笑う大天使
川原泉の人気コミックを原作とする。この機会に読んでみたところ、ほぼ原作の進行通りに映画も作られていた。お城のようなお嬢様学校(ロケ地は長崎ハウステンボス)で起こる出来事はひたすらファンタジーの様相を呈し、それらはすべてCGとVFXによって巧みに形象化される。話が話だけに、荒唐無稽な展開もすんなり飲み込むことができた。
ただしいくつかの点で2時間枠に収めるための「方便」がある。とにかく枝葉の多い物語(マンガなのに文字が多いぞ)なので、「ハチミツとクローバー」と同様の刈り込みや単純化が行われている。中でも主人公の三人娘のうち司城史緒(上野樹里)を中心人物と定めたところは英断だと言ってよい。物語に揺るぎない大黒柱が出現することで、観客は安心して史緒に寄り添い、彼女らの世界に没入することができるだろう。映画で新たに採用された設定、すなわち史緒の話す関西方言や大好物のジャンキーな食べ物なども、庶民を表象する記号として有効に働いた。すばらしきかな、お城とチキンラーメンのアウフヘーベン。上野とともに活躍する関めぐみ(「ハチクロ」に続いて好演!)と平愛梨も魅力的である。ことあるごとに上流階級を相対化する三人娘の視点や行動は痛快であった。
監督の山崎貴は「ALWAYS 三丁目の夕日」に続いてマンガを映画化したわけであるが、妙に情緒過多かつ道徳的で胡散臭い前作より、ひたすら楽しませることに専念する本作の方がはるかにのびのびとしているように思われた。 監督について事実誤認でした。本作の監督は小田一生です。
「嫌われ松子の一生」(中島哲也監督)の破天荒さには及ばないけれど、いい意味で無節操なエネルギーに溢れる作品となった。渋谷シネ・アミューズで鑑賞。
公式ブログ http://www.michael-movie.com/
| 固定リンク | コメント (2) | トラックバック (2)

■仮面ライダー The First
■カーテンコール
「恋に落ちる瞬間を初めて見てしまった」という真山巧の台詞は、竹本祐太が花本はぐみ(右写真参照)に一目惚れした瞬間に吐き出されたものである。
これはチラシにもパンフレットにも書かれているのだけれど、「春の熊」といえば、もう抗いようもなく必然的に村上春樹の『ノルウェイの森』でのワタナベと緑の会話を思い出すわけである。父を亡くした緑から「気持ちのよくなるような」言葉を求められたワタナベが、彼女のために喩え話をする、その一つとして「春の熊」は登場する。
田中裕子の出演する
のっけから皮肉っぽい物言いで恐縮だが、さすが2005年度日本アカデミー賞12冠の映画である。私にはこの映画のどこが感動的なのか、さっぱりわからなかった。あらためて感じたことは、日本アカデミー賞で評価される映画は、私にはまったく合わないということだった。なんなんだろう、この生温い映画は。
不幸せのファンタジー。不幸を娯楽化したらこうなるというお手本のような映画であった。しかし、そもそも不幸とはなんなのだろう。貧乏であることか。就きたい職につけないことか。他人のせいで裏街道に追いやられることか。望み通りの人生を送ることができないことか。
是枝監督は「花よりもなほ」について、パンフレットの中でこう述べている。
北海道にしかない競馬がある。
観る前の唯一の心配は、この映画の原作者が江國香織であるということであった。独りよがりな生温い世界が展開されていると嫌だなと思っていた。しかし、それは杞憂に終わった。原作がいいのか(未読である)、脚本が見事なのか、そのあたりは判然としないけれど、全編を貫くからりとしたトーンと俳優陣の並々ならぬ力量によって、この映画にはとても心地好い時間が流れていた。
「怪演」の度が過ぎて反感を買うことも多い竹中直人。出演作の多くで見せる周囲と馴染まないハイテンションとノリは、確かに見る側をどこまでも鼻白ませてしまう。それはそのまま竹中への好悪の評価にも直結しているといえるだろう。巷間によく知られる「ウォーターボーイズ」や「スウィングガールズ」、さらにテレビドラマなどでそれをやっているから、なおさらこの一面だけが世間に強く印象づけられてしまった。
