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2006.04.30

FINAL FANTASY XII

ff7acFINAL FANTASY VII ADVENT CHILDREN」(SQUARE ENIX)を見た。1997年に発売されたFF VIIの続編として制作されたフルCG映像作品である。本編から二年後の世界を描くこの作品は、かつて身も心もFF VIIに捧げた人々には堪えられないものである。とりわけ中盤以降、クラウドやティファ以下、物語の途中で亡くなったエアリスも含め、かつての仲間達が勢揃いするシーンでは興奮を禁じ得ない。さらにセフィロスの登場! 敵役でありながら圧倒的な人気を誇るという点で、ダースベイダーに比肩する偉大な悪の領袖であろう(ただしゲーマー限定)。その存在感たるや、主人公達をひとまとめにしてもまったくかなわないほどである。物語自体は顔見せ程度のさっぱりしたものではあるが、CGのクオリティの高さと懐かしい友人に再会できた嬉しさで、十分満足させられた。

FINAL FANTASY VII ADVENT CHILDREN公式サイト
予告編(要QuickTime、上記公式サイトにも長尺の別バージョンあり)

FF VIIに熱い思いを持っている人は多いと見えて、ゲーム発売から9年が経過した今になって、600頁になろうかという解説本まで刊行されている。また携帯電話をはじめ各種メディアに周辺世界を描くタイトルが続々と発表されている。本編発売からかなりの時間が経とうとしていることを思えば、いかにシリーズ7作目が愛されているか(いや、商売になるかか)、よくうかがえる。それもこれもよく練り込まれた脚本やしっかりと背景まで考えられている登場人物の厚みのなせる業であるといえよう。

翻って最新作の「FINAL FANTASY XII」。VII/VIII/IX/Xに続いてなんとかクリアすることができた。RPGの宿命として一本道の物語をひた走るというものがあるけれど、FF XIIはその傾向を過去の作品に比べていっそう強く感じさせる。おそらくムービー部分に多くのことを語らせすぎているのだ。プレイヤーは関所代わりの美麗なムービーを見るために、おつかいのごとき雑用をこなし、さらにレベル上げのためにモンスター狩りに励んでボスに挑戦する、クリアすれば次の美麗なムービーを鑑賞する、以下エンディングまでこのサイクルが無限ループする……。ここまでくると、もうムービー部分だけを見せてくれたらいいじゃないかと思ってしまう。クリアというより断片化したご褒美ムービーを繋ぎ止めるために作業をしている気分になるのだ。飽きさせないために、本編とは無関係なミニゲーム的要素を盛り込んではいるが、もはやそれすらおつかいのように思われてくる。スタッフにこれも大好きだった「FINAL FANTSY TACTICS」の面々が名を連ねているから、その面では期待していたのだけれど、RPGの壮大なる約束事を覆すものはどうやら見せてもらえなかったようだ。

そういう意味でゲーム部分を取り除いた「FINAL FANTASY VII ADVENT CHILDREN」は、RPGゲームの行き着く姿ではないかと思われるのである。FFXIIではキャラクターの膨らませ方や周辺世界の論理的な作り込みも物足りなく思う。これは個人的な基準点としてシュールで複雑すぎるFF VIIを横に並べるからかもしれないが、単調で薄っぺらい感じは否めなかった。葉加瀬太郎の奏でるメインタイトルの流れるエンディングを見ながらつい目頭を熱くしたけれど、ゲームでこういう気分になるのはもうこれで最後かなとの思いが、ぼんやりと脳裏をよぎっていった。

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2006.04.27

直木賞以前、直木賞以後

かもめ食堂奥田英朗は、『邪魔』(2001年4月)、『イン・ザ・プール』(2002年5月)、『マドンナ』(2002年10月)の各作品で三度の候補となり、『空中ブランコ』(2004年4月・文藝春秋)で第131回直木賞を受賞した。『町長選挙』(2006年4月、文藝春秋)はその受賞作のあとを受ける、神経科医伊良部一郎を主人公とするシリーズ最新作である。これがなんともつまらない。

四編が収められている。うち三編は実在の人物(渡辺恒雄・堀江貴文・黒木瞳)を強く想起させる人物と伊良部の絡みが描かれる。誰しもがニュースやドラマなどで知っている出来事や事件が、再現フィルムを見せられるかのように展開し、その周囲を伊良部が動き回るという構図である。揶揄にしては生温いし、洒落のめすにしては真面目すぎる。前二作で描いたような、神経科医としてのありよう、出会うであろう症状というものをまず提示して、そこからドタバタ劇を展開するというスタイルが好ましいと思うのだが。そういう意味では四編目の「町長選挙」のみ、前作までのスタイルを正統的に引き継いている。いうまでもなくこれが一番楽しめた。もし伊良部シリーズが未読であれば、文庫化された第一作をお薦めする。あとはお好みのままに。

