながら、一枚一枚に強い説得力を感じる。それは、おそらく大西が「切り捨て御免」ではなく、被写体に深い関心や愛情を持ちながら丁寧に写しているからではないだろうか。滋味に富む一冊。

藤田一咲『ローライフレックスの時間』(えい文庫)
この人は写真よりもカメラが好きな人なのだろうと思った。掲載される写真は、どれもカメラ雑誌の作例のように見えるのは私だけのことなのか。えい文庫からたくさん同じような本を出しているから、きっと人気はあるのだろう。資料をつけるなら、ローライの全機種を網羅してほしかった。

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2005.11.16

代官山でニナミカ

floating yesterday代官山を箱根山や六甲山と勘違いして「攻めるぜ!」と言うヤンキーがいた。嶽本野ばらの『下妻物語 完』でのお話しである。代官山にはこの物語の主人公桃子の愛するブランド店があるため、小説で親しんでいた私はなんとなく昔から知っているような気がしていたが、実際に訪れるのはもちろん初めてである。漠然とした印象で若い人(中高生)であふれかえっている落ち着きのない街かと思いきや、さにあらず。ロリータ姿の小娘どころか、夕刻の街を歩いているのは、20代30代とおぼしき人たちばかりである。なんだか少しいい気分になりながら、目的地へと向かう。

蜷川実花が新作を発表した。旅をテーマにしているという。その写真展が12日から代官山のギャラリー「speak for」で始まっている(12月4日まで)。ちょうど新宿に出かける用事もあったので、仕事を終えた後にさっそく行ってみたのであった。

地下二階にあるギャラリーに降りる階段でまず驚く。蜷川と親交のある関係者からの祝いの花で埋め尽くされているのだ。とにかく花・花・花……。誰もが知っているような芸能人の名前をたくさん発見して一人興奮する私はおのぼりさんです :-P

今時の音楽が流れる空間に、色に溢れたいつもの「ニナミカの世界」が展開する。しかし、今回のものはどこか影を感じさせるところがこれまでと印象を異にする。境界を曖昧にするほど溶け出した色に加えて、このなんとも言えない暗さ。そこにドラマのようなものを感じることができ、同じく世界各地の風景や人々を写した初期の『Pink Rose Suite』から確実に別の場所へ歩を進めていると思った。

写真はアクリルパネルに貼られたお得意の形で展示される。艶々した質感は彼女の写真に相応しいものだろう。大きなB0サイズと見やすいB4サイズのほか、マッチ箱くらいの小さなパネルが数百枚はあっただろうか、とにかく見応えがある(販売もしていてB0は55万円、B4は9万円とのこと。他の美術品の価格を考えると、決して高くはないと思う)。新作写真集も買い求め、すっかり満たされた気分で、夕闇の代官山の雰囲気を味わいながら駅まで元気よく歩いた。

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2005.11.14

イン・ザ・プール

小説と映画は別物とはいえ、これは原作の方がはるかに楽しめると思った。

奥田英朗の第127回直木賞候補作を原作とする。続編は第131回で同賞を受賞した。神経科医伊良部一郎(松尾スズキ)の無邪気で自由奔放な行動が、意外にも患者の病気を治癒に導くという結構である。強迫神経症(市川美和子)、陰茎強直症(オダギリジョー)、プール依存症(田辺誠一)といった患者達が登場する。

映画は原作の設定を一部変更している。それは映像化する(または娯楽作品として成立させる)ための方便として認められるだろう。しかし、伊良部一郎を演じる松尾スズキの演技が浮いて見えるのが、ことのほか辛かった。奇人変人ぶりをただ闇雲に強調しているようにしか見えないのだ。笑わせたい気持ちが空回りしているようであるし、そもそも原作の無邪気な伊良部と腹に一物ありそうな松尾とはキャラクターが相容れない。ひとりよがりなそれは、ひところの竹中直人の演技を見るかのようである。これは同じく松尾が主演した「恋の門」でも感じたことであった。

奥田の小説でもそうであるが、主人公は伊良部でありながら、実際には患者達の人となり、そして生活を描くことを旨としている。その患者を演じる市川美和子、オダギリジョー、田辺誠一の三人が、「ちょっとだけ心を病む人々」を好演していただけに、松尾「伊良部」のあり方がよけい惜しく思われる。狂言まわしなら狂言まわしなりの立ち居振る舞いというものがあるだろう。話自体はおもしろいのに。はからずも想像力にまかせるメディアとしての小説の力を再確認することになった。

監督と脚本は三木聡(「トリビアの泉」「ごっつええかんじ」などの構成作家)。そういえば今夏公開された「亀は意外と速く泳ぐ」も同監督の作品だった。あちらはテレビ的でもそれなりに楽しめた。

