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2006.01.26

東京を知る

東京本先週の月曜日に初めて谷中を歩いた。「初めて」と書いたが、東京でどこかへ行けば、ほとんどが「初めて」である。自慢じゃないけど。それで初めて歩いた谷中は右も左もわからなくて、地図を持っていても何の役にも立たないのであった。ただmi4koさん@旭川のあとをふらふらと付き従うのみ。いったいどっちが東京に住んでいるのか……。

#この数日後、同僚にこの町に住む人がいて、いろいろと話を聞いた。先に聞いておけばよかった。後の祭り。

買い物客で賑わう谷中銀座や、多くの猫がたむろする「夕焼けだんだん」と呼ばれる石段など、改めて訪れたいところである。できれば天気のよい日に。ついでに下調べもきちんとして。

一応、折々に東京に関する本(「東京人」など)を仕入れて、それなりに知ろうとはしているのである。たとえば上京直前にぽた郎さんから薦められた秋本治『両さんと歩く下町』(集英社新書)は春のうちに読み切った。東京の東側の下町界隈のことが、長寿漫画を交えて生々しく語られる。ところが、受け取るこちら側に街に対する内なる揺動や皮膚感覚というものがないので、ちっとも染み込んでこないのだ。また昨秋刊行された田中優子(近世文化)の『江戸を歩く』(集英社新書)も、学術的考証をベースにして、現代の東京に存在する江戸の名残を炙り出す。これもまたたいへん興味深い一書であったが、同様にどこまでも知識としてしか内容を受け取れないもどかしさを感じた。それもこれもすべて私の問題である。すぐそこに東京(=江戸)はあるのに。

そして新しく手に入れたのが、「東京がわかる300冊 もっと書を持って、街に出よう」(「散歩の達人MOOK」、交通新聞社、2006年2月)という、まさに私のために刊行されたのではないかと思える雑誌である。春には少し時間ができるはずなので、こういうものを読みながら、少しずつ、頭ではなく心で東京のことを知りたいと思う。

オチなし(笑)。

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2006.01.24

キング・コング(1933)

キングコング戦前の映画でも最近はDVDになっていて、簡単に手に入れることができる。しかも極めて廉価なシリーズとして発売されており、好きなものにはありがたいことである。何年か前に「最後の大物」というふれ込みでDVD化されたオードリー・ヘップバーンの「ローマの休日」ですら、今や1000円ほどで買えるようになっている。どうやら著作権・版権切れのものは正規ルート以外からも販売できるとおぼしい(日本語コーパスとして貴重な存在である「青空文庫」が、死後50年経った作家の作品をどんどん電子化して無料公開していることが思い起こされる。閑話休題)。

現在ロードショー公開中の「キング・コング」は、1933年に製作された古典的怪獣映画「キング・コング」のリメイクである。「ロード・オブ・ザ・リング」のピーター・ジャクソンが監督を務める。特撮もドラマ部分も評判がよいようで、オリジナルに忠実かつ心憎いほどのオマージュを捧げるこの作品は、キワモノ的存在でありながらそれなりのヒットを飛ばしているらしい。もっとも「ロード・オブ・ザ・リング」すら見ていない私には、188分の長尺はちょっと耐えられそうにないけれど。

そのオリジナル版を500円で買ってきて見た。南洋の孤島で捕獲され、ニューヨークで見せ物にされるコング。逃走の果てのエンパイヤステートビル頂上での壮絶な飛行機との戦いと転落死という哀話は、誰もがよく知るところであろう。人間のエゴや文明批判を透かし見せるこの映画は、基本的に1933年というコンテクストの中に置いてこそ最大の輝きを放つものである。しかし、エンパイヤをアメリカの象徴と捉え、コングをイラクや北朝鮮、テロ組織と読み替えることで、この映画の批評精神だけは70年の時を超え今なお色褪せていないことを知る。特撮の稚拙さや現代では許されそうもない差別的表現その他もありはするが、映画そのものの存在価値に比すれば些少なことである。

なお余談ながら、新参者ゴジラが先駆者キングコングの胸を借りる形で制作された「キングコング対ゴジラ」(1962年)は、同シリーズでも高い人気を誇っている。私もコングはこの映画で知り(後年の東宝チャンピオン祭りにて)、それ以外では見たことがなかった。けだし怪獣プロレスの醍醐味を味わわせてくれる傑作であろう。それもこれもオリジナル版「キングコング」の威光の賜物である。

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2006.01.21

時効警察に萌える!?

