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2006.07.31

ハチミツとクローバー

ハチミツとクローバー恋に落ちる瞬間を初めて見てしまった」という真山巧の台詞は、竹本祐太が花本はぐみ(右写真参照)に一目惚れした瞬間に吐き出されたものである。

「ハチミツとクローバー」を象徴するかのようなこの台詞のエッセンスを、映画では全面的に展開する。すなわち原作マンガに見られた細かなエピソードの枝葉を綺麗に刈り込み、5人の若者のストレートな恋愛話だけに話題を引き絞る。どちらがいいということではない。それぞれのメディアの特性を活かして作られていると解せられる。美大生の群像劇を描く原作マンガはうるさいくらい様々なエピソードを語ろうとするが(それこそが「ハチクロ」の魅力である)、映画でマンガと同じことをすれば、まったくまとまりを欠く悪しきオムニバスとなってしまうだろう。煌びやかな綾織物のごとき青春物語を楽しむなら原作マンガで、シンプルで力強い恋愛物語を楽しむなら映画で、そういうように感じた。

原作のキャラクターと映画の俳優のイメージのズレは致し方のないことである。むしろマンガのコスプレのような映画こそ工夫がないといえる(たとえば大谷健太郎監督「NANA」)。どの俳優も作中人物の持つ本質をよく理解してうまく演じていたと思う。原作への思い入れがよほど強い人以外、まったく問題にならないだろう。もっとも先に述べたように枝葉を刈り込んだため、各人物像の厚みという点においては若干の物足りなさを感じる憾みがある。5人の中心人物のうち、とりわけ山田あゆみ役の関めぐみがビジュアルも雰囲気もぴたりと決まっていた。ただし花本はぐみだけはマンガとは別物と考えた方がよいかもしれない。そもそもあのキャラを実写で再現するのは容易ではない。あくまでも監督、脚本家、演出家、そして蒼井優の生み出した花本はぐみである。この点について、私は蒼井に好意的であるがゆえ「あり」としたいが、原作ファンの意見などを聞いてみたいものである。

  恋が芽生え、つぼみが息吹き、
  花が咲くか、咲かないかは、
  わからないけれど、
  それまでの大切な時間のお話。

映画のパンフレットに記されたものである。「全員が片思い」というハチクロ・ワールドが、実は映画ではほんの少しだけ幸せな方向に振られている。それもまたよし。細部まで念入りに誂えられたセット、調度、美術作品の類はすばらしいリアリティを生み出している。同潤会アパートを使った男子学生の下宿や、いかにも昭和風の花本先生の一軒家も素敵だった。artekのダイニングセットを置く大学食堂なんてあるのかしら。おそらく自然光を最大限生かしているのであろう、少し輪郭がもの柔らかに見えるような絵作りも、「ハチクロ」にふさわしい演出として好ましく思われた。なんだか最後は思いつくままに。南町田グランベリーモール・109シネマズで鑑賞。

公式サイト http://www.hachikuro.jp/

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2006.07.26

感動作の舞台は東京

TYO 01リリー・フランキーの書くものが好きであるのにもかかわらず、『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』(扶桑社、2005年)はすっかり出遅れてしまい、気がつけば大ベストセラーになっていた。天の邪鬼ゆえ、「いまさらなぁ」とちょっとした「リリー・ブーム」に冷めてしまったところがあったのだった。あろうことか、彼があの「情熱大陸」にまで出演していたのにはびっくりさせられた。少なくとも「汚い靴を履く女子のアソコは十円硬貨のニオイがする」(『女子の生きざま』1997年)と言い放つリリー・フランキーはどこにもいなくなってしまった。

身銭を切った一編である。中川雅也(リリー・フランキー)という人物の実人生に密着しているであろうこの作品が、虚構か実録かはこの際どうでもよい。古き良き時代の「私小説」が21世紀に飛び出したと考えるのが、最も適当であろうか。物語は主人公「ボク」の幼少期から40歳あたりまでの生活を描く。主たるテーマは家族との関係や母親への思いである。