余談をひとつ。『イン・ザ・プール』と『空中ブランコ』についてはかつて述べた。すでに名をなした売れっ子作家が順番に受賞しているので、「次は東野圭吾か」とこの時に書いたら、本当にその次に受賞した……。やれやれというほかない。

かもめ食堂朱川湊人は第133回の受賞者である。受賞作『花まんま』(2005年4月)の色艶にすっかりまいってしまい、その後すぐに再読したほどである。『都市伝説セピア』(2006年4月、文春文庫)は、朱川のデビュー作であり、『花まんま』にまっすぐ続く世界を描く。すでに後年のスタイルのすべてがここにはある。初期作品集『白い部屋で月の歌を』(角川ホラー文庫、2003年11月)に見られた強いホラー色の残滓が感じられはするものの、全体のトーンは紛れもなく『花まんま』のそれだ。過去のある一点に向かって強く回帰する押しとどめようのない感情が、ノスタルジーや懐古趣味、子どもの頃の思い出といったさまざまな形で現れる。その切なさたるや。また話の構成も巧みで、どれもすんなり終わらない。待ち受けるどんでん返しが悲しくもあり爽快でもある。解説は石田衣良。小説も含め、これまで読んだ石田の文章の中で最もよかった(皮肉か)。

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2006.04.26

ニワトリはハダシだ

この映画の存在価値は、公権力の汚職、知的障害者の社会参加と保障、在日朝鮮人への差別など、どちらかといえば正統派ドキュメンタリーの手法によくなじむ社会的問題を、軽みを持った娯楽作品としてまとめあげたところにあろうか。公式サイトには以下の紹介文がある。

 少年・サムは15歳。重度の知的障害を持ちながらも、人並みはずれた記憶力を持っている。しかし、その能力が災いして、偶然にも警察の汚職事件に巻き込まれる羽目に陥ってしまう。権力を盾に、サムを犯人に仕立てようと目論む人々から彼を救い出そうと、一緒に暮らすチチ、在日朝鮮人のハハ、そして養護学校の教師までが、身体を張って事件の謎に挑んでいく!

公式サイト http://www.xanadeux.co.jp/niwatori/

軽やかであるとはいえ、それらの深刻な題材を気紛れに取り上げてみただけということでは、決してない。知的障害を持つ主人公の行動と彼の引き起こす一つ一つの事件は、映画の中では笑いの対象として描出されるが、その向こう側の笑えない部分もしっかりうかがわせることを忘れない。単なるお涙頂戴エンターテイメントに堕していないゆえである。

もっとも善意の人ばかりが回りを固めているところは落ち着かない気分がするし、あいわからずの障害者は純粋で無垢で優しい存在というお約束のような人物造形はなんとかしてもらいたいと思ったのも事実である。これは発想の転換(いや、勇気ある演出か)が必要なことだろう。とはいえ、俳優の演技、脚本、演出など、総じて平均点の高い作品であるといえよう。派手なところはないけれど、もっと多くの人に観られてよい映画だと思う。

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2006.04.17

写真とことばの鬩ぎ合い

動物好きであるのにもかかわらず、プロの撮った動物写真にはほとんど興味が持てなかった(ついでに言えば花や植物も)。だから星野道夫のアラスカの写真なども「一般人の行けないところで撮っているから珍しいだけ」などという、あまりにも傲慢不遜に過ぎる感想を持っていた。それが彼の著書や足跡を紹介した雑誌などを読むにつれ、偏った認識を改めることになる。月並みな言い方になるが、そこにはアラスカとかの地に生きるものへの深い愛情や洞察、敬意が満ち溢れており、その意識こそが星野の撮る写真を生む原動力となっていることに気付かされたのであった。

本来、写真はそれだけで自立すべきメディアであろう。名取洋之助の名著『写真の読み方』(岩波新書、1963年)を思い起こすまでもなく、写真に添えられたことばによって、眼前のイメージの持つ意味は大きく変質する。また添えられた説明や警句は写真の喚起する想像力を著しく拘束しもする。しかし、おそらく星野の写真はそうではない。近時、「アサヒカメラ」2006年2月号に掲載された星野のホッキョクグマの写真群の美しさは、確かに一片のことばも必要としないが、それでもなお星野の写真は彼自身の思念に彩られた文章と組み合わさることで、さらなる輝きを放つと思われる。『アラスカ 永遠なる生命』(小学館文庫、2003年6月)、『アラスカ 風のような物語』(同、1999年1月)の二冊の写真エッセイ集を読むにつけ、そのことを強く感じた。

