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2006.06.28

センセイの仕事場 2

大学の先生が自分の授業の様子を一書にまとめる。商品価値はどのあたりにあるのか。

■松井孝典『松井教授の東大駒場講義録』(集英社新書)
理系の科目が憎い、というほどではなかったものの、どうしてよいものやらと悩まされた中学高校時代であった。その中で唯一、地学だけは大好きでうきうきと勉強していた。趣味のようなものであった。「地球、生命、文明の普遍性を宇宙に探る」という副題を持つ地球惑星物理学の権威による「惑星地球科学II」の授業本を手に取ったのは、そういう昔々の思い出のなせるわざである。

歯が立たなかった……。

脳内の欠片をかき集めたところでどうにもならないほどの圧倒的な高峰がそびえていた。それはそうだろう、日進月歩のこの世界であるから、そんな遙か昔の幼い知識だけではどうにもならないのは当然である。おもしろそうな匂いがするだけに、それを十全に理解しきれない自分自身の貧しい知力を呪わしく思う。いずれ再挑戦したい。

■石原千秋『学生と読む「三四郎」』(新潮選書)
では文系の授業はどれも得意であったのかといえば、そうではない。特に国語が苦手で、どうしても点が取れなかった。とりわけ夏目漱石と小林秀雄には嫌な思い出しかない。漱石の『こころ』は風通しの悪さばかりが鼻について、ちっとも物語に入り込めなかったし、小林の一連のエッセイ風評論は、独特の論理の飛躍について行けず、何を言っているのかほとんど理解できなかった。もちろん試験では赤点連発である。トラウマ……。

成城大学での石原ゼミの「近代国文学演習I」の実践報告である。石原は「ごくふつうの大学生が通う大学」の「いまどきの大学生」がいかに漱石を読み解いていくか、その一部始終を報告する。作品は「三四郎」。石原の読みの方法は作者を切り離したテクスト論であり、それまでの国語の授業でお行儀のよい「正統派読解術」ばかりを学んできた学生にとっては戸惑うことばかりである。そこがおもしろい。また成城大学の裏側も少しだけ垣間見ることができ、興味深い。全体的に物語仕立てで気楽に読み進められる。同時期に刊行された石原の『大学生の論文執筆法』(ちくま新書)は、本書の実践編的な趣である。同じネタの使い回しがあるのはいたしかたのないことか。

■柴田元幸『翻訳教室』(新書館)
高校の英語か地理の先生になりたかった。それなのに、今の英語のできなさ加減はどうなのだ。まったくもって情けない。いや、そんなことはどうでもよい。本書は柴田の東京大学文学部で開講された「西洋近代語学近代文学演習第1部 翻訳演習」の内容を、ほとんどそのまま文字化したものである。異なる文化、社会、歴史を持つ二つの言語にどう橋渡しするのか。学生とともに一語一語にこだわり磨きをかけていく作業は、知的好奇心を掻き立てられ、極めてスリリングである。授業のゲストに村上春樹やジェイ・ルービンまで登場する。うーむ。

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2006.06.22

センセイの仕事場 1

センセイの書斎手に入れた本はどんなに酷いものでも捨てたり売ったりできない質で、そうなると必然的に家の中が本であふれかえることになる。同業者に比べるとかなり少ない方だと思うのだけれど、それでも分散して収めている三カ所(大阪陋宅・東京寓居・東京職場)の書架は、どれも大きな地震の時にはじゅうぶん危険な存在になりうるであろう。自ら招いたこととはいえ、笑えない話である。

本をどう集め、どう読み、どう管理するかというのは、職業上の必然もさることながら、修養と趣味が大きく関わってくると思われる。それが明確な形になって現れるのが「書斎」であろう。私は他人の書棚や書斎を見せてもらうのが好きで、といってもそんな機会はあまりなく、たまさか発売される書斎本などを買ってはひそやかに「お宅訪問」を楽しむのがもっぱらである。

