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2005.12.30

亡国のイージス

日本の海上自衛隊の護衛艦がイージスと呼ばれていることくらいは知っていた。しかし、その由来はといえば、お恥ずかしいことにきちんとした知識がなかった。公式サイトによれば、

「イージス」とはギリシャ神話に登場する最高神ゼウスが娘アテナに与えた、あらゆる邪悪を払う「無敵の盾」のこと。

とあり、劇中でもそのことについては触れられる。専守防衛を旨とする日本の自衛隊を象徴するかのようなものであろう。ところが、専守防衛は専守防衛であって、それが働くことを許されないような先制攻撃を受けた場合、文字通り手も足も出ないことになってしまう。加えて「未曾有の経済的発展を享受しながら、理想も持たず、国家としての責任能力も自覚せぬまま世界進出を遂げた日本。バブル崩壊が経済を袋小路へと迷い込ませたとき、そこに我々が誇るべきものは何ひとつとして残らなかった(公式サイトの解説)」日本という国の「何」を守るためにそれはあるのかという問題にも直面する。この映画はこうした大いなる矛盾と自己欺瞞に満ちた日本と自衛隊のありようを、娯楽作品として見せる。

海上自衛隊のイージス艦いそかぜが亡国工作員(中井貴一)と副艦長(寺尾聡)により乗っ取られる。艦のミサイルには特殊化学兵器が装備され、すべての照準は東京都心に設定されている。最新の防衛システムを持つイージス艦には政府も自衛隊もなす術がない。その時、先任伍長の千石(真田広之)が艦を取り戻すべくたった一人で行動を開始した……。

「どついたるねん」「KT」「顔」など、人間臭い重厚な物語を得意とする阪本順治監督らしい一作であろう。原作は福井晴敏の同名小説である。アクション、特撮、ドラマ。どれも破綻することなく手堅くまとめられていると思う。主役の真田広之の活躍はもとより、敵役の中井貴一と寺尾聡の狡猾さと憎々しさが印象的だった。なお本作は2006年朝日ベストテン映画祭日本映画(注)の部第6位になっている。

公式サイト http://aegis.goo.ne.jp/index.html
公式ブログ http://blog.goo.ne.jp/aegis_staff/
福井晴敏公式サイト http://www.fukuiharutoshi.jp/

注:2006年朝日ベストテン映画祭日本映画
第1位 パッチギ! 第2位 メゾン・ド・ヒミコ 第3位 リンダリンダリンダ
第4位 カナリア 第5位 いつか読書する日 第6位 亡国のイージス
第7位 ニワトリはハダシだ 第8位 理由 第9位 空中庭園 第10位 運命じゃない人

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2005.12.28

レイクサイドマーダーケース

レイクサイドマーダーケース薬師丸ひろ子を見ると、昔々の「セーラー服と機関銃」や「Wの悲劇」を思い出す。特に後者は傷心なこと(色っぽい話ではない)があった直後の気晴らしに観たので、今でも強く印象に残っている。「顔、ぶたないで! 私、女優なんだから!」 嗚呼、懐かしい。

おどろおどろしい殺人ミステリーものかと思いきや、意外にも娯楽作品に徹していた。「中学お受験」のための湖畔合宿に集まった三組の親子と塾の講師。そこで起こった殺人事件。東野圭吾の同名小説を原作とするが、脚本はずいぶん違ったものになっているらしい。

並木(役所広司)は娘の受験に疑問を抱きながらも、妻の美菜子(薬師丸ひろ子)や娘たちのために、津久見(豊川悦司)が主催する受験対策合宿に参加する。そこに愛人の英里子が突然現れた。並木は英里子と別のホテルで会う約束をするが、結局会えないまま別荘に戻る。すると、そこには英里子の死体があった。聞けば美菜子が殺したという。警察に知らせようとする並木を押しとどめ、暗黙裏に事件を処理しようとする親たち。事件の発覚が受験に悪影響を及ぼすと考えた彼らは、人気(ひとけ)のない湖に英里子を沈めようと画策するのだった……。

