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2006.05.26

間宮兄弟

間宮兄弟観る前の唯一の心配は、この映画の原作者が江國香織であるということであった。独りよがりな生温い世界が展開されていると嫌だなと思っていた。しかし、それは杞憂に終わった。原作がいいのか(未読である)、脚本が見事なのか、そのあたりは判然としないけれど、全編を貫くからりとしたトーンと俳優陣の並々ならぬ力量によって、この映画にはとても心地好い時間が流れていた。

物語は一応ストーリーらしきものがありはするが、基本的にはシチュエーション・コメディー的場面の積み重ねが中心となる。そういう造作からいえば、荻上直子の「かもめ食堂」と似たものがあると感じた。両者が描き出そうとしているのは起承転結のある物語ではなく、主人公達の醸し出す空気感とか価値観であるという点、二つの映画を似たものとして並べるのはあながち的外れなことでもないように思われる。どちらも大いに楽しめる。

間宮兄弟を演じる佐々木蔵之介と塚地武雅のかけあいがいい。とりわけこれまでコミカルな役柄とは縁がなさそうな佐々木のはじけっぷりが微笑ましくもある。趣味というにはあまりにも濃すぎる二人の完結したライフスタイル(=オタクだ)は、他者を寄せつけない限りにおいて「永遠の微温」を保つことができるのだろう。ところが彼らはそれを自ら打ち破ろうとする。異世界の存在である「女性」を招き入れることで誘発される化学反応の妙味といったら! また間宮兄弟のペースに巻き込まれていく沢尻エリカ(ビデオ店バイト)と常盤貴子(小学校教師)のヒロイン二人もいい。オタクな二人を厭うこともなく、コケティッシュな魅力を振りまくことを忘れない。兄弟にとっての「世界に開かれた窓」はあまりにも刺激的である。

自分の好きなものを好きだと貫き通す心地よさを思い出させる。さまざまな「モノ」にあふれる間宮兄弟の部屋は、一度じっくりと見てみたいと思わせるものがあった。森田芳光監督作品。梅田ガーデンシネマで鑑賞。

公式サイト http://mamiya-kyoudai.com/

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2006.05.21

スポーツは愉し

マグナム サッカー中学生の頃に夢中になったスポーツが三つある。テニス、サッカー、F1である。

テニスは部活で覚えた。今は体がついていかない。サッカーは友人達と草チームを作り、部活のない時に練習や試合をした。高校で部に入り、大学の頃はその同窓生チームで社会人の下部リーグに参加していた。これも今は体がついていかない。F1はテレビ放映やDVDなどまったくない時代ゆえ、レース情報誌を読んでうっとりし、タミヤのプラモを作って喜んでいた。もちろん昔も今も自分ではできない。

爾来、四半世紀が流れた……。嗚呼。今でも観るのは大好きである。

■『マグナム サッカー』(PHAIDON、2006年1月)
マグナム・フォトのことを今さら語る必要もあるまい。戦後間もなくキャパやブレッソン、シーモアらによって結成されたこの世界的に有名な写真家集団は、スリリングなドキュメンタリー写真によって巷間に知られている。そのマグナムに所属する者たちが撮りためたサッカーにまつわる写真を集めたのが、この写真集である。ここにはビッグネームやスーパースターの姿はない(例外としてペレとマラドーナの写真が各一枚あるのみ)。ルワンダの難民キャンプでサッカーに興じる少年たち、タリバン敗走後の荒野でボールを蹴るアフガニスタンの村人たち、侵攻してきたアメリカ軍戦車の横でリフティングをするグレナダの青年、ブラジルの神学校でサッカーをする大人、イタリアの肢体不自由児のための施設でプレーする子供たち、パブで勝利の雄叫びを上げるリバプールの熱きサポーターの面々……。民族も宗教も国家も越えて、「サッカーを愛する」という一点で結びつく市井の人々が登場する。老いも若きも、男も女も、「愛するもの」の前では等しく一個の人間として存在する、その当たり前の美しさにうちふるえるほどである。サッカーを捉えた「決定的な一瞬」が、世界の歴史や文化や現状をこれほどまでに生々しく語るとは。