内澤旬子『センセイの書斎』(幻戯書房、2006年6月)は、「三省堂ぶっくれっと」や「季刊・本とコンピュータ」などに連載されていたイラストによる書斎ルポが一書にまとめられたものである。作家や学者をはじめ、翻訳家、評論家、芸術家、さらには古書店や図書館まで、31の「書斎」が幅広く紹介されている。写真はいっさいなく、すべて手書きによる細密画のようなイラストが、それぞれの書斎の主の思いや考え方を味わい深く伝えてくれる。

整然とした巨大書庫にため息をつくもよし、ゴミ捨て場のようなカオスに安心するもよし。知の生み出される場所は千差万別、一つとして同じものがないところは、まさに書斎が「脳を写す鏡」であるまぎれもない証しであろう。

登場する「書斎」

林望(書誌学者)、南伸坊(イラストライター)、森まゆみ(作家)、柳瀬尚紀(翻訳家)、養老孟司(解剖学者)、逢坂剛(作家)、米原万里(翻訳家)、石井桃子(児童文学者)、佐高信(評論家)、金田一春彦(国語学者)、品田雄吉(映画評論家)、千野栄一(チェコ文学者)、石山修武(建築家)、上野千鶴子(社会学者)、杉浦康平(デザイナー)、静嘉堂文庫、書肆アクセス ほか

http://www.genkishobou.com/

内澤旬子さんにはこんなおもしろい記事「アジアのトイレ」もあり。
http://www.asiawave.co.jp/TOIRE4.htm

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2006.06.21

ALWAYS 三丁目の夕日

ALWAYS 三丁目の夕日のっけから皮肉っぽい物言いで恐縮だが、さすが2005年度日本アカデミー賞12冠の映画である。私にはこの映画のどこが感動的なのか、さっぱりわからなかった。あらためて感じたことは、日本アカデミー賞で評価される映画は、私にはまったく合わないということだった。なんなんだろう、この生温い映画は。

これはSFファンタジーである。昭和30年代風、東京らしい街、それらを物語の枠組みとする完全なる箱庭的SF映画である。その発想は完璧にステレオタイプに毒されており、たとえれば火星にはタコのような生物が住んでいると無邪気に信じているようなものである。町並みの昭和らしさはあまりにもあざとくて、ノスタルジックな雰囲気を醸し出そうと演出しているものの、どこまでも作り物臭く、これならば吉本新喜劇の舞台セットの方がよほど昭和っぽい匂いを感じさせるであろう。また脚本そのものもわかりやすく底の浅い人情話をいくつか組み合わせているだけで、これまた「いつかどこかで」見たり聞いたりした既視感を強く覚えるものであった。オリジナリティもリアリティもここにはない(巧みなCGならあるけど)。

そもそも、この映画が声高に叫ぶメッセージが、おおいに疑わしいのである。あの頃はほんとうによかったのか。貧しいけれど夢があったと言い切れるのか。夢といってもせいぜいテレビを買うとか、冷蔵庫を買うとか、そういうものでしかなく、大型液晶テレビがほしい、水を使わない全自動洗濯機がほしいという今の世の中と何が違うのか。結局、この映画の登場人物たちは、戦時中のもののない時代の反動として、ものに溢れた生活に過剰なる憧れ(それが「夢」だとしたらずいぶん即物的な夢である)を持っているに過ぎない。その「物欲」が「夢」に都合よく読み替えられている。やがて来る「一億総中流階級」指向へのきざはしが断片的に切り取られ、効率よくデフォルメされているだけである。「貧しいけれど、夢があった」「ほんとうの豊かさがあった」なんて笑止千万、それこそが「昼行灯の夢物語」である。