役所広司、薬師丸ひろ子をはじめとして柄本明、豊川悦司らの主役クラスの俳優が居並び、さらに鶴見辰吾、杉田かおる、黒田福美、眞野裕子などの個性派がきちんと脇を固める。やや拙速な展開かと思わされる場面もあるにしろ、湖畔の別荘という「密室」での殺人事件の謎解きの妙味はそれなりに味わえる。もっともミステリーとしての緊迫感や先を知りたくなるような渇望感はさほどでもない。上手な役者の演技を感心しながら見ているうちに、最後まで辿り着いてしまったという印象が残った。おそらく俳優陣の力が脚本を凌駕してしまっているのだろう。巧みな会話、演技の積み重ねによる事件の説得力は、彼らの力量あってのものだといえる。ラストシーンは噴飯もの。いらないと思う。

やたら豪華で上手すぎる「2時間ミステリーテレビドラマ」といえばよいだろうか。

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2005.12.24

今日の自炊くん 2005総集編

ビーフシチュー今年の4月から東京での一人暮らしが始まった。これまで料理らしい料理もろくにしたことがなかったので、「これを機会にがっちり」とまでは思わなかったけれど、それなりの緩い決意で自炊をすることにした。

初自炊は4月2日の次のもの。
・キャベツの丸ごと煮
・豆腐とレタスとトマトと貝割れ大根の中華風サラダ
・梅干し
・白い御飯
なんだかとても素朴だ。ほとんど調理といえないのではないかと、少しだけえらそうに書いてみる。以下「東京たるび」でご報告したものを列挙して、懐かしさに浸ってみようと思う :-P

■御飯もの
白い御飯・親子丼・炒飯(プレーン・ケチャップ)・カレー各種(含レトルト)・スープカレー各種(含レトルト)・鯛めし・たこめし・松茸御飯・ビビンバ・チャーシュー丼・まぐろのづけ丼・炊込御飯(各種)・雑炊(各種)・あさりのトマトライス

■麺類
カルボナーラ(各種)・ペペロンチーノ(各種)・アマトリチャーナ・ボロネーゼ・クリームスープスパゲティ(各種)・納豆とじゃこのスパゲティ・たらこスパゲティ・きしめん・生醤油うどん・ぶっかけうどん・釜玉うどん・カレーうどん

■汁もの
みそ汁(各種)・豚汁・コーンスープ・ミネストローネスープ・トマトスープ・キャベツスープ・中華風スープ(各種)・韓国風スープ(各種)・豆腐と豚挽肉のとろみスープ・トマトとツナとニンニクのスープ

■おかず類
じゃがバター・ピーマンとジャコの炒めもの・ジャガイモとニンニクの炒めもの・キャベツの丸ごと煮(プレーン・トマトソース)・白ネギと豚肉の蒸しもの・もやしと豚バラの蒸しもの・ポーチトエッグ・ほうれん草のバター醤油・ゴーヤチャンプルー・たらのピリ辛煮・いかのバタースープ煮・きゅうりの豆板醤味噌和え・鯖の味噌煮・ナムル各種・タンドリーチキン・鱈のバター蒸し焼き・レタスの中華炒め・豚バラもやしのせ焼き・冷ややっこ・キムチやっこ・肉じゃが・ハンバーグ・茄子と挽肉の辛味炒め・きのこと水菜のソテー・ほうれん草とツナの和え物・ぶり大根・ビーフシチュー・マリネ(たこ・いか・ピーマンなど)・にんじんのグラッセ・蒸し鶏

■鍋もの
豚肉とほうれん草の一人鍋・湯豆腐・豆乳鍋(各種)・寄せ鍋(各種)

■その他
野菜サラダ(各種)・納豆(各種)・刺身(各種)・にんじんとツナのサラダ・豆腐サラダ(アボカド・キュウリ・レタス・トマト・果物)・大根のサラダ・キャベツと納豆のサラダ

ル・クルーゼそして年内最後の東京での自炊くんはブロッコリーのカルボナーラ、豆腐のサラダ、黒豆納豆であった。それにしても、である。血迷って小遣いで馬鹿高い鍋まで買うほどになるとは夢にも思わなかった。

料理本も少しずつ増えた。最初から買って持ってきた『がんばれ自炊くん!』(角川書店)・千葉真知子『完全自炊主義』(文化出版局)・『うちごはん日記』(主婦と生活社)の三冊には特に世話になった。『男のイタリアン』『基本のアジアごはん』(ともにオレンジページ)は夏以降に参考にした。最近手元に来た『ビストロ仕立てのスープと煮込み』(別冊家庭画報、mi4koさんからいただいた)と平野由希子『ル・クルーゼでおいしい和食』(地球丸)の2冊は、来年以降、ル・クルーゼとともに活躍してくれると思う。