時効警察めったにテレビに出ない麻生久美子が連続ドラマに出るということで楽しみにしていた。が、いきなり第1回目を見逃し、少々鬱になっていた。

時効警察は時効になった事件を趣味で捜査するというコメディタッチの刑事ドラマである。ろくに情報も仕入れずに、今日の2回目を見たところ、これは出演者がすごい! 「テレビの人たち」でお手軽にまとめておらず、映画や舞台をメインにしている役者で固めているではないか。オダギリジョー、ふせえり、光石研、豊原功補、江口のりこ、緋田康人、そして麻生久美子。ゲストも豪華で、第2回目には片桐はいりに池脇千鶴、田中要次、さらに佐藤蛾次郎に岡本信人まで。麻生久美子と池脇千鶴という実力派俳優のツーショットなんて映画でもめったに見られない。

監督は三木聡、脚本は岩松了(ドラマにも主人公の上司役として登場する)、園子温、ケラリーノ・サンドロビッチ(!!)、塚本連平。これまた曲者揃いですごいぞ。

上手い俳優がテンポよくドラマを進めていく(俳優や脚本、演出の癖が強く、おもしろいかどうかの評価はかなり分かれそう)。なぜゴールデンタイムに放映しないのだろうか。テレビ的には地味なのか。長くやってほしい気もするが、10回くらいでスパッとやめるのもレア度が高くていいかも。

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2006.01.18

THE有頂天ホテル

いつか読書する日いくつものドラマ、人間模様が並行して進み、やがてそれらは有機的に絡み合いながら一つにまとまっていく。個々のドラマが魅力的で、それもこれも折り紙付きの実力を持つ主役級の俳優が居並んでいるからだろうが(名ばかりのオールキャストものが多い中、この映画のオールキャストにはきちんとドラマがある)、一つ間違えばバラバラに分解してしまいそうな物語を違和感なくまとめ上げる三谷幸喜の筆力と構成力に感服するのが、まずは真っ当な見方であろう。今作は久々に脚本、監督ともに担当する。

1932年公開のアメリカ映画「グランド・ホテル」に範を垂れ、さらにタイトルには、これも古い名画である「有頂天時代」から一部を借りているという。物語の舞台は大晦日の超高級ホテルである。三谷は「ずっと靴を履いていてもおかしくない」場所としてホテルを選んだという。多くの日本人にとって非日常的空間(非現実ともいいえる)であるホテル、そこで繰り広げられる日常生活(生々しい現実)を引きずったドラマ。このコントラストの妙がなんともおかしい。三谷お得意の限られた時間、空間での人間模様が秀逸である。迫りくる刻限とその場から逃れられない状況が、作中人物をますます追い込みうろたえさせる。見所多し。

あらすじは書きようがないので公式サイトでご確認を。http://www.uchoten.com/

観客は演劇的な舞台回しを楽しみながら、この放埒極まりないように見える物語の落とし所を求めてわくわくすることになる。見終えた後に何か深いものが残るとか、人生をじっくり考えるとか、そういうことはおそらくない。しかし、多くの人と一緒に「わはは」「くすくす」と笑える時空間に居合わせるというのも時には大切である。エンドロール後の観客のほんわかとした笑顔が印象的だった。もちろん私も。

三谷のこれまでの映画は、舞台が先行してあり、後にそれを映画化していた。次は「THE有頂天ホテル」の舞台版を見てみたいものだ。なおドタバタ喜劇が好みでない方には薦められない。平日昼間にもかかわらず、それなりの観客で賑わうワーナーマイカルシネマズ新百合ヶ丘で鑑賞。