■田中詔一『F1ビジネス もう一つの自動車戦争』(角川oneテーマ21新書、2006年5月)
アイルトン・セナ存命時代の頃の人気はないとはいえ、今でもF1関係の情報誌や書籍は数多く刊行されている。しかし、たいていのものは華やかな表舞台のみを憧れの視点で描くか、もしくは蘊蓄を傾けながらマニアックな技術論を講釈するか、はたまた訳知り顔で下世話な裏話を暴露するか、そんなところに終始するばかりである。本書はホンダの第三期F1プロジェクトに関わるHRD(ホンダ・レーシング・ディベロップメント)の前社長が、明かしうる限りの事実をもって現在のF1の舞台裏を説いている。もともとが国際マーケティングのプロである田中は、凡百のF1本とはまるで異なる立場からビジネスとしてのF1の世界を語っているのである。これまであまり公にならなかったことが述べられており、F1好きには興味深い内容になっている。前世紀の終わり頃からF1がおもしろくなくなっていった元凶は、マックス・モズレー、バーニー・エクレストン、フェラーリの三者であろうことは、誠実なF1ウォッチャーであれば誰しも気付いていることであろう。そのあたりの事情も経済的または政治的な側面から説明がなされている(もちろん田中はメーカー連合側の人間なので、その点は考慮する必要がある)。もう少し深いところまで書いてほしいという部分もありはするが、啓蒙的な新書ゆえ、いたしかたないところもあるのだろう。F1好きに薦めたい。

■北杜夫『マンボウ阪神狂時代』(新潮文庫、2006年4月)
熱狂的なタイガースファンである芥川賞作家のものした、かの球団関連のエッセイを集めた一書である。60年代から80年代の話が中心で、最近の「強い虎」のことしか知らない世代には、別世界のような内容であろう。同じネタの使い回しがやたら多く、読んでいて飽きが来た。古くからの阪神ファン以外には薦めない。

テニス本は今のところなし(^^;。

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2006.05.20

黄金週間のポタリング

思えばあてどないポタリングなどいつ以来やっていないのだろう。少なくとも輪行は東京生活を始めてから一度もやっていない。機動力のある折り畳み自転車を2台とも東京に持ってきたのはいいが、いつ乗っても混雑しているような気がする小田急に恐れをなし、持ち込むことができずにいるのだ(#先般の会食の折、こぐさんやあゆこさんから、曜日や時間帯を選べば小田急輪行は可能とのアドバイスをいただいた。)。まずは江ノ島あたりにはぜひ自転車で出かけてみたいと熱望してはいるのだが、いつ実現できることやら。

大阪で過ごしたゴールデンウィーク。はからずも一人の時間ができたので(東京でも一人だろというツッコミは哀しくなるのでしないでください)、皇帝3号(丸石エンペラー)に乗って目的地のないポタリングにでかけた。五月晴れの三日のことである。吹田から茨木、高槻、枚方あたりまで気の向くまま走ってきた。カメラは引っ越しの時に見つけ出したコニカ・ビッグミニと撮り残しのフィルムが入っているzero2000だけにした。

may #2 may #1
茨木市の天王小学校近くの小川。岸辺も川の中も菜の花が咲き乱れている。
may #6 may #5 may #4 may #3
薄紫のレンゲが一面に咲きほこっている。高槻市三島江の風景。ここは有名な場所らしく四月には大きな催しも開かれていた。赤いポストは茨木市沢良宜のもの。
may #10 may #9 may #8 may #7
may #14 may #13 may #12 may #11
淀川の河川敷や土手にも菜の花が群生していた。これも高槻市である。特に手入れされているわけではない。野生の迫力をストレートに感じる。ピンクのゾウは児童公園の滑り台、大きなキリンは幼稚園の門である。

暑すぎず、寒すぎず、綺麗な青空が広がっているし晴れ晴れとした気持ちになった。走るのは楽しいなぁと思いながら、それならばと新しい自転車のことを妄想するのは悪い癖であるが。

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2006.05.18

二ノ宮知子『のだめカンタービレ』

のだめカンタービレたまたまつけたテレビにNHKの「トップランナー」が映し出された。その日のゲストはチェロのチョウ・チンであった。きりりとした目鼻立ちを持つこの中国人チェリストは、インタビュアーの質問に対し、思慮深い佇まいで一つ一つ丁寧に受け答えをしていた。聡明で知性溢れる人であることが一目でわかる。

この時は大萩康司のギターを伴奏にし、ピアソラの「タンティ・アンニ・プリマ」を演奏した。これがとてもすばらしく、画面からまったく目が離せなくなってしまった。天賦の才能と不断の努力によって作り上げられた演奏は、凡夫である私までも高みに引き上げてくれるような気分にさせてくれ、同時に、前へ進まなければという気持ちをも分け与えてくれた。後日、さっそく彼女のCDを買い求めたのはいうまでもない。