つまらないことを自慢げに書いているのに、それに対する優しいアドバイスや生温かいツッコミなど、ありがたく頂戴した。どれもが心細い一人暮らしの励みになったことを感謝の意とともに記しておく。来年もよろしく。長文失礼。

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2005.12.23

カナリア

1995年は阪神淡路大震災とオウム真理教による一連の事件のあった年として記憶されている。とはいえ、当時関西在住であった私には、前者が圧倒的な実体験として脳裏に刻み込まれている一方、後者はメディアの中のものでしかない。

塩田明彦監督の「カナリア」はオウム真理教をモデルにしたニルヴァーナという教団が舞台となる。母と息子、娘の三人が揃って出家をする。母は教団の中で重要な役目を果たすべく、子供たちと別れて暮らすことになった。やがて世間を揺るがす大事件が起こる。教団に強制捜査のメスが入り、子供たちは施設に引き取られる。しかし、祖父は反抗的な兄を残して妹だけを連れ帰っていった。兄は妹を取り返すために施設を抜け出し、偶然出会った少女とともに妹の住む東京を目指す……。

主人公の光一(石田法嗣)と由希(谷村美月)の織りなすロードムービーである。カルト教団で洗脳された12歳の少年と、援助交際一歩手前の行為を繰り返す少女が、反目したり共感し合ったりしながら、かけがえのない「戦友」として絆を深めていく過程が印象的である。無慈悲な社会に翻弄されつつ、その社会と徹底的に戦おうとする子供たちの姿に、日々の生活に疲弊しきった大人は何を見るべきだろうか。塩田監督の前作「黄泉がえり」(竹内結子主演)ではなく、その前の「害虫」(宮崎あおい主演)に連なる重いテーマを持つ作品だといえる。

明るい希望の見えないエンディングだが、後味は悪くない。

「カナリア」公式サイト http://www.shirous.com/canary/

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2005.12.18

美しき破壊者たち

高橋尚子がシドニーオリンピックで金メダルを獲った後、旧HP(今も存在はしている)でこんなことを書いた

高橋尚子が最強の名を証明するかのような強いレースで金メダルを獲った。世界最高タイムこそ刻めはしなかったが、考え得る実力者すべてを切り捨てての優勝は、実に見事なものであると思う。彼女のレースは競り合いや駆け引きとは遠いところにあり、自分のためのタイムトライアル、いわば「レースを破壊する」ところに最大の魅力がある。
現在の高橋の力が数年前の状態から遠いものであることは否めない。しかし、かつては競技を競技でなくすほど、光をすべて自分一人のものにしてしまうような存在であったのは確かである。優劣や価値を問うつもりは毛頭ないが、野口みずきのアテネでの優勝と高橋尚子のシドニーや東京国際での優勝、野口のレース運びと高橋のレース運び、観る人を巻き込み幸せな気持ちにさせるのははたしてどちらか。
他者の光をすべて消し去り、何もかも自分一人のものにしてしまう存在
この種の才能は持って生まれた資質としかいいようがない。今年無敗の三冠を達成した競走馬ディープインパクトもそういう存在であろう。彼がスパートした瞬間、すべての馬は人々の脳裏から消え去る(常にスタートから独走し、そのまま競ることもなくゴールしてしまうサイレンススズカという稀代の快足馬もまた同じ。98年秋の天皇賞で後続を十数馬身引き離して独走中に骨折し安楽死処分となった)。彼らは競技の本質を破壊し、自らがいかに輝くか、どういう勝ち方をするのか、それだけが問題となる。他者の印象は太陽にかき消された星のごとく儚い。

おそらくフィギュアスケートの新星、浅田真央も「選ばれしもの」であるのは間違いないだろう。層の厚くなった日本女子フィギュア界にあっても「綺羅星のごとく」という状態には決してならない。それが浅田以後の世界である。あるオンリーワンが真の意味で唯一無二となった時、他のオンリーワンたちはその他大勢に成り下がる。

美しき破壊者たちにはライバルも名勝負もない。とてつもない爽快感があるばかりである。私は圧倒的な才能に憧れ、彼らによってもたらされる甘美な世界にただ酔いしれる。その幸福感たるや(ああ、多大なる偏愛と偏見をもって)。

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2005.12.17

石原千秋『国語教科書の思想』

国語教科書の欺瞞を暴く。

日本近代文学を専門とする石原は、その分析力を入試問題にも適用し、読解と批評を試みてきた。本書では同じくテクスト論の立場から、国語教科書を一冊のテクストと見なし、言説分析と構造分析を組み合わせて分析してみせる。

