2006.08.08

笑う大天使

笑う大天使川原泉の人気コミックを原作とする。この機会に読んでみたところ、ほぼ原作の進行通りに映画も作られていた。お城のようなお嬢様学校(ロケ地は長崎ハウステンボス)で起こる出来事はひたすらファンタジーの様相を呈し、それらはすべてCGとVFXによって巧みに形象化される。話が話だけに、荒唐無稽な展開もすんなり飲み込むことができた。

ただしいくつかの点で2時間枠に収めるための「方便」がある。とにかく枝葉の多い物語(マンガなのに文字が多いぞ)なので、「ハチミツとクローバー」と同様の刈り込みや単純化が行われている。中でも主人公の三人娘のうち司城史緒(上野樹里)を中心人物と定めたところは英断だと言ってよい。物語に揺るぎない大黒柱が出現することで、観客は安心して史緒に寄り添い、彼女らの世界に没入することができるだろう。映画で新たに採用された設定、すなわち史緒の話す関西方言や大好物のジャンキーな食べ物なども、庶民を表象する記号として有効に働いた。すばらしきかな、お城とチキンラーメンのアウフヘーベン。上野とともに活躍する関めぐみ(「ハチクロ」に続いて好演!)と平愛梨も魅力的である。ことあるごとに上流階級を相対化する三人娘の視点や行動は痛快であった。

監督の山崎貴は「ALWAYS 三丁目の夕日」に続いてマンガを映画化したわけであるが、妙に情緒過多かつ道徳的で胡散臭い前作より、ひたすら楽しませることに専念する本作の方がはるかにのびのびとしているように思われた。 監督について事実誤認でした。本作の監督は小田一生です。

「嫌われ松子の一生」(中島哲也監督)の破天荒さには及ばないけれど、いい意味で無節操なエネルギーに溢れる作品となった。渋谷シネ・アミューズで鑑賞。

公式ブログ http://www.michael-movie.com/

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2006.08.03

DVDで観たものだし

早く書かないと印象が薄れてしまう。いや、もう薄れているかも。

■ライフ・オン・ザ・ロングボード
定年後の人生はいかなるものか。これからますますこういうテーマの物語が出てきそうな気もするが、この映画では、今は亡き妻と若い頃に約束したサーフィンに挑戦することで、「損なわれた本当の自分を探す」のである。そういう意味では少年少女が「まだ見ぬ自分を探す」のと、趣向は同じであろう。ただこの種の若者の物語につきもののほとばしる青い恋愛はない(当然か)。種子島の海は気持ちがよさそうだなぁ、と脊髄反射的な感想を吐いておく。大杉漣が初老サーファーを熱演する。次は誰の番?

公式サイト http://www.ntve.co.jp/lotl2/index2.html

仮面ライダー■仮面ライダー The First
オリジナルの「仮面ライダー」を思い出させるオマージュに溢れたものである。本郷猛と一文字隼人の二人がショッカーによって「バッタ怪人」に改造されたものの、やがて洗脳から覚め、裏切り者として狙われるという一連の流れは、少年時代の青臭い記憶を呼び起こして感動させられた(世代限定)。ボディースーツもサイクロン号も、さらにはショッカーの怪人も、オリジナルの雰囲気を濃厚に残しながら今風に造型されている。デジタル合成の死神博士(故天本英世)も登場する。しかし、何より特筆すべきは1号と2号の「愛の確執」が主題として据えられていることである。なんと二人は一人の女性記者を恋愛対象として奪い合うのだ(変身までして!)。世界平和はどこへいったのか。恋愛の本能の前には悪なんてどうでもいいということか。お子様向け映画のよくするところではない(笑)。

仮面ライダー The First解説
仮面ライダー The First公式ブログ

■愛してよ
西田尚美も母親役をするような年齢になってしまった。小学生の息子と二人暮らしの母親が、彼への愛情をモデルとして成功させるという教育熱に読み替えてしまう。やがてその行為が日々の暮らしの無力感や寂しさを紛らわせるための手段と成り下がった時、息子は母親に疑問を持ち始めることになる。「愛する」「愛される」という見えない感情を、目に見える目的に形を変えて追いかけるうちに、もともとあったはずの感情がどこかに置き去りにされてしまう哀しさ。父親との距離感や都市伝説の扱い方もおもしろかったが、一にも二にも主演の西田尚美の全編にわたる熱演が印象的であった。

カーテンコール■カーテンコール
邦画の公開はけっこうまめにチェックしているつもりだが、この映画は存在すら知らなかった。佐々部清監督の作品は、日本と韓国の高校生の遠距離恋愛を描いた「チルソクの夏」という佳作を観ている。この「カーテンコール」もそれと同じく両国にまつわる物語である。映画がまだ娯楽産業の中心にあった時代に幕間芸人として活躍した韓国人を、現代の日本人女性記者が探し出し、当時の家族に再会させるというものである。直球勝負の人情ものが苦手な人にはつらいかもしれない。幕間芸人を演じた藤井隆がよい味を出していた。伊藤歩はじっとしていても造作が派手なので、こういう地味な役柄にはちょっと合わない感じがした。

公式サイト http://www.curtaincall-movie.jp/

■空中庭園
角田光代の小説を原作とする(直木賞受賞作の『対岸の彼女』よりこちらの方がよほどよいと思う)。隠し事をしないというルールを持つ家族が、隠し事をし始めるとどうなるのか。そしていったん隠していたものを吐き出してしまうとどうなるのか。家族のあり方を考えさせてくれるかどうかはともかく、あけすけになりすぎることの怖ろしさを、文字通り背筋の寒くなる思いで見せつけられた。小泉今日子、怖い……。

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2006.07.31

ハチミツとクローバー

ハチミツとクローバー恋に落ちる瞬間を初めて見てしまった」という真山巧の台詞は、竹本祐太が花本はぐみ(右写真参照)に一目惚れした瞬間に吐き出されたものである。

「ハチミツとクローバー」を象徴するかのようなこの台詞のエッセンスを、映画では全面的に展開する。すなわち原作マンガに見られた細かなエピソードの枝葉を綺麗に刈り込み、5人の若者のストレートな恋愛話だけに話題を引き絞る。どちらがいいということではない。それぞれのメディアの特性を活かして作られていると解せられる。美大生の群像劇を描く原作マンガはうるさいくらい様々なエピソードを語ろうとするが(それこそが「ハチクロ」の魅力である)、映画でマンガと同じことをすれば、まったくまとまりを欠く悪しきオムニバスとなってしまうだろう。煌びやかな綾織物のごとき青春物語を楽しむなら原作マンガで、シンプルで力強い恋愛物語を楽しむなら映画で、そういうように感じた。

原作のキャラクターと映画の俳優のイメージのズレは致し方のないことである。むしろマンガのコスプレのような映画こそ工夫がないといえる(たとえば大谷健太郎監督「NANA」)。どの俳優も作中人物の持つ本質をよく理解してうまく演じていたと思う。原作への思い入れがよほど強い人以外、まったく問題にならないだろう。もっとも先に述べたように枝葉を刈り込んだため、各人物像の厚みという点においては若干の物足りなさを感じる憾みがある。5人の中心人物のうち、とりわけ山田あゆみ役の関めぐみがビジュアルも雰囲気もぴたりと決まっていた。ただし花本はぐみだけはマンガとは別物と考えた方がよいかもしれない。そもそもあのキャラを実写で再現するのは容易ではない。あくまでも監督、脚本家、演出家、そして蒼井優の生み出した花本はぐみである。この点について、私は蒼井に好意的であるがゆえ「あり」としたいが、原作ファンの意見などを聞いてみたいものである。

  恋が芽生え、つぼみが息吹き、
  花が咲くか、咲かないかは、
  わからないけれど、
  それまでの大切な時間のお話。

映画のパンフレットに記されたものである。「全員が片思い」というハチクロ・ワールドが、実は映画ではほんの少しだけ幸せな方向に振られている。それもまたよし。細部まで念入りに誂えられたセット、調度、美術作品の類はすばらしいリアリティを生み出している。同潤会アパートを使った男子学生の下宿や、いかにも昭和風の花本先生の一軒家も素敵だった。artekのダイニングセットを置く大学食堂なんてあるのかしら。おそらく自然光を最大限生かしているのであろう、少し輪郭がもの柔らかに見えるような絵作りも、「ハチクロ」にふさわしい演出として好ましく思われた。なんだか最後は思いつくままに。南町田グランベリーモール・109シネマズで鑑賞。

公式サイト http://www.hachikuro.jp/

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2006.07.22

春の日のクマは好きですか。

春の日のクマは好きですかこれはチラシにもパンフレットにも書かれているのだけれど、「春の熊」といえば、もう抗いようもなく必然的に村上春樹の『ノルウェイの森』でのワタナベと緑の会話を思い出すわけである。父を亡くした緑から「気持ちのよくなるような」言葉を求められたワタナベが、彼女のために喩え話をする、その一つとして「春の熊」は登場する。

春の野原を君が一人で歩いているとね、向うからビロードみたいな毛なみの目のくりっとした可愛い子熊がやってくるんだ。そして君にこう言うんだよ。『今日は、お嬢さん、僕と一緒に転がりっこしませんか』って言うんだ。そして君と子熊で抱き合ってクローバーの茂った丘の斜面をころころと転がって一日中遊ぶんだ。そういうのって素敵だろ?(『村上春樹全作品1979-1989』第6巻、334頁)

監督のヨン・イに『ノルウェイの森』のこのくだりを意識したのかどうか、確かめるべくもないが、映画の基調となるトーンは、まさしくこの文章の醸し出すなんともいえない温かさや幸福感である。夢見がちな少女(ペ・ドゥナ)が、図書館の美術書に書き込まれた連続する愛のメッセージ(スタートは「春の日のクマのように君が愛おしい」)をたどり、まだ見ぬ「王子さま」を見つけようとする展開は、観る者に謎解きとラブコメの二つの楽しみを味わわせてくれる。

ラブコメとはいえ、けっしてドタバタ劇に終始することはない。なにより十九世紀の名画(ゴヤ・ルノワール・カイユボットなど)が各所にコラージュされ、絵画本来の意味と映画での意味を二重に重ね合わせようとする知的な遊び心が、映画全体にしっとりとした落ち着きや深みをもたらしている。その中を稀代のコメディエンヌであるペ・ドゥナが自在に泳ぎ回っており、彼女の理想の「王子さま」との恋から目が離せなくなった。意外な結末とさりげなく散りばめられた若い恋人ならではのエピソードの数々に、柔らかな、それこそふわふわの熊のぬいぐるみを抱いたような気持ちにさせられたのであった。シネ・リーブル梅田で鑑賞。

公式サイト http://www.harukuma.com/

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2006.07.01

火火

火火田中裕子の出演する殺虫剤のCMがおもしろくていけない。変な歌を唄いながらスキップし、「もうどうでもええねん」と自虐的につぶやいたり、薬剤が消える防虫剤のCMで「私が消えたらどないすんのん」と切り返してみたりする。前任者の沢口靖子のものも笑わせてもらったが、平素のイメージとのギャップが大きい田中のそれは、衝撃度がさらに大きい。芸達者であり、プロ根性を強く感じさせる。

その田中が、骨髄バンクの立上げに尽力した陶芸家、神山清子を演じる映画が「火火」である。神山は極貧の中、女手一つで子育てをしながら、陶芸家として筆舌に尽くしがたい苦労を重ねていく。やがて夢であった自然釉を成功させるものの、今度は息子が白血病に冒される。息子を救うためには骨髄移植しか方法はなく、そのためのバンク設立に力を尽くしていく。

「愛を焼き込む」というコピーは神山の生き方を象徴的に表す。自然釉を成功させるために一心不乱に仕事に取り組み、その背中で二人の子供たちに人としてあるべき姿を教えていく。映画は神山の取る厳しい行為のどれもが深い「愛」によって裏打ちされていることを知らしめる。田中の重厚な存在感と演技力は、そのことをよく訴えかけてきた。ただ実話をもとにしているとはいえ、ドキュメンタリーではない。ために人物のわかりやすい類型化や涙を呼び込む映画的演出の見えるところはやや気になった。とはいえそれらは些事である。総じてきまじめな映画であるといえよう。「もうどうでもええねん」という映画ではない。

「火火」公式サイト http://www.vap.co.jp/hibi/
骨髄移植推進財団(骨髄バンク) http://www.jmdp.or.jp/

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2006.06.21

ALWAYS 三丁目の夕日

ALWAYS 三丁目の夕日のっけから皮肉っぽい物言いで恐縮だが、さすが2005年度日本アカデミー賞12冠の映画である。私にはこの映画のどこが感動的なのか、さっぱりわからなかった。あらためて感じたことは、日本アカデミー賞で評価される映画は、私にはまったく合わないということだった。なんなんだろう、この生温い映画は。

これはSFファンタジーである。昭和30年代風、東京らしい街、それらを物語の枠組みとする完全なる箱庭的SF映画である。その発想は完璧にステレオタイプに毒されており、たとえれば火星にはタコのような生物が住んでいると無邪気に信じているようなものである。町並みの昭和らしさはあまりにもあざとくて、ノスタルジックな雰囲気を醸し出そうと演出しているものの、どこまでも作り物臭く、これならば吉本新喜劇の舞台セットの方がよほど昭和っぽい匂いを感じさせるであろう。また脚本そのものもわかりやすく底の浅い人情話をいくつか組み合わせているだけで、これまた「いつかどこかで」見たり聞いたりした既視感を強く覚えるものであった。オリジナリティもリアリティもここにはない(巧みなCGならあるけど)。

そもそも、この映画が声高に叫ぶメッセージが、おおいに疑わしいのである。あの頃はほんとうによかったのか。貧しいけれど夢があったと言い切れるのか。夢といってもせいぜいテレビを買うとか、冷蔵庫を買うとか、そういうものでしかなく、大型液晶テレビがほしい、水を使わない全自動洗濯機がほしいという今の世の中と何が違うのか。結局、この映画の登場人物たちは、戦時中のもののない時代の反動として、ものに溢れた生活に過剰なる憧れ(それが「夢」だとしたらずいぶん即物的な夢である)を持っているに過ぎない。その「物欲」が「夢」に都合よく読み替えられている。やがて来る「一億総中流階級」指向へのきざはしが断片的に切り取られ、効率よくデフォルメされているだけである。「貧しいけれど、夢があった」「ほんとうの豊かさがあった」なんて笑止千万、それこそが「昼行灯の夢物語」である。

父親の病気で借金がかさみ、身売りする女がいる時代。子供が多すぎて生活が立ちゆかず、口減らしのために都会へ半ば強制的に集団就職させる時代。憧れの新商品を手に入れるために連日連夜働き、その陰で昔ながらの商売人が仕事を失っていく時代。映画で描かれるこれらの情景が真実であるかどうかはひとまずおくとして、「ALWAYS 三丁目の夕日」は当時の社会の抱える本質的な問題には何一つ答えようとはしていないし、そもそもその種の問題意識などはじめから持とうとしていないのであった。高度経済成長期の暗部をすべてなきものとし、夢見心地の上澄みだけを見せるやり方は、昨今の無責任なポジティブさを煽り立てる風潮に気味が悪いほど合致するものであろう。なにもかもを「ああ、夕日が綺麗だなぁ」ですませてよいものか。夕日の後には夜の深い闇が待っているのに。

俳優の熱演ぶり(堤真一など怪演だ……)がいっそうのもの哀しさを感じさせる。

公式サイト http://www.always3.jp/

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2006.06.15

嫌われ松子の一生

嫌われ松子の一生不幸せのファンタジー。不幸を娯楽化したらこうなるというお手本のような映画であった。しかし、そもそも不幸とはなんなのだろう。貧乏であることか。就きたい職につけないことか。他人のせいで裏街道に追いやられることか。望み通りの人生を送ることができないことか。

不幸のどん底に叩き落とされた松子の姿にどこか幸福感が漂っているのは、彼女が人生の岐路(あまりにも多すぎて、まるであみだくじだ!)において、いつも主体的に人生を選び取っているからではないのか。そうした主体性が彼女をして決定的に不幸からは遠いところへ連れ去っている。売れない作家と同棲し、ソープ嬢になり、殺人犯になり、やくざの愛人になり、最後は身を持ち崩して引きこもる……。上映後に感じる意外なまでの爽快感は、松子の生きるエネルギーに溢れた「前向きな不幸」によるものであるのは間違いないだろう。No.1ソープ嬢になるために明けても暮れても懸命にスクワットをする松子の姿こそ、彼女の生き方を象徴的に現している。

中島哲也監督はドラマチックすぎる松子の一生を、あたかもディズニー映画か宝塚歌劇かというようなド派手な演出で彩っていく。スクリーンに明滅する強烈な色彩、効果的に挟み込まれるCGとアニメーション、物語と密接な関係を持つ魅力的な歌曲群、一歩間違えば悪趣味、自己満足の謗りを免れないような演出が、どれも見事にプラスに働いている。相当個性的であった前作「下妻物語」をも、その面では完全に凌駕しているといえよう。もちろん松子を演じる中谷美紀をはじめとして、個性的すぎる俳優陣の熱演は、いわずもがなである。これまで小綺麗なだけで印象の薄かった中谷美紀、もしかすると一世一代の演技かもしれない。

インパクト大。いや、特大。好き嫌いはきっと分かれる。画面から溢れかえるエネルギーを存分に味わい尽くしたい人に。ワーナーマイカルシネマズ茨木で鑑賞。

公式サイト http://kiraware.goo.ne.jp/

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2006.06.07

花よりもなほ

花よりもなほ是枝監督は「花よりもなほ」について、パンフレットの中でこう述べている。

この映画、弱かった人が努力して強くなるといった”成長物語”の類ではないんです。
”弱いもの”が弱いまま肯定されるというか…周囲の人たちとの関係の中で、その”弱さ”の意味が変わっていく。

「一人一人をそのまま認めよう」というスタンスは、主演する岡田准一の先輩アイドルグループの「国民的歌謡曲」以来、もうすっかり食傷気味であるが、あえてこのことについて語るとすれば、「花よりもなほ」の主人公が「変わらない」まま周囲に認められたのは、「変わらない」部分にこそ尊重すべき真実や価値があったからであって、なんでもかんでも「そのままでいい」ということにはならないということだろう。偽善的言辞に惑わされてはならない。

変化がない、成長がない、と是枝監督はいうが、実はそうではないと思う。すなわち岡田演ずる青木宗左衛門は、「仇討ちの空しさ」「自らの弱さ」「他者の尊重」といったこと、江戸の武士にあっては認めがたいこれらの考えを、誰に憚ることなく全面的に肯定するだけの器量を身につけて、それを実行したのであった。これが青木の変化、成長でなくしてなんであろう。信念は確かに変わっていない。しかし、それを実行できるようになるのは大いなる成長である。青木を日頃から見ている長屋仲間は、そのことを知ってか知らずか、「変化せず変化していく彼」を認めると同時に、己の取り柄がなさそうな人生(されど懸命に生きる)に誇りを持っていくようになる。これまた変化であり、成長である。まさに青木たちは「糞を餅に変えた」のだ。是枝監督はこの台詞を何度か劇中で使っていたから、「変化のない変化」をしっかり意識していたのは間違いない。

是枝監督の作品は、どれも真実のありようと幸せの佇まいというものを静かに描こうとする。私はそのように受け取っている。「幻の光」、「ワンダフル・ライフ」、「ディスタンス」、そして「誰も知らない」。主題や題材は違えども、常に「私にとっての本当の真実や幸福」を考えさせられる(餅に変わる糞はあるのか!?)。時代劇である本作もまた同様である。テレビドラマ「タイガー&ドラゴン」の好演が印象的だった岡田は、ここでも悩める弱い武士をきめ細やかに演じていた。宮沢りえはうまいが痩せすぎ(関係ないか)。長屋の面々もみないい味わいだ。キャラがきちんと立っていた。見終えた後、なんとなく笑みがこぼれるような映画だった。過剰演出のわかりやすい悲喜劇を期待する向きには合わない映画であろう。間違っても「泣ける映画」ではない。ワーナーマイカルシネマズ新百合ヶ丘で鑑賞。

なお岡田が属するV6のメンバーが総出演する「ホールド・アップ・ダウン」も早くに観ていたのだが、これはアイドルが順番に顔を見せるだけのドタバタ劇でつまらなかった。よって特に語ることもなし。SABU監督の「弾丸ランナー」や「MONDAY」「Drive」などはわりと好きな映画だったのだが。

「花よりもなほ」公式サイト http://www.kore-eda.com/hana/

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2006.06.04

雪に願うこと

雪に願うこと北海道にしかない競馬がある。ばんえい競馬である。旭川、帯広、岩見沢、北見を巡回するこの競馬は、もともと農耕馬として使われていた体重1トンほどの巨躯を誇る馬が、ぬかるんだ障害付きの馬場を橇を引きながら豪快に走るものである。一般の平地競馬で見られるサラブレッドが500キロ前後であるから、 彼らがいかに大きな馬であるかがよく知れよう。その迫力たるや。第十八回東京国際映画祭でグランプリに輝いた根岸吉太郎監督の「雪に願うこと」は、このばんえい競馬を舞台にした映画である。

東京でビジネスに失敗し、かつて捨て去ったはずの故郷に戻るしかなくなった若者(伊勢谷友介)が、兄(佐藤浩市)の経営するばんえい競馬の厩舎で仕事をすることになる。映画は若者が自分自身に向き合って次に進むべき道を見つけるまでを描く。こうまとめてしまうと、よくある成長物語のように思われるが、実際に筋立てとしては極めて古典的な作りで、取り立ててどうこういうものはない。それでも最後まで飽きずに見させるのは、ひとえにばんえい競馬と冬の北海道に圧倒的な魅力があるからである。

そのあたりに転がしておけと思われるようなメロドラマでも、競走馬の巨体から立ち上る湯気や吐く息の白さ、剛健な筋肉、さらに万物を赤く染める朝日や広大な雪原が象徴的に映し出されてくることで、なんだかかけがえのない物語を見せられているような気がしてくるのだ。これではまったく褒めているように聞こえないかもしれないが、しかし、この映画の真価はそこにこそあると思うのである。けだし自然に人事を象徴させる手法は日本の古典文学以来の伝統である。だからまるで走らないけれど懸命に生きている鈍馬に、自らの生き方を重ねる主人公の陳腐な思考回路も許したくなる。兄弟の絆とか家族の暖かさとか、そういう道徳臭いのもいつもなら鼻につくのだが、この際どうでもいい。すべてがより大きなものによって生かされている。昨今流行の「泣ける」という単純な思考回路で見るべきではない。佐藤浩市は泥臭い役がよく似合う。伊勢谷友介も変にキレた現代風青年をやるより、ずっとよかった。また小泉今日子が中年のおばさん役を演じているのは見物だった。

ばんえい競馬に史上初の女性調教師が誕生したことを報じていたのは、記憶に新しいところである。次に北海道に行った折には、ぜひともばんえい競馬を見てみたい。それにしても根岸監督の代表作である「遠雷」を見たのは、もうずいぶん前のことだなぁ。調べてみたら1981年だった……。動物園前シネ・フェスタで鑑賞。

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2006.05.26

間宮兄弟

間宮兄弟観る前の唯一の心配は、この映画の原作者が江國香織であるということであった。独りよがりな生温い世界が展開されていると嫌だなと思っていた。しかし、それは杞憂に終わった。原作がいいのか(未読である)、脚本が見事なのか、そのあたりは判然としないけれど、全編を貫くからりとしたトーンと俳優陣の並々ならぬ力量によって、この映画にはとても心地好い時間が流れていた。

物語は一応ストーリーらしきものがありはするが、基本的にはシチュエーション・コメディー的場面の積み重ねが中心となる。そういう造作からいえば、荻上直子の「かもめ食堂」と似たものがあると感じた。両者が描き出そうとしているのは起承転結のある物語ではなく、主人公達の醸し出す空気感とか価値観であるという点、二つの映画を似たものとして並べるのはあながち的外れなことでもないように思われる。どちらも大いに楽しめる。

間宮兄弟を演じる佐々木蔵之介と塚地武雅のかけあいがいい。とりわけこれまでコミカルな役柄とは縁がなさそうな佐々木のはじけっぷりが微笑ましくもある。趣味というにはあまりにも濃すぎる二人の完結したライフスタイル(=オタクだ)は、他者を寄せつけない限りにおいて「永遠の微温」を保つことができるのだろう。ところが彼らはそれを自ら打ち破ろうとする。異世界の存在である「女性」を招き入れることで誘発される化学反応の妙味といったら! また間宮兄弟のペースに巻き込まれていく沢尻エリカ(ビデオ店バイト)と常盤貴子(小学校教師)のヒロイン二人もいい。オタクな二人を厭うこともなく、コケティッシュな魅力を振りまくことを忘れない。兄弟にとっての「世界に開かれた窓」はあまりにも刺激的である。

自分の好きなものを好きだと貫き通す心地よさを思い出させる。さまざまな「モノ」にあふれる間宮兄弟の部屋は、一度じっくりと見てみたいと思わせるものがあった。森田芳光監督作品。梅田ガーデンシネマで鑑賞。

公式サイト http://mamiya-kyoudai.com/

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2006.05.14

サヨナラCOLOR

サヨナラCOLOR「怪演」の度が過ぎて反感を買うことも多い竹中直人。出演作の多くで見せる周囲と馴染まないハイテンションとノリは、確かに見る側をどこまでも鼻白ませてしまう。それはそのまま竹中への好悪の評価にも直結しているといえるだろう。巷間によく知られる「ウォーターボーイズ」や「スウィングガールズ」、さらにテレビドラマなどでそれをやっているから、なおさらこの一面だけが世間に強く印象づけられてしまった。

しかし、竹中の出演したものを追いかけていくと、決してそれだけではないことに気付く。いくつかの作品ではしっとりとした中年男性の哀愁のようなものを切々と演じきっているのである。たとえば「東京日和」や「無能の人」「連弾」などだ。竹中はユーモアとペーソスを醸し出し、いい歳の取り方をした「中年のおっさん」をうまく体現している。忘れてならないのは、これらの作品は竹中自身が監督をしているということである。つまり本人の考える「自画像」と他人の期待する「竹中像」にはズレがあるとおぼしい。いい悪いではなく、どちらも真実なのだと思う。

サヨナラCOLOR」では、竹中一流の哀感に、良くも悪くも持ち味となっている「怪演」気質が上手くミックスされた演技をしている。難病を患って入院してきた高校時代の初恋の人を治療する医師を演ずる。監督・演出は竹中である。もちろん見る人によってはその「怪演」部分を受け入れられないかもしれないが、きちんと抑制されていると思った。少なくとも物語の進行を分断してしまうようなことはない。ただお涙頂戴と勘違いされそうなテーマ(難病と生死)や、さらに結末が途中で見えてしまう脚本などにはもう少し捻りがほしかった。澄んだ透明感のある映像はとても美しい。

映画で若々しくヒロインを演じる原田知世も、もう不惑目前である。けだし永遠の少女である。薬師丸ひろ子とともに、これからも長く活躍してほしいと願う。角川映画、ミーハー路線であったかに思われたが、実は見る目があったか。

公式サイト http://www.zaziefilms.com/sayonara-color/index.html

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2006.05.05

タッチ

タッチ以前紹介した斎藤美奈子の『あほらし屋の鐘が鳴る』(文春文庫、2006年3月)に「熱湯甲子園 女子マネをもてはやす高校球界の奇妙なセンス(注:「熱湯」原文ママ)」という項があり、これがまこと膝を打つ内容であった。1996年から解禁された高校野球全国大会における女子マネジャーのベンチ入りを俎上に載せ、マスコミのはしゃぎぶりと旧態依然の実態を厳しく糾弾するものである。核心部分を引用しよう。

マネジャーに「女子」がつくと、会計や事務など本来の「雑務」のほかに(のかわりに?)、部室の掃除・ユニホームの洗濯・合宿時のメシの世話・傷の手当てなどの「雑用」がくわわるのは、みなさまご承知の通りです。いや、この際あえて申しましょう。女子マネとは、家政婦と看護婦を兼ねた雑役婦、チーム内奴隷にほかなりません。野球、サッカー、ラグビー、アメフト、ボートなど、およそ伝統的な花形の男子スポーツチームには、必ずといっていいほど「女子マネ」という名の女奴隷が随行しています。

無論この斎藤の主張に反論する立場もあるであろう。しかし「どこまでも従順に男に付き従う女」という構図からはのがれられない。斎藤はこうした活動が公教育の場で無自覚のうちになされることの是非を問いかけ、慄然と問題提起しているのである。

はたして浅倉南は「女奴隷」であったのか。長澤まさみを配した「タッチ」(犬童一心監督)を見てそのことを思った。あだち充の原作では野球部のマネジャーをしてはいたが、偶然始めた新体操(1980年代当時は新興種目だった)で全国レベルの実力を発揮し、達也をして「あまり遠くへいくなよ」と思わせたほどの実力を誇っていた。もちろん心はどこまでも「タッちゃんが私を甲子園に連れて行ってくれる」「いつかタッちゃんのお嫁さんに」というのがあったには違いないが、同時に進取の気性に富んだ自立する女性でもあった。ところが、映画版の浅倉南はまったくもって「どこまでも従順に男に付き従う女」でしかない。劇中で南のすることはまさしく斎藤の指摘する女子マネの姿そのものである。そして新体操をすることはいっさいカットされている。申し訳程度に体育の授業でダンスするシーンが挿入されているが、多少は原作に配慮したということか。いや、映画ではそれとても「かわいい女の子=マスコット」を演出する装置でしかない。

「愛しいあの人が私を夢の国に連れて行ってくれる、私はそれをひたすら待ち続ける」それだけのことを描く映画に何の価値があるのだろう。原作は1980年代、映画は新世紀、しかし、その内実たるや、どちらが旧弊なものであるか、火を見るよりも明かである。「強い男と弱い女、守る男と守られる女、俺についてこいとあなたについていきます」、そういう映画である。多少なりとも高揚した気分になったのは、アニメ「タッチ」の主題歌を劇中歌として使ったことくらいか。

タッチ

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2006.04.26

ニワトリはハダシだ

この映画の存在価値は、公権力の汚職、知的障害者の社会参加と保障、在日朝鮮人への差別など、どちらかといえば正統派ドキュメンタリーの手法によくなじむ社会的問題を、軽みを持った娯楽作品としてまとめあげたところにあろうか。公式サイトには以下の紹介文がある。

 少年・サムは15歳。重度の知的障害を持ちながらも、人並みはずれた記憶力を持っている。しかし、その能力が災いして、偶然にも警察の汚職事件に巻き込まれる羽目に陥ってしまう。権力を盾に、サムを犯人に仕立てようと目論む人々から彼を救い出そうと、一緒に暮らすチチ、在日朝鮮人のハハ、そして養護学校の教師までが、身体を張って事件の謎に挑んでいく!