父親の病気で借金がかさみ、身売りする女がいる時代。子供が多すぎて生活が立ちゆかず、口減らしのために都会へ半ば強制的に集団就職させる時代。憧れの新商品を手に入れるために連日連夜働き、その陰で昔ながらの商売人が仕事を失っていく時代。映画で描かれるこれらの情景が真実であるかどうかはひとまずおくとして、「ALWAYS 三丁目の夕日」は当時の社会の抱える本質的な問題には何一つ答えようとはしていないし、そもそもその種の問題意識などはじめから持とうとしていないのであった。高度経済成長期の暗部をすべてなきものとし、夢見心地の上澄みだけを見せるやり方は、昨今の無責任なポジティブさを煽り立てる風潮に気味が悪いほど合致するものであろう。なにもかもを「ああ、夕日が綺麗だなぁ」ですませてよいものか。夕日の後には夜の深い闇が待っているのに。

俳優の熱演ぶり(堤真一など怪演だ……)がいっそうのもの哀しさを感じさせる。

公式サイト http://www.always3.jp/

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2006.06.18

東京初輪行とチーズケーキ三昧

前日の天気予報を見ると、午前と午後の降水確率はそこだけ測ったように低確率であった。奇跡(笑)。とはいえ、いつ降られるかわからないので、コンビニで400円の簡易雨合羽を調達して鶴川駅に向かった。ここからは東京初輪行である(輪行自体、ほぼ1年数ヶ月ぶり)。土曜出勤の人の多さに緊張しながら、車両最後尾の隅に自転車を据えた。千代田線の二重橋駅から東京駅まで走り、丸の内北口で皆と合流する。

#この日の自転車はBD-1にした。ロデオ!?とも思ったが、さすがに初めて走るところをあの妙な自転車では迷惑をかけるかもしれないので自重した。なお本エントリーは写真なし(カメラを忘れた)でむやみに長い文章だけが続く。あしからず。
#全員で平らげたチーズケーキは32種類、79個と2本であったらしい。なお下記の店名と食べたケーキ名は、@nak.comの記事を参照した。感謝します。

総勢18台19名で出発する。タンデム、リカンベント、小径車、ロード、ランドナー……。一般の人にはBDも十分変な自転車に見えるはずだが、もっとすごいのがあるので、ごく普通の自転車に見える(笑)。皇居をぐるっと反時計回りして赤坂のスタバに到着する。ここで一軒目の「しろたえ」のケーキを食す。うっ!(感想)。こんなチーズケーキは食べたことがない。もうこれで帰ってもよいと思ったくらいのインパクトだった。スタバのオープンテラスでケーキに群がる人々。店内から店員がちらちら見ていたが、あまりの勢いに何も言えなかったらしい。ちなみにここで自己紹介をしたのだが、まわりが五月蠅すぎて近くの人のしか聞こえなかったのを、ここでこっそり告白しておこう。名前もよくわからないまま一日過ごして、ごめんなさい。

しろたえ レアチーズ1本、焼きチーズ10個、スフレ3個

次へ急ぐ。2軒目に予定していた「赤坂ミコレ」は改装中のためか、休んでいた。獣系(byこぐさん)と称されるケーキは食べてみたかった。仕方がないので3軒目、4軒目へと18台は加速する。まだまだ体も胃袋も元気いっぱいである。観光モードで東京タワーの足下で記念撮影もした。

LABYRINTHE テリーヌフロマージュ1本、チーズケーキ3個、パワーサンド2個、クロックムッシュ2個、カレーパン2個
THEOBROMA クレームダンジュ3個、タルトフロマージュ3個

「LABYRINTHE」と「THEOBROMA」のケーキは、昨春、針穴友の会のmeet-upをした有栖川公園で食べる。あの時はゆっくり桜をめでたけれど、今回はひたすら胃袋を楽しませるのだ。またしてもベンチに群がる19人(こればっかりか)。あっという間に食い尽くす。どれもおいしかったが、なぜかカレーパンやパワーサンドに舌鼓を打つ人も多数あり。早くも甘い味に飽き始めたか!? テリーヌフロマージュ(「ちょっと、あーた」と名づけた方約一名、笑)、絶品。