全幅の信頼を置く国語教科書にはいかなる思想性があるのか。感動的な物語や昔話には「裏」がないのか。たとえば「うんとこしょ どっこいしょ」のかけ声で知られる「おおきなかぶ」。最後にねずみが登場し、小さな彼(彼女)の力によって見事にかぶが抜けるところに感動の中心がある。しかし、その「登場順」は意図的に変更されたものだという。つまり「小さな存在の大きな役割」をクローズアップする「道徳」を説くための操作であるらしい。

同じように「道徳」を説くために、定番教材である「羅生門」「山月記」「こころ」「舞姫」が居並ぶ。エゴイズムを糾弾するその姿勢は、まさに「国語教材として打ってつけ」だと指摘する。禁断の果実「暴力」「セックス」「新興宗教」「天皇制」「差別」を巧妙に避けながら、ある種の「道徳」的価値観へ子供たちを導こうとする教科書の教材群。国語の読解力が身についたことは、すなわち「道徳的な枠組み」を身につけたことに他ならないとする石原の主張は、賛否両論となろうが、少なくとも無条件に信じているものへ眼差しを向けさせるという点で、貴重なものであることは間違いなかろう。(ちくま新書、2005年10月)

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2005.12.16

アイランド

アイランドユアン・マクレガーは「スターウォーズ・エピソード3」の来日キャンペーンをキャンセルした。それで何をしていたかといえば、別の主演映画のプロモーション活動に忙しかったという。その映画が「アイランド」(マイケル・ベイ監督)である。

2019年。リンカーン(ユアン・マクレガー)は汚染された外界から救い出され、今は完璧に管理されたコミュニティで暮らしている。単調な日々の楽しみといえば、ジョーダン(スカーレット・ヨハンソン)との密やかな会話だけである。ここの人々は地上で唯一汚染されていない楽園「アイランド」へ移住することを夢見ている。しかし、リンカーンはこの都市の真実を知ってしまう。生き延びるためにはこの「安全な都市」から「危険な外界」へ逃げ出すしかない。二人の脱出劇の成否は、そしてコミュニティの人々の運命は……。

いわゆる暗い未来を描くもので、ジョージ・オーウェルの『1984』を引き合いに出すまでもなく、今となってはこの種のものは枚挙に暇はない。人間のスペアを培養して云々という話にしても、マイケル・マーシャル・スミスの『スペアーズ』(ソニーマガジンズ、1997年11月)を即座に思い起こさせるし、何より「パーツ用飼育物」が逃げ出すという物語は『スペアーズ』の前半そのものではないのか! 見終えた後、思わず原作を確認したが、どうもそうではないらしい。『スペアーズ』の映画化権はドリームワークスが持っているはずだから、こうして公開されたということは問題がないからなのであろう。

スカーレット・ヨハンソン目当てでレンタルしてきたのだが、監督はあの「アルマゲドン」「パールハーバー」の人だったことに後から気付いた(むむ)。それなりの謎解きとそれなりのアクションで、とりあえず最後まで退屈せずに観ることはできる。扱っているテーマは人間のクローン問題というきわどいものであるが、重い問題提起などはいっさいなく、極めてシンプルな娯楽映画に仕立て上げられている。ベイにかかれば、隕石激突も真珠湾攻撃もクローンもみな単なる娯楽ネタでしかないということか。男前と美人が揃ってドラマを演じれば、それだけで盛り上がるのだなと、あらためてしみじみ思った、そんな映画だった。ユアン・マクレガーが「スターウォーズ」を放り出してプロモーションするほどのものかどうかはよくわからないけど。

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2005.12.13

森達也『悪役レスラーは笑う』

グレート東郷プロレス初心者の元横綱曙が、悪役レスラーとしてグレート・ボノに変身する。彼はプロレスの師匠である武藤敬司の演じる悪の化身グレート・ムタとの競演を目論む。醜いがおもしろい。プロレスファンは知っている。ヒール(悪役)となるレスラーは、なぜかリングネームに「グレート」の屋号を掲げていることを。

まだプロレスが娯楽の王者だった頃の話。アメリカに伝説のレスラーがいた。高下駄に法被をまとい、「神風」のはちまきを締める。ファイトスタイルは奇襲攻撃と反則を専らにする。太平洋戦争直後の「敵国」の地で完璧なまでの「極悪非道なジャップ」を演じきった男は、ビジネスとしてのプロレスで大成功を収め巨万の富を稼いだ。その名はグレート東郷。