「イン・ザ・プール」公式サイト http://www.inthepool.jp/
奥田英朗直木賞関連 http://homepage1.nifty.com/naokiaward/jugun/jugun131OH.htm

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2005.11.12

町田康『東京飄然』

旅に出たくなった。なぜか。理由などない。風に誘われ花に誘われ、一壺を携えて飄然と歩いてみたくなったのだ。

こう語る町田康であるが、彼の旅は日帰り限定である。なぜか。「旅をするためには仕事をして銭を稼がなければならない」という、つまりは堂々巡りするしかない究極の命題ゆえに、遠出はできないのだという。そこでひらめいたのが無目的な日帰りの旅というわけである。なんとも。

町田の赴く先は、早稲田、鎌倉、江ノ島、梅田、新橋、銀座、上野、高円寺、エトセトラエトセトラ。ところが、一般的な観光案内街案内にはもちろんならない。町田の拘泥するのは土地独特の臭みであり、澱や淀みであり、ディテールである。読者は「ダメなやつがダメな街に足もとをすくわれ続ける様」を思う存分笑うことができるが、読み進むにつれ、これほど街と己の関係に深く思いをいたしていることはあるのだろうかと考え始めることになる。もちろん文章はいつもの町田節が全開である。ちっとも深刻にはならない。そのアンバランスの妙を楽しむことができた。けだし達意の文章といえよう。串カツ求めて三千里、俗物根性丸出しの土産物、電車で足を広げて坐る大馬鹿者、ライブハウスとロック魂……。町田にかかってはすべての世事が真実のありかとなるのであった。

それにしてもこれほど「飄然」の似合う男は世間広しといえどもなかなかいるものではない。心底そう思う。なお同じ町田の『耳そぎ饅頭』(講談社文庫)もとうに読み終わっていたが(春のことだ……)、すっかり感想を記すのをさぼっていた。偏屈になりたくないと強く思っていたのに、気がついたら偏屈の谷底に沈んでいたという哀しさとやるせなさ。いいなぁ、この軽み。

(中央公論新社、2005年10月)

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2005.11.09

リリー・フランキー『美女と野球』

美女と野球リリー・フランキーの文章が好きである。

しまりのないのんべんだらりとした文章のように見えながら、ユーモアとアフォリズムを決して忘れない。あってもなくてもいいようなコラムが多い中、彼のような存在は貴重である。下ネタ満載も彼の持ち味のひとつ。何より観察眼の凄さに驚かされる。そして見つけた事象に対する鋭い切り込み方がすさまじい。それでいて決して嫌みや皮肉に聞こえないのは、彼の書く文章が一歩引いた自己批評の精神を忘れていないからであろう。たとえば「鶴ちゃんイズム」。

 いつも思うことだが、「頑張る気持ち」には何種類かある。純粋に何かに頑張る気持ちは美しい。しかし道ばたで見かける「頑張る気持ち」のほとんどが、頑張っているのではなく、ただ低俗な野心を燃やしているだけだ。それを本人は「純粋に頑張る気持ち」と履き違えて目を輝かせている。

そしてこう続ける。

「一億二千万総鶴太郎化」
 あえて、鶴ちゃんと呼ばせてもらうが、ボクは鶴ちゃんをテレビで観る度に恐ろしくなってくる。人間はここまで自己批評が欠落してしまうのかというに自ら省みて、自分が不安になってしまう。(中略)別に鶴ちゃんの絵がどうだとか、書がどうなんて話はどうでもいいのだが、そんな態度が何故できるのかと疑問に思うのである。これは自己批評がないからなのだ。もし彼に一グラムでもそれがあったらアレはできない。できるはずがない。(中略)
 恐ろしい。もし自分が知らぬうちにこんな状態になってしまうことがあったとしたら、だれか身近な人にすぐさま殺してほしいと思う。

単なる個人攻撃ではないことは、この前後を読んでいただければわかることなのだが、「人には上下はなくとも左右はある。差別はなくとも区別はあっていい」と書く彼の考えは、悪しき平等主義がはびこる今の世の中にあって、極めて真実を突いていると思われる。全員が手を繋いで同時にゴールする徒競走のどこがおもしろいのだ!!
 さっと読めて、しっかり心に残る、そんな一冊である。理不尽な世の中に怒りを覚えることの多い方にお勧めします。(河出文庫、2005年10月)

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2005.11.06

嶽本野ばら『エミリー』

エミリー嶽本野ばらの『下妻物語 完』(小学館)を読み進めているところである。正編は深田恭子と土屋アンナのコンビで映画化され好評を博した。これはその続編である。ロリータ&ヤンキーのコンビネーションにますます磨きがかかっており、ページを繰る手が止まらない。これについてはいずれまた。