以前紹介した斎藤美奈子の『あほらし屋の鐘が鳴る』(文春文庫、2006年3月)に「熱湯甲子園 女子マネをもてはやす高校球界の奇妙なセンス(注:「熱湯」原文ママ)」という項があり、これがまこと膝を打つ内容であった。1996年から解禁された高校野球全国大会における女子マネジャーのベンチ入りを俎上に載せ、マスコミのはしゃぎぶりと旧態依然の実態を厳しく糾弾するものである。核心部分を引用しよう。
オダギリジョーが大人気である。CDやDVDなどのセールス情報でよく知られる
フィンランド。
大谷健太郎監督もすっかりメジャーの仲間入りか。それはそれで喜ばしいことかもしれないけれど、人気と引き替えに本来の持ち味がすっかり薄まってしまったように見える。「avec mon mari」や「とらばいゆ」で見せた畳みかける会話の妙はどこにいってしまったのだろうか。前作の「約三十の嘘」でも、大谷映画の身の丈に合わないような豪華キャスト(椎名桔平、中谷美紀、妻夫木聡、八嶋智人、田辺誠一ら)に不安を覚えたが、果たせるかな、ただ順番に見せ場を出し合うようなまとまりのない作品になってしまっていた。そして今回は総売上三千万部超を誇る大人気コミックを原作とする。ますます工夫のしようがないではないか。
どこにでも「いい人」というのはいるもので、世界各地の「いい人」はたいてい「人がよく」て、「悪い人」や「普通の人」にうまく利用されることが多い。本人に「いい人」であるとか「人がいい」とかの自覚があるかどうかはこの際問題ではない。そういう枠組み、役割分担のようなものが厳としてとして存在する、そう思うのである。
トリノの騒動も残すところあとわずかとなってきた。選手一人一人の、あの場所に立つまでの人生(賭けたもの、得たもの、捨てたもの)を思うと、どんな結果であってもいいじゃないかと思う。商業主義とか政治的な胡散臭さとか、ひとまずおくことにして。
戦前の映画でも最近はDVDになっていて、簡単に手に入れることができる。しかも極めて廉価なシリーズとして発売されており、好きなものにはありがたいことである。何年か前に「最後の大物」というふれ込みでDVD化されたオードリー・ヘップバーンの「ローマの休日」ですら、今や1000円ほどで買えるようになっている。どうやら著作権・版権切れのものは正規ルート以外からも販売できるとおぼしい(日本語コーパスとして貴重な存在である「
めったにテレビに出ない麻生久美子が連続ドラマに出るということで楽しみにしていた。が、いきなり第1回目を見逃し、少々鬱になっていた。
いくつものドラマ、人間模様が並行して進み、やがてそれらは有機的に絡み合いながら一つにまとまっていく。個々のドラマが魅力的で、それもこれも折り紙付きの実力を持つ主役級の俳優が居並んでいるからだろうが(名ばかりのオールキャストものが多い中、この映画のオールキャストにはきちんとドラマがある)、一つ間違えばバラバラに分解してしまいそうな物語を違和感なくまとめ上げる三谷幸喜の筆力と構成力に感服するのが、まずは真っ当な見方であろう。今作は久々に脚本、監督ともに担当する。
たぶん人生の折り返し点をとうに過ぎたのだろうなどと思うと、なんとなく寂しくなるからあまり考えないようにしているけれど、これが五〇歳になったら間違いなく生きた時間より残りの時間の方が短いと自覚せざるをえない。自分がその年齢に達したとき、いったい何を思い出し、何を考えて行動するのだろうか。今のところ、毎日を生きるのに精一杯なのだが。
宮部みゆきの原作をそのまま映像に載せたらこうなるだろうというものだった。
薬師丸ひろ子を見ると、昔々の「セーラー服と機関銃」や「Wの悲劇」を思い出す。特に後者は傷心なこと(色っぽい話ではない)があった直後の気晴らしに観たので、今でも強く印象に残っている。「顔、ぶたないで! 私、女優なんだから!」 嗚呼、懐かしい。