力道山が唯一無二のヒーローとなったプロレス黎明期から、ジャイアント馬場とアントニオ猪木という「新世代」が君臨する時代まで、日米を股にかけて活躍したこのレスラーは、逸話と噂の彼方にのみ存在する伝説のレスラーだった。その東郷を丁寧に追いかけようとした異色のドキュメンタリーである。プロレスというキワモノを文化や政治や国際問題の中に位置づけようとする。よくある底の浅い暴露話ではない。プロレスファンはもちろんプロレスに偏見や先入観を持つ人にも薦めたい。

21世紀に「グレート」の名を掲げて活躍するレスラーは、どれだけ日系人「グレート東郷」の志を受け継いでいるのだろうか。(岩波新書、2005年11月)

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2005.12.12

真夜中の弥次さん喜多さん

伊勢といえば、大阪の小学生の修学旅行の定番だった(今はどうやら違うらしい)。伊勢神宮に行くことにどのような教育的意図があったのか知る由もないが、宗教施設としてみた場合、どう考えても問題が多そうなので、きっと日本の歴史や文化に触れるという名目でやっていたのだろう。江戸時代は信仰のための旅が盛んで、中でも伊勢参りは別格の存在であった(単なる観光目的の旅も増えていたらしいが)。強い信仰心に支えられたお参りならともかく、無目的に訪れる場所としてはいかがなものか。旅行の詳細はすでに忘却の彼方に消え去ったが、子供心に伊勢神宮や夫婦岩などちっともおもしろくないと思っていたことだけは確かである。

そんな伊勢参りをする有名人といえば、ご存じ十返舎一九「東海道中膝栗毛」の弥次さんと喜多さんである。映画「真夜中の弥次さん喜多さん」は、しりあがり寿の同名漫画を原作とし、脚本家、俳優として活躍する宮藤官九郎の初監督作品である。脚本も宮藤が担当する。

同性愛者の二人、弥次さん(長瀬智也)と喜多さん(中村七之助)が江戸での生活に疲れ果て、そこから逃げ出すかのようにお伊勢参りに旅立つ。その道中で起こる騒動を描く。笑の宿・喜の宿・歌の宿・王の宿と題された4編はあたかも連続テレビドラマのような構成に見える。時代考証などはどこ吹く風で、荒唐無稽を形象化したものとしかいいようがない。その部分を楽しめるか否かで、この作品の評価は大きく分かれると思われる。漫画の実写版と割り切り、「学芸会」のような乗りと勢いに巻き込まれながら観るのがよいか。思いがけない豪華キャストの出演は楽しみの一つであろう。個人的には麻生久美子の美しい「きのこ人」が観られただけで(以下自粛)。

伊勢か。15年前にドライブがてら行ったきりである。今なら伊勢うどんを食べるだけで幸せになれるな。あとは松阪で本居宣長の史跡巡りと松阪牛堪能。俗まみれなことである。

「真夜中の弥次さん喜多さん」公式サイト http://yajikita.com/

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2005.12.09

読み解く写真

米田知子一枚の写真に何を見るのか。米田知子の写真は一見何の変哲もないようなスナップに見える。たとえば右の青い写真。人気(ひとけ)のないプールで若い恋人が穏やかに抱き合っている。世界中のいたるところで繰り広げられているであろう恋愛模様が、印象的なタイルの壁や青い水面によって美しく彩られている。しかし、この写真につけられたキャプションを読むと、その幸せな風景はたちまち違った相貌を見せ始める。

ハンガリーの工業化が進むさなかの1950年に建設が始まったドゥナウーイヴァーロシュは、1951年から61年までの間、スターリンヴァーロシュ(スターリン・シティ)と呼ばれていた。ここはハンガリーの社会主義政策の模範都市として、海外からの来賓によく紹介され、ユーリ・ガガーリンもここを訪れた。ドゥナウーイヴァーロシュは社会主義リアリズム建築の典型的な実例がたくさんある。

