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2006.06.02

小森陽一『村上春樹論』

文学を読む楽しみの一つは「行間を読む」ことにあるだろう。作者の手を離れた作品はもはや読者のものであり、いかなる解釈が付与されようとも異議を唱えることはできない。それが作者の意図するところをうまく説明する場合もあるだろうし、予想外の正解を与えられて新たな命を吹き込まれる場合もあるかもしれない。逆に錯誤、妄想に近い解を与えられるかもしれない。作家と評論家が敵同士であることは、そういう意味において正しい。私たち素人は好きなように読んで楽しめばよいのだ。

では人文科学の世界に住む人間が文学と付き合うときはどうなのか。少なくとも「科学」の名の下に行われる読解行為は、それがいかなる「解」を導き出そうとも、あらゆる点において客観的な説得力を持ち得るものであってほしい。近現代文学研究者の小森陽一が、当代きっての人気作家である村上春樹の『海辺のカフカ』を俎上に載せたのが、『村上春樹論』(平凡社新書、2006年5月)である。

  目が眩んだ……。

極めて衒学的な書である。オイディプス神話に始まり、ユング、フロイト、デリダ、バートン版『千夜一夜物語』、カフカ、フーコー、漱石、源氏物語、はてはナポレオンにヒットラー、大日本帝国、ヒロヒト、9・11……。『海辺のカフカ』にこれだけのもの(まだまだある)を持ち込む手法に、なかば感服、なかば呆れながら、読み終えた。そこで確かに思ったことが一つだけある。

  そこまでやるか。

小説は村上春樹の手を離れ、実態の見えない現代社会を映す鏡として読み解かれた。そういう読み方もあるかもしれない。しかし、にわかには従えない。小森は村上春樹や『海辺のカフカ』を論じたのでは、断じてない。村上春樹を借りて、自らの博学ぶりを披露し、現代社会を論じるのに忙しい。そういう印象だけが強く残った。好き勝手に背景を論じたものなら、かつて類書を山ほど生み出す嚆矢となった『磯野家の謎』の方がはるかに良質だと思う。「東大の先生」という権威が付随するから始末に負えない。

ついでに。ネット上での読者と村上春樹のやり取りを収録した『これだけは、村上さんに言っておこう』(朝日新聞社、2006年3月)は他愛がなくて微笑ましい。ファン以外はおもしろくないと思うけれど。

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