公式サイト http://www.xanadeux.co.jp/niwatori/

軽やかであるとはいえ、それらの深刻な題材を気紛れに取り上げてみただけということでは、決してない。知的障害を持つ主人公の行動と彼の引き起こす一つ一つの事件は、映画の中では笑いの対象として描出されるが、その向こう側の笑えない部分もしっかりうかがわせることを忘れない。単なるお涙頂戴エンターテイメントに堕していないゆえである。

もっとも善意の人ばかりが回りを固めているところは落ち着かない気分がするし、あいわからずの障害者は純粋で無垢で優しい存在というお約束のような人物造形はなんとかしてもらいたいと思ったのも事実である。これは発想の転換(いや、勇気ある演出か)が必要なことだろう。とはいえ、俳優の演技、脚本、演出など、総じて平均点の高い作品であるといえよう。派手なところはないけれど、もっと多くの人に観られてよい映画だと思う。

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2006.04.15

メゾン・ド・ヒミコ

かもめ食堂オダギリジョーが大人気である。CDやDVDなどのセールス情報でよく知られるオリコンの人気ランキングで、男女ともに第1位に選出されたと報じられていた。確かに独特な風貌ながら嫌みがなく、誰からも好感を持たれそうな印象がある。見る人の心に深々とした感動を残すような代表作こそまだないように思われるけれど、いくつか見た出演作では、さまざまな役柄をこなす器用さと巧みさを持っていると感じた。麻生久美子に惹かれて見ていた「時効警察」(テレビ朝日系)でも、コミカルな役をうまく演じていたと思う。また放映中の某カード会社のCMもおもしろい。

そのオダギリが柴咲コウと共演する「メゾン・ド・ヒミコ」をようやく観ることができた。公開時に劇場で観たいと思っていたのだが、東京に移った直後のことでその機会を逃してしまっていた。犬童一心監督の「金髪の草原」や「ジョゼと虎と魚たち」で感じられた、街や人そのものを絡め取ったような空気感が好ましくて、しかも脚本は「ジョゼと虎と魚たち」に続いて渡辺あやが担当している。俳優以前に物語そのもの映画そのものに大いに関心があったのだった。

正直に言えば、柴咲コウは好きな俳優ではない。しかし、この映画ではずいぶんその印象が改められた。失踪していた父の恋人(オダギリ)が突然現れ、その父(田中泯)が経営するゲイ専門の老人ホームを手伝わないかという。父の存在を否定していたのにも関わらず、やがて父の考えていたことを理解し、そこに集う人々に心を開いていく。そういう静かだけれど確実に流れていく感情をするりと表現している。上手いと思った。そしてオダギリの存在感も確固たるものとしてそこにあった。物語自体はややドタバタ劇的なところもありはするものの、犬童一流の静謐な世界観は損なわれることなく健在である。

「人を信じられるのはいいなぁ」などと似合わないことを考えながら、しみじみと目頭を熱くしていたのであった。音楽は細野晴臣。決して派手ではなく、物語にぴたりと寄り添うかのようなさざめく音の流れが心地好かった。さて同じ犬童監督の「タッチ」(長澤まさみ主演)はどうなんだろうか。

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2006.04.07

さよならみどりちゃん

浦沢直樹の「PLUTO」第3巻(小学館)を読み、その勢いで普段は買わない「ビッグコミックオリジナル」を新幹線の車中の友として購った。ちょうど「PLUTO」が掲載された号であったからだ。手塚治虫の原作「地上最大のロボット」と比べると、まだまだ中盤に差し掛かったあたりという感じであるが、現代の世界情勢およびそこから導かれるであろう近未来をうまく漫画に取り込み、さらには社会批評の精神をも盛り込んで、ずしりとした重みを感じさせる。荒唐無稽でありながら良質のリアリズムに貫かれたこの作品が、どのように原作と折り合いをつけ美しい着地を見せてくれるのか。「あの結末」までまだまだ楽しませてもらえそうである。

さて「PLUTO」目当てで買った「ビッグコミックオリジナル」には、西岸良平の「三丁目の夕日」も掲載されていた。昨年、CGを駆使し実写映画化された漫画である。これが実につまらない。単に昭和30年代の生活をカタログ的に登場させるだけで、何の工夫もないのだ。そもそも一編の物語として構築する意欲や想像力が作者にあるのかどうかすらあやしい。この生温い漫画を原作とした映画「ALWAYS 三丁目の夕日」について、井筒和幸監督が「綺麗な夕日を見せるだけで『あの頃はよかった』などといってる場合か。それで日本の過去を語ったつもりになるな」という趣旨の発言をしていたが、まったく同感である。「東京がわかる300冊! 散歩の達人MOOK」(交通新聞社、2006年1月)誌上での生粋の東京人による対談の中でも、「非東京生活者による空想の東京」の胡散臭さと馬鹿らしさを指摘していたことも思い起こされる。6月にはDVDとなって発売されるらしいが、それ以上のことは「見てから」言うことにする。

前置きが長くなった。映画「さよならみどりちゃん」は南Q太の同名漫画を原作とする(やっとつながった)。監督は「ロボコン」の古厩智之。彼女のいる男を好きになったOLのやるせない片思いを描く。古厩監督は「IQの低い男女の恋愛」をイメージして映像化したらしいが、それはひとまず成功していると思った。しかし、映画そのもののIQも低く見えるのはいかがなものか。主人公のユウコの心理をじっくりと掘り下げるようなところがないため、表面的なドタバタ劇に終始しているように見えるのである。「ラブコメだから」と言ってしまえばそれまでか。主演の星野真里の存在感はなかなかのものであった。彼女の濡れ場シーンには、きっと公開時に「体当たりの演技」などというキャッチフレーズが踊ったのだろうな。西島秀俊、松尾敏伸、岩佐真悠子らも持ち味をよく発揮していた。

悪くはないけれど、志の高さのようなものはない映画だった。長澤まさみを初主演に抜擢した「ロボコン」の方が、娯楽作品としてよくできていたと思う。

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2006.03.31

かもめ食堂

かもめ食堂フィンランド。

私の中にあるこの国のイメージは、モータースポーツとムーミンがほぼすべてであった。学校の地理の授業でも、北欧諸国のスターはフィヨルドのノルウェーと福祉のスウェーデンであり、フィンランドはレゴブロックを持つデンマークより圧倒的に存在感は薄かった。たまたま私はF1やラリーが好きだったため、フィンランドという国に近しい感情を持っていたが、それとて極めて偏った理解でしかなく(ニッポン=フジヤマ・ゲイシャ・ハラキリ並!)、それ以外は平和でシュールなムーミン的世界があるのだろうというひどい偏見に満ちたものであった。サンタクロースも脳天気感抜群だし。なおフィンランドを代表する作曲家シベリウスは、来年没後50周年を迎える。かの地を思い起こさせるような内省的な曲調を愛する人は多い。

近年、インテリア関連でフィンランドを含む北欧がちょっとしたブームとなっていること「だけ」は知っていた。むろん関心などなかった。ところが、ひょんなことからあれこれと情報を仕入れているうちにすっかり魅せられてしまった。虚栄虚飾を捨て去ったシンプルで柔らかなデザインと素材感は、とても好ましいもののように思えたのである。ヤコブセン・アアルト・ウェグナー・ユール・ヘニングセン・パントンなどの作品、製品をため息をつきながら眺めるようになると、もう末期的症状だと言えるだろう。気がつけばダイニングにセブンチェアやアントチェアが居並び、マリメッコのウニッコが窓にぶらさがり、レ・クリントやポール・ヘニングセンの照明が揺れていたりするのだ(妄想大爆発)。スワン・チェア、どこかに落ちていないかしら。

閑話休題。

かもめ食堂」は北欧気分を満喫できる、とても気持ちのよい映画である。群ようこの原作も風通しのよいものであるが、映画は小説以上にフィンランドそのものを体感させてくれる。よけいなことは語らず、空気感そのものを映像として定着したような趣である。監督の荻上直子はシチュエーション・コメディーの傑作「やっぱり猫が好き」(フジテレビ系)の脚本を担当しているが、その経験がうまく活かされていると思った。主演の小林聡美、さらに片桐はいりともたいまさこが、会話と立ち居振る舞いで自在に場面を構築していく。それはもう見事としかいいようがない。アキ・カウリスマキ監督「過去のない男」の主演マリック・ペルトラも味わい深い役で登場し喜ばせてくれる。物語がどうのこうのというような映画ではない。ただそこにある時間と空間と人を味わい、くさくさした気分を晴らすのが、この映画の正しい鑑賞法だと信じる。北欧インテリア、ファッションとおいしそうな料理の数々にクラクラすること、間違いなし。あなたは「ガッチャマン」の主題歌をきちんと歌えますか? コピ・ルアック!

109シネマズみなとみらい横浜で鑑賞。

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2006.03.09

NANA

simsons大谷健太郎監督もすっかりメジャーの仲間入りか。それはそれで喜ばしいことかもしれないけれど、人気と引き替えに本来の持ち味がすっかり薄まってしまったように見える。「avec mon mari」や「とらばいゆ」で見せた畳みかける会話の妙はどこにいってしまったのだろうか。前作の「約三十の嘘」でも、大谷映画の身の丈に合わないような豪華キャスト(椎名桔平、中谷美紀、妻夫木聡、八嶋智人、田辺誠一ら)に不安を覚えたが、果たせるかな、ただ順番に見せ場を出し合うようなまとまりのない作品になってしまっていた。そして今回は総売上三千万部超を誇る大人気コミックを原作とする。ますます工夫のしようがないではないか。

面倒だから映画の紹介文をDVDのパッケージから引っ張ってくる。

不幸な生い立ちながら、クールでカリスマ性のある、パンクバンドのボーカリスト・ナナと、平凡だが明るい家庭に育ち、恋が最優先の今どきのキュートなオンナのコ・奈々。夢を歌うナナに、夢に恋する奈々。一見正反対に見える二人の恋と友情、夢と現実を描いた青春ストーリー!!

これ以上でもこれ以下でもない。矢沢あいの原作を忠実に梗概化した映画としかいいようがない。もっとも私は原作への思い入れがない分、主人公の二人を演じた中島美嘉と宮崎あおいの「なりきりっぷり」には大いに感心させられた。また二つのバンドのために用意された劇中の曲(「Glamorous Sky」「Endless Story」)は展開にぴたりと寄り添い、流れてくるだけで煽られているような気分になるのもさすがである。でもそこまでなのだ。映画鑑賞後に原作を読む機会を得たが、結局「漫画のキャラを上手にコスプレして演じた映画」以上のものにはなりえていないと思った。大資本に屈したとは考えたくないが、ついに大谷監督の持ち味は完全に消失した。

二人の少女は、困難な局面では互いに相手を励まし勇気づけ、やがて相応の明るい未来を掴み取る。どうやら原作ではこのあとは一筋縄ではいかないような展開となるようだが、ひとまず映画では大団円でエンディングとなる。続編のことまで考えていなかったための処置であろう。観客動員の好調だったことを受けて、すでに続編が来夏公開されることが決定しているという。また原作のあらすじを辿るだけのコスプレ映画を作るつもりだろうか。

「NANA」公式サイト http://www.nana-movie.com/

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2006.02.26

運命じゃない人

simsonsどこにでも「いい人」というのはいるもので、世界各地の「いい人」はたいてい「人がよく」て、「悪い人」や「普通の人」にうまく利用されることが多い。本人に「いい人」であるとか「人がいい」とかの自覚があるかどうかはこの際問題ではない。そういう枠組み、役割分担のようなものが厳としてとして存在する、そう思うのである。

絵に描いたような「いい人」である宮田武(中村靖日)は、人からの頼みごとは断ることができず、どんなに騙されても疑うことを知らない。その宮田が親友である神田(山中聡)の関わる事件に巻き込まれ、そこにかつてふられた彼女(板谷由夏)やその夜知り合った謎の女性(霧島れいか)などが絡んできて、事態はどんどん複雑なことになっていくのであった。さて宮田の運命やいかに……。

映画は一晩の間の出来事を描く。それぞれの人物から事態がどう見えているのかを示すために、時間軸を行きつ戻りつしながら同じ場面が何度もトレースされる。ある人物からは見えない事態(=真実)が、別の人物からははっきりと見えるおもしろさがある。観客は神の視点からすべての作中人物にとっての現実を眺め、それを脳内で取りまとめていく。公式サイトにある「まるでパズルのピースがどんどんはまっていくようなカタルシスをもたらす」というのは、いいえて妙である。一つずつ謎が解けていく気持ちよさがなんともよい。

単なるドタバタ劇に終わっていないのは、緩いと見せかけ、その実、緻密に構成された物語になっているからであろう。思わず知らず引き込まれた。監督はこれが劇場用長編デビュー作となる内田けんじである。

公式サイト http://www.pia.co.jp/pff/unmei/

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2006.02.22

シムソンズ

simsonsトリノの騒動も残すところあとわずかとなってきた。選手一人一人の、あの場所に立つまでの人生(賭けたもの、得たもの、捨てたもの)を思うと、どんな結果であってもいいじゃないかと思う。商業主義とか政治的な胡散臭さとか、ひとまずおくことにして。

大会が始まる前から一部のメダル候補、花形選手に注目が集まる中、競技が始まってからがぜん注目を集めたものがある(そう見えた)。カーリングである。やみくもな身体能力やとんでもないと思わされるような高度な技とは無縁そうなのどかな競技(思い切り偏見入ってます)。隣近所のおばさんやお姉さんが「ちょっとね」という感じでやっているように見えるのが実にほほえましい。試合開始前の「○○さん、見てる〜」なんて笑いながら手を振る姿など、まさに普段着スポーツそのものだ。実際にはセンチ単位でストーンをコントロールする繊細な技術や長時間氷上で戦い抜くだけの体力、気力がなければならず、厳しい訓練があってこそのものであるのは承知しているつもりである。しかし、試合をする日本代表の姿を見ていると、よくことばとして発せられる「競技を楽しみたい」を誰よりも体現していると思われるのである。だからこそ見ていて清々しさを感じることができるのだろう。

「シムソンズ」はトリノの代表選手である小野寺・林の両選手がかつて結成していた実在のチームをモデルにして制作された。シムソンズのオリジナルメンバーは揃って前回のソルトレークシティー大会の日本代表として出場したが、映画ではチーム結成から五輪の舞台に立つところまでを描く。物語の結構は「がんばっていきまっしょい」「ウォーターボーイズ」「スウィングガールズ」といった一連のアルタミラピクチャーズ作品群と同じ系譜に連なる。すなわち主人公達がなんとなく始めたまたは嫌々やらされているうちに、いつのまにかそれに夢中になり、ある時点から完全に本気モードになってしまうというものである。北海道常呂町(ホタテとタマネギとカーリングの町!)の美しい風景を舞台にして、若い女優達(加藤ローザ・藤井美菜・高浜真唯・星井七瀬)はカーリングに深く填り込んでいくメンバーを元気いっぱい好演している。くたびれた親父コーチ兼ホタテ漁師を演じる大泉洋もいい味を出していた。

最初にメダルなんてて書いたものの、小野寺、林選手たちには取らせてあげたかったなと身勝手に思ったりもする。ワーナーマイカルシネマズ茨木で鑑賞。

公式サイト http://www.sim-sons.com
成果メダル以上(asahi.com) http://www2.asahi.com/torino2006/news/TKY200602210462.html
日本カーリング協会 http://www.curling.or.jp/index.html
JOCアスリート紹介 http://www.joc.or.jp/stories/athletemessage/20050127athletemessage.html

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2006.02.11

戦国自衛隊1549

「戦国自衛隊」というタイトルからは、ただちに半村良の小説とそれをもとにした同名の角川映画(1979年)が思い出されるが、2005年に公開された本作は「ローレライ」「亡国のイージス」と同じく福井晴敏の小説を原作とする。

この映画の場合、タイトルが内容のほぼすべてを物語っている。おのずと定まる焦点は外しようがないのだ。すなわち、最新鋭の装備を持つ自衛隊が戦国大名や武将たちとどのように戦うのか、そして現代と過去の往還にいかに説得力をもたせるのかという二点に尽きるであろう。織田信長は実は過去にタイムスリップした元自衛官であったという「意外なおまけ」もついてはいるが、基本的にはこの二点のドラマ化が中心に据えられることになる。タイムスリップについての劇中の解説はひとまず騙されておこうかという程度の代物であるが、500年を隔てた新旧軍隊の戦いは見事な特撮と相まって見応えがあった。

その一方、人間の関わるドラマとしてはどうであろうか。こちらは特撮ほどにはうまくまとまっていないように思える。先にタイムスリップした的場(鹿賀丈史)がなにゆえ世界を破滅に導くような歴史の書き換えをしようとするのか、また的場らの歴史への介入を阻止すべく過去に乗り込む鹿島(江口洋介)が、なぜ命を賭してまで現代社会を守ろうとするのか、彼らの抱えているはずの動機や野望、正義といった部分がうまく伝わってこない憾みが残る。世界の破滅をめぐってせめぎ合う両者であるからこそ、その対立の図式を明確にしないと物語そのものの輪郭が曖昧なものになってしまう。

小難しいことを抜きにして、ただ活劇を楽しむのだというのなら、それもよいだろう。私ならば、人間ドラマと特撮アクションの両立という点で「亡国のイージス」に軍配を揚げたい。かつて見たはずの1979年版「戦国自衛隊」はどうだったのだろう(ほとんど忘れている……)。

「戦国自衛隊1549」公式サイト http://www.sengoku1549.com/pc/

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2006.02.05

ウィスキー

日本では写真に写るとき「チーズ」と言ってにこりと笑う。「1足す1は?」「2(にぃ)!」とか。この映画のタイトルの「ウィスキー」もそういうかけ声の一つで、長くのばす「い」の音が口元を笑っているかのように見せるのであった。あたかもそれは  たとえ心がどういう状態であっても  幸せを写真に焼き付ける魔法の呪文のようである。

うら寂れた靴下工場で働く女性マルタは、経営者のハコボと仕事以外では会話をすることがない。ある日、ブラジルへ出国していたハコボの弟エルマンが帰国することになり、その間だけ夫婦のフリをしてほしいと頼まれる。ハコボの願いを聞き入れたマルタは男二人とともにぎこちない生活をし、やがて三人で旅行にまで出かけることになる。観光地での記念撮影で三人は「ウィスキー」と唱え、幸せそうな笑顔を浮かべる。その彼らの笑顔の裏側で何かが変わり始めていた……。

物語に登場するのはほぼ三人だけ、しかも彼らは寡黙で派手な立ち居振る舞いもない。劇的な事件も起こらない。ところが、ほんとうにささやかな感情の揺らめきや気持ちの移ろいが、さりげない仕草や表情からまっすぐこちらに伝わってくるのだ。けれんみのない演技には凄みすら感じられる。ここにあるのは良質のペーソスである。ウルグアイの乾いた色合いがなんとも美しい。

公式サイトによれば「南米の小国ウルグアイ。映画誕生以来、60本の映画しか作られていない国から、世界中を虜にする傑作が誕生!」とある。傑作とまで言い切れるかどうかは定かではないが、じわりと胸に染み込み確実な重みを残す映画であることは確かであろう。余韻と哀感に満ちたラストシーンが味わい深い。

「ウィスキー」公式サイト http://www.bitters.co.jp/whisky/kaisetu.html

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2006.02.01

ベルリン、僕らの革命

若者の独りよがりの考えと行動やいかに。青春の暴走とはそういうものか。

「ベルリン、僕らの革命」(ハンス・ワインガルトナー監督)は東西ドイツ統一後の混乱に満ちた社会を舞台に、恋愛、友情などにもがきながら体制批判活動をする若者達をクローズアップする群像劇である。同じく統一後のある家族の悲喜劇を描いた「グッバイ・レーニン」(ウォルフガング・ベッカー監督)がただちに思い起こされるが、どちらもダニエル・ブリュールが主人公を好演する。

貧富の多大な格差が社会問題となっている統一ドイツにおいて、新体制に疑問を持ち、日々活動に勤しむ三人の若者がいた。ある時、富豪の屋敷での「活動」を目撃され、成り行きからその家の主人を誘拐することになってしまう。ところが、その主人というのはかつて革命運動でならした猛者であった。富豪は彼らの姿に自らの過去を重ね、また若者らは富豪の話から自分たちの生きる道を思う。彼らは不条理な現実にどう折り合いをつけて生きていこうとするのか。

「ベルリン、僕らの革命」も「グッバイ・レーニン」と同様に、救いがたいほどの深刻な社会状況やそこに住む彼ら自身をコミカルかつ軽妙に描こうとする。社会問題を糾弾するとか、主義主張、思想を前面に押し出すことはせず、あくまでも世界中のどこにでもある(はずの)若者たちの青春そのものをテーマにしている。そこに革命の心と青春を捨て去った者が関わることで、双方が自らを振り返るきっかけを得る。悪者はどこにもいないし、皆がそれぞれ成長を遂げ解決策を見出すという、いわば一種のファンタジーとしてこれを捉えることができるだろう。パッケージとしてとてもまとまりのよい映画だと感じた。

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2006.01.24

キング・コング(1933)

キングコング戦前の映画でも最近はDVDになっていて、簡単に手に入れることができる。しかも極めて廉価なシリーズとして発売されており、好きなものにはありがたいことである。何年か前に「最後の大物」というふれ込みでDVD化されたオードリー・ヘップバーンの「ローマの休日」ですら、今や1000円ほどで買えるようになっている。どうやら著作権・版権切れのものは正規ルート以外からも販売できるとおぼしい(日本語コーパスとして貴重な存在である「青空文庫」が、死後50年経った作家の作品をどんどん電子化して無料公開していることが思い起こされる。閑話休題)。

現在ロードショー公開中の「キング・コング」は、1933年に製作された古典的怪獣映画「キング・コング」のリメイクである。「ロード・オブ・ザ・リング」のピーター・ジャクソンが監督を務める。特撮もドラマ部分も評判がよいようで、オリジナルに忠実かつ心憎いほどのオマージュを捧げるこの作品は、キワモノ的存在でありながらそれなりのヒットを飛ばしているらしい。もっとも「ロード・オブ・ザ・リング」すら見ていない私には、188分の長尺はちょっと耐えられそうにないけれど。

そのオリジナル版を500円で買ってきて見た。南洋の孤島で捕獲され、ニューヨークで見せ物にされるコング。逃走の果てのエンパイヤステートビル頂上での壮絶な飛行機との戦いと転落死という哀話は、誰もがよく知るところであろう。人間のエゴや文明批判を透かし見せるこの映画は、基本的に1933年というコンテクストの中に置いてこそ最大の輝きを放つものである。しかし、エンパイヤをアメリカの象徴と捉え、コングをイラクや北朝鮮、テロ組織と読み替えることで、この映画の批評精神だけは70年の時を超え今なお色褪せていないことを知る。特撮の稚拙さや現代では許されそうもない差別的表現その他もありはするが、映画そのものの存在価値に比すれば些少なことである。

なお余談ながら、新参者ゴジラが先駆者キングコングの胸を借りる形で制作された「キングコング対ゴジラ」(1962年)は、同シリーズでも高い人気を誇っている。私もコングはこの映画で知り(後年の東宝チャンピオン祭りにて)、それ以外では見たことがなかった。けだし怪獣プロレスの醍醐味を味わわせてくれる傑作であろう。それもこれもオリジナル版「キングコング」の威光の賜物である。

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2006.01.21

時効警察に萌える!?