一方、復刊なった森山大道の名著『写真よさようなら』(パワーショベル、2006年4月)は、徹底的に無言を貫く。ことばの入り込む余地はどこにもない。全編、あたかもモノクロの抽象絵画のような図像がただひたすら繰り返される。個々の写真の解釈を求められるというより、写真集全体から漂い出る濃密な気配や意志や情念を虚心に見通すことが求められる。それはまさに鑑賞する側の創作行為である。見る側にその覚悟がないと、この写真集はそもそもまるで意味をなさないであろう。これは昨秋から今冬にかけて東京都写真美術館で開催され好評を博した植田正治の写真とも気脈が通じるとおぼしい。残念ながら写真展には行くことはできなかったが、同時に発売された写真集『植田正治写真集・吹き抜ける風』(求龍堂、2005年12月 )に収められる不思議な浮遊感を持つ写真をつらつらと眺めるにつけ、何を看取するかは鑑賞者次第だと思わされる。日本におけるピンホール写真の第一人者、田所美惠子の第一作品集『針穴のパリ』(河出書房新社、2006年3月)に収められる写真群もまた同様である。

森山大道の写真は全般的に「ことばに頼らない」意志を明確にしているが、必ずしも相性が悪いということではない。父の生まれ故郷を撮影した『宅野』(蒼穹舎、2005年5月)は、ことばが添えられていることで具体的な物語が見えてくるし(「あとがき」より)、なければないで森山調のモノクロスナップとして堪能できもする珍しい写真集である。また寺山修司・森山大道『あゝ荒野』(パルコ出版、2005年12月)などは、寺山のなまめかしい文章を自らの写真のキャプションにするという離れ業を演じている。もちろん寺山にも森山にもそのような考えはないであろうが。

あわせてふたつ。飯沢耕太郎『ジャパニーズ・フォトグラファーズ』(白水社、2005年12月)、赤瀬川原平『目玉の学校』(ちくまプリマー新書、2005年11月)は、言葉巧みな写真評論家と芥川賞作家の手になる写真関連本である。前者は現代日本写真家を概括的に述べ、後者は写真や目の原理をおもしろおかしく解説する。

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2006.04.15

メゾン・ド・ヒミコ

かもめ食堂オダギリジョーが大人気である。CDやDVDなどのセールス情報でよく知られるオリコンの人気ランキングで、男女ともに第1位に選出されたと報じられていた。確かに独特な風貌ながら嫌みがなく、誰からも好感を持たれそうな印象がある。見る人の心に深々とした感動を残すような代表作こそまだないように思われるけれど、いくつか見た出演作では、さまざまな役柄をこなす器用さと巧みさを持っていると感じた。麻生久美子に惹かれて見ていた「時効警察」(テレビ朝日系)でも、コミカルな役をうまく演じていたと思う。また放映中の某カード会社のCMもおもしろい。

そのオダギリが柴咲コウと共演する「メゾン・ド・ヒミコ」をようやく観ることができた。公開時に劇場で観たいと思っていたのだが、東京に移った直後のことでその機会を逃してしまっていた。犬童一心監督の「金髪の草原」や「ジョゼと虎と魚たち」で感じられた、街や人そのものを絡め取ったような空気感が好ましくて、しかも脚本は「ジョゼと虎と魚たち」に続いて渡辺あやが担当している。俳優以前に物語そのもの映画そのものに大いに関心があったのだった。

正直に言えば、柴咲コウは好きな俳優ではない。しかし、この映画ではずいぶんその印象が改められた。失踪していた父の恋人(オダギリ)が突然現れ、その父(田中泯)が経営するゲイ専門の老人ホームを手伝わないかという。父の存在を否定していたのにも関わらず、やがて父の考えていたことを理解し、そこに集う人々に心を開いていく。そういう静かだけれど確実に流れていく感情をするりと表現している。上手いと思った。そしてオダギリの存在感も確固たるものとしてそこにあった。物語自体はややドタバタ劇的なところもありはするものの、犬童一流の静謐な世界観は損なわれることなく健在である。

「人を信じられるのはいいなぁ」などと似合わないことを考えながら、しみじみと目頭を熱くしていたのであった。音楽は細野晴臣。決して派手ではなく、物語にぴたりと寄り添うかのようなさざめく音の流れが心地好かった。さて同じ犬童監督の「タッチ」(長澤まさみ主演)はどうなんだろうか。

