春の日のクマは好きですか。
これはチラシにもパンフレットにも書かれているのだけれど、「春の熊」といえば、もう抗いようもなく必然的に村上春樹の『ノルウェイの森』でのワタナベと緑の会話を思い出すわけである。父を亡くした緑から「気持ちのよくなるような」言葉を求められたワタナベが、彼女のために喩え話をする、その一つとして「春の熊」は登場する。
春の野原を君が一人で歩いているとね、向うからビロードみたいな毛なみの目のくりっとした可愛い子熊がやってくるんだ。そして君にこう言うんだよ。『今日は、お嬢さん、僕と一緒に転がりっこしませんか』って言うんだ。そして君と子熊で抱き合ってクローバーの茂った丘の斜面をころころと転がって一日中遊ぶんだ。そういうのって素敵だろ?(『村上春樹全作品1979-1989』第6巻、334頁)
監督のヨン・イに『ノルウェイの森』のこのくだりを意識したのかどうか、確かめるべくもないが、映画の基調となるトーンは、まさしくこの文章の醸し出すなんともいえない温かさや幸福感である。夢見がちな少女(ペ・ドゥナ)が、図書館の美術書に書き込まれた連続する愛のメッセージ(スタートは「春の日のクマのように君が愛おしい」)をたどり、まだ見ぬ「王子さま」を見つけようとする展開は、観る者に謎解きとラブコメの二つの楽しみを味わわせてくれる。
ラブコメとはいえ、けっしてドタバタ劇に終始することはない。なにより十九世紀の名画(ゴヤ・ルノワール・カイユボットなど)が各所にコラージュされ、絵画本来の意味と映画での意味を二重に重ね合わせようとする知的な遊び心が、映画全体にしっとりとした落ち着きや深みをもたらしている。その中を稀代のコメディエンヌであるペ・ドゥナが自在に泳ぎ回っており、彼女の理想の「王子さま」との恋から目が離せなくなった。意外な結末とさりげなく散りばめられた若い恋人ならではのエピソードの数々に、柔らかな、それこそふわふわの熊のぬいぐるみを抱いたような気持ちにさせられたのであった。シネ・リーブル梅田で鑑賞。
公式サイト http://www.harukuma.com/
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