時効警察めったにテレビに出ない麻生久美子が連続ドラマに出るということで楽しみにしていた。が、いきなり第1回目を見逃し、少々鬱になっていた。

時効警察は時効になった事件を趣味で捜査するというコメディタッチの刑事ドラマである。ろくに情報も仕入れずに、今日の2回目を見たところ、これは出演者がすごい! 「テレビの人たち」でお手軽にまとめておらず、映画や舞台をメインにしている役者で固めているではないか。オダギリジョー、ふせえり、光石研、豊原功補、江口のりこ、緋田康人、そして麻生久美子。ゲストも豪華で、第2回目には片桐はいりに池脇千鶴、田中要次、さらに佐藤蛾次郎に岡本信人まで。麻生久美子と池脇千鶴という実力派俳優のツーショットなんて映画でもめったに見られない。

監督は三木聡、脚本は岩松了(ドラマにも主人公の上司役として登場する)、園子温、ケラリーノ・サンドロビッチ(!!)、塚本連平。これまた曲者揃いですごいぞ。

上手い俳優がテンポよくドラマを進めていく(俳優や脚本、演出の癖が強く、おもしろいかどうかの評価はかなり分かれそう)。なぜゴールデンタイムに放映しないのだろうか。テレビ的には地味なのか。長くやってほしい気もするが、10回くらいでスパッとやめるのもレア度が高くていいかも。

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2006.01.18

THE有頂天ホテル

いつか読書する日いくつものドラマ、人間模様が並行して進み、やがてそれらは有機的に絡み合いながら一つにまとまっていく。個々のドラマが魅力的で、それもこれも折り紙付きの実力を持つ主役級の俳優が居並んでいるからだろうが(名ばかりのオールキャストものが多い中、この映画のオールキャストにはきちんとドラマがある)、一つ間違えばバラバラに分解してしまいそうな物語を違和感なくまとめ上げる三谷幸喜の筆力と構成力に感服するのが、まずは真っ当な見方であろう。今作は久々に脚本、監督ともに担当する。

1932年公開のアメリカ映画「グランド・ホテル」に範を垂れ、さらにタイトルには、これも古い名画である「有頂天時代」から一部を借りているという。物語の舞台は大晦日の超高級ホテルである。三谷は「ずっと靴を履いていてもおかしくない」場所としてホテルを選んだという。多くの日本人にとって非日常的空間(非現実ともいいえる)であるホテル、そこで繰り広げられる日常生活(生々しい現実)を引きずったドラマ。このコントラストの妙がなんともおかしい。三谷お得意の限られた時間、空間での人間模様が秀逸である。迫りくる刻限とその場から逃れられない状況が、作中人物をますます追い込みうろたえさせる。見所多し。

あらすじは書きようがないので公式サイトでご確認を。http://www.uchoten.com/

観客は演劇的な舞台回しを楽しみながら、この放埒極まりないように見える物語の落とし所を求めてわくわくすることになる。見終えた後に何か深いものが残るとか、人生をじっくり考えるとか、そういうことはおそらくない。しかし、多くの人と一緒に「わはは」「くすくす」と笑える時空間に居合わせるというのも時には大切である。エンドロール後の観客のほんわかとした笑顔が印象的だった。もちろん私も。

三谷のこれまでの映画は、舞台が先行してあり、後にそれを映画化していた。次は「THE有頂天ホテル」の舞台版を見てみたいものだ。なおドタバタ喜劇が好みでない方には薦められない。平日昼間にもかかわらず、それなりの観客で賑わうワーナーマイカルシネマズ新百合ヶ丘で鑑賞。

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2006.01.14

いつか読書する日

いつか読書する日たぶん人生の折り返し点をとうに過ぎたのだろうなどと思うと、なんとなく寂しくなるからあまり考えないようにしているけれど、これが五〇歳になったら間違いなく生きた時間より残りの時間の方が短いと自覚せざるをえない。自分がその年齢に達したとき、いったい何を思い出し、何を考えて行動するのだろうか。今のところ、毎日を生きるのに精一杯なのだが。

坂道の街で幼い頃から生活を続けている大場美奈子(田中裕子)は今年で五〇歳になる。今も独身で、牛乳配達とスーパーのレジで生計を立てている。美奈子は高校時代に付き合っていた、同じ街で市役所に勤める高梨槐多(岸辺一徳)への思いを今なお胸の内に秘めていた。槐多もまた死に至る病に伏せる妻容子(仁科亜季子)に付き添う傍らで、美奈子への思いを忘れることはない。そんな二人の思いに気付いた容子は、ある願いを美奈子に託す。

純愛映画ではあるが、一直線に突っ走る若者や道ならぬ恋に燃える中高年が主人公でないので、とにかく渋くて品がよく、静かで苦い。現実に組み伏せられた「常識の人々」の秘めた思いが、いかなる形で生き続けているのか。かつて淡い恋を経験した誰しもが、画面の物語をわがこととして読み替えることができるであろう。派手なところのまったくない映画だが、それこそが人生であるといわんばかりの強い説得力を感じた。『独立少年合唱団』(これもよかった)の緒方明監督作品。第七藝術劇場(復活めでたし)で鑑賞。

公式サイト http://www.eiga-dokusho.com/

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2006.01.03

理由

理由宮部みゆきの原作をそのまま映像に載せたらこうなるだろうというものだった。

※推理ミステリーゆえ、原作を未読または映画を観ていない方は以下の記述にご注意を。

同名の小説は2002年の夏に読んだ。高層マンションで起きた不可解な殺人事件をめぐる物語である。ユニークなのは事件関係者へのワイドショー的インタビューを積み上げることで一つの長大な物語をなしていることだろう。もっとも読み進めている時はその世界にはまりこんでいたものの、読後にそれほどの充実感はなかった。あれだけ長く物語を引っ張った割には、真犯人の描き方や犯行の動機などが若干弱いように感じたからであった。また事件解決後に関係者にインタビューをするというこの作品のスタイルそのものが、逆に犯人が誰かを教えることになってしまっていることも結果的に興をそぐことになった。なぜならインタビューに直接出てこられない人物が事件と関係しているのが隠し絵のように浮き上がってしまうからである。

さて大林宣彦監督の映画は2時間40分の長尺である。ここでも小説同様おびただしい証言が繰り広げられる。劇中人物の視点はまっすぐカメラに向かっており、あたかもインタビュアを目の前にして語っているかのようである。いや、実際そういう設定なのだろう。あまりにも多くの人物が登場するため、いちいち字幕が入る。彼らの立場と証言をきちんと追いかけないと、まったく物語についていけなくなる点は、この映画の評価を分けるところかもしれない。第三者的な視点(神の視点)から事件をドラマ化するのではない珍しい手法がそこにはある。朝日文庫版の解説を担当する重松清が指摘した通り、複数の人物が一つの事件をそれぞれの立場から語る様子は、芥川龍之介の「藪の中」を思い起こさせる。まさに人の数だけ「理由」があるのだ。

小説でも焦点となっている「家族」が、映画ではより大きくクローズアップされている。家族をめぐる悲喜交々の情景。三世代の大家族の中で育つ少女が事件と関わりを持って流す涙は、見るものにそれぞれの家族のことを思い起こさせるに違いない。

大林監督縁の俳優が総出演している。意外なところに意外な人が登場する。そんな楽しみもある。それにしてもエンディング曲の歌詞がいつまでも耳に残って怖いよ……。

映画「理由」公式サイト http://www.wowow.co.jp/stock/riyuu/

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2005.12.30

亡国のイージス

日本の海上自衛隊の護衛艦がイージスと呼ばれていることくらいは知っていた。しかし、その由来はといえば、お恥ずかしいことにきちんとした知識がなかった。公式サイトによれば、

「イージス」とはギリシャ神話に登場する最高神ゼウスが娘アテナに与えた、あらゆる邪悪を払う「無敵の盾」のこと。

とあり、劇中でもそのことについては触れられる。専守防衛を旨とする日本の自衛隊を象徴するかのようなものであろう。ところが、専守防衛は専守防衛であって、それが働くことを許されないような先制攻撃を受けた場合、文字通り手も足も出ないことになってしまう。加えて「未曾有の経済的発展を享受しながら、理想も持たず、国家としての責任能力も自覚せぬまま世界進出を遂げた日本。バブル崩壊が経済を袋小路へと迷い込ませたとき、そこに我々が誇るべきものは何ひとつとして残らなかった(公式サイトの解説)」日本という国の「何」を守るためにそれはあるのかという問題にも直面する。この映画はこうした大いなる矛盾と自己欺瞞に満ちた日本と自衛隊のありようを、娯楽作品として見せる。

海上自衛隊のイージス艦いそかぜが亡国工作員(中井貴一)と副艦長(寺尾聡)により乗っ取られる。艦のミサイルには特殊化学兵器が装備され、すべての照準は東京都心に設定されている。最新の防衛システムを持つイージス艦には政府も自衛隊もなす術がない。その時、先任伍長の千石(真田広之)が艦を取り戻すべくたった一人で行動を開始した……。

「どついたるねん」「KT」「顔」など、人間臭い重厚な物語を得意とする阪本順治監督らしい一作であろう。原作は福井晴敏の同名小説である。アクション、特撮、ドラマ。どれも破綻することなく手堅くまとめられていると思う。主役の真田広之の活躍はもとより、敵役の中井貴一と寺尾聡の狡猾さと憎々しさが印象的だった。なお本作は2006年朝日ベストテン映画祭日本映画(注)の部第6位になっている。

公式サイト http://aegis.goo.ne.jp/index.html
公式ブログ http://blog.goo.ne.jp/aegis_staff/
福井晴敏公式サイト http://www.fukuiharutoshi.jp/

注:2006年朝日ベストテン映画祭日本映画
第1位 パッチギ! 第2位 メゾン・ド・ヒミコ 第3位 リンダリンダリンダ
第4位 カナリア 第5位 いつか読書する日 第6位 亡国のイージス
第7位 ニワトリはハダシだ 第8位 理由 第9位 空中庭園 第10位 運命じゃない人

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2005.12.28

レイクサイドマーダーケース

レイクサイドマーダーケース薬師丸ひろ子を見ると、昔々の「セーラー服と機関銃」や「Wの悲劇」を思い出す。特に後者は傷心なこと(色っぽい話ではない)があった直後の気晴らしに観たので、今でも強く印象に残っている。「顔、ぶたないで! 私、女優なんだから!」 嗚呼、懐かしい。

おどろおどろしい殺人ミステリーものかと思いきや、意外にも娯楽作品に徹していた。「中学お受験」のための湖畔合宿に集まった三組の親子と塾の講師。そこで起こった殺人事件。東野圭吾の同名小説を原作とするが、脚本はずいぶん違ったものになっているらしい。

並木(役所広司)は娘の受験に疑問を抱きながらも、妻の美菜子(薬師丸ひろ子)や娘たちのために、津久見(豊川悦司)が主催する受験対策合宿に参加する。そこに愛人の英里子が突然現れた。並木は英里子と別のホテルで会う約束をするが、結局会えないまま別荘に戻る。すると、そこには英里子の死体があった。聞けば美菜子が殺したという。警察に知らせようとする並木を押しとどめ、暗黙裏に事件を処理しようとする親たち。事件の発覚が受験に悪影響を及ぼすと考えた彼らは、人気(ひとけ)のない湖に英里子を沈めようと画策するのだった……。

役所広司、薬師丸ひろ子をはじめとして柄本明、豊川悦司らの主役クラスの俳優が居並び、さらに鶴見辰吾、杉田かおる、黒田福美、眞野裕子などの個性派がきちんと脇を固める。やや拙速な展開かと思わされる場面もあるにしろ、湖畔の別荘という「密室」での殺人事件の謎解きの妙味はそれなりに味わえる。もっともミステリーとしての緊迫感や先を知りたくなるような渇望感はさほどでもない。上手な役者の演技を感心しながら見ているうちに、最後まで辿り着いてしまったという印象が残った。おそらく俳優陣の力が脚本を凌駕してしまっているのだろう。巧みな会話、演技の積み重ねによる事件の説得力は、彼らの力量あってのものだといえる。ラストシーンは噴飯もの。いらないと思う。

やたら豪華で上手すぎる「2時間ミステリーテレビドラマ」といえばよいだろうか。

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2005.12.23

カナリア

1995年は阪神淡路大震災とオウム真理教による一連の事件のあった年として記憶されている。とはいえ、当時関西在住であった私には、前者が圧倒的な実体験として脳裏に刻み込まれている一方、後者はメディアの中のものでしかない。

塩田明彦監督の「カナリア」はオウム真理教をモデルにしたニルヴァーナという教団が舞台となる。母と息子、娘の三人が揃って出家をする。母は教団の中で重要な役目を果たすべく、子供たちと別れて暮らすことになった。やがて世間を揺るがす大事件が起こる。教団に強制捜査のメスが入り、子供たちは施設に引き取られる。しかし、祖父は反抗的な兄を残して妹だけを連れ帰っていった。兄は妹を取り返すために施設を抜け出し、偶然出会った少女とともに妹の住む東京を目指す……。

主人公の光一(石田法嗣)と由希(谷村美月)の織りなすロードムービーである。カルト教団で洗脳された12歳の少年と、援助交際一歩手前の行為を繰り返す少女が、反目したり共感し合ったりしながら、かけがえのない「戦友」として絆を深めていく過程が印象的である。無慈悲な社会に翻弄されつつ、その社会と徹底的に戦おうとする子供たちの姿に、日々の生活に疲弊しきった大人は何を見るべきだろうか。塩田監督の前作「黄泉がえり」(竹内結子主演)ではなく、その前の「害虫」(宮崎あおい主演)に連なる重いテーマを持つ作品だといえる。

明るい希望の見えないエンディングだが、後味は悪くない。

「カナリア」公式サイト http://www.shirous.com/canary/

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2005.12.16

アイランド

アイランドユアン・マクレガーは「スターウォーズ・エピソード3」の来日キャンペーンをキャンセルした。それで何をしていたかといえば、別の主演映画のプロモーション活動に忙しかったという。その映画が「アイランド」(マイケル・ベイ監督)である。

2019年。リンカーン(ユアン・マクレガー)は汚染された外界から救い出され、今は完璧に管理されたコミュニティで暮らしている。単調な日々の楽しみといえば、ジョーダン(スカーレット・ヨハンソン)との密やかな会話だけである。ここの人々は地上で唯一汚染されていない楽園「アイランド」へ移住することを夢見ている。しかし、リンカーンはこの都市の真実を知ってしまう。生き延びるためにはこの「安全な都市」から「危険な外界」へ逃げ出すしかない。二人の脱出劇の成否は、そしてコミュニティの人々の運命は……。

いわゆる暗い未来を描くもので、ジョージ・オーウェルの『1984』を引き合いに出すまでもなく、今となってはこの種のものは枚挙に暇はない。人間のスペアを培養して云々という話にしても、マイケル・マーシャル・スミスの『スペアーズ』(ソニーマガジンズ、1997年11月)を即座に思い起こさせるし、何より「パーツ用飼育物」が逃げ出すという物語は『スペアーズ』の前半そのものではないのか! 見終えた後、思わず原作を確認したが、どうもそうではないらしい。『スペアーズ』の映画化権はドリームワークスが持っているはずだから、こうして公開されたということは問題がないからなのであろう。

スカーレット・ヨハンソン目当てでレンタルしてきたのだが、監督はあの「アルマゲドン」「パールハーバー」の人だったことに後から気付いた(むむ)。それなりの謎解きとそれなりのアクションで、とりあえず最後まで退屈せずに観ることはできる。扱っているテーマは人間のクローン問題というきわどいものであるが、重い問題提起などはいっさいなく、極めてシンプルな娯楽映画に仕立て上げられている。ベイにかかれば、隕石激突も真珠湾攻撃もクローンもみな単なる娯楽ネタでしかないということか。男前と美人が揃ってドラマを演じれば、それだけで盛り上がるのだなと、あらためてしみじみ思った、そんな映画だった。ユアン・マクレガーが「スターウォーズ」を放り出してプロモーションするほどのものかどうかはよくわからないけど。

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2005.12.12

真夜中の弥次さん喜多さん

伊勢といえば、大阪の小学生の修学旅行の定番だった(今はどうやら違うらしい)。伊勢神宮に行くことにどのような教育的意図があったのか知る由もないが、宗教施設としてみた場合、どう考えても問題が多そうなので、きっと日本の歴史や文化に触れるという名目でやっていたのだろう。江戸時代は信仰のための旅が盛んで、中でも伊勢参りは別格の存在であった(単なる観光目的の旅も増えていたらしいが)。強い信仰心に支えられたお参りならともかく、無目的に訪れる場所としてはいかがなものか。旅行の詳細はすでに忘却の彼方に消え去ったが、子供心に伊勢神宮や夫婦岩などちっともおもしろくないと思っていたことだけは確かである。

そんな伊勢参りをする有名人といえば、ご存じ十返舎一九「東海道中膝栗毛」の弥次さんと喜多さんである。映画「真夜中の弥次さん喜多さん」は、しりあがり寿の同名漫画を原作とし、脚本家、俳優として活躍する宮藤官九郎の初監督作品である。脚本も宮藤が担当する。

同性愛者の二人、弥次さん(長瀬智也)と喜多さん(中村七之助)が江戸での生活に疲れ果て、そこから逃げ出すかのようにお伊勢参りに旅立つ。その道中で起こる騒動を描く。笑の宿・喜の宿・歌の宿・王の宿と題された4編はあたかも連続テレビドラマのような構成に見える。時代考証などはどこ吹く風で、荒唐無稽を形象化したものとしかいいようがない。その部分を楽しめるか否かで、この作品の評価は大きく分かれると思われる。漫画の実写版と割り切り、「学芸会」のような乗りと勢いに巻き込まれながら観るのがよいか。思いがけない豪華キャストの出演は楽しみの一つであろう。個人的には麻生久美子の美しい「きのこ人」が観られただけで(以下自粛)。

伊勢か。15年前にドライブがてら行ったきりである。今なら伊勢うどんを食べるだけで幸せになれるな。あとは松阪で本居宣長の史跡巡りと松阪牛堪能。俗まみれなことである。

「真夜中の弥次さん喜多さん」公式サイト http://yajikita.com/

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2005.12.04

バットマン・ビギンズ

「バットマン・フォーエバー」以来、8年ぶりのバットマン映画である。脳天気なスーパーマンよりダークなバットマン派の私としては、劇場でぜひとも観たいと思っていたものの、「スターウォーズ・エピソード3」公開に心を奪われている間に、気がついたら終わってしまっていた。

時系列から行くと以前の4作の前に戻ることになるのだが、物語としては直接つながるものではない。たとえば主人公ブルースの両親の命を奪ったのは、旧シリーズではジョーカーであったのが、今作では貧しい強盗になっている。そしてその事件こそがブルースのバットマン変身への大きな原動力になっている。つまりはいっさいが仕切り直しの新シリーズなのである。とはいえ、どこまでもダークな色調は旧シリーズに通底するもので、「ビギンズ」をそこにつなげるのは不自然な作業とはならない。旧シリーズとて配役や細かな設定は動いたわけだから、要は観客の解釈次第であるといえよう。

世界平和のために悪を殲滅しようとする独善的狂信的な集団がバットマンの前に立ちはだかる。彼らは悪の巣窟となったゴッサムシティを殲滅すべく、恐るべき計画を実行しようとする。しかもこの集団はかつてブルースを鍛え上げた集団でもあるのだ。ゴッサムシティの壊滅まで残された時間はわずか……。

マイケル・ケイン、モーガン・フリーマン、リーアム・ニーソンらの豪華な脇役に交じって、渡辺謙も大いにその存在感を主張していた。バットマン=ブルース・ウェインを演じるクリスチャン・ベールはもとより、彼らの堅実で重厚な演技が物語全体を引き締め、揺るぎないリアリティをもたらしていた。寄り道や脇道が多く、ドラマが本格的に動き出すまでの関係性をつかむのが少々面倒だが、一度転がりだした後の展開とスピード感は申し分ない。恐怖に駆られた人々が互いに疑心暗鬼となり殺人ゲームを開始するという物語に、昨今の世界の状況を思い浮かべるのは容易であろう。

ティム・バートン監督の1作目2作目ほどではないにせよ、ジム・キャリーやシュワルツェネッガーが敵役として登場した作品群よりは、ずっと好ましい出来になっていると思う。シビれた。

公式サイト http://wwws.warnerbros.co.jp/movies/batmanbegins/

余談:リーアム・ニーソンの殺陣シーンでは、ついクワイ・ガン・シンのそれを思い出してしまった。

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2005.11.25

ハサミ男

ハサミ男・麻生少女の喉にハサミを突き立てるという手口の連続殺人事件が起きる。犯人は父親の自死によって精神のバランスを欠くことになった若い娘(麻生久美子)と謎のパートナー(豊川悦司)の二人。マスコミは犯人に「ハサミ男」の名を与え、社会問題となる。ところが、同じ手口をまねた別の殺人事件が発生した。ただし「別人」の犯行であることを知るのは「真犯人」である彼ら二人だけ。真犯人による犯人捜しが始まった……。

殊能将之の小説「ハサミ男」(講談社)を原作とするミステリーである。血生臭い場面も多く、そういうものが苦手な私ではあるが、麻生久美子の出演作とあっては見ないわけにはいかない。「贅沢な骨」(行定勲監督)や「魔界転生」(平山秀幸監督)などで見せた麻生の陰鬱な凄みがよく発揮されていたと思う(自殺を試みるシーンの痛々しさ!)。さて物語は真犯人こそ明らかにされているものの、それ以外の多くの謎は手つかずのまま解明されるのを待っている。いや、真犯人の実体も謎のひとつであった。ただそれらの謎が次々に明かされても、予測可能な答えばかりで驚きがないのがどうにも。ミステリーとしての肝心な部分の底の浅さが惜しまれる。合間合間に入る警察側の描写が妙にコミカルなのも違和感を覚えた。

主演の二人の力に見合った脚本と演出がほしかった。麻生演ずる知夏に電気ポッドで殴り殺される若い男の顔が幸せそうに見えたのは気のせいか。主人公達の歪んだ精神を浄化するかのごとく喉に屹立する十字のハサミは印象深かった。池田敏春監督作品、他のはどうなのだろう。

「ハサミ男」公式サイト http://www.media-b.co.jp/hasami/top.html

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2005.11.22

変身

変身・蒼井優近頃、蒼井優はル・クルーゼで料理することに凝っているという。少し前までは「鯖の味噌煮」だったのが、今は「牛肉のワイン煮」である。おそるべし、フランス鍋! しかし、この重い鍋を使えばもっとおいしい料理が作れるのか、食べたことのないような逸品が作れるのかなどと、甚だしい勘違いをしながら物欲を刺激されている。もっとも鍋ひとつに二万も三万も出せるかという現実的な問題があるのだけれど。

その蒼井優の出演する新作映画「変身」を観た。「変身」は東野圭吾の同名小説を原作とする。ある事件に巻き込まれ頭部に銃撃を受けた青年(玉木宏)が、脳移植手術を受けることで奇跡的に一命をとりとめる。ところが、移植部分の影響によって日を追うごとに人格や行動が変わっていく。周囲の人々とトラブルを起こし、恋人(蒼井優)を愛する気持ちすら失ってしまう。自分自身が消え去る前に彼らに何ができるのだろうか。

「変身」公式サイト http://www.henshin.cc/main.html

すべてにわたって湿度の高すぎる演出が鼻についた。とりわけ劇中に流れる音楽がいただけない。悲しい場面でもの哀しい音楽、緊張感の高まる場面でおどろおどろしい音楽、楽しい場面で爽やかな音楽と、まったく何も考えていないような選曲である(音楽担当は崎谷健次郎)。高まる気持ちも一気に萎えた。主演の二人、「変身」していく青年を演じる玉木宏と、それを「変わらず」見守り続ける蒼井優の演技がよかっただけに惜しまれるところである。むしろ音楽など何もなくてもよかった。映画音楽の難しさを思う。なお脚本は細部の描写より展開重視のものである。よしあしは人によるだろう。

さて今年は出演作が目白押しだった蒼井優、あとは年末の「男たちの大和」を残すだけとなった。これは見に行くかなぁ? ワーナーマイカルシネマズ多摩センターで鑑賞。

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2005.11.14

イン・ザ・プール

小説と映画は別物とはいえ、これは原作の方がはるかに楽しめると思った。

奥田英朗の第127回直木賞候補作を原作とする。続編は第131回で同賞を受賞した。神経科医伊良部一郎(松尾スズキ)の無邪気で自由奔放な行動が、意外にも患者の病気を治癒に導くという結構である。強迫神経症(市川美和子)、陰茎強直症(オダギリジョー)、プール依存症(田辺誠一)といった患者達が登場する。

映画は原作の設定を一部変更している。それは映像化する(または娯楽作品として成立させる)ための方便として認められるだろう。しかし、伊良部一郎を演じる松尾スズキの演技が浮いて見えるのが、ことのほか辛かった。奇人変人ぶりをただ闇雲に強調しているようにしか見えないのだ。笑わせたい気持ちが空回りしているようであるし、そもそも原作の無邪気な伊良部と腹に一物ありそうな松尾とはキャラクターが相容れない。ひとりよがりなそれは、ひところの竹中直人の演技を見るかのようである。これは同じく松尾が主演した「恋の門」でも感じたことであった。

奥田の小説でもそうであるが、主人公は伊良部でありながら、実際には患者達の人となり、そして生活を描くことを旨としている。その患者を演じる市川美和子、オダギリジョー、田辺誠一の三人が、「ちょっとだけ心を病む人々」を好演していただけに、松尾「伊良部」のあり方がよけい惜しく思われる。狂言まわしなら狂言まわしなりの立ち居振る舞いというものがあるだろう。話自体はおもしろいのに。はからずも想像力にまかせるメディアとしての小説の力を再確認することになった。

監督と脚本は三木聡(「トリビアの泉」「ごっつええかんじ」などの構成作家)。そういえば今夏公開された「亀は意外と速く泳ぐ」も同監督の作品だった。あちらはテレビ的でもそれなりに楽しめた。

「イン・ザ・プール」公式サイト http://www.inthepool.jp/
奥田英朗直木賞関連 http://homepage1.nifty.com/naokiaward/jugun/jugun131OH.htm