帯の「超泣ける」「超感動」(いい大人が「超」って、言うな!!)がますますこちらを白けさせてくれるが、そもそもここで披露されるネタの多くはこれまでのいくつかのエッセイに小出しになっていたものだ。それを時系列に沿って並べ直して一編の物語に仕立て上げている。読ませる物語に構成するというあざとさがない分、キレとかコクはエッセイの方が優れていると感じた。もっとも感情移入のツボにはまった人には「世紀の大傑作」に映るだろうことも否定はしない。ベストセラーになったからけちをつけるわけではなく、リリー・フランキーはコラムニストとしてものす文章が本分、本領だと思う。もしこの先も小説を書くならば、「身銭を切らない」ものを読んでみたい。

#どうでもいいけど、もし書店でこの本を見かけたら、ぜひ帯だけでも読んでみてもらいたい。あまりの酷さに悶絶します。

次。吉田修一『東京湾景』(新潮文庫、2006年7月)。なんだかテレビドラマみたいな話(出会い系サイトで知り合った品川周辺の男女の恋愛)だと思ったら、すでにドラマ化されていた(フジテレビ系)。吉田修一は都会で働く若者の思いをうまく絡め取った『パーク・ライフ』で芥川賞を取った。行間に揺曳する空気感のえもいわれぬ心地よさについて、以前こんなことを書いた。

村上龍は芥川賞の選評で『パーク・ライフ』について、「何かが常に始まろうとしているが、まだ何も始まっていないという、現代に特有の居心地の悪さ」や「あるのかどうかさえはっきりしない希望のようなもの」がこの作品には存在するという。確かに『パーク・ライフ』には物語を強力に前に運ぶ推進力のようなものや、腑に落ちる展開、結末などはない。代わりに「何もしなくてもいい場所」で点景として存在する人々のかすかに揺れる感情の残滓だけが方々に投げ出されている。もちろんその感情の行方は記されることなく物語は閉じられる。

それがどうだろう、この『東京湾景』の饒舌さ加減は。ここには読者に想像させる余地などまったく残されていない。お節介でおしゃべりな人がひたすら自分のことを語って、「以上終わり」という小説になってしまっている。置き去りにされた読者は呆然とするしかない。いや、全面的に物語に身を委ね「感動した」とつぶやくか。こちらも帯には「奇跡のラブストーリー」、裏表紙には「最高にリアルでせつないラブストーリー」の文字が躍る。なんだか。吉田修一、ちょっと困った方向に流れているような気がする(重松清もね)。

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2006.07.22

春の日のクマは好きですか。

春の日のクマは好きですかこれはチラシにもパンフレットにも書かれているのだけれど、「春の熊」といえば、もう抗いようもなく必然的に村上春樹の『ノルウェイの森』でのワタナベと緑の会話を思い出すわけである。父を亡くした緑から「気持ちのよくなるような」言葉を求められたワタナベが、彼女のために喩え話をする、その一つとして「春の熊」は登場する。

春の野原を君が一人で歩いているとね、向うからビロードみたいな毛なみの目のくりっとした可愛い子熊がやってくるんだ。そして君にこう言うんだよ。『今日は、お嬢さん、僕と一緒に転がりっこしませんか』って言うんだ。そして君と子熊で抱き合ってクローバーの茂った丘の斜面をころころと転がって一日中遊ぶんだ。そういうのって素敵だろ?(『村上春樹全作品1979-1989』第6巻、334頁)

監督のヨン・イに『ノルウェイの森』のこのくだりを意識したのかどうか、確かめるべくもないが、映画の基調となるトーンは、まさしくこの文章の醸し出すなんともいえない温かさや幸福感である。夢見がちな少女(ペ・ドゥナ)が、図書館の美術書に書き込まれた連続する愛のメッセージ(スタートは「春の日のクマのように君が愛おしい」)をたどり、まだ見ぬ「王子さま」を見つけようとする展開は、観る者に謎解きとラブコメの二つの楽しみを味わわせてくれる。

ラブコメとはいえ、けっしてドタバタ劇に終始することはない。なにより十九世紀の名画(ゴヤ・ルノワール・カイユボットなど)が各所にコラージュされ、絵画本来の意味と映画での意味を二重に重ね合わせようとする知的な遊び心が、映画全体にしっとりとした落ち着きや深みをもたらしている。その中を稀代のコメディエンヌであるペ・ドゥナが自在に泳ぎ回っており、彼女の理想の「王子さま」との恋から目が離せなくなった。意外な結末とさりげなく散りばめられた若い恋人ならではのエピソードの数々に、柔らかな、それこそふわふわの熊のぬいぐるみを抱いたような気持ちにさせられたのであった。シネ・リーブル梅田で鑑賞。