渋谷区内をうねうね走りながら、恵比寿ガーデンプレイスを目指す。時折雲間から強烈な日差しが照りつける。暑いよ……。昼の時間は過ぎたけれど、ちっともお腹は空かない(当たり前)。でもケーキは入るのだった。いくつか強烈な坂道を上った。大阪の街中ではありえない急傾斜(夕陽丘あたりがわずかに近いか)に汗だくになった。

アニバーサリー ゆずクリュ3個、レアチーズ3個、焼きチーズ(ブルーベリー)3個、焼きチーズ3個
Conure スフレリコッタ3個、ゴルゴンゾーラ3個、チーズケーキ3個

ゴルゴンゾーラの塩味が抜群に気に入った。ゆずクリュの清涼感もいい。それにしてもチーズケーキとひと口に言っても、これだけ個性的なものが次から次へと出てくるのは、驚き以外の何ものでもない。

「ヨハン」のケーキを買い、それを持ったまま先に昼食にする。池尻大橋にある「ムッシュヨースケ」でカレーのランチを食べた。これがまたおいしくて。いつもは混み合っているらしいが、運のいいことに全員がすんなり入れたのは、誰か強運の持ち主がいるのか。晴れたし。腹もくちくなったところで、隣にあるキャノンデールの専門店を冷やかしてから出発する。片持ちフォークのMTBにグッと来たが、値段が50万を超えているので話にならない。

出発してすぐに西郷山公園に到着する。ここでも2軒分を食べるのだ。買い出し部隊が帰ってくるまで、このポタの企画者nak(あ)さんから公園にまつわるレクチャーを受ける。キーワードは西郷どんの弟と東京ラブストーリー、富士山、夕焼け。なお公園入口にあるカフェがやたら繁盛していたことと、同じ場所に止まっていた軽バンの移動エスプレッソ店が印象的であった。

ヨハン ナチュラル5個、ブルーベリー5個、メロー5個、サワーソフト5個
松之助N.Y. チーズブラウニー1個、ニューヨーク1個、キャラメル1個、マンハッタン1個、ココア1個、ラズベリー1個、マーブル1個

10センチ四方で一個1050円のブラウニー出現。あまりの衝撃で味がわからない(笑)。というか、満腹? 「ヨハン」のナチュラルとメローに癒された。世田谷区に入ってからは、歩行者と自転車だけが通れる緑道を走った。これが実にいい感じの道で、すっかり気に入ってしまった。2年後にはこのあたりに職場が移転するので、その時は存分に緑道ポタリングを楽しみたい。

Cheese Cake Factory ミックスベリーのムースフロマージュ1個、ポルタジョイエ1個、マンゴーと伊予柑のムースフロマージュ1個、濃厚チーズのプリン1個、南高梅のチーズバー1個

みんな、お腹一杯(笑)。しかし、通り過ぎるのも口惜しいので食べる。「Cheese Cake Factory」のはどれもチーズケーキらしからぬデザートのような味わいだった。きっとそういうのを選んできてくださったのだろう。蚊に喰われながらケーキを喰らう自転車乗り一行。そして最終目的地へ。日体大の前の緑道の休憩所のようなところで摘み食いする。ふわふわのアンジュが口腔に優しくて、いくらでも入りそうな感じだった。

PLATINO アンジュ3個、ゴルゴンゾーラ?チーズとドライフルーツのタルト1個

全員で二子玉川駅に向かった。「にこたま」の名はよく聞いていたけれど、行くのは初めてである。ここで解散となる。名残を惜しみながら、それぞれ帰途についた。私はといえば、同じ方向に帰るこぐさんに先導してもらって、ひたすら西へ走る。もうかなり雲行きがあやしくなっていたので、雨に降られないことを祈りながらペダルを漕いだ。最後は霧雨の中、自宅に到着した。一所懸命走ったので、左の脹ら脛がつりそうになったのはお笑いぐさである。午後7時半。