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2005.11.02

ビートキッズ

少し前に高校生吹奏楽部の全国大会ドキュメンタリー番組を放送していた。多少の脚色はあるだろうけれど、基本的にはこういう「今しかできないこと」に打ち込む人々を見るのは好きで、涙腺を微妙に刺激されながら最後まで楽しんだ。

「ビートキッズ」は高校生の音楽をモチーフにした青春映画である。お約束の挫折と成功のスパイラル構造を持つもので、いつもの私なら無条件に飲み込まれてしまう結構である。でもこれはあまり楽しめなかった。ぎくしゃくした進行と「途中の過程はすべて省略、以上!」のごとき展開に、ちっとも血がたぎってこないのだ。こういう映画は過程を描いてナンボではないだろうか。星飛裕馬だって大リーグボールの特訓をしたではないか(古い)。ヒーローやヒロインはちゃんと辛い目にあってもらわないと。

また舞台が大阪ということもあり、その面でも大いに期待していたのに、この地である必然性があまりにも希薄で、それはそのまま失望感に転化していった。岸和田・大阪城公園・舞洲・阪堺電車・淀川工業高校吹奏楽部・太田房江(おいおい)……。大阪を感じさせるものが次々と登場するのに、これほど大阪を感じさせない映画も珍しい。主人公たちも大阪と兵庫出身の面々であるのにもかかわらず、変な関西弁(非関西人が話す関西弁)になってしまっている。なぜ? あとは物わかりのいい校長と陰湿陰険な中間管理職的教員というステレオタイプな造型も手垢にまみれすぎて見苦しい。

物語は前半の吹奏楽部編と後半のロックバンド編が完全に遊離してしまっている。展開に唐突の感が否めないのだ。二つの物語を橋渡しする重要な人物であるナナオ(相武紗季)を映画の後半から消してしまったことが、統一感を損なわせてしまうことになったと思われる。これならば、前半なら前半だけ、後半なら後半だけを丁寧に描いて見せた方がよほど説得力のあるものになったのではないか。特典映像の中に初日舞台挨拶の模様が収められており、そこで塩屋俊監督が「スウィングガールズには負けていません!」と叫んでいた。「いや、それはどうかな、監督」と画面に向かってつぶやきたくなった。

「ビートキッズ」公式サイト http://www.beatkids.com/
Hungry Days公式サイト http://www.toshiba-emi.co.jp/hungrydays/
相武紗季の出演するパイロットCM http://www.pilot.co.jp/tvcm/index.html

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2005.10.26

せかいのおわり

風間志織監督の「せかいのおわり」で初めての東京ミニシアター体験となった。お昼過ぎからの「5時間歌舞伎鑑賞耐久レース@国立劇場」を乗り越え、渋谷に着いたのが6時過ぎ。とりあえずチケットを確保しなければとシネ・アミューズに急ぐ。

初渋谷。

人多すぎ。街の流れを感じることができず(たんに知らないだけ)、迷いそうになる。なんとか東急百貨店を探し当てて、道を挟んで向かいにある目的地に到着した。東急では大大阪博覧会なるイベントが開催中で、そこには通天閣のビリケンが史上初めて出張中であった。こんなところで巡り会うなんて奇遇である(入場していないけど)。ともあれ開場45分前に手に入れた整理券番号は1番だった。

盆栽ショップの店長である三沢(長塚圭史)とそこで働く慎之介(渋川清彦)。その店に慎之介の幼なじみであるはる子(中村麻美)が彼氏と別れて転がり込んできた。奇妙な共同生活を始めることになった三人。慎之介ははる子が気になりながらもナンパを繰り返し、はる子ははる子で慎之介の思いを玩ぶかのように知らないふりをしている。三沢はそんな二人を見守りながら、慎之介に愛情を抱いている。彼ら三人の感情と生活の行方はいかに……。

男から女へ、女から男へ、そして男から男へ。愛情のベクトルは向き合わず、つねにそれは一方通行のものとして立ち現れる。「冬の河童」や「火星のカノン」と同じように、「せかいのおわり」でも複数の男女の少しもの哀しくて、見ようによっては喜劇的でもある感情のすれ違いが展開されている。しかしながら、そのすれ違いは決して不毛ではないと映画は語っているようだ。微妙にずれる人間関係は、あたかも螺旋階段を昇っていくかのように進行する。そしていつも同じ風景しか見えないと思っていても、実は一段の高みへと確実に歩を進めている。その妙味。深刻さと緩さの匙加減がほどよい。

世界の終わりの喩としての「落とし穴」は、確かに閉塞感や絶望感に包まれてはいるものの、落ちたものは皆等しく光の来る方向の見つめるという、決定的に希望に満ちあふれた場所でもあった。だからこそラストシーンにおいて、落とし穴という「せかいのおわり」で同じ空を見つめるはる子と慎之介の視線に、少し幸せなものを感じて救われる思いがするのだろう。私にとっての風間作品のベスト。

全編がデジタルビデオカメラによる撮影。シネ・アミューズのような劇場で観る限り、画質がどうこういうものはなかった。パンフレットには資金難をぼやく文章(いや、達観か)も綴られていたが、私は次の風間作品も心待ちにしている。

せかいのおわり 公式サイト

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2005.10.13

恋は五・七・五!

長澤まさみの映画主演第一作は文系根性映画「ロボコン」(2003年)であった。実際に開催されている「ロボットコンテスト」を題材にして映画化したものである。まさに青春映画の王道を行く佳作であったが、いかにも低予算でB級邦画な雰囲気が濃厚だった。飛ぶ鳥を落とす勢いの長澤もまだまだ地味に見えるところが今となっては懐かしい。モスラの小美人をしていた少女がロボコン熱血女子高生や薄命の美少女(「世界の中心で愛を叫ぶ」)を経て、今や浅倉南(「タッチ」)なのだ。人生ゲームだと大富豪への道になるのだろうか。

「ロボコン」と同じく高校生の文系根性映画「恋は五・七・五!」は、馬鹿馬鹿しくもおもしろかった「バーバー吉野」の荻上直子監督の作品である。毎夏愛媛県松山市で開催されている「全国高校生俳句甲子園大会」を題材にしている。大阪の地元の高校がこの大会の常連校で、市内ケーブルテレビは大会の前後によく特集番組を組んでいた。これがなかなかおもしろい。詠まれる句のすばらしさもさることながら、それぞれの句を巡ってのディベートがとても熱いのだ。

総じてこの映画は「俳句甲子園」大会のエッセンスを上手く掬い取り映像化していると思う。さらりとしたタッチのユーモラスな場面や昔懐かしいちょっとエッチなシーンなどが軽やかなリズムを形成する。漢字の書けない帰国子女の治子(関めぐみ)が、平易でありながらうまく感情をまとめ上げる句「南風わたしはわたしらしく跳ぶ」を詠み、「風雪に耐えたる春の城址かな」という相手方の重厚な句を打ち破るクライマックスなどは、現実の俳諧の世界における伝統と革新の鬩ぎ合いを見るかのようである。治子に思いを寄せる写真部のつっちー(細山田隆人)の句「印画紙に写せぬ君の笑い声」も青臭いところがいいなぁ。

  「俳句はポップなんだから!」(by治子)

然り。同系統の文系青春映画「スウィング・ガールズ」の完成度には及ばないけれど、先の「ロボコン」には十分太刀打ちできるものだろう。関めぐみが長澤まさみほどブレークするかどうかは今後の展開次第か。

補足
最近刊行された枡野浩一ドラえもん短歌がなんだかおもしろいなと思った。
  失恋をグウで殴ってもう決めた私今日からジャイアンになる
  自転車で君を家まで送ってたどこでもドアがなくてよかった
ちょっと自分でも作ってみたくなる。ミーハー?

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2005.10.03

サマー・タイムマシン・ブルース

ドラえもんの道具ならタイムマシンよりどこでもドアがほしい。

時間を行き来するより空間を行き来する方が人生をより豊かにしてくれそうだからという物言いは気取りすぎかもしれないが、やはり人生は一回的に生きるものではないかと思うからである。もちろん本人の意志や努力とは無関係に悲劇的状況におかれた人々が世界中に存在しているのも確かなことであって、タイムマシン不要とは一概には決めつけられないことも承知している。あくまでも個人的感想ということで。

「サマー・タイムマシン・ブルース」は、とある地方大学のSF研究会の面々が壊れたエアコン用リモコンを奪ってくるために時間を行き来するという、一発芸もしくは身内受けネタのような映画である。もともとは京都の小劇団「ヨーロッパ企画」の演目であったのを、「踊る大捜査線」の本広克之監督が映画化した。映画自体はそれなりにおもしろいところもあるのだが、劇団に所属している俳優たちの見せる大仰な芝居臭さが鼻につき、その点がなんともあざとくて冷めた気分になった。演出の時点で何とかならなかったのだろうか。「それをおもしろいと思っているのは、あなたたちだけではないの?」というものがあまりにも多すぎるように思われた。せっかくの上野樹里や真木よう子がちっとも生きていない。もったいない。

けだし、これは生の演劇で見る方が数段楽しいのではなかろうか。タイムマシンを観客の想像力で存在するものとして脳裏に思い描く。CGでそれらしく見せるよりその方がはるかにリアルに感じられると思う。タイムマシンが本当に必要なのはこの映画自体なのかもしれない。ワーナーマイカルシネマズ茨木で鑑賞(約1か月前に見たのに今の今まで記事に書かなかったのは……以下略、察してください)。

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2005.09.25

原理主義者の歓喜

がんばっていきまっしょいタイトルは重いが、内容は軽い。

映画「がんばっていきまっしょい」(磯村一路監督、田中麗奈主演)のDVDコレクターズエディションが発売された。本編公開から7年後のことである。99年には本編とメイキング、主題歌プロモーションビデオなどの特典が収められたものが発売になっており、その一枚にどれだけお世話になったことか(別に変な使い方はしていません、謎)。今度の新版は本編をHDハイエンドマスターから作り直し、さらに音声も5.1chサラウンドになっている。特典ディスクには当時の出演者3名(清水真実・千崎若菜・久積絵夢)による愛媛ロケ地巡りや磯村監督、田中麗奈らのインタビューも収める。旧版とダブるものがないところに制作者のこの作品への深い愛情を感じた。決して多くの数が捌けるとは思えないものに、わざわざ手間暇とお金をかけているのだから。

もちろん今になって大ヒットしたわけでもない映画のDVDが作り直されて出るというのは、先日終了したばかりの同名テレビドラマのおかげだというほかないが、かつてここで述べたように両者は名前だけが同じの似て非なる作品である。もとよりテレビ版は敷村良子の原作小説からも大きく逸脱した内容になっていて、友情・根性・愛情・恋愛などというわかりやすい要素を盛り込んだ典型的なテレビドラマであった。公式サイトやネットなどの評判を見ると感動や絶賛の声が渦巻いているようで、それはそれで喜ばしいことであるが、私などは「これで映画版が評価されるきっかけになるといいな」と他のことを考える始末で、なんだかそんな人たちに申し訳ない気がしないでもない。

あんな明るくて前向きかつ責任感があって大局的見地に立つ篠村悦子は悦子ではないと「がんばっていきまっしょい」原理主義者(=私)は違和感を感じた(違和感であって否定的に見ているわけではないことを念のために申し添える)。不機嫌で身勝手な思春期を生きる悦子。まわりに対してなんとなくおもしろくない気持を感じ、とげとげしく生きる悦子。自分のことだけで精一杯の悦子。そういったむしろネガティブに映りかねない「青臭いわがまま」「はじけない気分」を映画版は描こうとしていた。田中麗奈の不機嫌な眉と目はその具現化された象徴として重い存在感を見せていた。また他のメンバーも「私たちのキャプテン」などというわかりやすい持ち上げ方はせず、彼女たちなりの考えを持ちながら、思い思いに悦ネエとともにオールを握るのであった。

この映画にはパンフレットはない。それくらい公開時に観客動員が見込めなかったということであろう。その代わりに『伊予東高校女子ボート部漕艇日誌』(ワニブックス)というムック本が出版された。そこに寄せられた制作の周防正行のことばを引いておこう。

この映画には、観客をあからさまに引っかけてどこかへ運び去ってしまうような強力なフックはどこにもない。例えば『シコふんじゃった。』に見られるような弱いものが必死にがんばって強い者に勝つという古典的スポーツものの仕掛けはない。その代わり、アメリカ娯楽映画に慣らされてしまった人たちには気がつきようもない小さなフックがいたるところにあるのだ。小さなフックに引っかけられながら映画の流れに身をまかせていると、様々な思いが内からわき上がってくる、そういう映画なのである。

そういう映画なのである。

■6年前の青臭いもの
 1 がんばっていきまっしょい
 2 田中麗奈はアイドルか
 3 静謐
 4 振り返る悦ネエ
 5 悦子の背中
 6 ラスタホールで鑑賞
 7 佐佐木勝彦『花鳥風月紆余曲折』第1巻
 8 敷村良子『がんばっていきまっしょい』

「がんばっていきまっしょい」の本質は原作小説すら超えて映画版にこそあると考える者には、今回のコレクターズエディションは最良の一枚となった。消息がつかめなくなっていた三人(清水真実・千崎若菜・久積絵夢))の姿を見られたことが何よりか。「オールメン、ファイト!」と静かにつぶやいてみる。

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2005.09.11

容疑者 室井慎次

Matthew's Best Hit TV+」(テレビ朝日系)という深夜番組がある。かつては吉本新喜劇で活躍していた藤井隆が進行役を務めるバラエティーで、これから順調に人気が出れば、明石家さんまや笑福亭鶴瓶、ダウンタウンらの番組のような成功を収めるかもしれない。あくまでも思いつきで言ってますけど。映画「ロスト・イン・トランスレーション」に出演していたのは(マシュー役で)、どれくらいの人が知っているのだろうか。

この「Matthew's Best Hit TV+」に「なまり亭」というコーナーがある。地方出身のタレント二人が登場し、互いの方言と郷土料理を楽しむというものである。アドバイザーに金田一秀穂が座っていたりして、それなりに重みを出そうとしているが、NHK教育ではないので楽しけりゃオーケーというノリが全面に押し出される。それでいいと思う。

8月末の放送のゲストは柳葉敏郎と田中麗奈であった。秋田vs福岡。田中はめったにテレビに出ないが(柳葉はどうなんだ?)、出演する映画が公開される時期に集中的にテレビに登場する。これもその一環であろう。デビュー作「がんばっていきまっしょい」以来の御贔屓であるから楽しく見ることができた。意外だったのは親父ギャグ的ジョークを連発し、満面の笑みで話し続ける柳葉の姿である。「ああ、この人はこんな感じだったのか」と認識を新たにした。というのも、「踊る大捜査線」の室井慎次を演じる彼は決して笑ったりしないからである。

正義を貫き不器用に生きる男、室井慎次。「踊る大捜査線」では織田裕二演じる青島刑事とコンビを組み、事件とともに自ら属する警察組織とも戦い続ける。今作はその本編からのスピンオフ企画第2弾である。ユースケ・サンタマリアが主演した第1弾に比べると重厚な造りで、その違いは両作品の主役の個性の差からきているのは明白である。

捜査方法が違法だったとの容疑で逮捕される室井とその彼を支える弁護士小原久美子(田中麗奈)。柳葉は演じ慣れたキャラクターをすっかりわがものとしている。いや、血肉を分けたものとしてなりきっているといってもよいだろう。細かな仕草一つを取っても、無意味に動いていないと思わされた。片や田中の方は悪くはないが何か物足りない。地に足がついていないというか、微妙に役が似合わない。ファンゆえに代表作といえば「がんばっていきまっしょい」になってしまう状況にそろそろ終止符を打ってほしいと思うが、残念ながら篠村悦子役以上のものにはいまだに巡り会っていない(あれがよすぎたとも言える)。映画専門の俳優として貴重な存在なだけに、彼女でなければというものを確立してもらいたいと願う。

敵役(八嶋智人・佐野史郎ら)が漫画的で軽すぎるところは、フジテレビ的といえようか。娯楽映画としてはよい出来だと思う。柳葉と新宿北署刑事に扮する哀川翔が並ぶと、「ソイヤ!ソイヤ!ソレソレ」と踊り出しそうに見えて仕方がなかった。ああ、懐かしや一世風靡セピア……。ワーナーマイカルシネマズ茨木で鑑賞。

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2005.08.29

「ペ」と言ってもヨン様ではない

どこで知ったか、もう忘れてしまったけれど、あるライターが韓国の俳優ペ・ヨンジュンのことを「ペ」と書いたところ、一部の熱狂的なファンから烈火のごとき怒りを買ったらしい。話の流れや調子とも関わりがあるので一概には言えないが、新聞や雑誌において芸能人著名人を呼び捨てにするのは一般的ではないのか、ナベツネのことを「渡辺さん」なんて言いたくないなと、これはまったく関係のない話でした。

さて「ペ」と言えばヨン様以外にはまったく思いつかなかった。(他をまったく知らないだけ……)。少なくとも先だっての「リンダ リンダ リンダ」を見るまでは。でも今はヨンジュンではなくドゥナだ。「冬のソナタ」の大ファンのわが母上には「ごめんなさい」と言うしかない(頼むから冷蔵庫に写真を貼るのはやめてくれ)。最近「ペ(=ヨン様)」が髪型を変えたところ、「前の方がいい!」などという声が続出、大騒ぎになったとかで、あっという間に元に戻したというのも関係のない話でした。

閑話休題

■ほえる犬は噛まない
ペ・ドゥナの名を一躍世に知らしめた作品(らしい)。あるマンションで連続小犬失踪事件が発生する。事後処理をする事務職員ヒョンナム(ペ・ドゥナ)は、小さな正義感から自らの手で犯人をつかまえようと奔走するのだが……。犯人は最初に明らかにされているから、そこにどうやって至り着くか、その過程が見所である。胡散臭い人物や挙動不審な人々に囲まれて活躍する彼女の、コメディエンヌとしての才能を存分に楽しむことができた。ゆるゆるだらだらどたばたしても、決して品を失わないのがこの人のいいところだろう。韓国社会と犬の独特の関係は、ペットとしての犬しか知らない者には少々刺激が強いかも。原題は「フランダースの犬」。意味深だなぁ。映画の主題歌はもちろん「ラッタッタ〜、ラッタッタ〜」である。

公式サイト http://www.hoeruinu.com/

■子猫をお願い
DVDのパッケージ裏に記された蓮実重彦の評、「映画の歴史を揺るがせる希有の処女作である」とまで書く理由が奈辺にあるのか、ぜひ知りたいものである。疑っているわけではない。私自身もこの佳作のよさに感心したし、できれば多くの人に観てもらいたいと思っている。なんでも公開時は折からの韓流ブームとこの蓮実の煽動的言辞によって、ずいぶんと観客動員を延ばしたらしいのだ。すでにこの評を掲載した公式サイトはなくなっている。残念。

物語は仲良し5人組の女子高校生が卒業を期にそれぞれの道を歩き始め、それとともに永遠に続くかと思われた友情が徐々に崩壊していくさまを淡々と描く。美しいものだけを映しているのではないのに、美しいと感じる場面がとても多い。控えめな音楽もよし。人物造形がややパターン化されている嫌いはあるけれど、彼女らの立ち位置を暗示する服装や小物の使い方がよく練られている。たとえば彼女らの差異を無効化していた制服が高校卒業と同時に各自の私服になる。そこで露わになる5人の生活や趣味の違いが、そのままその後の友情の行方を示唆する。特に説明はされないが、見るだけで了解された。その種の道具の使い方がうまいと思う。とりわけ「繋がり」として象徴的に機能する猫と携帯電話は秀逸である。ペ・ドゥナは、唯一の求心点として立ち回るテヒのやるせなさを、彼女の行動の中に透かし見せた。

「アイドルではなく俳優として生きていくためには必要だから」と、本国では汚れ役なども積極的にこなしているという。次はどんな演技を見せてくれるのか、楽しみに待つことにしたい。

ペ・ドゥナ公式サイト http://www.doona.net/

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2005.08.19

ポケットモンスター ミュウと波導の勇者ルカリオ

夏休み恒例の劇場版ポケットモンスターも「ミュウツーの逆襲」(1998年)から数えて8作目となる。子供たちで賑わう映画館に今年も出かけてきた。映画好きではあるが、子供たちに囲まれて観る機会というのは「ポケモン」と「ドラえもん」くらいで、それもどうやら今年で終わりになりそうである。嬉しいような寂しいような……。歳を取るわけである。

「ドラえもん」映画は年々観客動員が落ちてきて、とうとう今年は公開されなかった。本編の声優も一新され、来年新たに仕切り直しとなる新作が公開されるという。一方の「ポケモン」も5年くらい前までの爆発的なブームはもはや過ぎ去り、誰もが観るようなものではなくなっているとおぼしい。性別を問わず受け入れられそうな「ドラえもん」はともかく、見る人を選ぶ「ポケモン」の方はこの先かなり厳しそうに思える。

最新作のテーマは「信頼」である。悪や敵のいない「それぞれが善」のストーリーには今を感じたが、対立がないため内省的で起伏が少なく爽快感に乏しい。子供たちはそれをどのように見ているのだろうか。

ポケモン映画公式サイト(音が出ます)

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2005.08.14

リンダ リンダ リンダ

ザ・ブルーハーツの曲にまつわる個人的な思い出などはないし、彼ら自身に思い入れや愛着もない。私にとっては、80年代後半から90年代前半までの「バンドブーム」という看板で一括りにされたミュージシャン、グループの一つでしかなかった。もちろん当時ヒットしていた曲のいくつかは知っている。なかでもこの映画のタイトルにもなっている「リンダ リンダ」は、印象的なさびの部分が強く記憶の中に刻み込まれている。そこだけだけど。あとは「トレイン トレイン」とか、「キスしてほしい」とか。

#バンドブームに関係するミュージシャンでは、先駆けとも言えるレベッカとブームの申し子(異論はあるかも)であったリンドバーグが好きだった。Nokko・ラブ、渡瀬マキ・ラブ。

「リンダ リンダ リンダ」公式サイト

文化祭前日にメンバーの怪我と喧嘩で空中分解してしまった女子高校生バンドの三人が、新たなボーカルを迎え入れ、わずか3日でステージにあがろうとにわか仕立ての新バンドをスタートさせる。彼女らが選んだのは、たまたま部室にあったカセットテープから流れてきたブルーハーツ。これならできると「リンダ リンダ」で盛り上がる。急遽キーボードからギターに転向した短気な恵(香椎由宇)、素敵なクラスメイトにうつつを抜かす響子(前田亜紀)、熱いのか熱くないのかよくわからない望(関根史織)、そしてなんとなくバンドに巻き込まれてしまった韓国からの留学生ソン(ペ・ドゥナ)。四人組のロックバンド「パーランマウム」は果たして無事にステージに立つことができるのか!?

「その時にやりたいことを全力でやる」という物語である。大切なのは「できること」ではなく「やりたいこと」である。しかも明日ではなく今日である。この刹那的な感情の高揚感は、まさに中学、高校あたりでしか体験できないものであろう。小学生だとちと早すぎるし、大学生になると、もう将来のことを考え始めて、どうにもいけない。そうした時間や気持ちのありようのことを「青春」と呼ぶのであれば、まさにこの映画は青春映画以外のなにものでもない。これまでにもこのエッセンスを詰め込んだ名作は多々あるが、この映画もそれらに肩を並べるであろう出来映えであると思う。

ラストにコンサートがあって必ず盛り上がるというお約束のエンディングは容易に予想される。したがってそこに至る過程をいかに見せるかという点が重要になる。こうした結構は昨年大ヒットした「スウィングガールズ」と同じものである。ただ「ウォーターボーイズ」で興行的にも大成功を収め、メジャーのなんたるかを知った矢口史靖監督が手がけた作品は、手際よく整理されあか抜けたものになっていた。それに対し、山下敦弘監督の「リンダ〜」は必ずしもテンポよく進んでは行かない。むしろバタ臭いといってよい。しかし、そこがなんともいえないリアル感を醸し出している。「スウィングガールズ」が一種のファンタジーとなっているのとは異なり、「リンダ リンダ リンダ」はある意味で劇中人物の成長を記録したドキュメンタリーになっているとも言える。それくらい味わいが異なる。

#それでも名の通った俳優が多数出演しているので、山下監督の作品にしてはずいぶんとメジャー感の漂う作品になった。これまで韓流には興味はなかったが、ペ・ドゥナはとてもいい。

「リンダ リンダ リンダ」は一義的には青春映画である。それに加えて、もう一つ言い添えておくべきことがある。ソンが「パーランマウム(青い心=ブルーハーツ)」のメンバーの似顔絵の落書きを日韓文化交流研究会の宣伝チラシの裏にすること、日本人男子生徒がソンに下手くそな韓国語で愛の告白をすること、4人のメンバーが日・韓・英の入り乱れた会話をすることなど、それらがこの映画でさりげなく主張される「裏テーマ」としてとても象徴的に見えた。某国某首相などよりよほどすばらしい交流と相互理解をしているといえよう。

感情に引っかかってくる細かなフックがたくさん用意された映画である。無人の体育館でソンのするメンバー紹介はすばらしかった。萌役、湯川潮音の天使の歌声も耳をそばだてて聴くべし。まだ書き足りぬ思いが残るがひとまずここまで。それにしても軽音楽部の顧問として出演する甲本雅裕の実兄がブルーハーツの甲本ヒロトだったとは! テアトル梅田で鑑賞。

#映画からの帰りに、ブルーハーツのCDと映画のサントラCDをレンタルしました。

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2005.08.06

亀は意外と速く泳ぐ

自分の立ち位置はよくわからないものである。ある人にとっての「普通」や「平凡」は、往々にして他者にとっての「特別」「非凡」であることも珍しくはない。この場合の「特別」「非凡」というのは、もちろんよい意味だけでなく「えっ、それはちょっと……」という方面も含む。優劣などという価値観を持ち出したいわけではない。かっこよさげな人たちが歌う気持ちの悪い「世界に一つだけのナントカ」じゃないけれど、それぞれに存在理由があるはずだから(なんか偽善ぽいな)。

家に自転車が7台(家族のも含めて)あるとか、カメラがあれこれ合わせて14台(家族のも含めて、しつこい、笑)あるとか、「世間にはもっとすごい人もいるから、きっとこれはたいしたことではない」などと思いたいがため、自分を正当化するため、そしてさらに数を増やすために、比較対象をあらぬ方向に求めたりするのだった。ああ。

平凡が視点を変えることによって突然平凡でなくなる。平凡な日々の生活の中にも、実は驚くべき不可思議な事象が満ちあふれている。「亀は意外と速く泳ぐ」はドラスティックとはいいがたいけれど、「市井の人の生活」という枠組みを微妙にパラダイム変換するおもしろさを見せてくれる。小ネタ的な出来事に気付くことが、どれほど生活に彩りを添えることになるのか。

平凡な主婦がちょっとしたきっかけから、ある日スパイ活動を始める。「カメハヤ」はこの設定をぽかーんと楽しむ映画である。

片倉スズメを演じる上野樹里は、この脱力感満点の主婦(そもそも主婦らしいシーンはないのだが)そのものである。そう見える。上野自身が演じた「スウィングガールズ」の鈴木友子が、そのまま主婦になったのかと思わされるほど、両者の間には連続するものが感じられた。計算してのことかどうかはわからないが、この緩さは上野樹里という俳優あってのものであろう。一方、スズメの幼なじみであるクジャク(蒼井優)は平凡からは遠い存在の女である。従来はクジャクのような「ドラマに溢れた非凡な人物」が主役として描かれたはずである。それがここでは平凡なスズメを相対化する人物として、やや戯画的なまでにデフォルメされた人物として登場する。まわりが激烈であるほど、中心の平凡さが際立つ。そこがおもしろい。

二人の若い俳優を取り巻くベテラン勢もそれぞれに持ち味を発揮して、この平凡な世界を愉快に盛り上げてくれる。物語は絵空事に近いけれど、暑い夏にはほどよい緩さであった。テアトル梅田で鑑賞。

「亀は意外と速く泳ぐ」公式サイト

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2005.07.30

星になった少年

This film is based on a true story.