公式サイト http://www.harukuma.com/

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2006.07.17

近頃の直木賞

前のエントリーで書いたことが単なる印象批評にならないよう、関連サイトで情報を集めて整理してみた。

直木賞

直木賞のすべて
早稲田と文学

文藝春秋刊行のものをピンクで塗った。今さら私などが指摘するまでもないことだろうが、こういうことになっている。文藝春秋から刊行される書が他の出版社のものより群を抜いてすばらしいかどうかの判断はむずかしい。少なくとも「直木賞を主催する」というアドバンテージはあるように見えるし、「売れっ子が文春から本を出したらアガリ」という風説もさもありなんと思わされる偏りはある。なお緑は早稲田出身・在学・関係者である(直木三十五は早稲田出身)。こちらはついでということで。

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2006.07.16

キャラクター小説のお手本

まほろ駅前多田便利軒三浦しをんの『まほろ駅前多田便利軒』(文藝春秋、2006年3月)を一息に読み切った。bk1amazonで検索すると、いずれも発送まで1〜3週間となっている。どうやら出版社の在庫も払底しているようで、さすが直木賞の威力は半端ではない。今期の直木賞は森絵都とのダブル受賞であったが、森の本はあまり好みでないので読む気もなく、一方、三浦のそれは今住んでいる町田市をモデルにしたものであるということから、にわかに読書魂(そんなもの、あるのか?)を刺激されたのであった。いや、東京の他の場所のことを何も知らないだけなんですけどね。

それで読みながらまず思ったことは、「いずれテレビドラマか映画になるだろう、なっても不思議ではない、なるはずである」ということであった。なにせ主人公の二人のイメージイラストがこれだから(笑)。ジャニーズ事務所あたりが放っておくわけはない。なにより物語の軽やかな疾走感が視覚メディア向きであると思った。

まほろ駅前多田便利軒東京の西のはずれに位置する「まほろ市(幻!?)」の駅前で、いかなる依頼も引き受ける便利屋の二人組が、ペットの世話や小学生の塾の送り迎え、納屋の整理などの仕事を通して、その背後にあるより大きな社会問題と対峙し解決していく。殺人事件や強盗などといった反社会的犯罪と戦うというようなものではないが、物語の構えは現代版「銭形平次」「明智小五郎」「半七捕物帳」といって、まずはよいだろう。「探偵」という職業はさすがに21世紀には非現実的だということか、いかなる存在にもなりえる「便利屋」とはうまい設定だと思わされた。推理ドラマ的展開を持つ短編が六編収められる。彼らの関わった事件の謎解きに加えて、彼ら自身が何者であるのかということも、物語が進むにつれて徐々に解き明かされることになる。作中人物の設定と物語の展開が密につながっており、ごまかすところがない。さらに話の転がし方が上手い。これまでの業績の積み重ねで受賞者を選ぶことの多い直木賞にあって、久しぶりに作品単独で評価されたとおぼしきこの書は、しばし涼やかな気分にさせてくれる佳作であった(ライトノベルのようで重みがないという批判はあると思うけど)。

#小説の価値はともかく、受賞作品が連続して文藝春秋関係のものばかりなのはどうかと思う。あと早稲田出身者に集中。他がへぼいと言われればそれまでか。

虚構小説の創作および読解のための手ほどきとして、詰め将棋のごとき「正統的理屈」を教えてくれる大塚英志『キャラクター小説の作り方』(角川文庫、2006年6月)。この書は、大家(たいか)となった小説家が自らの威厳を世に知らしめるために書きたがる「凡百の文章読本」とは志の高さがまるで違い、「小説、文章の分析とはかくあるべし」ということを鮮やかにかつ冷徹に提示する。独りよがりな経験論、哲学の押しつけのないところが潔い。そしてその大塚の説く「キャラクター小説の極意」は、『まほろ駅前多田便利軒』にそのままぴたりと当て嵌まることに驚かされる。パターン、抽象、組み合わせ、リアリズム……。これは実際に読んでいただくしかない。