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2006.01.16

子どもの情景

日本の子ども 子どもの時間 loretta lux

街中でスナップ写真を撮ることについての是非はともかく、少なくとも撮影者と無関係の子どもを誰彼なく被写体にするのは極めて難しい世相になっている。下手にそういう写真ばかりを撮っていると、何かの弾みでお縄になる可能性すらある……。なんとも住みにくい世になったと嘆息しながらも、自分の子どもに見知らぬ誰かが熱心にカメラを向けていたら、やはり警戒するだろうなと思い直す。いやはや。

子どもを写した写真は、彼らの存在そのものの魅力もさることながら、その背後に子どもらの生活や家族までもが透けて見えるようで、とりわけ感情移入の度合いが強いものである。個性的であればあるほど、不思議なことに普遍的な感情に訴えかける何かが炙り出されるように思われる。年賀状に刷られた子どもの写真にはさまざまな事情で批判が多いと聞くが、それとて見方を変えると興味深い「人生」を内包する「作品」となる。近頃手に入れた子供たちの写真集をいくつか。

■日本写真家協会編『日本の子ども60年』(新潮社)
1945年からの戦後60年間に撮影された、日本全国の子どもの写真を集めた写真集である。撮影したのは木村伊兵衛、土門拳といった大家から、市井の愛好家まで幅広い。すぐれて記録的な写真はすぐれて芸術的な作品としても自立している。表紙の写真からすでに「やられた」感がある。同内容の「日本の子ども60年 写真展」が全国で開催中である。東京展は終了したが、名古屋、京都、横浜で引き続き展覧される。

■橋口譲二『子供たちの時間』(小学館)
『十七歳の地図』(角川書店)と並ぶ名作であろう。ドキュメンタリー写真を得意とする橋口譲二の最良の資質が発揮された一冊だと思う。この写真集には日本全国の小学六年生一〇五人のポートレイトとともに、彼らのアンケート回答と作文が収められる。写真をじっと見た後、添えられた文章を読むと、あらためて一人一人には固有の人生があるという当たり前のことに気付かされる。見ているとたまらない気持ちになった。

■ロレッタ・ラックス『LORETTA LUX』(青幻舎)
旧東ドイツ出身のロレッタ・ラックスは、スタジオ撮影した子どものポートレイトを風景画や風景写真とデジタル合成する手法で、とにかく「美しい」作品を作り上げる。しかし、ここでの子どもは、無邪気だとか、無垢だとか、そういったステレオタイプとしてのありようから離れ、我々の内側をざわつかせる存在として画面に現れている。「子どもらしさ」を徹底的に排除する肖像写真に込められたものは、相当深く複雑であるように思われる。

■蒼井優『トラベル・サンド』(Rockin'on)
おまけ。十代最後の夏をアメリカで過ごした蒼井優。彼女とカメラマン(高橋ヨーコ)とコーディネーターの女性三人の旅にまつわるエッセイと写真をまとめた一書。ありていに言ってファンのための本だが、「人をどう写すか」という視点を得ることもできると主張しておこう。無理矢理だけど。

エントリー名を「子どもの情景」としたのは、シューマンを思い出したから。安易か。この中でよく知られている「トロイメライ」ももう何年も聴いていないなぁ。

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2006.01.14

いつか読書する日

いつか読書する日たぶん人生の折り返し点をとうに過ぎたのだろうなどと思うと、なんとなく寂しくなるからあまり考えないようにしているけれど、これが五〇歳になったら間違いなく生きた時間より残りの時間の方が短いと自覚せざるをえない。自分がその年齢に達したとき、いったい何を思い出し、何を考えて行動するのだろうか。今のところ、毎日を生きるのに精一杯なのだが。