社会主義国家の国威発揚のために使われたプールで静かに寄り添う恋人。それは単なる点景ではなく、背後にある歴史や社会、哲学といったものを強く意識させる。彼女の一連の作品群はそういう失われつつある過去の記憶、負の遺産を現代の風景の中に透かしてみせる。写真として愉しみ、読み解いて思いを馳せる。『In-between ハンガリー・エストニア』(EUジャパンフェスト)でも、ベルリンの壁崩壊の引き金となった場所や対ソ連レジスタンスの隠れ家など、歴史的な場所の今を絡め取っている。凄みを感じさせる一冊である。

Lee Friedlander『Self Portrait』(MoMA)は1970年に刊行された写真集である。すべての写真にフリードランダー自身の姿や影が写し込まれている。彼の手法の歴史的意義(写真史における)はすでに論じつくされているようであり、ことさら述べ立てることはしないが、自己と場面は対立するものではなく、見る私は常に見られる私でもあるという両義性を意識させるそれは、優れて刺激的な営為であるといえよう。

アフリカの自然を空撮によって捉えたRobert B. Haas『驚異の大地アフリカ』(ナショナルジオグラフィック)は、「Through the Eyes of the Gods」という原題を持つ。まさに「神の視点」。魔術的なまでの大地のうねりや神秘的としかいいようのない動植物の営みが、見るはずのない位置から次々と切り取られている。写真の質は必ずしも優れているとはいいがたいものの、これだけの大きな版の写真集がわずか2800円というのも驚きである。

綺麗なもの、志の高いもの、思慮深いもの、そういうものに触れるのは実に幸せなことである。

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2005.12.06

国宝源氏物語絵巻展

東京から大阪に戻る週末、名古屋で途中下車した。徳川美術館で公開されていた国宝源氏物語絵巻を観るためである。この平安時代末に成立した絵巻は東京の五島美術館と徳川美術館で分蔵されており、五年に一度、互いに貸し借りをし全巻の公開を行っている。名古屋では一九九五年以来十年ぶりの公開となる。


すでに観覧に行った人の話やネットの情報からそれほど混んでいないと踏んでいたのだが、さにあらず。名古屋駅のバス乗り場からすでにたいへんな混雑となっていた。美術館に到着しても入館を待つ人が長い列をなしている。ようやく入った館内も、先日の北斎展と同じか、それ以上の人であふれかえっていた。約二時間ほどで名古屋駅に戻らなければならないので、かつて見た(はず)徳川家のお宝はすべてパスし、まっすぐ源氏物語絵巻のところへ向かった。

しかし……。ものすごい人垣ができており、しかもガラスケースの前に続く列の後方に並んでも、これがちっとも動かないのだ。「どうやら名古屋の人はモリコロに鍛えられたらしい」などと中部の母に実況生中継メールを送って憂さ晴らしをしたりしたが、それで事態が変わるわけもない。諦めて主要なものを見るだけにして(絵巻自体は何度か過去に見ている)、同じく源氏物語関連の展示をしている蓬左文庫の資料室や国宝絵巻を復元したものを鑑賞することにした。

バブリーな造りの庭園も館内の喫茶室も土産物店も、とにかくどこもかしこも人だらけであった。思った以上に時間がかかり、しかも名古屋の基幹バスに翻弄され(?)、名古屋駅に到着したのは出発予定時間の三十分前である。きしめんも食べられず、昼ご飯は駅弁に化けた。ああ、大いに心残りである。また行くぞ、名古屋。

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2005.12.04

バットマン・ビギンズ

「バットマン・フォーエバー」以来、8年ぶりのバットマン映画である。脳天気なスーパーマンよりダークなバットマン派の私としては、劇場でぜひとも観たいと思っていたものの、「スターウォーズ・エピソード3」公開に心を奪われている間に、気がついたら終わってしまっていた。

時系列から行くと以前の4作の前に戻ることになるのだが、物語としては直接つながるものではない。たとえば主人公ブルースの両親の命を奪ったのは、旧シリーズではジョーカーであったのが、今作では貧しい強盗になっている。そしてその事件こそがブルースのバットマン変身への大きな原動力になっている。つまりはいっさいが仕切り直しの新シリーズなのである。とはいえ、どこまでもダークな色調は旧シリーズに通底するもので、「ビギンズ」をそこにつなげるのは不自然な作業とはならない。旧シリーズとて配役や細かな設定は動いたわけだから、要は観客の解釈次第であるといえよう。

世界平和のために悪を殲滅しようとする独善的狂信的な集団がバットマンの前に立ちはだかる。彼らは悪の巣窟となったゴッサムシティを殲滅すべく、恐るべき計画を実行しようとする。しかもこの集団はかつてブルースを鍛え上げた集団でもあるのだ。ゴッサムシティの壊滅まで残された時間はわずか……。