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2006.07.15

美しいものは好きですか

sapporo #1高いところに登っては、そこから針穴写真を撮っている。非日常的風景が独特の美しい文様となって浮き出る様を楽しんでいる。これは札幌テレビ塔から大通公園を撮影したもの。2006年の雪まつりが閉幕した二日後のものである。

高いところから取った写真のスライドショー(数分間)

その札幌テレビ塔には設計者を同じくする兄弟が日本各地に存在する。すなわち名古屋テレビ塔、通天閣、別府テレビ塔、東京タワー、博多タワーがそれである。『タワー』(INAXギャラリー、2006年6月)は、内藤多仲が設計したこれらの塔のうち、東京タワー、通天閣、名古屋テレビ塔の歴史や裏話を紹介する。写真も満載で見て読んで楽しめる一冊である。この夏は東京タワーか通天閣から写真を撮ってみたい。

発想の転換で驚くべき視点を得た『原寸美術館』(小学館、2006年7月)に日本編が登場した。監修者は現代日本画の第一人者である千住博であり、どの作品にも読み応えのある解説が付されている。何より肝心の絵の印刷が極めて美しく、画家の筆遣いと息づかいがあたかも目の前に立ち現れるかのようである。それはまさに「原寸」のものしかなし得ないものであろう。

きままに街中の子供を写真に収めるのが難しい世相である。そんなことを以前子供をテーマにした写真集のエントリーで書いたことがあった。『内なるこども』(青幻舎、2006年3月)は、2006年4月に愛知県豊田市美術館で開かれた同題の展覧会に関連し出版されたものである。内外新旧の写真家、画家、美術家による「子供」をテーマにした作品が収められる。無邪気、無垢の存在として類型化された子供観を大きく裏切ってくれる意外性に満ちている。とても刺激的である。

おもしろおかしい仏像解説本といえば、みうらじゅんやいとうせいこうのものがよく知られている。山本勉『仏像のひみつ』(朝日出版社、2006年6月)は難しいことをたいへんわかりやすくまじめに解く良書である。読んでいて目から鱗がぼろぼろと落ちる。自分の蒙昧無知ぶりが恥ずかしくなるほどに。小中学生対象の仏像展覧会の内容がもとになっているという。丁寧に丁寧に語りかける文章は、「おじいちゃんが可愛い孫に語りかける口調」を思い起こさせる。イラスト、写真も満載で楽しい。

原寸美術館 タワー 仏像

最後にあと2冊。私の好きな女性写真家二人が、図らずも同時期に新書を刊行した。蜷川実花『ラッキースターの探し方』(DAI-X出版、2006年7月)と川内倫子『りんこ日記』(FOIL、2006年7月)である。蜷川の本は、彼女自身が半生を振り返る内容で、意外に知られていない「蜷川家」の裏側をうかがうことができる。天才特有の不遜さがかえって心地好い。川内の方は彼女のサイトで公開されている日記がそのまま一書に編まれている。「川内倫子」の名を外せば、そこらに転がっている誰かのブログと見分けがつかないほど、平々凡々とした日々の記録が続いている。作品を撮るローライとは違う携帯電話による写真が興味深い。

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2006.07.13

物欲の踊る夏

暑いから物欲がたぎるのか、物欲がたぎるから暑いのか。いや熱いのかも。

#このエントリーは単なる物欲発散のためだけに書いています。中身もオチもありません(^^;。あしからず。

最後に自転車を買ったのは2004年1月だった。知り合いから譲ってもらったBD-1である。以来、もう2年半。もちろん乗りたいものがないということではなかったが、5000円ほどで手に入れられるピアニカのように気楽にというわけにはいかない。で、一番もやもやさせられている2台。左がMoulton TSR30で、右がBikeFriday PocketRocketProである。両車ともBromptonやBD-1ほど簡単ではないが、きちんと輪行もできる小径スポーツ車である。独特の美しいスタイルと優雅な乗り味を取るか、工業製品として極めて精度の高い機能美を取るか。それぞれが魅力的で甲乙つけがたし。