坂道の街で幼い頃から生活を続けている大場美奈子(田中裕子)は今年で五〇歳になる。今も独身で、牛乳配達とスーパーのレジで生計を立てている。美奈子は高校時代に付き合っていた、同じ街で市役所に勤める高梨槐多(岸辺一徳)への思いを今なお胸の内に秘めていた。槐多もまた死に至る病に伏せる妻容子(仁科亜季子)に付き添う傍らで、美奈子への思いを忘れることはない。そんな二人の思いに気付いた容子は、ある願いを美奈子に託す。

純愛映画ではあるが、一直線に突っ走る若者や道ならぬ恋に燃える中高年が主人公でないので、とにかく渋くて品がよく、静かで苦い。現実に組み伏せられた「常識の人々」の秘めた思いが、いかなる形で生き続けているのか。かつて淡い恋を経験した誰しもが、画面の物語をわがこととして読み替えることができるであろう。派手なところのまったくない映画だが、それこそが人生であるといわんばかりの強い説得力を感じた。『独立少年合唱団』(これもよかった)の緒方明監督作品。第七藝術劇場(復活めでたし)で鑑賞。

公式サイト http://www.eiga-dokusho.com/

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2006.01.11

携帯遊興機

マリオの国の携帯遊興機がえらい勢いで売れていると報じていた。
http://www.asahi.com/business/update/0106/116.html
「自転車な人たち」の間にもこの機械(ニンテンドーDS)が話題になっている。
http://d.hatena.ne.jp/lowracer/20060106/1136555197
http://d.hatena.ne.jp/enthusiast/
http://d.hatena.ne.jp/nspalette/20060106#1136526210
どうやら「どうぶつの森」とか「マリオカート」とかがキラータイトルとなっているようである。あと脳の訓練ソフト。松嶋菜々子が「52歳か」とつぶやくCMのあれである。最後のはともかく、前の二つは子どもと一緒にゲームキューブ版を嫌というほどやったので、なるほど確かにとは思う。とりわけ「どうぶつの森」は中毒性が非常に高い。毎日あれこれのイベントや採集、買い物をしないといけないような強迫観念に襲われるのである。手軽に進行状況をチェックできる携帯機にとてもよく似合う内容であると思う。もっとも繰り返しの単調さを感じ始めると、あっという間に飽きてしまうのも確かなのだが。

もともとこの国では小型の電脳機器が好まれているようで、各社が小型ノートパソコンを競って開発しているのは周知のことであろう(アップルもなんとかしてくれ!)。最近は携帯とPDA機能などをうまくまとめたW-ZERO3なる機械が飛ぶように売れているようだ。これなどもその種の需要がいかに大きいかということをよく現している。携帯ゲーム機が好まれるのも体躯の大きさだけでない、国民性のようなものを感じざるをえない。

PSPさて昨年末につい「プリンス・オブ・ペルシャ(初代)」に似たゲームができると言うことで衝動買いしたプレイステーション・ポータブルがなんだか楽しくて困る。買うまで知らなかったのだが、ワイヤレス環境(AirMacオーケー)でインターネットブラウズもできる。細々した文字や絵を見続けるのはさすがに目が疲れるものの、煌めくような液晶画面の美しさには目を見張らされる。映画ソフトや録画した番組をこれで見ようとする人がいるのも理解できる。考えてみると、これにギガクラスの記憶媒体を搭載し(これもすでに1GBのメモリースティックでクリアできる)、出来のよいエディタかワープロがあれば、少なくとも私の仕事には必要十分な携帯電脳になる(キーボードはどうする?)。すでに青空文庫の小説をPSPにダウンロードして読むツールなどもでていることから、早晩私の期待することも実現しそうである。

#なんだかこのエントリーにはオチが付きそうにないので、あしからず。

そして今度は「レミングス」と「IQ」が発売されるというではないか! 懐かしすぎて変になりそう。これも10年くらい前にどっぷりと浸かってしまったパズル系アクションゲームである。仕事で使う前に遊び倒して壊してしまうかも。

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2006.01.07

脳内在庫整理

そもそも読んだ本だの見た映画だののことを書き始めたのは、備忘録として残しておきたいと思ったからで、読後の印象が薄れきってしまうほど時間の経ったものまでリストとして溜めてしまっては意味がない。すっかり長大になったエントリー予告編のあれこれ。ちょっとだけ片付けてみる。

