吉田(電|観覧)車
吉田戦車による「車」シリーズの第2弾、第3弾である。第1弾の『吉田自転車』(講談社文庫)の脱力感が新年度の憂鬱さを蹴り飛ばしてくれたように、この『吉田電車』(講談社、2003年9月)と『吉田観覧車』(講談社、2006年6月)も梅雨時の鬱陶しさを爽快に吹き飛ばしてくれた。



吉田は筋金入りの鉄ちゃん(鉄道マニア)ではなく、また偏執狂的な遊園地リピーターでもない。電車については「嫌いじゃないけど、そういう企画だからあれこれ乗ってみる、そのついでに大好きな麺類を食べる」というスタンスだし、観覧車に至っては「高所恐怖症をネタにするため」だけに全国各地の遊園地を巡っていくのである。こういう具合だから、各所訪問の記録は脱線に脱線を重ねる。もはや目的や着地点すら見えないものも少なくない(乗る前に引き返してしまうことも!)。しかし、その緩いアバウトさこそが吉田の行動と文章の真髄であろう。しかも単なる痴呆的独善的馬鹿騒ぎで終わらず、ちらりちらりと毒を吐きながら的確な観察眼を披露する。褒めすぎか。
タワーの下にレストランがあったので、窓の外の離発着と「あやや命」などという落書きとともに回転を続ける観覧車をながめながら、よくのびているスパゲティをいただいた。(『吉田観覧車』128頁)
地味でありながら強烈な既視感と共感を覚える文章だと思う。私もこういうのをつるつると書きたい。
そういえばディズニーランドには観覧車がない。谷川俊太郎の『夜のミッキー・マウス』(新潮文庫、2006年7月)を吉田本の後に続けて読んで、そんなことをふと思った。さて、この詩集から何が見えるか。この問いには谷川自身のあとがきが答える。
「この詩で何が言いたいのですか」と問いかけられる度に戸惑う。私は詩では何かを言いたくないから、私はただ詩をそこに存在させたいだけだから。
嗚呼。私自身の感じたことは「永遠と刹那」か。少しだけ格好をつけてみる。吉田的ではないな。
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