リリー・フランキー『美女と野球』
リリー・フランキーの文章が好きである。
しまりのないのんべんだらりとした文章のように見えながら、ユーモアとアフォリズムを決して忘れない。あってもなくてもいいようなコラムが多い中、彼のような存在は貴重である。下ネタ満載も彼の持ち味のひとつ。何より観察眼の凄さに驚かされる。そして見つけた事象に対する鋭い切り込み方がすさまじい。それでいて決して嫌みや皮肉に聞こえないのは、彼の書く文章が一歩引いた自己批評の精神を忘れていないからであろう。たとえば「鶴ちゃんイズム」。
いつも思うことだが、「頑張る気持ち」には何種類かある。純粋に何かに頑張る気持ちは美しい。しかし道ばたで見かける「頑張る気持ち」のほとんどが、頑張っているのではなく、ただ低俗な野心を燃やしているだけだ。それを本人は「純粋に頑張る気持ち」と履き違えて目を輝かせている。
そしてこう続ける。
「一億二千万総鶴太郎化」
あえて、鶴ちゃんと呼ばせてもらうが、ボクは鶴ちゃんをテレビで観る度に恐ろしくなってくる。人間はここまで自己批評が欠落してしまうのかというに自ら省みて、自分が不安になってしまう。(中略)別に鶴ちゃんの絵がどうだとか、書がどうなんて話はどうでもいいのだが、そんな態度が何故できるのかと疑問に思うのである。これは自己批評がないからなのだ。もし彼に一グラムでもそれがあったらアレはできない。できるはずがない。(中略)
恐ろしい。もし自分が知らぬうちにこんな状態になってしまうことがあったとしたら、だれか身近な人にすぐさま殺してほしいと思う。
単なる個人攻撃ではないことは、この前後を読んでいただければわかることなのだが、「人には上下はなくとも左右はある。差別はなくとも区別はあっていい」と書く彼の考えは、悪しき平等主義がはびこる今の世の中にあって、極めて真実を突いていると思われる。全員が手を繋いで同時にゴールする徒競走のどこがおもしろいのだ!!
さっと読めて、しっかり心に残る、そんな一冊である。理不尽な世の中に怒りを覚えることの多い方にお勧めします。(河出文庫、2005年10月)
| 固定リンク
この記事へのコメントは終了しました。
コメント
>marinさん
「オレたちひょうきん族」の頃の鶴太郎、カムバック!!
投稿: morio | 2005.11.18 01:28
私は「二郎さんのものまね」が好きでした。
投稿: marin | 2005.11.17 14:32
>しきはん
あとわからないのは、番組の構成の都合とはいえ、そんな鶴ちゃんにお追従を言うゲスト達……。文化人を気取りたいなら、コメディアンとして芸を極めるというのがよいように思うのだけど。懐かしの「あつあつおでん」とか「マッチものまね」とか。
投稿: morio | 2005.11.15 01:10
あー、鶴太郎に関してなんだかモヤモヤした感情が
すっとすっきり!
そうそう、それだ。
投稿: しきはん | 2005.11.14 16:15