■香山リカ『いまどきの常識』
「反戦・平和は野暮」「すべて自己責任」「現実に理想をすり合わせよう」「お金は万能」など、近頃の世間の常識を俎上に載せ、現在の日本社会に起きている息苦しい変化について言及する。きれいごとが役に立たなくなってきたと憂う香山は、いまどきの常識が真の幸福な社会を実現に導くのかどうかを問いかける。賛同できるものもあれば、そうでないものもある。我々とて、一度は立ち止まってそれらについてきちんと考えてみる必要があるのではないか。(岩波新書、2005年9月)

■湯本香樹実『西日の町』
第一作『夏の庭』でも取り上げた子供と老人の間柄を描く。母と少年は「西日の町」に流れ着き、そこで母の父であるてこじいと同居を始める。ホームレス同然のてこじい、夫の失踪後、自らも不倫の渦中にある母。「沈み行く西日」の人生を送る大人を見ながら、生きていくことへの勇気を知る少年の決断が清々しく哀しい。湯本は会話の運びが本当に上手いと思う。(文春文庫、2005年10月)

■川上弘美『龍宮』
もともと異界のものを「当たり前」のように描くことを得意としていた川上弘美。近年は日常生活に根ざしたリアル路線(といってよいのか)の正統的な小説を量産している。この『龍宮』は初期の『神様』や『蛇を踏む』『椰子椰子』を思い起こさせる、ちょっと不思議なものとの交歓を描く短編集である。川上の筆が冴えていると思った。自分の場所に戻ってきて、安心して書いているように感じる。(文春文庫、2005年9月)

■朱川湊人『白い部屋で月の歌を』
川上とはまた違った形で異界と現実の交流を描く作家だが、ファンタジックな川上ワールドに対し、朱川のそれはおどろおどろしい雰囲気に満ちている。ほとんどスプラッター&ホラーで、この手の描写が苦手な人間には辛いところがある(私だ……)。『花まんま』は同じく異界ものといってもそうした趣はまったくなかった。ああ、だからこそ直木賞受賞なのか。(角川ホラー文庫、2003年11月)

■嶽本野ばら『下妻物語 完』
前作は嶽本野ばらの作品の中でも一般受けする内容だった。事実、深田恭子と土屋アンナを主演とする映画の評判もたいへんよく、近年の邦画の中でも出色の出来であったのは記憶に新しいところである。そしてその続編が雑誌「きらら」に連載された後、一書として刊行された。副題に「ヤンキーちゃんとロリータちゃんと殺人事件」とあるように、これはミステリーである。ただ事件の真相を解き明かす楽しみより、自らの型にはまりすぎた桃子とイチゴが前作より窮屈に感じた。(小学館、2005年7月)

まだたくさん残ってる。半年以上も前に読み終わったのもある。もう忘れかけてたりして……。

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2006.01.06

村上春樹『意味がなければスイングはない』

意味がなければスイングはない村上春樹のデビュー作『風の歌を聴け』(講談社、1979年)が大学卒業後に開いたジャズの店の営業終了後に書き溜められたものだということは、彼のファンの間ではよく知られた事実である。高校から大学にかけて、「書物を読み、音楽を聴くことが」生活のほとんどすべてであったと語る村上の小説には、食事とともに音楽の話題がしばしば登場する。作家と作品が同次元で連続したものであるという幻想を抱くほどに無邪気ではないが、村上の小説と食事、音楽が分かちがたく結びついている事実は、神の啓示以上の必然性があったとひとまずは言えるだろう。

いささか古い資料ではあるが、1991年4月に出版された「村上春樹ブック」(「文学界」臨時増刊)には「ミュージック・ミュージック・ミュージック」と題されたページがあり、村上の小説(「風の歌を聴け」から「TVピープル」まで)に現れる音楽すべてが拾い上げられている。その量と幅広さにはただ圧倒されるばかりである。小説の中には音楽にひっかけた警句もふんだんに散りばめられており、村上の音楽への尋常ならざる造詣の深さをうかがうことができる。