マイケル・ケイン、モーガン・フリーマン、リーアム・ニーソンらの豪華な脇役に交じって、渡辺謙も大いにその存在感を主張していた。バットマン=ブルース・ウェインを演じるクリスチャン・ベールはもとより、彼らの堅実で重厚な演技が物語全体を引き締め、揺るぎないリアリティをもたらしていた。寄り道や脇道が多く、ドラマが本格的に動き出すまでの関係性をつかむのが少々面倒だが、一度転がりだした後の展開とスピード感は申し分ない。恐怖に駆られた人々が互いに疑心暗鬼となり殺人ゲームを開始するという物語に、昨今の世界の状況を思い浮かべるのは容易であろう。

ティム・バートン監督の1作目2作目ほどではないにせよ、ジム・キャリーやシュワルツェネッガーが敵役として登場した作品群よりは、ずっと好ましい出来になっていると思う。シビれた。

公式サイト http://wwws.warnerbros.co.jp/movies/batmanbegins/

余談:リーアム・ニーソンの殺陣シーンでは、ついクワイ・ガン・シンのそれを思い出してしまった。

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2005.12.02

芸術鑑賞は体力勝負

芸術の秋上野動物園にほど近い地下鉄千代田線根津駅から歩くことにした。東京芸術大学の重厚な建物を横目に見ながら、深い黄色に染まった立派な銀杏の木に目を奪われる。しばらくすると人波が現れる。まもなく閉幕する「北斎展」(東京国立博物館)を目指す人々である。

平日でありながら、入場するのに30分も並ぶことになった。中に入ってからも、小さな絵の前に人人人……。しかも展示総数が200を超えるというから、すべての作品の前に出るまでじっと待っていると、いつまでかかるかわからないほどの混雑ぶりである。おそるべし北斎人気。ここは見たい絵だけゆっくり鑑賞するのだと割り切る。重厚精緻な肉筆画もよいが、やはり驚嘆の技術で作成された摺物の数々がすばらしかった。超絶的オーラは実物によってしか感得することはできないのだと、あらためて思う。買い求めた400頁の図録はPowerBookより重い。あわせて以前からほしかった『北斎漫画』(小学館)の初摺原寸色刷り復刻も手に入れた。北斎による「絵のお手本集」、どこを開いても楽しい書である(ついでに、意匠という観点からまとめられた『光琳デザイン』(淡交社)も、尾形光琳をはじめとする琳派の単なるカタログに終わっていないよい書であった)。

続いて東京国立博物館の向かいにある東京都美術館に向かう。こちらでは「プーシキン美術館展」が開催中である。モネ、ルノワール、ゴーギャン、ゴッホ、セザンヌ、マティス、ピカソら、日本で人気の高い西欧近代絵画の収集で名高い「シチューキン・モロゾフ・コレクション」の作品群を観ることができる。これまたたいへんな混雑ぶりであったが、「北斎展」があまりにもすさまじかったので、相対的に空いているように錯覚させられた。これだけ見られたらいいと思っていたマティスの「金魚」。思っていたより大きな画面に踊る、輝くような色彩に酔った。ピカソの「アルルカンと女友達」にも息を飲んだ。

上野から日比谷線に乗り都立大学前駅を目指す。昨年度通っていた写真表現大学でお世話になった、木村幸子さんの初の個展がかの地のギャラリーで開かれているのである。浅い色合いの正方形の静かな写真が17点。ご本人と同じ穏やかな空気が満ちあふれていた。久しぶりの再会に時間を忘れて話し込み、さらに東京へ仕事で来ていたEarly Galleryの有田泰子さんとも旧交を温めることができた。

補足:Carl Zeissの単眼鏡がほしいと今日ほど思ったことはなかった。東京で美術鑑賞するには必須だと思う。千住博・野地秩嘉『ニューヨーク美術案内』(光文社新書)は、美術館巡り、絵画鑑賞のよき手引き書である。ただし取るべきは千住の担当箇所のみ。ゴッホの絵具・モネの眼・ルノワールの甘さ・注目すべきは耳・現代アートの楽しみ方など、芸術を読み解く楽しさを教えてくれる。「絵の前では何を考えてもいい」という千住のことばは至言であろう。後半の野地の担当箇所は凡庸で蛇足。

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