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2006.04.09

ゆるゆると疾走する楽しみ

吉田自転車今のところ海外への憧れがないので、行きたいところといえば、もっぱら国内となる。しばらくごぶさたの讃岐うどんポタリングとか、3年ぶりのしまなみ海道走破とか、阿蘇山近辺ぐるりとか、夏の北海道輪行の旅とか、直島でまったりとか、自転車絡みでいますぐにでもでかけたいところがいくつかある。伊豆、箱根や日光にも行きたい。あとは動物園でピンホール写真を撮るために、和歌山のアドベンチャーパーク(パンダ)、愛媛のとべ動物園(ホッキョクグマ)、関東近辺の動物園などにも早々に行ってみたい。そして中でも最高の憧れを持って行きたいと切望するのが屋久島である。その日が来たら、絶対に自転車と針穴カメラを持って行く。

■森絵都『屋久島ジュウソウ』(集英社、2006年2月)
それで節操なく「屋久島本」を手にするわけである。児童文学作家の森絵都の作品はこれまで読んだことがない。椋鳩十賞をはじめ児童文学関連で多くの賞を受賞する、いわばその筋の第一人者であろう。その森が雑誌編集者達と屋久島へでかけ、九州最高峰を「ジュウソウ(縦走)」するのである。予想以上にハードな「アウトドア的二泊三日」の行程は、憧れ先行の者(私だ)には少々厳しいものが……。なにせ「アウトドア大嫌い人間」を自負する私であるから、きついとかひもじいとかのあれやこれやはできるだけ避けたいのである(自分勝手)。柔い考えを打ち砕いてくれたという意味ではありがたい書であった。ただ森の文章は独特の臭みがあって好きになれない。対象に没入しているというより、どこか高みから斜めに物を見ているような感じがする。本書後半の世界各地を巡る旅行記録も同様である。なにか鼻につく。他の著作物を読んでそのあたりを確かめたい気もするが、そこまでするかどうかは定かではない。

■吉田戦車『吉田自転車』(講談社文庫、2006年3月)
それに対してこの吉田戦車の自転車本はよい。なにより自転車とがっぷり四つに組んで、自転車で走る楽しさや気分や痛みをきちんと文章にするところがよい。かといって自転車に対する異常な偏愛はない。それもよい。さらに自転車の名を借りて、「俺の哲学」「俺の道徳」「俺の人生」を語ったりしないところがよい。多いのだ、こういう嫌な自転車本、たとえばヒキタ某(ツーキニストなる気持ち悪いことばを作ったのもこの人だ)……。恥ずかしながら吉田戦車の文章は初めてであったのだが、評価の高い独特のセンスの漫画だけでなく、文章の方もしっかり読ませてくれる。とにかくけれんみがなくて気持ちがよい。そしておもしろい。自転車に関する文章を書くなら、こういうのを書いてみたい。わが職場が出てきたりして、ちょっとドキドキしたのは内緒(笑)。自転車と麺を必ず組み合わせるのも共感度大である。まだまともに走ったことがない東京をぐるぐると走りたくなった。『吉田観覧車』もそそるなぁ。

■吉田修一『日曜日たち』(講談社文庫、2006年3月)
日常の風景の中に兆す異物感をすとんと切り出したような「パーク・ライフ」は、好きな小説の一つであった。といいながら、吉田修一の他の著作に手を出していないところは不勉強の謗りを免れないところか。「日曜日たち」もたまたま文庫化されたのを目にしたので買い込んだのであった。五編からなる短編集である。東京で生きる五人の若者の「ある日曜日」をそれぞれ描く。各短編は独立した物語であるが、ある一点(これは伏せておく)で奇妙な繋がりを見せる。まるで二時間テレビドラマのような展開は読み通すのに苦労はない。しかし、わかりやすさゆえの作り物臭さは人によっては大きな疵になるかもしれない。

新年度が始まったばかりだが、どこかに行きたい思いは募るばかり(^^;。

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2006.04.07

さよならみどりちゃん

浦沢直樹の「PLUTO」第3巻(小学館)を読み、その勢いで普段は買わない「ビッグコミックオリジナル」を新幹線の車中の友として購った。ちょうど「PLUTO」が掲載された号であったからだ。手塚治虫の原作「地上最大のロボット」と比べると、まだまだ中盤に差し掛かったあたりという感じであるが、現代の世界情勢およびそこから導かれるであろう近未来をうまく漫画に取り込み、さらには社会批評の精神をも盛り込んで、ずしりとした重みを感じさせる。荒唐無稽でありながら良質のリアリズムに貫かれたこの作品が、どのように原作と折り合いをつけ美しい着地を見せてくれるのか。「あの結末」までまだまだ楽しませてもらえそうである。