しかし、この日の晩ご飯に、よりによってカルボナーラを作ったのは、受け狙いと言うことでは決してない。冷蔵庫を開けると、ベーコン、卵が目に飛び込んで、つい。チーズ三昧の一日の締めとしてはふさわしいものか。

付言:
#東京でのポタに参加して「ふむ」と思ったこと。全員がヘルメットをつけている。何かあったらすぐに声をかけあう。
#参加者の皆様、また遊んでやってください。

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2006.06.15

嫌われ松子の一生

嫌われ松子の一生不幸せのファンタジー。不幸を娯楽化したらこうなるというお手本のような映画であった。しかし、そもそも不幸とはなんなのだろう。貧乏であることか。就きたい職につけないことか。他人のせいで裏街道に追いやられることか。望み通りの人生を送ることができないことか。

不幸のどん底に叩き落とされた松子の姿にどこか幸福感が漂っているのは、彼女が人生の岐路(あまりにも多すぎて、まるであみだくじだ!)において、いつも主体的に人生を選び取っているからではないのか。そうした主体性が彼女をして決定的に不幸からは遠いところへ連れ去っている。売れない作家と同棲し、ソープ嬢になり、殺人犯になり、やくざの愛人になり、最後は身を持ち崩して引きこもる……。上映後に感じる意外なまでの爽快感は、松子の生きるエネルギーに溢れた「前向きな不幸」によるものであるのは間違いないだろう。No.1ソープ嬢になるために明けても暮れても懸命にスクワットをする松子の姿こそ、彼女の生き方を象徴的に現している。

中島哲也監督はドラマチックすぎる松子の一生を、あたかもディズニー映画か宝塚歌劇かというようなド派手な演出で彩っていく。スクリーンに明滅する強烈な色彩、効果的に挟み込まれるCGとアニメーション、物語と密接な関係を持つ魅力的な歌曲群、一歩間違えば悪趣味、自己満足の謗りを免れないような演出が、どれも見事にプラスに働いている。相当個性的であった前作「下妻物語」をも、その面では完全に凌駕しているといえよう。もちろん松子を演じる中谷美紀をはじめとして、個性的すぎる俳優陣の熱演は、いわずもがなである。これまで小綺麗なだけで印象の薄かった中谷美紀、もしかすると一世一代の演技かもしれない。

インパクト大。いや、特大。好き嫌いはきっと分かれる。画面から溢れかえるエネルギーを存分に味わい尽くしたい人に。ワーナーマイカルシネマズ茨木で鑑賞。

公式サイト http://kiraware.goo.ne.jp/

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2006.06.13

妙な盛り上がりはいらない

グループFオーストラリア 3対1 日本

負けるべくして負けたと言うべきか。圧倒的に相手に攻め込む意欲を持ったチームが順当に勝った。それだけのことであろう。いずれにしても強いチームが勝ち残ることで、大会そのものの質は高くなるわけだから、サッカーが見たい者には望ましい展開である。番狂わせで弱いチームばかりが残っても何のおもしろみもない。

開幕してから毎日1試合ずつ観戦しているが、やはりアルゼンチンやイングランド、オランダのサッカーはすばらしい。豪快で繊細、爽快かつ美しい。創造性に溢れていて見ていてわくわくさせられる。イタリアやポルトガル、チェコもすごい。あとはフランスとスペイン、ブラジルがどうかというところだが、たぶん心配はいらない。これらの国の超一流のプレーが見られるなら、熱狂的なファンには気の毒だが、日本がそこにいなくてもそれは大した問題ではない(サッカーは相手のゴールにボールを入れなければ勝てないというシンプルなルールがわかっているのだろうか、さらには一部のやる気がなさそうに見える選手はどうなんだ)。いや、ほんとに。1970年代後半から80年代前半、週に一度の「ダイヤモンド・サッカー」(海外サッカー紹介番組)をかぶりついて見ていた者には、ワールドカップをリアルタイムで見られるのは夢のようなことなのだ。

強豪国には「サッカーが好きで好きでたまらない」というオーラを全身から発している選手がそこここにいる。だから彼らのプレーは見ている者を幸せな気分にさせる力がある。めったに感じることのできない高揚感と至福の境地をこの先一ヶ月満喫したい。ついでに言えば、「夢をありがとう」なんて生温い横断幕はいらない。煽りの掛け声だけのマスコミも罪深い。気概も見せず無様に負けて帰るチームには愛あるブーイングを!