野田恵も同じ気持ちにさせてくれる。

彼女は二ノ宮知子『のだめカンタービレ』というクラシック音楽を題材にした漫画の主人公である。「のだめぐみ」だから「のだめ」。幼稚園か小学校の先生を目指すと言いながら、プロのピアニストへの道を着々と進む。天性の自己中心主義とポジティブシンキングに怖いものなど何もない。本人の自覚せぬ上昇気運は、知らぬ間に彼女自身を、そして周りの人間をも巻き込んで、彼ら全員を高いところへ運んでいく。そこにはあざとさがいっさいない。その清々しさといったら。だからこそ指揮者での成功を目指す千秋真一とのコンビが笑えるのだろう。完璧主義の王様と自堕落な女王様。ああ、偉大なるアウフヘーベン。

自己の発見は進むべき道の発見でもある。少しずつ自分のことに気づき始めたように見えるのだめは、連載開始当初のような天然そのものという印象が薄れてきはしている。おそらく「のだめ」のサクセス・ストーリーを無邪気なおとぎ話以下に貶めないための方策なのだろう。「のだめ」が「のだめ」のまま、「未来のアルゲリッチ」にならんことを!

マングース二ノ宮知子はあまたのクラシック演奏会の放送や映像を研究しているとおぼしい。コマの展開の仕方があたかもそれを見ているかのごとき印象がある。音が流れてくるというのはいいすぎだろうか。少女漫画というカテゴリーを意識する必要はない。クラシック音楽を題材にした一級の娯楽作品である。見事にエンターテイメントしている。読むものに不思議な高揚感と幸せな気分を与えてくれる。

むきゃー
ぎゃぼー

のだめの叫び声である。なんとなく同じ声を叫びたくなる。のだめにはなれないけれど気分はすっきりする。来月出る予定の新刊限定版付録は、のだめの来たマングースの着ぐるみぬいぐるみだ。なんというおまけ!!

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2006.05.14

サヨナラCOLOR

サヨナラCOLOR「怪演」の度が過ぎて反感を買うことも多い竹中直人。出演作の多くで見せる周囲と馴染まないハイテンションとノリは、確かに見る側をどこまでも鼻白ませてしまう。それはそのまま竹中への好悪の評価にも直結しているといえるだろう。巷間によく知られる「ウォーターボーイズ」や「スウィングガールズ」、さらにテレビドラマなどでそれをやっているから、なおさらこの一面だけが世間に強く印象づけられてしまった。

しかし、竹中の出演したものを追いかけていくと、決してそれだけではないことに気付く。いくつかの作品ではしっとりとした中年男性の哀愁のようなものを切々と演じきっているのである。たとえば「東京日和」や「無能の人」「連弾」などだ。竹中はユーモアとペーソスを醸し出し、いい歳の取り方をした「中年のおっさん」をうまく体現している。忘れてならないのは、これらの作品は竹中自身が監督をしているということである。つまり本人の考える「自画像」と他人の期待する「竹中像」にはズレがあるとおぼしい。いい悪いではなく、どちらも真実なのだと思う。

サヨナラCOLOR」では、竹中一流の哀感に、良くも悪くも持ち味となっている「怪演」気質が上手くミックスされた演技をしている。難病を患って入院してきた高校時代の初恋の人を治療する医師を演ずる。監督・演出は竹中である。もちろん見る人によってはその「怪演」部分を受け入れられないかもしれないが、きちんと抑制されていると思った。少なくとも物語の進行を分断してしまうようなことはない。ただお涙頂戴と勘違いされそうなテーマ(難病と生死)や、さらに結末が途中で見えてしまう脚本などにはもう少し捻りがほしかった。澄んだ透明感のある映像はとても美しい。

映画で若々しくヒロインを演じる原田知世も、もう不惑目前である。けだし永遠の少女である。薬師丸ひろ子とともに、これからも長く活躍してほしいと願う。角川映画、ミーハー路線であったかに思われたが、実は見る目があったか。

公式サイト http://www.zaziefilms.com/sayonara-color/index.html

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2006.05.07

長野まゆみ『天球儀文庫』

天球儀文庫宮沢賢治と稲垣足穂を足して二で割ったような作風。二人の少年の交歓と成長と別れを描く。異国情緒を強く感じさせるとともに時代も定かでない不思議な時空間が広がる。作者の長野自らが「文庫版に際してのあとがき」でこう述べる。

少年達は国籍不明ながらも、やや日本人的な名前を持ち、日本語を話す。にもかかわらず、まるっきり西洋風の学校へ通い、宗教的にもその影響を受けている。街路はやはり西洋のどこかの街らしい風景で、人々のたたずまいもそれにかなったものだ。