映画が始まる前、スクリーンに文字が浮かんだ。

星になった少年」は1992年に二十歳で夭折した坂本哲夢の象使いとしての半生を描く。脚本は坂本の実母の回想記(『ちび象ランディと星になった少年』、『ゾウが泣いた日』)を原作とする。この種の物語はわかりやすい悲劇と感動を強調しすぎることがもっぱらで、見る側に想像する余地(楽しみと言い換えてもよい)を与えてくれない嫌いがある。これもまたゴールが定まっているジェットコースター・ムービーの一種といえよう。結末がハッピーエンドかどうかはこの際問題ではない。

それでも劇場に足を運んだのは、主人公を柳楽優弥が演じ、その恋人役として蒼井優が出演しているからに他ならない。柳楽にとっては、カンヌを驚かせた「誰も知らない」(是枝裕和監督)での鮮烈なデビューに続く第2作目である。いったいどういう演技をしているのかと興味は尽きないし、加えてその柳楽と共演する蒼井がどう演じているのか。将来を嘱望される二人の映画俳優の佇まいに関心の中心があった。

実在の人物の生活を描くのであるから、印象的なエピソードの積み重ねで物語は構築される。しかし、映画は出来事を時系列に沿って並べることに忙しく、構成とか細部の描き込みに物足りなさが残っているように思えた。特に哲夢の生き方の転機となったタイ留学のことは、もっと時間をかけられてもよいのではないか。ここが物語のクライマックスであるし、同時に悲劇への分水嶺でもある。哲夢の劇的なまでの精神的成長と若きゾウ使いの誕生に重心を置くことで、その後の早すぎる二十歳の死の哀感(もちろんドラマとして)は高まることになるだろう。この映画ではそのあたりのメリハリの付け方や物語の見せ方に一工夫する余地があるのではないか。

気になっていた柳楽と蒼井であるが、もう少し両人の個性を発揮できる脚本の映画が観たいと思った。二人とも悪くはないが、二人でなければならない必然性は感じられない。ワーナーマイカルシネマズ新百合ヶ丘で鑑賞。

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2005.07.14

父と暮せば

黒木和雄監督の戦争三部作完結編。

「父と暮せば」公式サイト

第一作「明日」は長崎を舞台とし、被爆前日の市井の人々の生活を捉える。第二作「美しき夏キリシマ」は黒木監督の体験談をベースに、終戦間近の宮崎の中学生を描いた。そしてこの第三作目は井上ひさしの小説を原作とし、原爆投下から三年後の広島での父娘の様子を見せようとする。

原爆から奇跡的に生き延びた美津江(宮沢りえ)は、今は図書館に勤めている。自分だけが生き残ったことを負い目に感じながら、その苦しみとともにひそやかに暮らしているのであった。その美津江の前に原爆のことを調査しているという木下(浅野忠信)が現れた。美津江は木下に惹かれながらも、自分は幸せになってはいけないのだと、ほのかな恋心を押さえつけようとする。そんな時、原爆で亡くなったはずの父、竹造(原田芳雄)の霊が現れた。竹造の企ては美津江の心を開くことができるのか。

「父と暮せば」はタイトルが示すとおり、全編ほぼ宮沢りえと原田芳雄の二人芝居の結構となっている。手練れの二人の芝居は実に安心して見ていられる。しかし、そこがこの映画の弱点に思われてならない。なんだか芝居が上手すぎて、かえって芝居臭いのである。思うにあまりにも上手すぎるために、演技そのものに感心してしまって、肝心の物語すら客観的に眺めてしまっているのかもしれない。

しかしながら、それが映画の価値を損なうということでは、もちろんない。原爆のもたらした悲惨さを、わかりやすい物理的被害(人的または物的)で提示するのではなく、個人の胸の内に秘めた思いや生き方というまさにリアルな感情の部分に投影する手法は、その静けさゆえにより深い印象を残す。美津江の感情の権化として現れる竹造は、つまりは父の姿を借りて顕現する彼女の本音そのものであるが、映画の結末にいたって、戦争によって人生を変えられてしまった多くの人々の心の声として響いてくるだろう。けだし名作といえよう。

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2005.07.10

新しい「がんばっていきまっしょい」

長く版元在庫切れになっていた敷村良子の『がんばっていきまっしょい』(マガジンハウス、1996年)が、フジテレビ系の同名ドラマの放送開始に合わせて幻冬舎から文庫となって発売された。松山市主催第4回坊ちゃん文学賞受賞作を手軽に読めるようになったことをまずは喜びたい。

しかし、この文庫版はオリジナルに大幅な加筆修正がなされている。文庫版あとがきには「こんなことを書いたのかと赤くなったり青くなったりしながら、私はめいっぱい赤字を入れた」とある。映画だけでなく、オリジナル小説も幾度となく読み返した者にとっては、にわかにどちらがよいとは言いがたい。いや、すっきりと整理した分、オリジナルの持つ青臭い勢いや淀みがなくなってしまったように思われるのだ。特に結末の悦ネエと関野ブーの関係の描き方は、断然オリジナルがよいと思うのだけれど。これではなんとも淡泊で盛り上がらないから、派手さやわかりやすい感動を嗜好するテレビでは変更するではないだろうか。

そのテレビ版。これまた映画版を深く愛する者には、何とも違和感の残る代物になっていた。もちろん同じでなければならない理由はどこにもない。ただ映画版で描こうとしていた「理由なき不機嫌な思春期」という要素(そこが最大の魅力だろう)がまったくなくなっており、単に「脳天気で無責任にポジティブな高校生の物語」というそこらへんにいくらでも転がっているようなドラマになっている。一言でいうなら、既視感を覚える安物臭い学園もの……。

鈴木杏の演じる篠村悦子は、田中麗奈のそれとは異なり、あまりにも「天然」で「朗らか」、そして「機嫌がよすぎる」。ものを考えている素振りがほとんど見えないから、人物が薄っぺらで奥行きがない。関野ブーもジャニーズ事務所所属の歌手が演じているが、これもカッコつけすぎでいけすかない。すべては脚本のなせる業だろうが、「何か違うよなぁ」と思いながら最後までその違和感を拭い去ることができなかった。さらに原作のモデル校(夏目漱石の赴任校、正岡子規、高浜虚子、大江健三郎や伊丹十三らの母校、愛媛屈指の進学校)にありえないであろうアナクロなヤンキー軍団や低レベルの付和雷同組の存在にも萎えてしまう。もちろん今後どのような展開になるのかは、見てみないとわからない。

一方、映画版へのオマージュはあちこちに散りばめてあり、その点はにんまりとさせられた。伝説のクルーの「集合写真」、試験に手も足も出ない「達磨落書き事件」、艇庫での「靴下汚れ」、箒を使っての「キャッチ&ロー」、そして「一艇ありて一人なし」の文言……。今のところはそのあたりの楽しみしかないというのは言い過ぎか。せっかくだからもうしばらくはつきあうことにするつもりである。なお9月21日には映画版のコレクターズ・エディションDVDが発売になるらしい。こちらには大いに期待する。

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2005.07.07

モーターサイクル・ダイアリーズ

さまざまな映画賞を獲得した世評の高い映画である。革命家チェ・ゲバラの若き日の南米旅行を描いている。思想的な部分の描写は最低限に抑え、南米から中米への若者の旅をロードムービーとして見せる。

チェ・ゲバラという固有名を意識してみた場合、物語の濃度はかなり薄いものに感じられる(念のために言い添えておくと、退屈なだけの南米観光映画でないことは確かである)。1万キロに及ぶ旅を2時間の枠に押し込めるわけだから、それも致し方ないとは思うが、これはゲバラの思想を産み育てたという重要な大冒険なのである。問題の根の深い部分に行く前にあっさりと次の土地へ移動するかのような印象を受けるのはいかがなものか。その淡泊さは好みの分かれるところであろう。

もちろん映画自体は若者の旅につきものの波瀾万丈のエピソードが盛り沢山で、飽きることがない。アンデスでの共産主義労働者との出会いや、アマゾン川の隔離医療施設での出来事などは、多くのことを考えさせられるだろう。それだけにこうしたとりわけ印象深いエピソードはもっと掘り下げて見せてほしかったと思うのである。こんなことを思わされるのも、結局は主人公が伝説的な存在であるゲバラゆえのことかもしれない。神秘的な存在の正体を知りたがるのはいけないことか……。

無垢な主人公が幾多の試練を乗り越えて成長するという冒険物の王道を行く佳作である。南米を感じさせる色がとても美しい。

公式サイト

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2005.07.01

インストール

綿谷りさは学業に専念しているのか、芥川賞受賞後に作品を発表していない。その姿勢をとやかくいうものではない。人それぞれにしたいことやしなければならないことがあるのだ。ただ出版社は「出せば売れるのに」と歯噛みをしているに違いない。

映画「インストール」は綿谷のデビュー作(文藝賞受賞作品)を原作とするものである。主演は上戸彩。私は彼女の演技に何も感じないのだが、テレビや映画にコンスタントに出演しているところを見ると、それなりに人気があるのだろう(「エースをねらえ!」(テレビ朝日系)は楽しく見ていた)。この作品でも日々の生活に飽き飽きしている女子高生を違和感なく見せている。一方、朝子(上戸)のパートナーとなる小学生かずよしは、神木隆之介が演じている。今の日本映画界で、こましゃくれた小学生をやらせたら、神木以上の子役はいないだろう。あまりの巧さが鼻につくほどである。子役時代の安達祐実みたい(違うか)。

原作は読んでいないので、あくまでも映画の脚本に対して感じたことを述べておく。立ちゆかなくなった状況に対して、やり直しを感じさせる「リセット」ではなく、何かを組み込むことで新しいエネルギーを得ようとする「インストール」であるのは、物語の内容を示唆するものとして象徴的に響く。普通の女子高生の生活を送ってきた朝子が、小学生から依頼された代理風俗嬢としてエロ・チャットの世界に没入するアルバイトは、確かに新しい活力を得るという行為となっており、「インストール」というタイトルのありようがうかがえる。もっともこの設定自体はきっと綿谷りさのものだろう。うまいのも当然か。

しかし、その「インストール」の果ての未知の世界の描写が退屈である。思わせぶりな絵が続くばかりで、物語がどこにも広がっていかないのだ。そして空疎な内容を埋めるために、上戸のモノローグが延々と続く。このモノローグはきっと小説でこそ生きているのではないかと、映画を観ながらそういうことを思っていた。正直に言って、これで90分はつらい。朗読劇として開き直れるほど上戸の独白に魅力がないのがどうにも惜しまれる。

キムタクのパソコンCMではないが、「ちっちゃいなぁ、オレ」とつぶやいているような「ちっちゃい映画」である。あまりお勧めしない:-P

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2005.06.26

スター・ウォーズ エピソード3 シスの復讐

目覚めよベイダーこれでいよいよ最後なのである。1977年のエピソード4から数えて28年目、ついにシリーズ完結作が公開される。いてもたってもいられない。迷わず先々行上映のチケットを手に入れた。この週末は東京で過ごすことにしていたため、新百合ヶ丘のワーナーマイカルシネマズで見ることにした(今回はネタバレなしでいきます)。

シリーズも6作となると、出来不出来はもちろんあるし、人によって好きだの嫌いだの好みも分かれるだろう。先日何かのニュースで見たアンケートでは、第2作の「帝国の逆襲(エピソード5)」が最も高い支持を得ていた。この第2作は「また来週お会いしましょう」みたいな造りが嫌らしく感じられるものの、スター・ウォーズ全体に関わるような謎が散りばめられており、娯楽作品としてみた場合、やはりよくできているといえる。私の好みは断然第1作(エピソード4)であるが、結局は相対的なものであって、シリーズの中でどうしようもないなと思うものはないのだった。

SW3パンフレットそして最後のスター・ウォーズである。もう見たいものはほぼすべて見せてくれる。全編暗いムードにどっぷりというのも、ダース・ベイダー誕生を彩るものとして、実に好ましく感じられた。「そんなはずでは?」と思う部分はもちろんあるが、ジグソーパズルの最後の一片がパチリとはまったという感があるのは確かである。クライマックスの大剣術大会の迫力と美しさは必見だ。「意外性がない」という悪評はきっとあるだろうが、それは問題にならない。今作は「そうなると思っていた」ということを、ルーカス自身の手で見せてほしいのだから。

ヘイデン・クリステンセン(アナキン・スカイウォーカー/ダース・ベイダー)に前作のような中途半端な演技をさせることなく、ひたすら暴れさせたのはよい演出だと思う。あの人は動いてこそ輝きを放つ。ユアン・マクレガー(オビ・ワン・ケノービ)は出演した3作の中で最もすばらしい存在感を見せているのではないか。しびれた。ナタリー・ポートマン(パドメ)は旧来の「耐えて待つ女性」として描かれているのは物足りないが、しかし、今作はあくまでもアナキンのダークサイドへの転落に巻き込まれる悲劇の女性としてのみ存在するのであるから、それも致し方なしか。

今後、「スター・ウォーズ」を新作映画として見ることがないと思うと、寂しさも一入である。ルーカスフィルムのロゴ、「A long time ago in a galaxy far, far away...」の前口上、そしてジョン・ウィリアムスの壮大なテーマ曲とともに流れ去る文字の河。痺れるような快感の余韻に浸りながら、今夜はエピソード3のサントラ盤(同梱DVDは大サービスの内容!)を楽しむことにする。

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2005.06.15

思い通りにならない結末

NHK名古屋放送局が制作した「七子と七生」の結末は、とてもテレビドラマのものとは思えない暗さであった。異母兄弟の七子と七生の父は早くに亡くなり、またそれぞれの母親も一人は病死、もう一人は傷害事件で拘置所に入っている。残された二人が協力して穏やかに生活していくのかと思いきや、これがそうはならずに哀しい幕切れとなる。文化庁芸術祭のテレビ部門優秀賞を受賞したらしいが、そういう優等生的な評価はともかく、なんとなくやり切れない気分があとに残る番組であった。もっとも私個人は七子役の蒼井優が魅力的だからいいのだけれどね。

そうした思ったような結末にならなくて、なんだかすっとしないという点では、「ターミナル」もまた同じである。やっぱり「みんなハッピーでイェ!」のスピルバーグ映画なら、主演の二人は結ばれてほしい。トム・ハンクス演じる主人公ナボルスキーの真の目的は父の積年の思いを果たすことであっても、それをさらに「感動的」にするためにアメリア(キャサリン・ゼタ・ジョーンズ)との恋愛が成就すればよかったのにと思うのは、きっと私のハリウッド映画に対する偏見のなせる業だろう(一応、自覚はあります)。結末に至るまでの人間ドラマは感情を揺さぶる仕掛けも多く、「これぞハリウッドの王道」のような展開だっただけになおさらそう感じる。

NHKものとハリウッドもの、最後はスカッと大団円で喜びたいのだった。以上、独断と偏見に満ち満ちた勝手な注文である。

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2005.06.04

ニライカナイからの手紙

パンフレット今年の出演作品
 鉄人28号(3月)
 ニライカナイからの手紙(6月)
 亀は意外と速く泳ぐ(7月)
 星になった少年(7月)
 変身(待機中)
 男たちの大和(12月)
初めての主演作品

竹富島の少女
父はいない
母は6歳の時にいなくなった
誕生日になると母から手紙が届く
14歳の手紙に20歳になったらすべてを明かすとあった
18歳で上京
写真を仕事にする
東京での一人暮らし
19歳の手紙に記された翌年の待ち合わせ場所

「おかあ、いま、どこにいる?」

20歳の誕生日に起きる出来事

ニライカナイ=海の向こうの楽園

主演、蒼井優
彼女の魅力がすべての映画


物語はひねりがないものの、涙腺を刺激すること甚だしい。年輪を重ねた結果、箸が転がっても「哀しく」なる人にはハンカチ必須な映画である。大阪・梅田ブルク7で鑑賞。

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2005.05.29

交渉人 真下正義

東京の映画館で観る初めての映画となった。「交渉人 真下正義」。「踊る大捜査線」シリーズが好きで、テレビドラマも映画版も一通り見てきた。諸般の事情(いかりや長介が亡くなった、織田裕二と柳葉敏郎の不仲など)で続編の制作は難しそうだという話をどこかで漏れ聞いた。単なる噂で終わってもらいたいが、こればかりはじっと待つしかない。そこにこの番外編の登場である。行かないと。

クリスマスイブで賑わう東京で、地下鉄の最新鋭実験車両クモが何者かに乗っ取られた。遠隔操作されるクモは自在に地下鉄の路線を自走し始める。それは200万人の乗客の命が危険にさらされることを意味する。犯人の目的も明らかにならないまま、事態は悪化の一途を辿る。はっきりしていることは一つ、犯人は交渉の窓口として警視庁初のネゴシエーター真下を指名してきたのであった……。

ユースケ・サンタマリアというタレントは良くも悪くもコミカルな路線で売り出していると思うけれど、このシリーズでの位置づけも大体そういうものであった。主役として活躍するこの番外編においてもそのあり方は変わることがない。緊迫した場面と彼の3枚目キャラがよいコントラストをなしている。ユースケの自分をよく知る安定した演技は、悲劇的な結末のない「踊る大捜査線」シリーズの性質と相まって、最後まで安心して見ていられた(その分、パニック映画としての側面はやや弱いか)。主役が主役らしく軸がしっかりしているため、物語の展開がぶれることなく、さらにまわりを固める俳優たちの個性も際立ってくる。木島刑事役の寺島進と地下鉄総合指令長役の國村隼が、優柔不断に見える真下との対比でことに印象的であった。

娯楽作品としてとてもよくできていると思う。脚本自体は都合よく話を進めるテレビドラマ的ではあるが、資金のかけ方が半端ではないため、どの部分を取っても安物臭さがない。「売れる」という最大の強みを存分に発揮しているといえよう。思うに、これはお祭り、イベントなのだ。夏に公開予定の「容疑者 室井慎次」も期待できる。ワーナーマイカルシネマズ新百合ヶ丘で鑑賞。

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2005.05.28

クローサー

パンフレットクローサー」とは実に象徴的なタイトルである。この映画に描かれるのは「より近くに」と願う男女の「さまざまな別れ」であり、いわばタイトルはアイロニカルに響くものであった。4人の男女(写真家・医師・小説家・ストリッパー)の織りなす愛憎劇は、英国の劇作家パトリック・マーバーの舞台が原作で、マーバー自身が映画用に脚本をリライトしている。監督は「卒業」で知られるマイク・ニコルズである。

小説家志望のダンはロンドンの街角で旅行中のアリスと出会い恋に落ちる。同棲を始めて1年後、ダンは写真家のアンナに心惹かれるようになる。しかし、アンナは医師ラリーと知り合いやがて結婚する。4人は真実と嘘と愛に翻弄されながら、逃れようのない人間関係の渦に巻き込まれていく……。

ジュリア・ロバーツ、ジュード・ロウ、ナタリー・ポートマン、クライブ・オーウェンという豪華なキャストを起用しながら、彼らの名前だけで売ろうとしない挑戦的な脚本と演出がよい。俳優たちもまた単なるスターの競演という安易さに満足することなく、劇中の人間として生々しいドラマを現出させている。甘いラブコメ調はここには存在せず、苦みのある恋愛の諸相(かくも残酷で辛いものか!)が丁寧に描かれているのであった。舞台劇が元になっていることをうかがわせる、4人の手練れの繰り広げるシリアスでウィットに富んだ会話の鬩ぎ合いこそが、この映画の最大の見所であろう。英語をまるごと理解できない自分の無能さを呪った(無念)。

主演の二人(ロバーツ、ロウ)より助演のポートマンとオーウェンが圧倒的にすばらしい。今年度のゴールデン・グローブ賞を揃って受賞しているとのこと。諾なるかな。劇中歌として流れるモーツァルトのオペラ「コシ・ファン・トゥッテ」(恋人の貞操を試そうとする物語)も、映画の内容と深く関わりながら、彼らの関係を見事に浮き彫りにしている。美しく巧みな選曲である。恋人たちの価値観は善悪や倫理とは無縁であり、ただ自分の感情に素直にあり続けようとするのみである。それが幸福なことなのか、不幸なことなのか、にわかには決しがたい。ワーナーマイカルシネマズ新百合ヶ丘で鑑賞。

余談:ナタリー・ポートマンの演ずるストリッパーの役名、アリスだよ……。「パシューン、パシューン」とハッセルブラッドのシャッター音を響かせるジュリア・ロバーツ。あの音にくらくらした。あとは巨大な水槽のロンドン水族館に行ってみたいと思わされた。

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2005.05.27

村の写真集

5月20日に東京都写真美術館に行った時に、そこのホールで「村の写真集」を公開しているのを知った。でももう公開終了である。タイトルと簡単な内容は東京に出てくる前につかんでいたのに、新生活の雑事に紛れているうちにすっかり忘れてしまっていた。ああ、見に行きたい。

東京では公開が終わるところ、幸いにも大阪ではまだやっていた。上京前の朝一番の回にでかけた。

 徳島県花谷村。まもなくダムの底に沈むことになる村に、古い写真店があった。店主の研一(藤竜也)は昔気質の職人で、妻を亡くした後は香夏(宮地真緒)と二人で静かに暮らしている。カメラマンを目指す長男の孝(海東健)は、研一に反発し東京へ飛び出し、長女の紀子(原田知世)もまた結婚を巡って家を出たまま、長く音沙汰がない。
 ある日、孝のもとに村役場の野原(甲本雅治)から連絡が入った。ダムの底に消えていく村のすべてを写真集として残したいという野原は、研一と孝に撮影を依頼してきたのだった。孝は研一とうち解けることのないまま、険しい山道をともに歩き、写真を撮り続けていく。やがて孝はその父の姿から何かに気づき始めていた……。

徳島の風景がことのほか美しい。この景色を見るだけでも映画の価値はあるのではないかと思ったほどである。昨年、一昨年と続けて撮影に使われた地(池田町・祖谷)を訪れていたこともあって、山の澄んだ空気や深い緑の鮮やかさ、柔らかく滑らかな水音などが蘇ってくるような思いがした。ストーリー自体は、昔気質な父と今時の若者である息子の対立から和解に至る道筋が外連みなく示されており、ために叙情に流れすぎという批判があるかもしれない。善人ばかりかと思わされる村人たちの温かさもしかり。ただこのわかりやすさは「ヒロインなにわボンバーズ」「ドッジGOGO」などを手がけた三原光尋監督の持ち味であろう。人情もの、ご当地ものとして、こういうのもありかと思う。

写真がテーマのこの映画、監修は徳島出身の写真家、立木義浩である。何にどう関わったのか、映画を観る限りではよくわからないのだが、「徳島出身でも三好和義ではないのね」とはいうまい。劇場内は徳島県人会と化していたけれど、やっぱり映画館で観るのはいい気分である。OS劇場CAPで鑑賞。

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2005.05.24

お父さんのバックドロップ

中島らもの同名小説を原作とする映画「お父さんのバックドロップ」を観た。原作の小説については、かつてこのブログで述べたことがある。収められている4つの短編はいずれも「ちょっと変わり者の父親がマジになって何かを解決する」というパターンを繰り返すばかりで、ありていにいえば面白味に欠ける小説だと思った。それを原作とするこの映画は果たしてどうなることか。残念ながら原作以上に語るべきもののない映画というのが正直な感想である。

小説とは異なる父子家庭という設定には含むところはない。小説は小説、映画には映画の世界があってよい。しかし、父子の強い情愛を軸としてお涙頂戴という、作り手側の安易な意図があからさまに透けて見えるのがいやらしい。展開として父子の不和から感動のエンディングというのも、なにを今さらという感じである。随所にちりばめられる幼なじみとのラブロマンスもありきたりだ。どこかで見たようなお約束の展開がこれでもかという形で繰り広げられる、なんとも陳腐で凡庸な90分であった(ひどい言いよう)。また小説では悪役プロレスラー一家の様子が子供(息子の友人)の目から相対化されるという新鮮さがあった。それが映画では第三者的な全知視点からの描写となり、ただでさえどこにでもあるような物語をより一層平凡なものにしてしまっていた。大阪を舞台としながら、俳優の下手な大阪弁がいっそう見る者の感情の温度を低くする。

そもそも「読むたびに涙する伝説の名作」などと自ら語られると、天の邪鬼ゆえに思い切り斜に構えてしまうのだ。原作文庫本の帯にある「読むたびに、観るたびに、涙が出る。」というキャッチコピーは、少なくとも私にとってはまったく説得力のない虚言であった。さらに鼻白むのが同じ帯に書かれた中島らもの映画に寄せた一言である。

この映画はプロレス界を背景にしているが、凡百の「格闘技映画」ではない。父と息子の繋がり、情愛を描いた感動の名作である。

違うと思う。

格闘技部分の映像も同時期に公開された田口トモロヲ主演の「マスク・ド・41」に遠く及ばないし、もちろんドラマを支える脚本自体の練られ具合も比ぶべくもない。「マスク・ド・41」がプロレスへの愛(オマージュやパロディ満載!)をひしひしと感じさせるのに対して、こちらはたまたまプロレスラーを役割として登場させてみたという程度の重みしか感じさせない。「おお!」と思わされたのが大日本プロレスの面々が登場したところくらいではなぁ。

なんてちっともほめたくならないのは、きっと私が中島らものことをなんとも思っていないからだろう。ちなみにこの映画の中にもちらりとご本人が登場しています。今となってはそれが貴重か。

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2005.05.13

清水真実の引退

清水真実という名前を見て、この人が誰かがわかる方はかなりの邦画好きであろう。映画やテレビの出演は数えるほどしかない。ちなみに出演した映画は以下のもの。

  1998 がんばっていきまっしょい
  1998 テツワン探偵ロボタック&カブタック 不思議の国の大冒険 (V)
  1999 流★星
  2000 ブギーポップは笑わない
  2001 忘れられぬ人々

主役はない。テレビでも脇役・端役ばかりのようである。写真集では、佐内正史が太宰治の『女学生』をモチーフにして撮影したものにモデルとして登場している。目立ったところはそれくらいである(これが目立っているかどうかはともかく)。

実は蒼井優(アリス!)のことを調べていて(何をしているという声が聞こえそうだ……)、同じ芸能事務所に所属していることに気がついた。蒼井は売り出し中とあって、たいそう大きな扱いをされている、その一方、以前は確かにあった清水の名前がどこにも見つけられない。どういうことかと思ってファンサイト「MAMI's@home」を探ってみたところ、なんと2004年春で活動休止(事実上の引退)したとあるではないか。

清水のことは磯村一路監督の「がんばっていきまっしょい」で知った。「なっちゃん」でお馴染みの田中麗奈がこの映画の主役としてデビューしている。作品の出来不出来という議論はひとまずおくことにして、好き嫌いという生理に訴えかけるレベルで見た時に、この映画は私が最も好きな邦画である。どれくらい好きかというと、推定で50回以上観てなおまったく飽きていない。それくらい好きである(30回目くらいまではきちんと勘定していたけれど、その後面倒になってうやむやになった)。この映画に対するあれやこれやは、ブログ以前に作っていた自転車サイトの独り言ページに何度も書いたので、ここでは繰り返さない。

清水は田中麗奈扮する主人公悦子のボート部の仲間として出演していた。役割はコックスである。コックスは4人の漕ぎ手のペースを調整する声掛けをするのであるが、清水の発する声は「がんばっていきまっしょい」の通奏底音、もっといえば主題として非常に重要な働きをしている。それほどの重みがある。清水の声はいつまでも耳に残り、彼女の存在感をいや増すことになった。しかし、清水が俳優として生き残るにはあまりにも毒がなさ過ぎた。今は芸能界を離れ、彼女なりの新しい人生を生きているのだと思う。彼女の幸せを「がんばっていきまっしょい」のファンとして祈りたい。

そんな折、飛び込んできたニュースがある。今夏からテレビドラマとして「がんばっていきまっしょい」が放映されるというではないか!

