感動作の舞台は東京
リリー・フランキーの書くものが好きであるのにもかかわらず、『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』(扶桑社、2005年)はすっかり出遅れてしまい、気がつけば大ベストセラーになっていた。天の邪鬼ゆえ、「いまさらなぁ」とちょっとした「リリー・ブーム」に冷めてしまったところがあったのだった。あろうことか、彼があの「情熱大陸」にまで出演していたのにはびっくりさせられた。少なくとも「汚い靴を履く女子のアソコは十円硬貨のニオイがする」(『女子の生きざま』1997年)と言い放つリリー・フランキーはどこにもいなくなってしまった。
身銭を切った一編である。中川雅也(リリー・フランキー)という人物の実人生に密着しているであろうこの作品が、虚構か実録かはこの際どうでもよい。古き良き時代の「私小説」が21世紀に飛び出したと考えるのが、最も適当であろうか。物語は主人公「ボク」の幼少期から40歳あたりまでの生活を描く。主たるテーマは家族との関係や母親への思いである。
帯の「超泣ける」「超感動」(いい大人が「超」って、言うな!!)がますますこちらを白けさせてくれるが、そもそもここで披露されるネタの多くはこれまでのいくつかのエッセイに小出しになっていたものだ。それを時系列に沿って並べ直して一編の物語に仕立て上げている。読ませる物語に構成するというあざとさがない分、キレとかコクはエッセイの方が優れていると感じた。もっとも感情移入のツボにはまった人には「世紀の大傑作」に映るだろうことも否定はしない。ベストセラーになったからけちをつけるわけではなく、リリー・フランキーはコラムニストとしてものす文章が本分、本領だと思う。もしこの先も小説を書くならば、「身銭を切らない」ものを読んでみたい。
#どうでもいいけど、もし書店でこの本を見かけたら、ぜひ帯だけでも読んでみてもらいたい。あまりの酷さに悶絶します。
次。吉田修一『東京湾景』(新潮文庫、2006年7月)。なんだかテレビドラマみたいな話(出会い系サイトで知り合った品川周辺の男女の恋愛)だと思ったら、すでにドラマ化されていた(フジテレビ系)。吉田修一は都会で働く若者の思いをうまく絡め取った『パーク・ライフ』で芥川賞を取った。行間に揺曳する空気感のえもいわれぬ心地よさについて、以前こんなことを書いた。
村上龍は芥川賞の選評で『パーク・ライフ』について、「何かが常に始まろうとしているが、まだ何も始まっていないという、現代に特有の居心地の悪さ」や「あるのかどうかさえはっきりしない希望のようなもの」がこの作品には存在するという。確かに『パーク・ライフ』には物語を強力に前に運ぶ推進力のようなものや、腑に落ちる展開、結末などはない。代わりに「何もしなくてもいい場所」で点景として存在する人々のかすかに揺れる感情の残滓だけが方々に投げ出されている。もちろんその感情の行方は記されることなく物語は閉じられる。
それがどうだろう、この『東京湾景』の饒舌さ加減は。ここには読者に想像させる余地などまったく残されていない。お節介でおしゃべりな人がひたすら自分のことを語って、「以上終わり」という小説になってしまっている。置き去りにされた読者は呆然とするしかない。いや、全面的に物語に身を委ね「感動した」とつぶやくか。こちらも帯には「奇跡のラブストーリー」、裏表紙には「最高にリアルでせつないラブストーリー」の文字が躍る。なんだか。吉田修一、ちょっと困った方向に流れているような気がする(重松清もね)。
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コメント
>困った同盟
想像力を欠く仕事しかできない編集者、コピーライターは即刻滅亡すべしと、これこそ声を大にして言いたい。
今読んでいる川上弘美の『ざらざら』(マガジンハウス)は、「クウネル」に連載された短編を集めたものですが、作品中のさらりとしたことばが帯に配されていて、ぐっと来ます(「傑作」とか「珠玉」ということばがわずかにあるのは気に入らない。そんなのは読者の側が決めることですよねぇ)。
投稿: morio | 2006.08.09 23:30
本の帯は宣伝であるがために大声を出したがりますが、それが効果的なのか知りたいところです。ひところの秀逸なコピーたち(お酒、化粧品、家電製品たちの)のような、はっとする言葉は何処に行ったのでしょう。コピーライターがコピー以上に儲かる仕事に精を出しているせいでしょうか。超、をつければ事足りる日本が悪いのか。
吉田修一、同じく困った感がいなめません。女性向け雑誌に書く事が多いせいかと勝手に思っていました。多くのドラマと同じで、明確なオチが無いと受け入れられないようですから(そういう物語を書く=ドラマになる=また書く、の悪循環だ)
投稿: mi4ko | 2006.08.09 23:04