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2006.06.07

花よりもなほ

花よりもなほ是枝監督は「花よりもなほ」について、パンフレットの中でこう述べている。

この映画、弱かった人が努力して強くなるといった”成長物語”の類ではないんです。
”弱いもの”が弱いまま肯定されるというか…周囲の人たちとの関係の中で、その”弱さ”の意味が変わっていく。

「一人一人をそのまま認めよう」というスタンスは、主演する岡田准一の先輩アイドルグループの「国民的歌謡曲」以来、もうすっかり食傷気味であるが、あえてこのことについて語るとすれば、「花よりもなほ」の主人公が「変わらない」まま周囲に認められたのは、「変わらない」部分にこそ尊重すべき真実や価値があったからであって、なんでもかんでも「そのままでいい」ということにはならないということだろう。偽善的言辞に惑わされてはならない。

変化がない、成長がない、と是枝監督はいうが、実はそうではないと思う。すなわち岡田演ずる青木宗左衛門は、「仇討ちの空しさ」「自らの弱さ」「他者の尊重」といったこと、江戸の武士にあっては認めがたいこれらの考えを、誰に憚ることなく全面的に肯定するだけの器量を身につけて、それを実行したのであった。これが青木の変化、成長でなくしてなんであろう。信念は確かに変わっていない。しかし、それを実行できるようになるのは大いなる成長である。青木を日頃から見ている長屋仲間は、そのことを知ってか知らずか、「変化せず変化していく彼」を認めると同時に、己の取り柄がなさそうな人生(されど懸命に生きる)に誇りを持っていくようになる。これまた変化であり、成長である。まさに青木たちは「糞を餅に変えた」のだ。是枝監督はこの台詞を何度か劇中で使っていたから、「変化のない変化」をしっかり意識していたのは間違いない。

是枝監督の作品は、どれも真実のありようと幸せの佇まいというものを静かに描こうとする。私はそのように受け取っている。「幻の光」、「ワンダフル・ライフ」、「ディスタンス」、そして「誰も知らない」。主題や題材は違えども、常に「私にとっての本当の真実や幸福」を考えさせられる(餅に変わる糞はあるのか!?)。時代劇である本作もまた同様である。テレビドラマ「タイガー&ドラゴン」の好演が印象的だった岡田は、ここでも悩める弱い武士をきめ細やかに演じていた。宮沢りえはうまいが痩せすぎ(関係ないか)。長屋の面々もみないい味わいだ。キャラがきちんと立っていた。見終えた後、なんとなく笑みがこぼれるような映画だった。過剰演出のわかりやすい悲喜劇を期待する向きには合わない映画であろう。間違っても「泣ける映画」ではない。ワーナーマイカルシネマズ新百合ヶ丘で鑑賞。

なお岡田が属するV6のメンバーが総出演する「ホールド・アップ・ダウン」も早くに観ていたのだが、これはアイドルが順番に顔を見せるだけのドタバタ劇でつまらなかった。よって特に語ることもなし。SABU監督の「弾丸ランナー」や「MONDAY」「Drive」などはわりと好きな映画だったのだが。

「花よりもなほ」公式サイト http://www.kore-eda.com/hana/

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2006.06.04

雪に願うこと

雪に願うこと北海道にしかない競馬がある。ばんえい競馬である。旭川、帯広、岩見沢、北見を巡回するこの競馬は、もともと農耕馬として使われていた体重1トンほどの巨躯を誇る馬が、ぬかるんだ障害付きの馬場を橇を引きながら豪快に走るものである。一般の平地競馬で見られるサラブレッドが500キロ前後であるから、 彼らがいかに大きな馬であるかがよく知れよう。その迫力たるや。第十八回東京国際映画祭でグランプリに輝いた根岸吉太郎監督の「雪に願うこと」は、このばんえい競馬を舞台にした映画である。