ユアン・マクレガーは「スターウォーズ・エピソード3」の来日キャンペーンをキャンセルした。それで何をしていたかといえば、別の主演映画のプロモーション活動に忙しかったという。その映画が「アイランド」(マイケル・ベイ監督)である。
少女の喉にハサミを突き立てるという手口の連続殺人事件が起きる。犯人は父親の自死によって精神のバランスを欠くことになった若い娘(麻生久美子)と謎のパートナー(豊川悦司)の二人。マスコミは犯人に「ハサミ男」の名を与え、社会問題となる。ところが、同じ手口をまねた別の殺人事件が発生した。ただし「別人」の犯行であることを知るのは「真犯人」である彼ら二人だけ。真犯人による犯人捜しが始まった……。
近頃、蒼井優は
タイトルは重いが、内容は軽い。
これでいよいよ最後なのである。1977年のエピソード4から数えて28年目、ついにシリーズ完結作が公開される。いてもたってもいられない。迷わず先々行上映のチケットを手に入れた。この週末は東京で過ごすことにしていたため、新百合ヶ丘のワーナーマイカルシネマズで見ることにした(今回はネタバレなしでいきます)。
そして最後のスター・ウォーズである。もう見たいものはほぼすべて見せてくれる。全編暗いムードにどっぷりというのも、ダース・ベイダー誕生を彩るものとして、実に好ましく感じられた。「そんなはずでは?」と思う部分はもちろんあるが、ジグソーパズルの最後の一片がパチリとはまったという感があるのは確かである。クライマックスの大剣術大会の迫力と美しさは必見だ。「意外性がない」という悪評はきっとあるだろうが、それは問題にならない。今作は「そうなると思っていた」ということを、ルーカス自身の手で見せてほしいのだから。
今年の出演作品
「
「広告」2004年11月号は二大特集が組まれていた。一つは戦後高度成長期の象徴である新幹線の存在意義を考える「天才! 新幹線」。そしてもう一つが「女の子のための日本映画講座」である。なにゆえ「女の子」に限定するのか、私にはよくわからない。この雑誌って女性誌なんですか? いや、それはともかく、まず特集のアタマに麻生久美子のオールカラー6頁記事があるのがよい。さらに本編に寄稿している人も一癖二癖ある強者が揃っていて読み応えがある。穏当な日本映画史紹介では決してないけれど、当たり障りなく並べてもおもしろくないですしね。
さて1968年の京都を舞台にした井筒和幸監督の「
「真珠の耳飾りの少女」はむしろ「青いターバンの女」というタイトルで知られているのではないだろうか。十七世紀に活躍したオランダの画家フェルメールの代表作である。もう4,5年も前のことである、天王寺にある大阪市立美術館でフェルメール展が開かれた際、この絵も展示されていた。残念ながら私は行けなかったのだが、観てきた人に聞くと、それはもうたいへんな混みようであったという。同時代の巨匠であるレンブラントやルーベンスはもとより、日本で高い人気を誇る印象派の諸作家並の注目度であるといえよう。しかし、その人気に比してフェルメールには謎が多く、この「青いターバンの女」の成立事情に関しても、ほとんど何もわかっていない。英国の小説家トレイシー・シュヴァリエはこの絵から受けたインスピレーションを虚構の物語としてまとめた。映画「
その長島がスチールを担当する映画「
三谷幸喜の関わる映画は「12人の優しい日本人」「ラヂオの時間」「みんなのいえ」「竜馬の妻とその夫と愛人」に続いて5作目となる。「笑の大学」はテレビドラマ「古畑任三郎」でコンビを組んだ星護に監督を任せ、自身は脚本を担当する。三谷といえばまず舞台ありきで、過去のテレビや映画になった作品も、もともとは舞台用であったものが多い。「笑の大学」もそうした作品の一つであるが、他の作品と決定的に違う点がある。それは「笑の大学」が三谷作品のベスト、最高傑作であるという評価がすでにできあがっていることである。このハードルは極めて高い。しかも登場人物がたった二人の密室劇である。これをいかに2時間の映画として見せるのか。
最近のコメント