みんな同じような本を読んで、みんな同じような言葉ふりまわして、ジョン・コルトレーン聴いたり、パゾリーニの映画見たりして感動してるのよ。そういうのが革命なの?(『ノルウェイの森』)

意味がなければスイングはない』は「もう二度と、音楽を仕事の領域に持ち込みたくない」(あとがき)と考えていた村上が、「一人の職業的文筆家として(中略)音楽についてそろそろ真剣に、腰を据えて語るべきではないか」と考えて著したものである。ジャズはもとよりクラシック、ロック、ポップスから日本の歌謡曲まで、俎上に載せられる音楽は多様である。全十章あり、どれも原稿用紙で五十枚から六十枚になるほどのかさがある。評論ではないので、論理より経験と感性が優先される。しかし、それゆえに読者は村上春樹の内なる音楽と彼の小説との関連性を知ることになるだろう。

ところで、村上は「ウォークマンで『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』のテープを百二十回くらいくりかえして聴きながらこの小説を書きつづけた」と大ベストセラー『ノルウェイの森』のあとがきで書いているけれど、どうして「ラバー・ソウル」じゃなかったのか?(文藝春秋、2005年11月)

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2006.01.03

理由

理由宮部みゆきの原作をそのまま映像に載せたらこうなるだろうというものだった。

※推理ミステリーゆえ、原作を未読または映画を観ていない方は以下の記述にご注意を。

同名の小説は2002年の夏に読んだ。高層マンションで起きた不可解な殺人事件をめぐる物語である。ユニークなのは事件関係者へのワイドショー的インタビューを積み上げることで一つの長大な物語をなしていることだろう。もっとも読み進めている時はその世界にはまりこんでいたものの、読後にそれほどの充実感はなかった。あれだけ長く物語を引っ張った割には、真犯人の描き方や犯行の動機などが若干弱いように感じたからであった。また事件解決後に関係者にインタビューをするというこの作品のスタイルそのものが、逆に犯人が誰かを教えることになってしまっていることも結果的に興をそぐことになった。なぜならインタビューに直接出てこられない人物が事件と関係しているのが隠し絵のように浮き上がってしまうからである。

さて大林宣彦監督の映画は2時間40分の長尺である。ここでも小説同様おびただしい証言が繰り広げられる。劇中人物の視点はまっすぐカメラに向かっており、あたかもインタビュアを目の前にして語っているかのようである。いや、実際そういう設定なのだろう。あまりにも多くの人物が登場するため、いちいち字幕が入る。彼らの立場と証言をきちんと追いかけないと、まったく物語についていけなくなる点は、この映画の評価を分けるところかもしれない。第三者的な視点(神の視点)から事件をドラマ化するのではない珍しい手法がそこにはある。朝日文庫版の解説を担当する重松清が指摘した通り、複数の人物が一つの事件をそれぞれの立場から語る様子は、芥川龍之介の「藪の中」を思い起こさせる。まさに人の数だけ「理由」があるのだ。

小説でも焦点となっている「家族」が、映画ではより大きくクローズアップされている。家族をめぐる悲喜交々の情景。三世代の大家族の中で育つ少女が事件と関わりを持って流す涙は、見るものにそれぞれの家族のことを思い起こさせるに違いない。

大林監督縁の俳優が総出演している。意外なところに意外な人が登場する。そんな楽しみもある。それにしてもエンディング曲の歌詞がいつまでも耳に残って怖いよ……。

映画「理由」公式サイト http://www.wowow.co.jp/stock/riyuu/

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2006.01.01

至言

芸術は見えるものをそのまま再現するのではなく見えるようにすることだ

パウル・クレーの至言を思う新しき年の初め。私の仕事は芸術ではないけれど、こういう心持ちで取り組んでいきたいと、正月くらいは真面目に思う。本年もどうぞよろしくお願いいたします。皆様にも幸多き一年でありますように。

machida #9

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