さて「PLUTO」目当てで買った「ビッグコミックオリジナル」には、西岸良平の「三丁目の夕日」も掲載されていた。昨年、CGを駆使し実写映画化された漫画である。これが実につまらない。単に昭和30年代の生活をカタログ的に登場させるだけで、何の工夫もないのだ。そもそも一編の物語として構築する意欲や想像力が作者にあるのかどうかすらあやしい。この生温い漫画を原作とした映画「ALWAYS 三丁目の夕日」について、井筒和幸監督が「綺麗な夕日を見せるだけで『あの頃はよかった』などといってる場合か。それで日本の過去を語ったつもりになるな」という趣旨の発言をしていたが、まったく同感である。「東京がわかる300冊! 散歩の達人MOOK」(交通新聞社、2006年1月)誌上での生粋の東京人による対談の中でも、「非東京生活者による空想の東京」の胡散臭さと馬鹿らしさを指摘していたことも思い起こされる。6月にはDVDとなって発売されるらしいが、それ以上のことは「見てから」言うことにする。

前置きが長くなった。映画「さよならみどりちゃん」は南Q太の同名漫画を原作とする(やっとつながった)。監督は「ロボコン」の古厩智之。彼女のいる男を好きになったOLのやるせない片思いを描く。古厩監督は「IQの低い男女の恋愛」をイメージして映像化したらしいが、それはひとまず成功していると思った。しかし、映画そのもののIQも低く見えるのはいかがなものか。主人公のユウコの心理をじっくりと掘り下げるようなところがないため、表面的なドタバタ劇に終始しているように見えるのである。「ラブコメだから」と言ってしまえばそれまでか。主演の星野真里の存在感はなかなかのものであった。彼女の濡れ場シーンには、きっと公開時に「体当たりの演技」などというキャッチフレーズが踊ったのだろうな。西島秀俊、松尾敏伸、岩佐真悠子らも持ち味をよく発揮していた。

悪くはないけれど、志の高さのようなものはない映画だった。長澤まさみを初主演に抜擢した「ロボコン」の方が、娯楽作品としてよくできていたと思う。

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2006.04.02

斎藤美奈子『あほらし屋の鐘が鳴る』

かもめ食堂快哉を叫んだり、冷や汗をかいたり。

斎藤美奈子の書いたものを読むと、世の欺瞞を暴く楽しみに満ちているが、時としてそれは自分自身に向かって鋭い刃を突き立ててくる。

思えば昨夏の『誤読日記』(朝日新聞社)も、「本は誤読してなんぼです」という覚悟のもと、200もの新刊書を一刀両断に切り捨てていた。そこにあるのは「確固たる評価軸としての私」である。逃げも隠れもしないという潔さがあるから、たとえ斎藤の主張に異論があっても、「なるほど、それもそうだ」と思わせる説得力があるのだ。

『あほらし屋の鐘が鳴る』(文春文庫、2006年3月)は、昨今の笑うに笑えない社会現象を俎上に載せ、切って切って切りまくる。前半部の「おじさんマインドの研究」と銘打つ章がメインとなる。ここで斎藤が切るのは、主に「おじさん」と呼ばれる中年以上の男性諸氏の勘違いの数々で、たとえば藤原伊織『テロリストのパラソル』ではハードボイルドとは男性用ハーレクインロマンスであると断じ、「権力と闘う俺様」にウットリしていた全共闘世代の夢想っぷりと小市民的性質を指弾する。他にも徳大寺有恒的クルマ人生ダンディズムや、「もののけ姫」における宮崎駿の底の浅い学際的妄想、はたまた的外れな若者のファッション批判をするあの人この人などが、次々と小気味よく切り捨てられていくのである。「わはは」と笑いながら、「いや、いかん」などと思ってしまうところが困ったところである。

この書の後半は『誤読日記』の手法で女性誌を評価する。題して「女性誌探検隊」。こちらもすごい。女性誌のありようから日本の女性についての社会評論になっているのだ。女性誌そのものに接する機会はほとんどないが、膝を打つことたびたびで、ぜひとも実物を手にしてみたいと思わされた。よきにつけあしきにつけ、それを読みたいと思わせるのだから、書評としては極めて上等なものだろう。

安野モヨコ『美人画報ハイパー』(講談社文庫、2006年1月)も小気味よい一冊。美というのはきわめて主観的相対的なものであるが、ただひたすらある価値観に基づいて探求を続ける迫力に引き込まれる。本来は男性を読者として想定していない書であろうが、「未知の裏舞台」を知るのに読んでみるのも悪くないと思う。正しいとか正しくないとか、好きとか嫌いとかは別にして。

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