テレビ版がんばっていきまっしょい1
テレビ版がんばっていきまっしょい2

映画で田中の演じた主人公は、なんと鈴木杏(花!)が演じるという。「花とアリス」のコンビがこんなところで関係するなんて。奇遇としかいいようがない。

付言:長らく絶版になっていた敷村良子の原作が6月に幻冬舎から文庫本として発売されるとのこと。坊ちゃん文学賞受賞作品である。

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2005.05.07

またの日の知華

優れたドキュメンタリー映画を撮ることで知られている原一男監督が、初めて一般劇映画を撮影した。1970年代を舞台にした「またの日の知華」がそれである。

「ドキュメンタリーは虚構である」との原監督自身のことばは、つまり現実とは私たちが都合よく解釈した要素だけで再構築されて成立していることを示唆している。描かれたものが事実であっても、描かれざるものが排除された時点で、総体としてそれは虚構となる。原監督のことばの真意は那辺にあるのか、寡聞にして知らない。しかし、事実のどの側面を見せるかによって、現実世界の相貌は文字通り百面相の趣を呈するであろうことは、誰しも疑いえないことである。

谷口知華という女性の生を描く本作品の最大の特徴は、このヒロインを四人の俳優(吉本多香美・渡辺真紀子・金久美子・桃井かおり)に演じさせたことにあるだろう。知華と四人の男性との愛を描くことから、それぞれの男から見た知華(イコール現実、事実)は当然異なった存在としてあるはずだという原監督の考えに基づく。その試みは大胆で演出方法としての説得力もあるとは思うが、しかし、これが本作品にとって有効な方法で、うまく機能しているかと問われると、強い疑問を感じるといわざるをえない。

一つの連続した物語に見えないのだ。

作品世界の中心にあるべき知華の立ち位置や印象が一点に定まらないため、一話完結で理解をしてしまいそうになる。どうにも30分ごとに襲い来るリセット感を払いのけることができなかった。この不統一さはオムニバス映画のそれに極めて近いとさえ思う。しかも個々のエピソードが昼メロ風で俗っぽい。単調かつ浅薄な性格は寄せ集め感をよりいっそう強調する。四話とも知華が男性と絡み、思いがけなく人生の暗所へ落ち込んでいくさまが描かれる。相互のつながりは希薄かつ唐突である。ここには深化はなく変化だけがある。むろんこの不統一さは四人の俳優の個性の賜物と読み替えることも可能だが、たとえ好意的にそう解釈したとしても、一人の女性の描写としてのまとまりを欠くとの批判からは逃れられないだろう。この演出が大多数の人間は等価交換可能な匿名的存在でしかないというブラックユーモアだとしたら、それはそれでおもしろいかもしれない。もちろんこれは深読みにすぎるだろうけれど。

映像として象徴的で美しい場面はいくつもあった。音楽はやや叙情に流れすぎてうるさい。時代背景を映す映像(主に大学紛争、安保闘争、過激派など)が合間合間に挿入されるが、物語の核心にほとんど関与せず、それらを出すことの必然性に乏しい。世界はかくも激しく引き裂かれた断片的なピースとしてあると考えるべきであろうか。映画館を出て九条の商店街に戻ってきた時に流れていた「勝手にしやがれ」が、なんだか場末感を強調してひどくもの悲しく響いた。大阪・九条、シネヌーヴォで鑑賞。

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2005.04.24

恋の門

東京勤めになってからというもの、日々の生活に追われてしまって他のことをする余裕がまるでなくなってしまった。自転車は通勤や買い物に使うので乗り回していたが、本を読んだり、映画を観たりする時間は激減した。ああ、吐き出すばかりの日々。きちんと息を吸い込まないと酸欠死しそうである。そう思っていたところ、近所とは言い難い場所にではあるが、幸運にもツタヤを発見した。ようやく今月初映画となった。劇場公開時に少しだけ気になっていた松尾スズキ初監督作品「恋の門」である。

二十歳、無職、貧乏、童貞の蒼木門(松田龍平)は、石に漫画を描く「漫画芸術家」を名乗っている。もちろん売れていない。門はアルバイト先で知り合ったOLの証恋乃(酒井若菜)と気になる関係になるが、彼女は実はオタクな同人漫画家かつコスプレマニアであった。門は恋乃の趣味に強い衝撃と違和感を感じながらも、なんとか恋の成就を目論む。しかし、そんな彼に次から次へと無理難題が降りかかってくるのだった……。

羽生生純の漫画を原作とする。原作は多くの熱狂的なファンを持つらしい。映画は漫画と演劇(松尾のテリトリー)を融合したかのような趣で、とにかく狭い空間にさまざまな要素が詰め込まれ、細かなディテールに徹底的にこだわったマニアックなものになっている。豪華な出演者陣(探すのが楽しい)から片々たる小道具にいたるまで、すべてに何らかの意味ある名辞が付されている。それはもうとてつもないほどの密度の濃さである。細部を愛でるということにかけては極めてよくできた作品であろう。それらのものに普段から親しんでいる人間にはたまらないと思われる。まさにオタクワールド全開といってよい。しかし、それは諸刃の剣であり、この世界に親しんでいない者にはかなり辛い要素ともなる。映画の推進力たる物語の展開がやや弱い(=ありきたり)のも、この種のオタク的世界観に親しんでいない者には厳しいところである。

どこまでもサブカルチャー系文化に親しんでいる人をターゲットにした映画である。とはいえ、気楽に場面場面を楽しむくらいの娯楽性はあると思う。緩い時間を過ごしたい人に。

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2005.04.04

レーシング・ストライプス

見る予定にしていなかった映画だが、東京に発つ3日前に小学生の娘と一緒にでかけることにした。3月27日のことである。走ることが好きで競走馬になれると思い込んでいるシマウマが、幾多の困難や妨害を克服し、最後にビッグレースで勝利するという、非常にわかりやすい内容である。さらにとある事情で競走馬の世界からリタイアした元調教師が、シマウマによって復活を果たすというサイドストーリーも絡んでくる。

レーシング・ストライプス公式サイト

馬のことはよく知らない。しかし、サラブレッドは明らかに普通の馬とは体型が違うし、ましてシマウマは体格からして差がありすぎる。そのどうやっても勝てるはずのない相手に努力の末勝利するという図式に心をうたれる人もいるのだろう……か? 明らかに子供連れ家族を狙った安易な企画のように見えて仕方がない。どうしようもないということはないのだが、各エピソードの力のなさ(底の浅さ)が気になってしまって満足度は低かった。

努力・友情・愛。なんだか「少年ジャンプ」のキャッチフレーズのような要素が満載のこの映画、動物好きはそれだけで楽しめるかもしれないが、よほど好きでないと「ちょっと損したかも」と思いながら帰路につくことになるだろう。日本語吹き替え版の声優は著名な役者・タレントが担当している。主役のストライプス役は田中麗奈である。まぁまぁ(笑)。ワーナーマイカルシネマズ茨木で鑑賞。

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2005.03.25

鉄人28号

日本のロボット漫画・アニメ史上に燦然と輝く「鉄人28号」。その誕生からもう40年が経つ。同時代の漫画やドラマの多くが遠い過去の存在となるなかにあって、鉄人は何度もリバイバルし続けている。昨年も新作アニメが放映されていたし、プレイステーション2用のゲーム(これは傑作!)として発売もされた。海洋堂が制作担当したタイムスリップグリコやリアルな造形がマニアに人気の「超合金魂」にも加えられた。鉄人は立派に新世紀を生きている。そしてついに劇場用実写映画として登場したのである。

映画「鉄人28号」公式サイト
映画「鉄人28号」公式ブログ
映画「鉄人28号」予告編

この映画の基本は少年の成長物語である。どこにでもいそうな小学生金田正太郎(池松壮亮)が、さまざまな事件や人間関係に巻き込まれるうちに、次第に自分の能力や責任に目覚めていく。この流れは「非・バランス」や「ごめん」で少年少女の成長を丹念に追いかけた冨樫森監督の得意とするところであろう。鉄人という昭和の大ヒーローを擁するため、昔ながらの勧善懲悪アクション活劇の色は濃いものの、そこだけに甘んずることをよしとせず、人間のドラマに焦点を合わせようとする部分に冨樫流の味付けが行われていると見るべきか。東京破壊後の病院シーンの描写は、かつての初代ゴジラ(1954年)をほんの少しだけ思い出させた。

もう一人の主人公である鉄人28号にも触れないわけにはいかない。鉄人も敵のブラックオックスも金属製のロボットゆえ、日本の特撮が得意としてきた着ぐるみは使用できない。そこでこの映画では生身の俳優の動きをモーションキャプチャーし、それをロボットとして3DCG化するという手法を取っている。ただこれが今ひとつ画面に馴染んでいない。動き自体に不自然さは感じられないものの、ロボットに重みというか、リアルな存在感が薄いのである。主役がこれではつらい。逆にこのほのぼの感が昭和レトロでいいという意見もあるだろうか。

定番のロボット・プロレスシーンでも、派手な光線や壮絶な爆発などはない。また無節操な都市の破壊シーンもない。ひたすらゴンゴンという金属と金属がぶつかる音が響くだけである。戦闘シーンにド迫力や爽快感を期待する向きにはまったく評価されないほど、地味なバトルである。そもそも今時の飛び武器を備えていないロボット同士、しかもオリジナルの印象が古き良き昭和ゆえ、設定を変えてまでハリウッド風の派手な戦いをさせることはできなかったのであろう。しかし、それが正解だったかどうかは難しいところである。昭和30年代の建物を基準に考えられた身長20メートルは、21世紀の超高層ビル群の中ではいかにも貧弱である。ゴジラがどんどん大きくなりパワーアップしたのと同様に、鉄人も新世紀モードにしてもよかったかもしれない。ロボットがあまり魅力的でないのは、返す返すも残念であった。

脇を固める俳優はなかなかゴージャスである。私からすると夢のような共演である(笑)。蒼井優・田中麗奈・西田尚美・薬師丸ひろ子(田中と西田はちょい役)。ここに麻生久美子がいれば、完璧である(「鉄人」と同日、麻生久美子主演の「ハサミ男」も公開開始)。中澤裕子はまぁどちらでもいい。男性陣も香川照之・柄本明・中村嘉葎雄・高岡蒼佑・伊武雅刀らで、こちらも実力派が揃っている。結果、映画全体に落ち着きと締まりが感じられた。音楽は千住明が担当し、主題歌はもちろん「夜の町にガオー!」である。凝ったパンフレット(昔のカッパ・コミックスを模している)が楽しい。

「戦う勇気だけがあなたの武器なのよ」と蒼井優に言われたら、困るなぁ(何をだ!?)。とにかく正太郎くんは「信じて進め」を実践した、そういう映画だった。悪くはないと感じたが、好き嫌いは大きく分かれる映画だと思った。ワーナーマイカルシネマズ茨木で鑑賞。

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2005.03.11

トニー滝谷

一生かかっても着尽くせないほどの服を買い続ける女と、その女を失い孤独の淵に沈む男の物語。

映画を観た後に、久しぶりに村上春樹の『レキシントンの幽霊』(文藝春秋、1996年)を書架から取り出して、「トニー滝谷」を読み返した。市川準監督の「トニー滝谷」は小説と同じ空気感、同じトーンで貫かれている。小説と映画が同じになる必要はない。しかし、これは村上春樹の小説が要請した必然であると、市川自身が映画のパンフレットの中で語っている。

この映画のあらゆる映像が、現実の具体的な場所や物では描けないというイメージを抱きはじめ、いままでの自分の映画のようにリアルな世界で描くと、この小説に流れている透明感や、温度の低さを表現できないし、村上春樹ファンを裏切ることになる、と思い始めました。
小劇場のようなシンプルな舞台を高台の空き地に建てて、その舞台の微妙なアングル替えと、簡単な飾り替えだけで、ほとんど全てのシーンを撮影したことも、主人公の男女二人にそれぞれ二役を演じてもらって登場人物を極力少なくしたことも、プリント手法に脱色処理を施して色調を浅くしたことも、全て村上春樹氏の、硬質でありながらも、現実の地上から何センチか浮いているような小説世界が、いつのまにか私に要請したことだったと、今になって思います。

西島秀俊による、ほぼ小説に忠実なナレーション(穏やかな語り口)に従って、映画は淡々と進んでいく。屋外に組まれた必要最小限のセットが場面ごとに象徴的にはたらいており、西島の朗読と相まって、まるで小劇場の舞台を見ているかのようなライブ感がある。確かに市川の言うように、完璧なセットのもとリアルで具体的な描写を積み重ねても、あの世界観は出すことができなかったと思われる。

とりわけ印象的なのは、オープンセットならではの風である。吹き抜ける風に揺れる髪や衣装がとても心地よい。またおそらくは屋外ならではの特権として自然光を活かしたとおぼしき画面も、あざとさがなくとてもシンプルで好ましい。場面や舞台が代わる時、画面は静かに右から左へ流れていく。あたかも写真集をめくるかのようである(または古い絵巻物の展開)。静かな絵に坂本龍一のピアノ曲がよく合っている。イッセイ尾形と宮沢りえの抑制の利いた演技もすばらしく、上品な絵の中にきちんとなじんでいる。

物語のテーマである「孤独」を濃密に感じさせながら、描写はどこまでも淡泊でからりとしている。映画と小説の唯一の違いである結末の変更もまったく違和感がない。どちらがよいというものではなく、どちらも成立する。丁寧に仕立てられた静謐な映画。その仕立ての良さはヒロインの求める上質の衣服のようである。テアトル梅田で鑑賞。

余談:『レキシントンの幽霊』には「めくらやなぎと、眠る女」が収録されている。「蛍」(『蛍・納屋を焼く』新潮文庫、所収)とともにとても気に入っている村上春樹の短編の一つである。ともに「ノルウェイの森」に連なるものであるが、この二つは特別な輝きを放っていると思う。

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2005.02.16

犬猫

concorde「広告」2004年11月号は二大特集が組まれていた。一つは戦後高度成長期の象徴である新幹線の存在意義を考える「天才! 新幹線」。そしてもう一つが「女の子のための日本映画講座」である。なにゆえ「女の子」に限定するのか、私にはよくわからない。この雑誌って女性誌なんですか? いや、それはともかく、まず特集のアタマに麻生久美子のオールカラー6頁記事があるのがよい。さらに本編に寄稿している人も一癖二癖ある強者が揃っていて読み応えがある。穏当な日本映画史紹介では決してないけれど、当たり障りなく並べてもおもしろくないですしね。

さてその特集の中に「ガールズ・ムーヴィおススメ10」というコーナーがある。タイトルを列挙してみよう。

「HOUSE」「ふたり」「濡れて打つ」「1999年の夏休み」「ラブ&ポップ」「キューティーハニー」「blue」「二人が喋ってる」「ジョゼと虎と魚たち」「櫻の園」「ジャンケン娘」「ひばり・チエミの弥次喜多道中」
新旧硬軟いろいろ揃っている(笑)。

上記記事では、昨年2004年はガールズ・ムービーの「秀作が立て続けに現れた年として記憶される」として、「下妻物語」(深田恭子・土屋アンナ)、「花とアリス」(鈴木杏・蒼井優)、「犬猫」(榎本加奈子・藤田陽子)の三本を掲げ、「この三本が登場しただけでも、2004年の日本映画は明るかった」と締めくくる。「下妻物語」「花とアリス」の両作はともに大のお気に入りで、それをここで語り始めるとキリがなくなるのでやめることにして(笑)、残る「犬猫」がようやく関西で公開されたので、早速喜び勇んで見に行ってきた。

幼稚園時代からの幼なじみで、性格は正反対なのに好きなものは一緒という二人の女性の関係を、時にコミカルに、時にシリアスに描く。榎本加奈子演ずるヨーコと藤田陽子のスズの妙にずれたコンビネーションが楽しい。ヨーコとスズはこれまで一人の男を奪い合うという修羅場をくぐり抜けてきており、この映画でも古田(西島秀俊)と三鷹(忍成修吾)の存在が二人の関係を微妙なものにする。この「仲がいいんだか、悪いんだか(映画のコピー)」というどこにでもありそうな人間関係を見るにつけ、この映画のタイトルが「犬犬」でも「犬猿」でもなく「犬猫」であることが、兪として巧妙に働いていると思わされた。十代ならではの疾走感を持つ女子高校生を描く「下妻物語」「花とアリス」とは異なり、それなりに酸いも甘いもかみ分けた二十代後半の女性の哀愁がほどよく形象化されていると思う。

見ているものを驚かせるようなドラマは何も起こらない。すぐそこにある日常生活を営む二人の女性をそのまま掬い取る。奇跡の大作ではなく珠玉(ちょっと褒めすぎ)の小品。あけすけな言動があまり好きではなかった榎本加奈子を見直した。藤田陽子もよい。テアトル梅田で鑑賞。

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2005.02.09

パッチギ!

実家の母親が韓流ドラマに夢中である。私はといえば、何も見たことがない。テレビも映画も。あんまり無下にするのも気の毒なので、「冬のソナタ」のサントラCDを買って持っていったら、そればかり聴いている有様である。いや、私にはよくわからないのですがね。しかし、ペ・ヨンジュンやイ・ビョンホンが来日する度に中年女性を中心として追っかけが出現し、韓国のロケ地ツアーにも大挙して押しかけるという騒ぎなどを見るにつけ、これはこれで立派な文化交流かもしれないなと思ったりもするのであった。少なくとも汚らしい偏見や差別感から自由なところは、まちがいなくすばらしいと言える。相手を知ることは愛するために必要だから(うちの母に限って言えば、冷蔵庫に「ヨン様」の切り抜きを貼るのだけは辞めてほしい……)

concordeさて1968年の京都を舞台にした井筒和幸監督の「パッチギ!」。これは掛け値なしにいい映画だと思う。前作の「ゲロッパ!」は井筒監督の思いが空回りをし、西田敏行の芸以外はまったく語りようがない映画だっただけに(少なくとも私には)、「パッチギ!」の鮮やかさには心が震える思いがした。ここには「ガキ帝国」「岸和田少年愚連隊」の若さと野性味、「のど自慢」の叙情とユーモアがあり(いずれも井筒監督の代表作)、さらには「ロミオとジュリエット」や「ウエストサイドストーリー」などの古典的名作の恋愛のエッセンスもふりかけられている。井筒映画の集大成的性格を持っている本作は、監督のキャリアの中で大きな節目となるはずである。

京都の公立高校に通う松山康介(塩谷瞬)は、親善サッカーの申し込みに行った朝鮮高校でキョンジャ(沢尻エリカ)に出会う。キョンジャに一目惚れした康介は、彼女がフルートで演奏していた「イムジン河」を流行のフォークギターで熱心に練習する。祖国への帰国を決意したキョンジャの兄アンソン(高岡蒼佑)を祝う宴会で2人は合奏し、そのかいあって康介は彼らの輪に入ることができた。しかし、アンソンら朝鮮高校の生徒たちは日本人高校生との抗争を激化させる。康介は「在日」の悲劇をつきつけられ、アンソンは憎悪に身を焦がすばかりである。果たして彼らの未来はどうなるのか、そして康介とキョンジャの恋愛は……。

映画は日本人である松山康介と朝鮮人キョンジャの恋愛を軸として進む。その恋愛ストーリーにまとわりつくように様々な要素が盛り込まれるけれど、中心軸がぶれないため映画は一環して心地よいスピードで走り続ける。ここで効果的に使われているのがザ・フォーク・クルセダースの楽曲である。伝説の「イムジン河」に始まり、「悲しくてやりきれない」「あの素晴らしい愛をもう一度」の3曲が、あたかも映画の主題を受け渡しするかのように、若い二人や両国民の状況を的確に示しながらリレーされる。しかもこれらの曲は劇中の人によって自然に歌われる。台詞で心情を吐露する以上に強い印象を受けた。クライマックスの康介の「イムジン河」絶唱は涙腺の緩くなったおっさんにはメガトン級のパンチであった(笑)。「イムジン河」は現実の南北朝鮮問題を象徴するとともに、康介とキョンジャの間に横たわる壁、克服すべき存在として存在するのだった。

在日問題を扱っているからといって、「GO」(行定勲監督)のようなわざとらしさがなく、きちんと真正面から向き合っている点にも好感が持てた。全編にわたって1960年代の文化や社会のありようが描かれる。しかし、それらを知らなくとも映画の世界にしっかり沈潜して楽しむことができるだろう。温かな気持ちになるエンディングにおおいに救われる。小さい頃から知っているちょっと怖いことば「パチキ」。その語源たる「パッチギ」。「突き破る」とか「乗り越える」という意味を持つこの語は、映画の主題を見事に語り尽くしているだろう。ワーナーマイカルシネマズ茨木で鑑賞。

追記:9日にワールドカップアジア最終予選「日本対北朝鮮」が行われた。キョンジャの兄アンソンは、祖国でサッカー代表選手になり、ワールドカップに出場することを夢見る少年である。この試合でさまざまな感情を呼び起こされた人にぜひこの映画を観てもらいたい。

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2005.02.07

真珠の耳飾りの少女

concorde「真珠の耳飾りの少女」はむしろ「青いターバンの女」というタイトルで知られているのではないだろうか。十七世紀に活躍したオランダの画家フェルメールの代表作である。もう4,5年も前のことである、天王寺にある大阪市立美術館でフェルメール展が開かれた際、この絵も展示されていた。残念ながら私は行けなかったのだが、観てきた人に聞くと、それはもうたいへんな混みようであったという。同時代の巨匠であるレンブラントやルーベンスはもとより、日本で高い人気を誇る印象派の諸作家並の注目度であるといえよう。しかし、その人気に比してフェルメールには謎が多く、この「青いターバンの女」の成立事情に関しても、ほとんど何もわかっていない。英国の小説家トレイシー・シュヴァリエはこの絵から受けたインスピレーションを虚構の物語としてまとめた。映画「真珠の耳飾りの少女」は、このシュヴァリエの小説を原作とする。

失明した父親に代わって家計を支えるために、グリート(スカーレット・ヨハンソン)はフェルメール(コリン・ファース)家へ奉公に出された。忙しい上に辛いことも多い日々ではあったが、アトリエで目にする絵の美しさに慰められている。グリートが優れた色彩感覚の持ち主であることに気づいたフェルメールは、自身のアトリエで絵具を調合する仕事を手伝わせるようになる。やがてグリートの存在はフェルメールの創作意欲そのものを高めるようになっていく。ついに彼の芸術的感覚は主人と使用人の関係すら乗り越えようとする。しかし、その行為は破滅的な結末に至ることを意味していた。フェルメールの妻の耳飾りを着け、絵のモデルとなるグリート。二人の関係はどうなるのか、そしてこの絵の運命は……。

最大の謎である絵のモデルの少女をフェルメール家の使用人とする。そして彼女とフェルメールを取り巻く人間たちの愛憎劇として全編を構築している。ここでは絵の少女の謎めいた表情をフェルメールとの禁断の悲恋に悩むそれと読み取っているのであった。この趣向は奇を衒うことがないものの、恋愛ものとしてはあまりにもストレートすぎて(意外性がないとも言える)、やや物足りなさを感じさせる。フェルメールの芸術活動が一家の生計の支えであることを強く自覚する義母以外の者たちからグリートが迫害されるのも、いわばお約束の展開であろう。このように脚本部分は古典的手法が踏襲されており、あえて語るべき点はあまりないように思った(もちろんそれが悪いということではない)。

一方、画家を中心に置く映画らしく、光と影、色彩の配置に関して、非常に細やかな心配りがなされている。映画の冒頭でグリートが野菜を調理する場面の色遣いの瑞々しいこと! 美術やセットなども中世ヨーロッパを彷彿とさせる重厚さ、美しさがあった。俳優ではグリートを演じたスカーレット・ヨハンソンの知的な佇まい、抑制の利いた演技がすばらしい。「ロスト・イン・トランスレーション」とはまるっきり異なる役柄だが、どちらも違和感なく見せるということは、この俳優の力のほどを知らしめていると思う。それにしてもヨハンソンと「青いターバンの女」、作り込んでいるとはいえ、本当によく似ている。

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2005.01.31

MASK DE 41

最近はPRIDEやK1などの「一見本気風総合格闘技」が大人気で、定期的に開催される大会は必ずテレビで放映されているし、大晦日にいたっては紅白歌合戦の存在を脅かすほどにまでなっている。一方で昔ながらのプロレスはといえば、どうも調子が思わしくなく、老舗の新日本プロレスをはじめとして、ほとんどの団体がアングラ的な存在に堕ちてしまったようである。少なくとも昔からのプロレスファンである私にはそう思えてならない。スポーツとして結果が報じられないのは、プロレスもPRIDEもK1もみな一緒で、結局は同じ穴の狢であることが透けて見えているのだがなぁ。