東京でビジネスに失敗し、かつて捨て去ったはずの故郷に戻るしかなくなった若者(伊勢谷友介)が、兄(佐藤浩市)の経営するばんえい競馬の厩舎で仕事をすることになる。映画は若者が自分自身に向き合って次に進むべき道を見つけるまでを描く。こうまとめてしまうと、よくある成長物語のように思われるが、実際に筋立てとしては極めて古典的な作りで、取り立ててどうこういうものはない。それでも最後まで飽きずに見させるのは、ひとえにばんえい競馬と冬の北海道に圧倒的な魅力があるからである。

そのあたりに転がしておけと思われるようなメロドラマでも、競走馬の巨体から立ち上る湯気や吐く息の白さ、剛健な筋肉、さらに万物を赤く染める朝日や広大な雪原が象徴的に映し出されてくることで、なんだかかけがえのない物語を見せられているような気がしてくるのだ。これではまったく褒めているように聞こえないかもしれないが、しかし、この映画の真価はそこにこそあると思うのである。けだし自然に人事を象徴させる手法は日本の古典文学以来の伝統である。だからまるで走らないけれど懸命に生きている鈍馬に、自らの生き方を重ねる主人公の陳腐な思考回路も許したくなる。兄弟の絆とか家族の暖かさとか、そういう道徳臭いのもいつもなら鼻につくのだが、この際どうでもいい。すべてがより大きなものによって生かされている。昨今流行の「泣ける」という単純な思考回路で見るべきではない。佐藤浩市は泥臭い役がよく似合う。伊勢谷友介も変にキレた現代風青年をやるより、ずっとよかった。また小泉今日子が中年のおばさん役を演じているのは見物だった。

ばんえい競馬に史上初の女性調教師が誕生したことを報じていたのは、記憶に新しいところである。次に北海道に行った折には、ぜひともばんえい競馬を見てみたい。それにしても根岸監督の代表作である「遠雷」を見たのは、もうずいぶん前のことだなぁ。調べてみたら1981年だった……。動物園前シネ・フェスタで鑑賞。

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2006.06.03

国語国文学を巡るあれやこれや

「学問界の斜陽産業」の代表のように思われている国語国文学関連の学会に、皇太子が出席したというニュースがあった。皇族をそんなところに引っ張り出すのは、さぞかしたいへんだったろうなと別の意味で心配になる。閑話休題。年々減っていく受験者数に苦戦する国語国文学の世界も、こと出版ということになると、意外なまでの活況を呈している。

■山口仲美『日本語の歴史』(岩波新書、2006年5月)
上代から近代までの日本語の歴史を、各時代で注目すべきトピックに焦点を当てて解説する。日本語の歴史を論じる書は、おおかた時代をおって文字・音声・文法・語彙などをまんべんなく記述するのであるが、総花的で飽きてくるのがたいていである。その点、何が大切かを明確に知らせてくれるこの書き方は、一点豪華主義ではないが、なんとなくとてもいいことをしっかり知ったような気になる。専門的な知識がなくてもすんなり飲み込めるであろう。気になるのは、いつもの山口流の「軽すぎる語り口」と「はしょりすぎる論の展開」か。

■鈴木日出男『高校生のための古文キーワード100』(ちくま新書、2006年5月)
大学受験用に「でる単」とか「豆単」を持っていたなぁ。懐かしい。ありていにいえば、この書はその古文版である。鈴木氏によって「厳選された」100の古語を、有名作品の例文を紹介しながら解説する。語釈は机上版の小型辞書とさほど変わらないが、語誌や表現価値(ニュアンス)を解説する部分は興味深く読める。新書というサイズの制約のためか、量的に食い足りない嫌いがある。語の選択基準が明らかでないので、本当に高校生に役立つかどうかはよくわからない。