野ばら、カンパネルラ、夏至祭、天体議会、聖月夜、宇宙百科活劇、綺羅星波止場、兄弟天気図、賢治先生……。長野の著作のタイトルだけを眺めてみても、これが『天球儀文庫』だけの特徴ではなく、この作家特有の個性であることがわかる。確固たる美意識に導かれ、「神は細部に宿る」を実践するかのごとく、選ばれる表現も首尾一貫した流儀に従っている。一部は旧仮名遣い、外来語を漢字で記し、長音記号は極力使わない。自立語(とりわけ名詞)はこれも漢字を多用する一方、通常は漢字表記するはずのものをひらがなに開いていたりする。結果、硬質でありがならもの柔らか、どこか古めかしく懐かしい印象を受けるのである。
シトロンソォダの栓を抜いていた宵里は、そのかげんで、語尾に力を入れてそう云った。ソォダ水は空気にふれて発砲する。瓶のなかで、パチパチと音をたてて噴きあげる翠色のビーズ。ソォダ瓶の口から白い泡が溢れでた。

アビ、もう判ったろう。あのレコォドの音だ。ソォダ水がパチパチとはじける音は、あの古いレコォドをまわすときの音に、似てるんだ。ぼくはそれを思い出したのさ。

主人公の二人の少年、宵里とアビはしばしば他人の自転車を無断で借り出し乗り回す。天使の現れる街の行動原理は、道徳とは別の次元で存在し優先されるのだ。やがて過ぎ去る「少年」という時代のかそけさとコスモポリタンの住む箱庭的世界に、いかにもあいふさわしいものであろう。(河出文庫、2005年11月)

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2006.05.05

タッチ

タッチ以前紹介した斎藤美奈子の『あほらし屋の鐘が鳴る』(文春文庫、2006年3月)に「熱湯甲子園 女子マネをもてはやす高校球界の奇妙なセンス(注:「熱湯」原文ママ)」という項があり、これがまこと膝を打つ内容であった。1996年から解禁された高校野球全国大会における女子マネジャーのベンチ入りを俎上に載せ、マスコミのはしゃぎぶりと旧態依然の実態を厳しく糾弾するものである。核心部分を引用しよう。

マネジャーに「女子」がつくと、会計や事務など本来の「雑務」のほかに(のかわりに?)、部室の掃除・ユニホームの洗濯・合宿時のメシの世話・傷の手当てなどの「雑用」がくわわるのは、みなさまご承知の通りです。いや、この際あえて申しましょう。女子マネとは、家政婦と看護婦を兼ねた雑役婦、チーム内奴隷にほかなりません。野球、サッカー、ラグビー、アメフト、ボートなど、およそ伝統的な花形の男子スポーツチームには、必ずといっていいほど「女子マネ」という名の女奴隷が随行しています。

無論この斎藤の主張に反論する立場もあるであろう。しかし「どこまでも従順に男に付き従う女」という構図からはのがれられない。斎藤はこうした活動が公教育の場で無自覚のうちになされることの是非を問いかけ、慄然と問題提起しているのである。

はたして浅倉南は「女奴隷」であったのか。長澤まさみを配した「タッチ」(犬童一心監督)を見てそのことを思った。あだち充の原作では野球部のマネジャーをしてはいたが、偶然始めた新体操(1980年代当時は新興種目だった)で全国レベルの実力を発揮し、達也をして「あまり遠くへいくなよ」と思わせたほどの実力を誇っていた。もちろん心はどこまでも「タッちゃんが私を甲子園に連れて行ってくれる」「いつかタッちゃんのお嫁さんに」というのがあったには違いないが、同時に進取の気性に富んだ自立する女性でもあった。ところが、映画版の浅倉南はまったくもって「どこまでも従順に男に付き従う女」でしかない。劇中で南のすることはまさしく斎藤の指摘する女子マネの姿そのものである。そして新体操をすることはいっさいカットされている。申し訳程度に体育の授業でダンスするシーンが挿入されているが、多少は原作に配慮したということか。いや、映画ではそれとても「かわいい女の子=マスコット」を演出する装置でしかない。

「愛しいあの人が私を夢の国に連れて行ってくれる、私はそれをひたすら待ち続ける」それだけのことを描く映画に何の価値があるのだろう。原作は1980年代、映画は新世紀、しかし、その内実たるや、どちらが旧弊なものであるか、火を見るよりも明かである。「強い男と弱い女、守る男と守られる女、俺についてこいとあなたについていきます」、そういう映画である。多少なりとも高揚した気分になったのは、アニメ「タッチ」の主題歌を劇中歌として使ったことくらいか。

タッチ

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