ゴールデンタイムに猪木や馬場が吠えていた頃と比べると、ずいぶん風向きが悪くなってしまったものだ。なんとも大仰で時代錯誤を思わせる結構は、あたかも地球環境の動向に対応できずに絶滅した恐竜を見ているかのごとくである。もっともそんなプロレスが大好きで、私としては離れることができないのだけれど。プロレスは格闘技ではなく、鍛え上げた肉体(中にはまったく鍛えていないレスラーもいるが)を使った総合舞台演劇なのである。いつも同じ人が勝つのは、俳優の格で配役が決まってくる劇団と同じである。八百長ではなくあくまでも演出。必要なのは真の強さではなく、強いと思わせる演技力。還暦を過ぎたジャイアント馬場は、死ぬまで引退しなかったもんなぁ。ほとんど無形文化財、人間国宝ものである。

41歳の厄年を迎えた倉持忠男(田口トモロヲ)は、会社から突然のリストラ宣告を受ける。妻の恭子(筒井真理子)は家庭よりフラワーアレンジメントに入れ上げているし、二人の娘、春子(伊藤歩)とハルカ(蒼井優)もそれぞれの遊びに夢中になっている。この家庭崩壊の危機に忠男のできることは何もなかった。ただ一つ、若い頃から情熱を傾けてきたプロレスを除いては。忠男はプロレスファンが夜な夜な集まるカフェの仲間とともに、退職金を元手に夢だったプロレス団体を立ち上げることを決意した。プロレスへの情熱と家族への愛を武器に、ついに彼はリングに立った。忠男の第二の人生の首尾はいかに……。

「気合いだぁ〜」のアニマル浜口に弟子入りし、この映画のために肉体改造を施した田口の熱演がすべてである。確かにプロレスラーにしては貧弱だが、ありえないほどの貧しさではないところに感心した。そこをクリアすれば、あとは演技力だけである。上にも述べたようにプロレスラーに必要なのは真の強さではなく、強いと思わせる演技力である。田口の演技力に問題のあろうはずはない(もっともここでは強さは必要なかった)。中年の悲哀と孤独と現実を見事にプロレスの中に昇華していた。結末部分の「祝福されないロッキー状態」は笑うしかなかったけれど。脇役陣も妙に豪華で松尾スズキや小日向文世、片桐仁らが思い入れたっぷりに怪演している。惜しむらくは個々の場面の描き込みが今ひとつ(説明不足でわかりにくい箇所多々)で、主筋への求心力を欠いて上滑りしているように思われた。もっとも基本的にノリ重視のホームコメディである。明るい未来を想起させる結末に救われるだろうし、この映画はそれで必要十分だと思う。

MASK DE 41」は四年前に撮影完了していたものである。諸般の事情で公開が2004年まで遅れたとのこと。撮影に協力したプロレス団体のFMWはとうに崩壊してなくなってしまった。俳優として登場した冬木弘道は先年亡くなり、田口の相手役を演じたハヤブサは試合中の事故で半身不随となっている……。ああぁ、やはり現実はプロレスよりもはるかに過酷と言うべきか。

MASK DE 41の公式サイト

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2005.01.26

銀のエンゼル

子供の頃、森永チョコボールの懸賞であるオモチャの缶詰を手にしたことがある。地道に銀のエンゼルを五枚集めてもらったのであった。思えば、金のエンゼルは多大なる幸運によってもたらされる宝くじ的な性格が強く、基本的にはあちら任せの遠い存在である。しかし、銀のエンゼルは5枚を集めきるという意志や根気こそがまずは必要であって、しかもその間、目標(大袈裟)に向かって楽しんだり気持ちを高めたり興奮したりなどというすばらしさがある。もちろん集めきれないまま終わることもままあるだろうが、それもまた一興である。そんな銀のエンゼルを題材にした物語。

まもなくすべてを覆い尽くす雪が降り始めようとする北海道斜里町。この町の国道沿いのとあるコンビニエンスストアは、店長の佐和子(浅田美代子)が日夜元気に切り盛りしている。佐和子の夫でコンビニオーナーの昇一(小日向文世)は、店を彼女に任せきりにして気儘な生活を送っていた。ところが、娘の由希(佐藤めぐみ)の懇談にでかけようとした佐和子が交通事故を起こし、長期入院することになってしまった。やむなく昇一が代わりを務めることになったのだが、勝手がわからず、自信もなく、右往左往するばかりである。さらに図らずも二人暮らしとなってしまった娘とも、最近はまったく向き合おうともしなかったツケが巡ってきて、険悪な雰囲気だけが漂う始末である。娘は娘で父親に東京への進学のことが打ち明けられず、またコンビニに集まってくる客の多くも、今の生活から先への一歩が踏み出せずにいる。人生の転換期を迎えた彼らはどのようにして自分の「銀のエンゼル」を集められるのだろうか。

「運良くひとつ当たりが出ても5枚そろえるのは至難のワザ。それはまるで手に届きそうで届かない夢や幸せのよう……」とキャッチコピーが語るように、映画「銀のエンゼル」は、チョコレート菓子のクジの本質または存在意義を人の生き方のメタファーとして提示し、様々な人間模様とドラマに仕立て上げて描き出す。舞台は不特定多数の人生が交錯する現代の社交場ともいうべきコンビニエンスストア。ここには現状に甘んじて動かない人や目の前の問題から逃げてばかりいる人、さらには自分の生きる道の選択を人任せにしてしまうような人々が、次から次に現れては消えていく。コンビニは、刹那的な彼らを「銀のエンゼル」に結びつけ、「5枚集めきる(新しい幸をつかむ)」という明日への意志と行動力を促していく。そしてたとえ結果が悪くても、自分の選んだ道なら後悔はないとする。テーマとしてはいささかストレートすぎる嫌いもないではないが、幸せなメルヘンの気配が濃厚なこの物語にはそれが似合っていると思う。舞台を雑駁な都会のコンビニではなく、余計なものを雪が隠す北海道にしたことも、それに連動しているとおぼしい。鈴井貴之監督の演出意図を慮るべきところであろう。

穏やかな小日向文世の父親像が秀逸である。反発する娘、佐藤めぐみとのやり取りに痛いものを感じる人も多いかもしれない。エンディングでの涙には思わず……。また浅田美代子の母親もよい。いい歳の取り方をして、味わいのある俳優になっている。

子供の私が銀のエンゼルを五枚集められたのは単に欲深かっただけであるが、それにしてもあのオモチャの缶詰にはいったい何が入っていたのだろう。今となってはちっとも思い出せない。遠いと思っていたものが現実になった瞬間、夢は色褪せていくということか。パンフレット、1000円は高すぎ。シネ・リーブル梅田で鑑賞。

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2005.01.19

ミスティック・リバー

ショーン・ペンの前作「アイ・アム・サム」が好きで、この「ミスティック・リバー」も観たいという気持ちはあったのだが、いかんせん暴力や死が苦手で敬遠したままだった。評判の良さに背中を押され、ようやく見た。

貧しい労働者たちの住むボストンのイーストバッキンガム地区の路上で、ジミー、ショーン、デイブの3人の少年がホッケーに興じていた。その時事件が起こる。警官を装った二人組がデイブを誘拐したのである。デイブは男たちから性的虐待を受けたのち、自力で脱出を図る。しかし、彼ら3人の中の何かが確実に損なわれてしまった。それから25年後、同じ街で雑貨店を営むジミー(ショーン・ペン)の娘が何者かに惨殺された。事件を担当する刑事は、かつての親友ショーン(ケビン・ベーコン)である。やがて捜査の先に一人の容疑者が浮かび上がった。あのデイブ(ティム・ロビンス)だった……。

謎解きのおもしろさやスリリングな展開は、ミステリーとして第一級の質を誇るであろう。加えて、単にストーリーを追うだけに終わらず、悲劇の淵に投げ込まれた人間の感情を丁寧に描くことに力を注いでいる。その重みたるや、生中なものではない。事件の真相は唯一無二であるが、それを解釈する人間の立場によって、まったく異なる相貌を持つリアルな現実として生成される。人間の愚かさ、弱さ、不完全さはもとより、愛の深さや善意までもが事態を悪化させることはままある。この映画では、生憎な悲劇の原因をそうした個々の感情の揺蕩いと複雑な錯綜に求め、過去の誘拐事件と現在の殺人事件に翻弄される人々の姿を冷徹に映し出そうとしている。

主演の3人はもちろん、脇を固める俳優陣も水際立った演技を見せる。監督はクリント・イーストウッド。音楽も手がける。全編がボストンで撮影された。それが一層の生々しさを生むことになったとは、ティム・ロビンスのことばである。

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2005.01.10

リアリズムの宿

山下敦弘監督の「ばかのハコ船」。タイトルからして強烈な吸引力を持つこの映画、上映時に見逃し、レンタル店には並ばず、挙げ句の果てにCS放映時でも録り損ねるという憂き目を見た。見たいのは憂き目ではなく映画なのに。

何となく負けたままDVDを買うのも癪だと思っていたところ、山下監督の新作「リアリズムの宿」がタワーレコードに並んでいるではないか。そういえば、これまた劇場で見逃していたのであった。昨年末に発表された「朝日ベストテン映画祭」でも堂々の日本映画第9位にランキングされている。迷いなく手に取った。「ばかのハコ船」は悔しいからそのままである。いずれ見る機会もあるだろう。

顔見知りではあるが、さほど親しくない二人の男、木下(山本浩司)と坪井(長塚圭史)が、共通の友人である船井(山本剛史)に誘われて、山陰を旅行することになった。ところが、待ち合わせ場所に船木が現れない。二人は落ち着きの悪いぎこちなさを感じながら、仕方なく貧乏旅行をすることになった。日本海を眺めている時、そこに半裸の若い女、敦子(尾野真千子)が現れた。真冬の海で泳いでいる最中に服も荷物も流されたという。ここからなんとなく三人の旅が始まるのであった……。

つげ義春の漫画(「リアリズムの宿」「会津の釣り宿」)を原作とするものの、これを忠実に映画化したのではなく、ちょっとしたエピソードとしてそこここに盛り込む形にアレンジしている。言わば、つげワールドのエッセンスを調味料として使っている。ただつげの漫画を読んだことがない私には、どこまで有効に機能しているのか、判断することができない。通奏低音のように映画全編に流れ続けるほの暗いトーンが、つげ漫画から来たものだとしたら、うまく生かしていると思う。映画自体は一種のロードムービーである。あまり親しくない人間が集まった時の妙な間の悪さがおもしろい。こういう感覚は日常生活の中にも確かにある。二人だと煮詰まるところ、そこにもう一人、しかも女性が加わることでドラマとしてきちんと転がっている。劇的なことは何も起こらないけれど、微妙な起伏を味わいたい向きの期待には十分応えてくれる。

最後に一言、付け加えておこう。公式サイトの著名人コメントは、私のために用意されたのかと勘違いしそうになった。蒼井優と麻生久美子が褒めているから、この映画はよい映画だと思います(謎)。

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2005.01.06

スーパーサイズ・ミー

ここ5年くらいだろうか、ファーストフード店の物が食べられなくなってきた。無理に食べると、気持ちが悪くなるのである。自分の年齢を意識する瞬間である。とほほ。

植島啓司『快楽は悪か』(1996年、朝日新聞社)は「われわれをこれまで律してきた倫理・道徳に対して、徹底的に批判を加えなければならない」という立場から、世に行われている「偽善」を暴き糾弾するという、ある意味ではインモラルな放言に満ちた刺激的な書であった。要するに「そんなことしちゃいけませんよ」という常識的な忠告やお節介に対して、「うるせぃ! 何寝ぼけたこと言ってやがる!」と反駁するものである。刊行当時は結構話題になっていたし、植島の勤める大学にも苦情が寄せられていたらしい(あんなのがいるところには子供はやれない云々……、やれやれ)。

「他人に迷惑をかけさえしなければ何をしようが個人の自由だ。ヒステリックに批判するほうが間違っている。タバコ、酒、ギャンブル、セックス、自動車のどれにしてもそうだが、個人の嗜好は、だれによっても管理されるべきではないのである」と語る植島は、30代になって強度のハンバーガー信徒となった。何でも年間200食を食べていたとのこと。「正しい食生活」や「健康ブーム」を憎む彼はまた味の素も肌身離さない。個人的な快楽の前にはどんな説法も通じないし、それはそれで確かにとやかく言うものではない。しかし、こういう嗜好が社会の枠組みと衝突を始めたらどうなるのか。

もはや旧聞に属するが、アメリカで「毎日マクドナルドを食べ続けたから肥満になってしまった」と訴訟を起こした少女がいた。当人が好きなハンバーガーを毎日食べて太っていくことには何の問題もない。しかし、「マクドナルドがあるから、私は太ったのだ」となると、話は難しくなってくる。選択肢として「自ら食べない」というものがある以上、相手に全責任を負わせることは不可能だろう。受動喫煙の害とは違う。せいぜい食べたものと自らの肉体、精神の変化の因果関係をできるだけ科学的に証明するのが関の山である。

モーガン・スパーロック監督は自らの肉体を実験台として、この偉業(?)に挑戦した。「スーパーサイズ・ミー」は一ヶ月間毎日三食マクドナルド製品を食べ続けると、いったい人はどうなるかを検証しようとした映画である。ただしこれをノンフィクションの社会派ドキュメンタリーとして捉えるのは無理がある。あくまでもフィクションを排した脚色付きのエンターテイメント作品である。肉体や精神の変化という現象面での実験結果はおおむね予想の範囲だが(性生活へのあけすけなコメントを出す監督の彼女には笑わされた)、その先に透けて見える部分、すなわちジャンクフードがはびこる食生活の抱える根本的な問題がたいそう恐ろしく感じられた。政治や経済と絡むと、人間はどんなえげつないことでもやるのだ。子供の給食がオレンジジュースとチョコバーと冷凍フライドポテトとは……。

なお同じくエンターテイメント的ドキュメンタリーを得意とするマイケル・ムーアの新作のターゲットは製薬業界らしい。これまた切ればどす黒い血だの膿だのが吹き出しそうな対象である。日本にはこういう分野に挑戦する人はいないのかしら。ガーデンシネマ梅田で鑑賞。

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2004.12.30

約三十の嘘

長島有里枝が『not six』という写真集を刊行した。彼女の夫を被写体にしたポートレイト作品である。書店で手に取ってざっと眺めただけなのだが、あまり見たくないようなもの(ご想像にお任せします)もあれこれと写っていて、そのまま棚に戻してしまった。写真そのものは嫌いではないのだけれどね。さて、自らの配偶者を直視した写真家といえば、ただちに荒木経惟のことを思い浮かべるが、彼が陽子夫人を写した作品はぎりぎりの断崖絶壁を歩くかのような緊張感が漲っていた。特に夫人の病と死から目を逸らすことができなかった時期のものは、必然的にそうならざるをえなかっただろう。対して長島の写真はどこまでもいい意味で俗っぽくかつ下品である。そこが持ち味だと思う。少なくとも川内倫子や蜷川実香のような心地よさはない。しばらく更新はされていないようだが、こういう子育てサイトが飛び出してきて、少しは写真の雰囲気も変わるのかと思ったが、さにあらず。長島有里枝は長島有里枝だった。

ipodその長島がスチールを担当する映画「約三十の嘘」(公式サイトでは長島有里枝の撮影した写真や壁紙が公開されている)。大谷健太郎監督にとって「アベック・モン・マリ」「とらばいゆ」に続く第三作目となる。私は前の二作の会話劇を大いに楽しんだクチなので、高揚した気持ちで映画館に出かけた。にも関わらず、即座に映画のことを語らないで長々と枕に長島ネタを費やしたのは、残念ながらこちらが期待したほどではなかったからだ。もちろん楽しめないということでは決してなく、相応におもしろかったのだけれど、もっと楽しませてほしかったというのが正直なところである。

土田英生の戯曲を原作とし、大谷監督と渡辺あや(「ジョゼと虎と魚たち」脚本)が共同で脚本を仕上げている。映画では、六人の詐欺師(椎名桔平・中谷美紀・妻夫木聡・田辺誠一・八嶋智人・伴杏里)がチームを組んで北海道で大仕事をする、その前後の豪華寝台列車「トワイライトエクスプレス」(大阪・札幌間)内の出来事のみが描かれる。この物語は詐欺行為そのものを描くことを目的としているのではないため、詐欺師としての仕事ぶりはいっさい出てこない。騙すことを本業とする彼らが、仲間といかなる付き合い方をするのか、信頼関係を築き上げるのかという部分に焦点を合わせている。

大谷監督が土田の戯曲を取り上げたのは、長距離列車という密室で虚実入り乱れた丁々発止の会話が繰り広げられる点にあるとおぼしい。それはまさに彼が得意としてきた会話劇の最良の舞台の一つであるだろう。しかし、どうもそれがうまく機能していないように思えたのだ。以下箇条書きで並べてみよう。

・密室での会話劇なのに、肝心の会話の切れが悪く、絡み方や深め方も今ひとつ。
・きちんと一つづつエピソードを積み上げている手応えがない。
・結末にもう少し意外性がほしい。あまりにも予測可能すぎて肩すかしを食う。
・役者がメジャーになったことで、大谷監督のアクが薄くなっているのではないだろうか。
・物語の鍵を握る伴杏里が不発。
・ゴンゾウはユニークだが、キャラクター商売(ゴンゾウ.net)に走る前にすることがあるだろうと思った。
・トワイライトエクスプレスに乗って北海道に行きたい。

最後のは関係ありませんでした……。スタッフによる宣伝日記もある。傑作群像会話劇になる予感もあったのに、これでは一部の邦画ファンだけに受けるような間口の狭い、いや、底の浅い映画(繰り返すが、相応にはおもしろい)になってしまったように思った。テアトル梅田で鑑賞。

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2004.12.29

真実のマレーネ・ディートリッヒ

恥ずかしながら、この大女優の出演作品はひとつも見たことがない。歌はラジオで聴いたことがある。有名な「リリー・マルレーン」である。それくらい。

ディートリッヒの孫のディヴィッド・ライヴァは、二〇世紀を代表する女優の伝説を形象化するため、未発表のフィルムを多数集めるとともに、ディートリッヒと関わった人々(ビリー・ワイルダーやバート・バカラックら)による多角的な証言を得ることで、稀代のディーバの波瀾万丈の物語に具体的な肉付けをすることに成功した(と思われる、興味深く最後まで見ることができたから)。ただ私はディートリッヒのことを何も知らない。この映画のどこまでが知られたことで、どこからが新知見なのか、その境界線がわからないのがもどかしい。

1920年代からドイツで銀幕スターとして頭角を現したディートリッヒは、30年代に入ると活躍の舞台をハリウッドに移す。さらにナチスの圧政から逃れるために、アメリカへ移住し市民権を得る。やがてディートリッヒは戦地に積極的にでかけ連合軍への慰問活動を行うようになる。スターとしての彼女のもう一つの側面である。今ならさしずめ反戦活動だろうか。「リリー・マルレーン」はこの活動の象徴的存在である。

いずれにしてもドイツ人がアメリカのために働き、結果的に母国を打ち倒すという使命は、いかにナチスが絡んでいるとはいえ、簡単に説明できるようなものではないだろう。事実、戦後ドイツに赴いたディートリッヒに対するドイツ国民の反応は、愛憎相半ばするものだったらしい。ただ映画俳優としても歌手としても手詰まりになりつつあった彼女が生き残るには、こういう方法しかなかったというようにも見える。少なくともこの映画を見る限りでは。

ディートリッヒは七五歳まで現役として活動し、九一歳で亡くなった。けだし大往生であろう。そういえばディートリッヒの終生のライバル、グレタ・ガルボも観たことがないなぁ。宿題、宿題っと。

公式サイト

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2004.12.26

青い車

どんよりと曇ったクリスマス翌日。寝ぼけ眼で日曜朝刊(いつもの朝日)の書評欄を開くと、この一年を回顧する特集が組まれていた。自分の守備範囲から遠いものとか、見逃していたものとか、この機会に手に入れておきたい本をリストアップする。そして今年のベストセラーに目を転じると、「今年はみんな、泣きたかった」という書き出しに導かれ、『世界の中心で、愛をさけぶ』(300万部)と『いま、会いにゆきます』(100万部)が登場する。続いて『冬のソナタ』上下巻(合わせて100万部)。どれも感動のドラマに溢れ、涙涙涙涙涙……。まさに老いも若きも恋愛ドラマで号泣の一年か。思えば、現状を無批判無条件に肯定する人しか権力者(ブッシュ&小泉)になれないし、ベストセラー作家(片山恭一)にもなれないと島田雅彦は言っていたなぁ。愛と正義か。どっちもふりかざされると痛すぎる。

同じ恋愛ドラマを中心に置きながら、涙で浄化どころか、ずっしりと重い荷物を持たされたような疲労感を覚える映画を観た。奥原浩志監督「青い車」である。しかし、この疲労感は、感動と涙の嵐に翻弄されてくたくたになった身にはとても心地よい。

子供の頃に事故に遭い、目元に傷が残ったリチオ(ARATA)は、「生きているのがラッキー」だと思い、日々、孤独や苛立ちを感じながら生きていた。彼にはアケミ(麻生久美子)という恋人がいるものの、本気でのめり込むような恋愛感情を感じているわけではない。アケミはアケミで、そんなリチオを理解しきれず、同じように深い孤独感を覚える。ある日、出張先でアケミは交通事故にあって死ぬ。「ずっと幸せならいいな」と言っていたアケミがあっけなく消え、今、リチオの前にはアケミの妹のコノミ(宮崎あおい)がいる。コノミもまた退屈な高校生活に飽き飽きし、姉に内緒でリチオに会っていたのだった。事故の前日、その秘密を姉に打ち明けたコノミ。姉はどんな思いを抱きながら死んでいったのか。互いに愛情を感じながら、何もわかりあえない人々……。

よしもとよしとも原作の漫画が下敷きになっているが、映画化に際して大幅にアレンジされている。「ただ、どうしようもなく、好き。」といいながら、心の奥底で他者とつながりえない孤独感に苦しむのは、決して作中の人物たちだけのものではないだろう。「青い車」の人々は、生きていることそのものに深い猜疑心を持ち、誰一人として現状を肯定しない。彼らは世の中を諦めているわけではないから、苛立つことや腹立たしいことも多い。理不尽なこともある。人とわかりあえなくてつらくもなる。そうしたありきたりな日常の中にあるさりげない孤独や退屈や諦めに翻弄されながら、それでも生きていかなければならない現実をきちんと精算しようとしている。そこが重い。

恋人を失う悲劇。「世界の中心で、愛をさけぶ」を童話として捉えた行定勲(「文藝」2004年春号インタビューでの本人談)。甘くなって然るべきだろう。対する奥原浩志は別の方法論を選択した。それだけのことである。それにしても、どうしてみんな、そんなに泣きたいのだろう。私にはよくわからない。梅田ガーデンシネマで鑑賞。

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2004.12.22

グッバイ、レーニン!

美濃の長良川で鵜飼いを見た松尾芭蕉は、その時の心情を一句に吐露する。

  おもしろうてやがてかなしき鵜舟かな

「おもしろうてやがてかなしき」とは鵜飼いそのものへの直接的な思いを口にしたものではない。鵜飼いの向こう側にある、人間の営為や人間の存在そのものを凝視する複雑な感情である。「おもしろうてやがてかなしき」。芭蕉とはまるで無関係なドイツ映画「グッバイ、レーニン!」を見ながら、そして見終わってから、私の頭の中をこのことばがうるさいくらい「駆け巡って」いた。

アレックスは東ベルリンのテレビ修理店で働く青年である。ささやかな労働者向けアパートで、母や姉とともに暮らしている。十年前に父親が西ドイツに亡命した反動から、母クリスティアーネは深く社会主義に傾倒する教師として、国に忠誠を誓う生き方を選択した。1989年、建国40周年を迎えた東ドイツでは華々しい記念式典が開かれる。だが一方では民主化を訴える市民による街頭デモが行われていた。そのデモに参加し逮捕されるアレックスを見かけたクリスティアーネは、ショックのあまり心臓発作を起こし、意識不明の昏睡状態に陥ってしまった。八ヶ月後、彼女は奇跡的に意識を取り戻す。だがその間にベルリンの壁は崩壊し、東ドイツという国家は消滅していた。クリスティアーネに精神的なショックを与えることは致命的だと医者に宣告されたアレックスは、今も東ドイツが繁栄を極めている「現実」を、姉夫婦や恋人、仕事仲間らと捏造し続ける……。

コメディタッチのドラマである。母のために旧東ドイツの服や食料品、調度類を買い集めるアレックスらの姿は「おもしろくてかなしい」のであるが、テレビが見たいという母の要求に応えるため、友人と東ドイツのニュース番組をでっちあげるビデオを作成するくだりになると、「おもしろい」「かなしい」ではすまない普遍的な世界観を突きつけられているようで苦しくなった。私たちが知り得る現実はマスコミが恣意的に作り上げたものでしかないという危うい構図が、ここで見事にカリカチュアとして表現されている。単に旧社会主義国家の閉塞した状況を描いているだけではない批判精神をそこに見る。ユーモアがあって思わず笑ってしまうのだが、その後、妙にしんみりとした気分になる。これがまさに「おもしろうてやがてかなしき」の芭蕉の心境を呼び起こす。

しかし、こうした批判精神以上に「グッバイ、レーニン!」がすばらしいと思えるのは、何より人間の心模様をしっかり描いているところだろう。母の死が近づいた日、アレックスは最後の捏造ニュースを流す。ホーネッカーが退陣し、東側世界が「寛大な心」で西側を受け入れるとするニュースを見ながら、優しく息子に微笑む母の目は、慈愛の光に満ちあふれていた。すべてを知りながら息子への感謝の気持ちから最後まで知らないふりをする。母もまた「騙されるばかり」の人間ではなかったのだ。

とてもよい映画であった。たとえて言うなら正露丸糖衣錠(謎)。

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69 sixty nine

妻夫木聡と安藤政信の2枚看板に加え、脚本が宮藤官九郎と来れば、ある程度の質は保証されたようなものだし、事実どうしようもない代物ということもないのだが、何だか今ひとつ乗り切れなかったなぁという印象のまま、最後まで流れてしまった。李相日監督の「69 sixty nine」。

舞台は1969年の佐世保。アメリカ軍の基地のあるこの街の男子高校生は、「女の子に受けたい、もてたい」という究極にして原初的な目的のために、日夜発情し続けている。折しもベトナム戦争や大学紛争などがあり、反体制派を気取って目立つ行動をするためのネタには困らない。何も考えていないようで、何かを考えているケン(妻夫木)とアダマ(安藤)は、「何かを強制される集団は醜い」と学校に反発し、ついに屋上封鎖を敢行する。そして目指すは自由と愛に満ちあふれたフェスティバルの開催。憧れの女生徒への恋心も絡んで、事態はますます複雑化していく……。

原作は村上龍の同名小説である。戦争のダメージから抜け出し、高度成長期に突入する「われらがニッポン」をも背景にして、当時の文化や流行(11PMや「平凡パンチ」、奥村チヨ、ストーンズなどが登場)をふんだんに取り込む映像は、スピード感にあふれていた。しかし、である。それがどうも観客不在で走っているように思えて仕方がなかった。1969年への思い入れや当時の知識の有無、濃淡だけが問題ではないだろう。「こんなにすごいものを集めたんだぞ、どうだ、おもしろいだろ」という押しつけがましさを感じるのである。俳優陣はもとよりすべてにおいて金に糸目をつけない豪華さがかえって鼻につく。それが物語を心から楽しめない一番の理由であろう。体制に反発する姿を描く映画そのものが観客に立ちはだかる体制になっているという、大いなるパラドックス。

ありていに言えば、「好みに合わない」というこちら側の事情がすべてである。俳優たちの演技や脚本そのものに不満があるわけでもないし(原作者は好きじゃないけど)。結局、「大東映の看板」が……、というところに行き着くのかもしれない。なんだか時代錯誤でバブリー(無駄に資源を使う)な印象だけが残る映画だった。

そういえば「世界の中心で、愛をさけぶ」のヒロインの誕生日は、1969年10月28日だったなぁ。69年、今年の流行か!?