■鈴木健一『知ってる古文の知らない魅力』(講談社現代新書、2006年5月)
あまたの古典文学を貫く共有の感覚、影響または連鎖の関係を論じる。鈴木氏は本書でそれを「古典文学における共同性」と呼ぶ。この「共同性」があるがゆえに、過去との往還や同時代のつながりが強固なものとなって存在し続けるのだという。確かに枕草子の「春は曙」が清少納言個人による画期的な発見だとは誰も思っていないだろうけど。各作品の個性の彼方に透けて見える大きなもの(それこそが文化であり、歴史であろう)に気付くことができるかも。あくまでも「かも」。

■坪内稔典『季語集』(岩波新書、2006年4月)
地球温暖化が進めば、日本はやがて亜熱帯になって明確な四季を失うのだろうか。ああ、つまらないことを言っています、私。和歌や俳諧に欠かせない季節を感じさせることばは、古くからこの国に住む人の生活と深い関係を取り結んでいる。関心を持つ人も多いため、季語にまつわる書は枚挙に暇がないほどである。この本には「バレンタインデー」や「サーフボード」などの新しい季語を伝統的なものに交えて掲載する。坪内氏の視点による歳時記エッセイである。パラパラめくって好きなところを読むのが楽しい。

若い人に日本語日本文学を学ぶブームは来ないのかしら。その前に実利主義一辺倒の風潮をなんとかしないといけないか。

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2006.06.02

小森陽一『村上春樹論』

文学を読む楽しみの一つは「行間を読む」ことにあるだろう。作者の手を離れた作品はもはや読者のものであり、いかなる解釈が付与されようとも異議を唱えることはできない。それが作者の意図するところをうまく説明する場合もあるだろうし、予想外の正解を与えられて新たな命を吹き込まれる場合もあるかもしれない。逆に錯誤、妄想に近い解を与えられるかもしれない。作家と評論家が敵同士であることは、そういう意味において正しい。私たち素人は好きなように読んで楽しめばよいのだ。

では人文科学の世界に住む人間が文学と付き合うときはどうなのか。少なくとも「科学」の名の下に行われる読解行為は、それがいかなる「解」を導き出そうとも、あらゆる点において客観的な説得力を持ち得るものであってほしい。近現代文学研究者の小森陽一が、当代きっての人気作家である村上春樹の『海辺のカフカ』を俎上に載せたのが、『村上春樹論』(平凡社新書、2006年5月)である。

  目が眩んだ……。

極めて衒学的な書である。オイディプス神話に始まり、ユング、フロイト、デリダ、バートン版『千夜一夜物語』、カフカ、フーコー、漱石、源氏物語、はてはナポレオンにヒットラー、大日本帝国、ヒロヒト、9・11……。『海辺のカフカ』にこれだけのもの(まだまだある)を持ち込む手法に、なかば感服、なかば呆れながら、読み終えた。そこで確かに思ったことが一つだけある。

  そこまでやるか。

小説は村上春樹の手を離れ、実態の見えない現代社会を映す鏡として読み解かれた。そういう読み方もあるかもしれない。しかし、にわかには従えない。小森は村上春樹や『海辺のカフカ』を論じたのでは、断じてない。村上春樹を借りて、自らの博学ぶりを披露し、現代社会を論じるのに忙しい。そういう印象だけが強く残った。好き勝手に背景を論じたものなら、かつて類書を山ほど生み出す嚆矢となった『磯野家の謎』の方がはるかに良質だと思う。「東大の先生」という権威が付随するから始末に負えない。

ついでに。ネット上での読者と村上春樹のやり取りを収録した『これだけは、村上さんに言っておこう』(朝日新聞社、2006年3月)は他愛がなくて微笑ましい。ファン以外はおもしろくないと思うけれど。

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