さて本書は「レディメイド」「コルセット」「エミリー」の三編を収める嶽本野ばらの短編集である。やや高踏的に過ぎるかと思われる前二編は、大人の男女の恋愛を描く。「レディメイド」では近現代の芸術家が、「コルセット」では内外の服飾ブランドが、それぞれあらかじめ理解されていることを前提として、小説の核心に関わる形で登場する。大雑把な言い方が許されるならば、ここには強烈なバイアスがかかったある種の美意識が濃密に充満しており、それは読者の誰もが無条件に招き入れられる性質のものではないと思われる。鍵になるのは固有名詞である。

固有名詞の力に強力に依存する嶽本野ばらの小説。固有名詞は強い磁場を形成し、それに反応するものを強く引き込み、そうでないものを遠く退ける。和歌の世界における歌語のごとく、固有名詞には各々が育んできた歴史や伝統が凝縮されており、それを知ることによって物語に一段の厚みや深みがもたらされる。もっと言うならば、喩として機能する固有名詞を読み解くことこそが、嶽本野ばらを楽しむ唯一にして最大の楽しみかもしれない。

たとえば「レディメイド」ではタイトルが示すようにマルセル・デュシャンが重要な位置に置かれる。さらにはMoMA、シャガール、ルソー、マティス、フォーブ、キュビスム……。これらのことばから具体的なイメージが浮かばなければ、この小説の仕掛けの奥底には辿り着けないと思われる。それは「コルセット」でも同じで、ここに登場するブランドとその製品群を知らないと、肝心な部分についてまったく伝わらないことになるだろう。無印良品のTシャツを着る男とコム・デ・ギャルソンのジャケットを着る男の差異を読み取らなければ、何も始まらない。いいとか悪いとかではなく、そういうものなのである。早く固有名詞的世界観を小説に仕立て上げた田中康夫の『なんとなく、クリスタル』との同質性や異質性について考えることも興味深いかもしれない。

ロリータ趣味を持つ少女とゲイの少年の友情を描く表題作「エミリー」(三島由紀夫賞候補作)ももちろん楽しんだのだが、前二作のそういう部分がとても気になった。

文庫本では綿矢りさが解説を書く。ここでも評論家裸足のうまさに舌を巻く。綿矢なりの視点からしっかり分析しているところがよく伝わってくる(立ち読みでもいいので、この解説だけでもお読み下さい)。それにしても綿矢にロリータ願望があったとは。彼女がその種の衣装を着たりしたら、ものすごい騒ぎになりそうだ。(集英社文庫、2005年5月)

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2005.11.02

ビートキッズ

少し前に高校生吹奏楽部の全国大会ドキュメンタリー番組を放送していた。多少の脚色はあるだろうけれど、基本的にはこういう「今しかできないこと」に打ち込む人々を見るのは好きで、涙腺を微妙に刺激されながら最後まで楽しんだ。

「ビートキッズ」は高校生の音楽をモチーフにした青春映画である。お約束の挫折と成功のスパイラル構造を持つもので、いつもの私なら無条件に飲み込まれてしまう結構である。でもこれはあまり楽しめなかった。ぎくしゃくした進行と「途中の過程はすべて省略、以上!」のごとき展開に、ちっとも血がたぎってこないのだ。こういう映画は過程を描いてナンボではないだろうか。星飛裕馬だって大リーグボールの特訓をしたではないか(古い)。ヒーローやヒロインはちゃんと辛い目にあってもらわないと。

また舞台が大阪ということもあり、その面でも大いに期待していたのに、この地である必然性があまりにも希薄で、それはそのまま失望感に転化していった。岸和田・大阪城公園・舞洲・阪堺電車・淀川工業高校吹奏楽部・太田房江(おいおい)……。大阪を感じさせるものが次々と登場するのに、これほど大阪を感じさせない映画も珍しい。主人公たちも大阪と兵庫出身の面々であるのにもかかわらず、変な関西弁(非関西人が話す関西弁)になってしまっている。なぜ? あとは物わかりのいい校長と陰湿陰険な中間管理職的教員というステレオタイプな造型も手垢にまみれすぎて見苦しい。

物語は前半の吹奏楽部編と後半のロックバンド編が完全に遊離してしまっている。展開に唐突の感が否めないのだ。二つの物語を橋渡しする重要な人物であるナナオ(相武紗季)を映画の後半から消してしまったことが、統一感を損なわせてしまうことになったと思われる。これならば、前半なら前半だけ、後半なら後半だけを丁寧に描いて見せた方がよほど説得力のあるものになったのではないか。特典映像の中に初日舞台挨拶の模様が収められており、そこで塩屋俊監督が「スウィングガールズには負けていません!」と叫んでいた。「いや、それはどうかな、監督」と画面に向かってつぶやきたくなった。

「ビートキッズ」公式サイト http://www.beatkids.com/
Hungry Days公式サイト http://www.toshiba-emi.co.jp/hungrydays/
相武紗季の出演するパイロットCM http://www.pilot.co.jp/tvcm/index.html

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