モールトン バイクフライデー

初代モールトンを復刻したブリジストン・モールトンも捨て難い魅力がある。上の2台より安価だし。

マドン ターマック

TREK MADONESPECIALIZED S-WORKS TARMACといった本格的なロードレーサーに憧れる気持ちもあるけれど、緩みきった肉体には似合わないからなぁ……。イタリアン・バイクであるピナレロやコルナゴ、デ・ローザ、チネリなどといったメーカーのも官能的な佇まいがたまらない。これらは見るだけで我慢我慢、と。

カメラではローライフレックス2.8F(二眼レフの王様)と富士フィルムのTX-2(フル・パノラマ写真)に惹かれている。でも今すぐにどうこうという気分ではない。あとは調理器具やAV機器、家具など物欲はどこまでも尽きないのであった。もうどうにも止まらない。 気分はすっかり中村うさぎである。

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2006.07.09

小説家の器量

見終えたのにもかかわらず、まだブログのエントリーにしていない映画がもう8本も溜まっている。本に至っては「予告編」の長々と続くリストから明らかなように、惨状というほかないありさまである。お片付けはボチボチと。

空を飛ぶ恋■『空を飛ぶ恋 ケータイがつなぐ28の物語』(新潮文庫、2006年6月)
2003年から三年間、「週刊新潮」に連載されていたKDDIの広告用短編を一書にまとめたものである。当代の人気作家28人が名を連ね、それを見る限りたいそう豪華なラインナップである。いずれも携帯電話をキーワードにして物語が紡ぎ出されるのであるが、同じモチーフを使うため、各人の技量才能得手不得手が如実に浮き彫りとなる。短編をよくする作家は少ない紙数をうまく使いこなしているのに対し、そうではない人たちのものは、闇雲に話を膨らませた挙げ句収まりがつかなくなったり、あまりにも矮小なことにこだわりすぎて話がちっとも見えてこなかったりで、とにかく酷い。これだけあれば好悪の感情に違いがあるのは当然なので、誰の作品がどうかというのは、直接確かめていただきたい。平野啓一郎のものが普段とまったく違う作風で驚いた。

新潮社のサイト http://book.shinchosha.co.jp/cgi-bin/webfind3.cfm?ISBN=120805-0

太陽の塔■森見登美彦『太陽の塔』(新潮文庫、2006年6月)
吉田戦車は『吉田観覧車』(講談社)の中で、大阪の万博公園にある太陽の塔のことを「神」と呼び崇め奉っていたけれど、私もあの塔に対しては同じような心持ちなので強い共感を覚えた。その「太陽の塔」を名に持つ小説、しかもファンタジーノベル大賞にも輝いているとあっては見逃すことはできない(文庫本になるまで見逃していたのは頬被り……)。無闇に青春を消費する大学生たちの姿は、いつの時代にあっても不変(いや普遍か)であろうか。変な妄想力と見当違いな行動力を持つ大学五回生がユーモラスに語られ、ケラケラと笑った後、なんだか他人事に思えないところにやるせなさを感じた。この小説のタイトルがなぜ太陽の塔でなければならないのか、いまひとつ判然としない憾みがあるけれど、同郷人のよしみで素知らぬふりをすることにする。太陽の塔ファンに悪い人はいない(決めつけ!)。上手い文章ではないが、ぐっと惹き込み読ませる力があると思う。

■江國香織『号泣する準備はできていた』(新潮文庫、2006年7月)
トヨタ・カローラ。長年安定した売れ行きを示し、多くの大衆にそこそこの満足感を与える力を持つ。どんな状況でも七十五点くらいを取るやつ。江國香織の小説を読むと、そのカローラを思い出す。一つ一つの短編は巧妙かつ強引に枠組みや人物配置が決められているようで、私にはどれもこれも作り物臭く感じられたのだが、かといって本を投げ捨ててしまいたくなるほど酷いということもない。まさに「そこそこ小説」である。江國は本作で2004年に直木賞を受賞した。長年のご活躍、ご苦労様……。

金原ひとみの芥川賞受賞作『蛇にピアス』が文庫化されていた(集英社文庫)。帯と折り込み広告に集英社のキャンペーンを担当する蒼井優が微笑んでいる。小説自体は「文藝春秋」掲載時に読んでいたけれど、解説が村上龍だったので買った。綿矢りさの『蹴りたい背中』はまだか。

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2006.07.07

吉田(電|観覧)車

吉田戦車による「車」シリーズの第2弾、第3弾である。第1弾の『吉田自転車』(講談社文庫)の脱力感が新年度の憂鬱さを蹴り飛ばしてくれたように、この『吉田電車』(講談社、2003年9月)と『吉田観覧車』(講談社、2006年6月)も梅雨時の鬱陶しさを爽快に吹き飛ばしてくれた。

吉田観覧車 吉田電車 夜のミッキー・マウス

吉田は筋金入りの鉄ちゃん(鉄道マニア)ではなく、また偏執狂的な遊園地リピーターでもない。電車については「嫌いじゃないけど、そういう企画だからあれこれ乗ってみる、そのついでに大好きな麺類を食べる」というスタンスだし、観覧車に至っては「高所恐怖症をネタにするため」だけに全国各地の遊園地を巡っていくのである。こういう具合だから、各所訪問の記録は脱線に脱線を重ねる。もはや目的や着地点すら見えないものも少なくない(乗る前に引き返してしまうことも!)。しかし、その緩いアバウトさこそが吉田の行動と文章の真髄であろう。しかも単なる痴呆的独善的馬鹿騒ぎで終わらず、ちらりちらりと毒を吐きながら的確な観察眼を披露する。褒めすぎか。

タワーの下にレストランがあったので、窓の外の離発着と「あやや命」などという落書きとともに回転を続ける観覧車をながめながら、よくのびているスパゲティをいただいた。(『吉田観覧車』128頁)

地味でありながら強烈な既視感と共感を覚える文章だと思う。私もこういうのをつるつると書きたい。

そういえばディズニーランドには観覧車がない。谷川俊太郎の『夜のミッキー・マウス』(新潮文庫、2006年7月)を吉田本の後に続けて読んで、そんなことをふと思った。さて、この詩集から何が見えるか。この問いには谷川自身のあとがきが答える。

「この詩で何が言いたいのですか」と問いかけられる度に戸惑う。私は詩では何かを言いたくないから、私はただ詩をそこに存在させたいだけだから。

嗚呼。私自身の感じたことは「永遠と刹那」か。少しだけ格好をつけてみる。吉田的ではないな。

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2006.07.01

火火

火火田中裕子の出演する殺虫剤のCMがおもしろくていけない。変な歌を唄いながらスキップし、「もうどうでもええねん」と自虐的につぶやいたり、薬剤が消える防虫剤のCMで「私が消えたらどないすんのん」と切り返してみたりする。前任者の沢口靖子のものも笑わせてもらったが、平素のイメージとのギャップが大きい田中のそれは、衝撃度がさらに大きい。芸達者であり、プロ根性を強く感じさせる。

その田中が、骨髄バンクの立上げに尽力した陶芸家、神山清子を演じる映画が「火火」である。神山は極貧の中、女手一つで子育てをしながら、陶芸家として筆舌に尽くしがたい苦労を重ねていく。やがて夢であった自然釉を成功させるものの、今度は息子が白血病に冒される。息子を救うためには骨髄移植しか方法はなく、そのためのバンク設立に力を尽くしていく。

「愛を焼き込む」というコピーは神山の生き方を象徴的に表す。自然釉を成功させるために一心不乱に仕事に取り組み、その背中で二人の子供たちに人としてあるべき姿を教えていく。映画は神山の取る厳しい行為のどれもが深い「愛」によって裏打ちされていることを知らしめる。田中の重厚な存在感と演技力は、そのことをよく訴えかけてきた。ただ実話をもとにしているとはいえ、ドキュメンタリーではない。ために人物のわかりやすい類型化や涙を呼び込む映画的演出の見えるところはやや気になった。とはいえそれらは些事である。総じてきまじめな映画であるといえよう。「もうどうでもええねん」という映画ではない。

「火火」公式サイト http://www.vap.co.jp/hibi/
骨髄移植推進財団(骨髄バンク) http://www.jmdp.or.jp/

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