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2004.12.20

ゴジラ・ファイナルウォーズ

楽しみにしていたヘドラの登場時間は、おそらく10秒ほどだろう。10分ではない。10秒である。エビラとともに東京湾から出現したとたんに、ゴジラの熱線で雲散霧消した。

キングシーサーもアンギラスもラドンもクモンガもカマキラスもハリウッドゴジラも、まともにスクリーンで暴れる怪獣は皆無である。怪獣はゴジラの前に出てきた瞬間、熱線や尻尾の一撃で退場させられる。出番はゴジラに遭遇するまでのせいぜい数分間。千切っては投げ千切っては投げの繰り返しである。これはいったい何なのだろうか。これほど多くの怪獣を登場させる必然性がどこにもない。懐かしい面々の単なる顔見せだった。

そこではたと気がついた。監督の北村龍平は「あずみ」で上戸彩に百人斬(二百人だったかも)をさせていた。それとまったく同じ結構ではないか!

たくさんの怪獣を出して最初から最後までバトルシーンを並べれば盛り上がるのだと勘違いした世紀の大失敗作。さすが上戸彩の百人斬しか話題にならなかった「あずみ」の監督、北村龍平の考えることである。同じことをゴジラでやろうとしても駄目である(どうせやるならキングギドラを百匹、モスラを百匹出せばよい、ド派手でよろしい)。ゴジラ全作品の中でも最低の出来だと思う。東宝チャンピオン祭後期の「アイドル・ゴジラ」、混迷の平成ゴジラシリーズよりも圧倒的に酷い。怪獣のプロレスの合間に、地球人とX星人のプロレスが入る。ドラマはなきに等しい。ひたすら人間の格闘と怪獣の格闘が交互に描かれるのみ。こんなダイジェスト以下の映画の何を楽しめというのだろう(ちなみに楽しめたのはX星人役の北村一輝の怪演技のみ)。

興味深い記事がある。12月9日の朝日新聞朝刊「文化総合」欄に江戸木純なる映画評論家の評が掲載された。「ゴジラ・ファイナルウォーズ」公開直後のことである。私は江戸木の文章を読んで、さほど期待していなかった本作が大いに楽しみになった。曰く「2作目以降、シリーズ中最も面白いゴジラ映画の誕生」「究極の格闘技映画と捉えた今回の方法論は極めて正しい」「人間の登場人物にも怪獣並みのアクションをさせることで、怪獣シーンとドラマの間にあった違和感の解消に成功した」、そして「ここには怪獣映画に求められるものがすべて詰まっている」等々。書き並べていて空しさだけが残る。これほど酷い提灯記事を読むのも久々である。映画観賞後の怒り(いや、本当に怒ってました)は、おそらくこの江戸木の騙し討ちのような記事のせいもかなりある。

社会や歴史への痛烈な批判者として誕生したゴジラ。常に時代のメタファーを体現しながら存在し続けたゴジラ。物語そのものの巧拙はあっても、制作者や鑑賞者に愛されたゴジラ。そういうものがすべて欠落した最新作にして最終作のゴジラ映画に存在意義などない。消えろ北村、そして消えろ、ゴジラ。

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2004.12.16

雨鱒の川

初恋。

甘美な響きを持つこのことばをそのまま映像として定着させようとしたのが、この映画である。監督の磯村一路も「『雨鱒の川』は初恋の物語です」とパンフレットの解説で語る。遠い昔に過ぎ去り美化される一方の初恋というのは、一種のファンタジーである。ここに故郷と母の愛情という甘い要素まで絡んでくるから、勢い非現実的な描写まで駆使することになり、結果、存在感に乏しい夢見がちなおとぎ話になってしまった。

広い北の大地に母(中谷美紀)と二人で生きる心平(須賀健太)には、小百合(志田未来)という幼なじみがいた。小百合は聾唖の障害を抱えるが、心平とだけは深く心が通じ合っていた。将来を固く誓う二人を釣り師の秀二郎(柄本明)はいつも優しく見つめている。やがて成人した二人(玉木宏・綾瀬はるか)は、ともすれば現実の波に押し流されそうになりながら、互いの胸に秘めた思いを貫こうとする。ある日、絵の腕を見込まれた心平に、東京へうって出るというチャンスが巡ってきた。初めて離れて暮らすことになる二人の仲はいったいどうなるのか……。

異能者(画家としての心平)と妖精(ピュアな存在としての障害者小百合)の恋物語という究極のおとぎ話的設定はひとまずよいと思う(捉え方が古くさいけど)。ところが、そこここに盛り込まれたエピソードがお手軽なので、映画全体が安普請に感じられてしまう。たとえば恋のライバルが登場するとか、遠い地へ片方が流されるとか。あまりにもありきたりな展開というほかない。さらに演出面で意図があったのか、俳優の演技がどれも軽い。ふわふわとした甘いお菓子のように軽い劇を、そのまま北海道の美しい自然の中に置いてみましたという感じしか受けない。ドラマとしての見せ場である小百合を巡る男たちの諍いや感情のやり取りもどこか芝居じみて見えるし、どうせうまくいくのだろうという先の読める展開はいかがかと思う。説得力を欠いたおとぎ話に魅力はない。

物語の鍵を握る二人の友人の雨鱒(魚です)がキューピッドの役目として登場してくる。映画のタイトルにも使われる重要な存在である。しかし、CGで描かれた嘘臭い動きの魚を見るたびに気分が萎えていったのは私だけだろうか……。人生の伴侶を見つけた雨鱒と同じように、心平と小百合が筏に乗って川を下っていくラストシーンは、鼻白む思いで見るしかなかった。葉加瀬太郎の素敵な音楽も、物語と合わさるとその文脈に引っ張られてしまい、微妙にずれているというか、齟齬があるように感じられて落ち着かなかった。

磯村監督、傑作青春映画「がんばっていきまっしょい」を撮った後は、どうも迷いがあるように思えるのだが、どうなんだろう。梅田ガーデンシネマで鑑賞。

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2004.12.14

ロスト・イン・トランスレーション

渋くてかっこいい映画だと思った。趣味のよい大人が地に足をつけてきちんと作った映画である。なんだか軽いまとめだけれど。

ハリウッド・スターのボブ・ハリス(ビル・マーレイ)は、コマーシャル撮影のため来日した。しかし、慣れない異国にいる不安感に苛まれ、しだいに気持ちが沈んでいく。同じホテルには、写真家の夫(ジョバンニ・リビシ)の仕事に同行してきた若妻のシャーロット(スカーレット・ヨハンソン)が滞在していた。夫は仕事に追われるばかりで一向にシャーロットに構わず、彼女もまた言い知れぬ孤独と不安に襲われていたのであった。ある夜、ホテルのバーで居合わせた二人は、同じ心の揺れを持つことを感じ取り、急速にうち解けていく……。

コッポラといえば、フランシス・F・コッポラを思い出す私は、かなり遅れているかもしれない。この映画の監督ソフィア・コッポラはそのフランシスの娘である。これまで俳優やモデルとして活躍してきたという。

まず「ロスト・イン・トランスレーション」では絵が極めて印象的である。ここでソフィアが写真家としても活動していたことを思い起こすのもよいだろう。冒頭、来日したボブがタクシーの中から東京の煌びやかネオンの洪水に目を奪われるシーンがあるが、東京の俗悪さや胡乱さが見事なまでに美しさに昇華している。目が悦ぶと言っては言いすぎだろうか。異国の相貌に目を奪われるのはボブだけでなく、観客もまた同じ立場から映画の中に一気に引きずり込まれる。この後もステレオタイプ的に東京や日本を捉えるのではなく、なるほどこういう見方をするのかと思わされる描写が続く。とてもおもしろい。

ドラマも秀逸である。過剰な演出、押し付けがましい感動、嘘臭いドラマは用心深く排除されている。見知らぬ大人が異世界で親密になっても、その関係は進展することもあるし、しないこともある。さらに微妙な距離感を残して終わることもある。この点をドラマとして描ききった点に深く共感する。ビル・マーレイとスカーレット・ヨハンソンは、異文化の中の異邦人の不安、そして中年男と若い女性の関係を余計な感情表現をせずに丁寧に浮き彫りにした。

映画はユーモア、インテリジェンスにあふれ、演出には抑制が利いている。無理矢理感動させようとする煽りもない。なんでもかんでも「ホテルへゴー!」したり、「異国の中心で愛をさけべ」ばいいというものではないのだ。こういう映画がもっと多くの人に知られることを切に望む。

公式サイト

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2004.12.11

今年の朝日ベストテン映画祭

前年12月からの1年間、関西の劇場で公開された映画を対象にした「朝日ベストテン映画祭」の今年の入選作が発表された。日本映画のベストテンは以下のものである。

  1 誰も知らない
  2 父と暮らせば
  3 ヴァイブレータ
  4 血と骨
  5 ジョゼと虎と魚たち
  6 ふくろう
  7 隠し剣 鬼の爪
  8 花とアリス
  9 リアリズムの宿
  10 下妻物語

見事にツボである(笑)。観たもの、観ようと思いながら行けなかったものばかりである。パスしたいのは4と7くらい。「きょうのできごと」がないのは残念なところである。朝日ベストテン映画祭のいいところは、これらをまとめて安く再上映してくれることである。劇場で見逃したのはぜひとも行きたいなぁ。特に「花とアリス」。DVDでもう十回以上は鑑賞したけれど、大きな画面で蒼井優を見たいのだ。また外国映画もあるが、ほとんど見ていないからリストは出さない。「ミスティック・リバー」「グッバイ、レーニン!」「モーターサイクル・ダイアリーズ」あたりはレンタルも開始しているので見てみようと思う。

さてこれらの秀作、いくつかを除いて、きっと来年2月の日本アカデミー賞では完璧に黙殺されるはずである。乞うご期待(笑)。権威(たとえばカンヌ)に弱いから「誰も知らない」は必ず入るだろうけどね。

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世界の中心で、愛をさけぶ

とてもよくできた予告編である。全編を見終えた後、DVDに特典として収められているものを見て、そう思った。そして同時に、「これだけでいいではないか」という身も蓋もない感想を持った。ありていに言うと、本編はこの予告編を2時間18分に引き延ばしたものでしかない。「泣かせよう、感動させよう」という饒舌なあざとさがない分、素直に物語の山場を並べる予告編の方が本編より遙かにできがよい。

興味深い記事がある。「文藝」2004年春号(2004年2月)は行定勲監督の特集を組む。この雑誌の巻頭に行定のロングインタビューが掲載されている。まもなく「きょうのできごと」と「世界の中心で、愛をさけぶ」が続けて公開開始となる時期のことである。行定は言う。

『きょうのできごと』が一番ドラマがない(注:行定作品を振り返ってのこと)。でも一番やりたかったのはこういう映画だっていう感じはすごくしているんです。今のところこれが自分のベストワンだっていうことは言えると思います。多分しばらくは超えられない。

もちろん直後に公開される作品の批判などできるものではない。しかし、少なくとも行定の中で「きょうのできごと」と「世界の中心で、愛をさけぶ」の序列または愛情のかけ方に結論は出ている。私はここで行定の撮った東映の大作「GO」を思い出す。

「GO」では要するに、自分のスタンスとか自分のポジションとかはまったく何も考えなかった。ただ東映っていうプレッシャーだけ。東映が満足するものって。

このことばの「GO」を「世界の中心で、愛をさけぶ」に、「東映」を「東宝」に置き換えれば、実にうまく理解できる。それくらい「世界の中心で、愛をさけぶ」は行定作品の色から遠く異質なものである。「世界の中心で、愛をさけぶ」は行定が最もやりたくないはずの「ドラマにあふれた」物語であるのはいうまでもないだろう。行定の持ち味である日常生活のあるかなきかの微妙なうねりを掬い取るような繊細さは、この映画にはまったくない。これは純愛の名を借りたジェットコースタームービーであり、いったん乗ったが最後、涙を無理矢理流すまで止まってくれない。涙を流せない人は度し難い不快感を胸一杯に溜め込んで終わる。

アテネオリンピックが佳境を迎える頃に掲載された朝日新聞の文芸時評で、担当の島田雅彦は片山恭一(「世界の中心で、愛をさけぶ」原作者)に対して「世界を舐めきった態度に唖然とした」と言い放った。片山の何が島田の言を呼び込んだのか。9・11を迎える時期に多くの文学者が社会との関係性についての態度表明を行った。その一人に片山がいたのである。片山は、テロリズムのはびこる世界情勢をアメリカ的価値観がもたらした閉塞感、空虚感が導き出したものだとし、だからこそそういうものとは異なる生の様式=純愛を人々は求め、『世界の中心で、愛をさけぶ』がベストセラーとなったと言うのだそうだ(私はオリジナルは未見、島田の要約に仮に従う)。この「自分も改めて生と死を見つめていく」という作家は、白血病でヒロインを殺し、その死を見つめながら、「自分探し」をするメロドラマで巨額の富を得たのであった。どこが9・11とつながるのだ? テロリズムはメロドラマが解決するのか。片山にはぜひ「イラクの中心で、愛をさけんで」もらいたい。

監督の手を離れた作品は観客のものになっているから、最終的な評価を下すのは享受者である。その意味では「世界の中心で、愛をさけぶ」は成功した映画である。物語にすべてを預けてひたすら泣きたい人にはお勧めするが、しかし、自分の想像力と感性で対象を味わいたい人には、決して勧めない。考える余地を残した数分の予告編を私が褒める理由もおわかりいただけようというもの。なお片山恭一の原作本はまったく読みたいと思わないが、川内倫子の空の写真を使った表紙だけはほしいと思う。

いたずらに長くなった。後日、整理するかもしれません。ひとまず閉じる。

肯定派のためにファンサイト
もうひとつ。大量の感想リンクあり。Kazuakiの映画日記

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2004.11.24

ハウルの動く城・続

嶽本野ばらが「ハウルの動く城」を見て、「素直に泣かされてしまいました」と書いている。24日付朝日新聞朝刊の文化欄である。

嶽本の感激する点は至極明解である。すなわちハウルは「カッコ良くて、キザで、デモーニッシュなくせに、妙に無邪気で、弱い部分をぽろんと見せたりする」男であるからだ。「女のコにとっての理想の男子像」を持つハウルからのストレートな愛情に、「恋愛のビギナー」ソフィーが一生懸命に応えるという点も重要であるらしい。嶽本節全開である。まさにボーイ・ミーツ・ガールの典型といえよう。

こうした嶽本一流の「乙女の視点」からの分析は、立場がはっきりしているだけに、対象への評価に異論はあっても飲み込むことが容易である。もちろん嶽本は頭がよいので、「ハウルの動く城」を手放しで褒めちぎるような真似はしない。このアニメ映画への予測可能な批判もきちんと想定して記事に盛り込んでいる。曰く、「これまでの作品と比較すれば、ストーリーラインが粗く、ご都合主義、平凡な恋物語の要素が前面に押し出されているので、物足りなさを感じる人もいるはずです」と(私だ……)。これについては、深読み可能な作品群(「もののけ姫」や「千と千尋の神隠し」)を通過した者だけが口にしうる、「シンプル・イズ・ベスト」の境地に達したためであると説く。「インテリジェンスの放棄」とも。うまいな、嶽本。

シンプルな「ハウル」にも読み解く楽しみはもちろん存在する。あまり深入りすると鑑賞者の知的作業と愉悦を奪い去るのでほどほどにしようと思うが、ハウルの住む城自体がハウルの外見と内面を表すメタファーとなっており、それが物語の展開に伴って次第に変化していく。そのあたりは映画のテーマを知る上で重要な部分だろうし、誰しも気がつくと思うのだけれど、物語内で明示的に説明があるわけではない。他にも見た者が意味づけすることで生気を帯びる箇所はいくつかある。ただそうした箇所は前作や前々作に比べると少なく思えるし、知らなくても特にどうということはなさそうである。そういう意味では確かに「シンプル・イズ・ベスト」であろう。

嶽本の評を読み、なんだかおもしろいなぁと思ったので追記した。前エントリーの助けになれば幸いである。もっとも私には「乙女の視点」に立つのは難しいけれど。

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2004.11.23

ハウルの動く城

ドラえもんの声優が代わる。

2005年の春からドラえもんとともに、のび太・しずか・ジャイアン・スネ夫ら主要キャラの声優が交代することになったという。あまたのニュースや新聞で報じられており、すっかり国民的関心事になっているといってよい。大山のぶ代以下、担当していた声優たちの声は、すでにそれぞれのキャラクターの血肉となって、分かちがたく記憶されている。心情的には代わってほしくない。ただ彼らが高齢(平均年齢六〇代後半)であることは否めず、この先櫛の歯が欠けるように担当者が交代していくよりは、一気に世代交代をしてしまって、新生ドラえもんを生み出す方が得策かとも思う。ドラえもんと同じく声優の交代が難しそうなサザエさんでは、すでにカツオ(初代は大山のぶ代)など一部声が変わっているが、早くから馴染んでいるものには、部分的な変更に大きな違和感を感じてしまうからだ。

声優はキャラに寄り添い個性や人間像を創り出していく一方、決して生身の自己の存在を感じさせてはならない。私たちはドラえもんの声が大山のぶ代であることは知っているが、ドラえもんはドラえもんである。彼の声の向こう側のリアルな事情は、よほどのことがない限り脳裏をよぎることはない。それがアニメキャラと声優の幸福な関係であると思う。逆に演じる声優の生身の存在を感じると、たちまち物語そのものへの関心や感情移入が妨げられてしまう。こう感じるのは私一人だけのことだろうか。というのも、宮崎駿監督の新作「ハウルの動く城」で、いかに声優の顔が見えないことが、アニメにとって重要であるかを思い知らされたからである。

公開直後二日間の興行収入新記録を樹立した「ハウルの動く城」は、前作「千と千尋の神隠し」の勢いからすれば、ある程度予想できたことだろう。私は公開二日目、日曜日のシネコン・レイトショーの部で見たけれど、翌日が月曜であるのにも関わらず、超満員で驚いた。しかし、驚いたのはそこまでで、肝心の映画には最後まで違和感を感じながら、居心地悪く二時間を過ごしたのであった。誤解を恐れず言い切ると、これはハウルとソフィーの物語ではなく、キムタクと倍賞千恵子の物語である。

映画が公開される以前、漏れ聞こえる各種メディアの噂では木村拓哉の声優ぶりが酷いらしいとささやかれていた。しかし、実際に見たところでは技術的に問題があったようには思えない。むしろハウルがキムタクそのものに見えることが大いに困った。自然体といえば聞こえはいいが、役作りも何もないのではないかと思うしかない。私はスマップの映画を見に来たのではないのだがなぁなどと思っていると、今度はソフィー、いや倍賞千恵子である。俳優倍賞千恵子の演技力にはいささかの不満もない。ドラえもんでは七〇歳の人が小学校五年生を演じている。でも一八歳のソフィーは、どこを切っても六三歳の倍賞千恵子なのだ。木村ハウルよりこちらが遙かに問題だと思った。無理に一八歳から九〇歳まで一人で演じる必要があったのだろうか。そして倍賞自身に演じ分ける気持ちはあったのだろうか。そこがよくわからない。キャラクターに透明感がなくなる(俳優自身が見える)と、その澱みばかりが気になって、物語を楽しむどころではなくなってしまった。有名俳優を起用することは、今後一考を要するだろう。

いたずらに長くなってしまった。映画としては細部の描き方に杜撰さが感じられ、また展開も性急である。「もののけ姫」や「千と千尋の神隠し」と比べると、声優の問題は差し引いても全体の完成度は低いと思う。物語のあらすじやキャストなどは公式サイトで確認されたい。ワーナーマイカルシネマズ茨木で鑑賞。

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2004.11.21

華氏911

第57回カンヌ映画祭のパルムドール受賞作品。マイケル・ムーア監督の華氏911

私の苦手な戦争も血も死も出てくる映画なので、まったく見る気がなかったし、実際に劇場に足を運ぶこともなかったのだけれど、レンタル店でパッケージが壁のように並んでいるのに騙されて(!?)、つい手に取ってしまった。案の定、生理的に受け付けない描写シーンに思わず目を背けることになった(イラクでの戦闘はつらいものが……)。しかし、観賞後の印象はそれほど悪いものではない。

おそらくそれは世に喧伝されるほどの政治的なプロパガンダを感じなかったからということよりも、表現者としてのムーアの純粋さやひたむきさに心をうたれたからといってよい。ムーアの個人的視点によって描かれた本作は、ドキュメンタリーであってドキュメンタリーではない。それを偏見や誤解に満ちていると批判するのはたやすい。「華氏911」を欺瞞に満ちた映画だと決めつけた時点で、この作品はするりと身をかわして逃げ去るばかりである。

私たちは中立とか公平とか穏当という「世間の良識」をひとまず棚上げし、ムーアの語るところに静かに耳を傾けるべきであろう。それは思想や内容ではない。生きる姿勢といってよい。偏っていようと一面的な見方であろうと、自分の感じたままに自分の考えたことを自分の文法と言葉できちんと形象化する、その彼の信念と方法論こそが大切であると思う。私はその点において、「華氏911」は凡百の映像作品と一線を画していると思う。中立公平を標榜しながら、まずいことや肝心なことを何一つ伝えない某国のマスコミの酷さの方が、よほど偏向している。人畜無害どころか、極めて有害。そして無能。タランティーノのパルムドール決定に至る判断は、この映画の思想内容や刺激的な映像に対する評価ではなく、表現者ムーアの姿勢に対するものであったことを強く信じる。

ジョージ・ブッシュは再選を果たした。ゴアに勝った時のような裏事情があるのかどうか知らない。しかし、非ムーア的な考え方をする人々(=ブッシュ支持)がかの国には多くいることもまた事実である。ここから先は私たちの問題である。

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2004.11.13

1980

蒼井優の出演した映画を探していたら行き当たった。演劇界で人気があるらしい演出家ケラリーノ・サンドロヴィッチ(どこの国の人かと思っていたら、日本人だった)の初映画監督作品であるが、彼のことは寡聞にして知らなかった。ただもう一も二もなく蒼井優。「1980」は1980年12月の東京を舞台にした三姉妹の恋愛や生活をコミカルに描く。

ジョン・レノンが暗殺された翌朝、元アイドルのレイコ(ともさかりえ)は教師になるべく母校に教育実習にやってきた。極度の恋愛依存症であるレイコは数々の醜聞をまき散らした挙げ句、芸能界から逃げるように引退したのであった。しかし、懲りることを知らない彼女は実習初日から男子生徒に手を出す騒動を巻き起こす。その高校は父(串田和美)が校長として、姉カナエ(犬山イヌコ)が教員として勤めていて、さらに妹リカ(蒼井優)が生徒として在学している。レイコを巡る一家の悩みは深い。そんな折も折、レイコの元マネージャー(田口トモロヲ)が彼女の過去をすべて曝す暴露本を刊行した。騒動はさらに広がる。カナエはカナエで、リカはリカで個人的な問題を抱えており、いっそう頭の痛いことになってきた。さて……。

小気味のよい展開で、二時間を一気に突っ走る。細かな笑いを呼び起こすフックがそこかしこに仕込まれており、気がついた分だけ笑えるような造りになっていると感じた。ジョン・レノン暗殺に始まり、聖子ちゃんカット、スライム、ルービックキューブ、YMO、テクノカット、横浜銀蝿、初代ウォークマンなど、1980年当時の風俗や小道具が満載である。しかし、これらの小道具はあの時代の雰囲気や空気感を感じさせるために機能してはいない。もっぱら現実(現代)とは異なる異世界を形成するモノとして働いている。それは一種のファンタジーであるこの映画にふさわしいやり方だと思われる。無理矢理1980年に依存するような演出をすれば、かえって不自然な展開を生まなければならなくなっただろう。火星人が火星でどんな生活をするかを描くことに、我々はリアルさなど求めない。それと同じである。

姉妹を演じた三人はいずれ劣らぬ個性を発揮して楽しませてくれる。犬山イヌコっておもしろい人だ。また脇を固める俳優たちも監督の人脈の力でおもしろおかしい人たちが続々と登場していた。及川光博の演じる演歌歌手は最高である。ミッチーはああ見えて歌が上手いですね。最後に。蒼井優の聖子ちゃんカットは似合わないなぁ。そしてそれ以前にあの髪型、今見たらとても不自然で変なゴージャスさがある。80年代は良くも悪くもあの髪型の印象そのものの時代だった。

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2004.11.10

福耳

脚本家の宮藤官九郎が唯野未歩子とともに出演したビタミン剤のCMが好きだった。フリーマーケットで変なものを売っているという設定である。二人してあまりやる気のなさそうな緩さが、フリマの雰囲気をよく醸し出していたと思う。他にも二人で電車に乗って無駄話をしているというのもあったはずである。いずれにしても脚本家として飛ぶ鳥を落とす勢いとなる前の話である。その頃は唯野未歩子にだけ惹かれて、宮藤官九郎の方は貧相で気の薄いやつだなぁという印象しかなかった。その宮藤官九郎が俳優専業で主演したのが「福耳」である。

浅草にある高齢者向け高級マンション。その場限りのことしか考えていないフリーターの高志(宮藤官九郎)は、ここのレストランで働くことになった。初出勤の日に入口で妙な老人(田中邦衛)に声をかけられる。しかし、直後にその老人、富士郎はすでに亡くなっていたことを知らされる。富士郎はマンションに住む憧れの千鳥(司葉子)の行く末を思い、高志に取り憑いたのであった。一つの体に二つの人格を持つことになった高志は、自ら思いを寄せる元看護士の珪(高野志穂)と千鳥の間で揺れ動く日々を送ることになったのであった。さて二つの恋の行方は……。

フリーターと高齢者の増加は、ともに社会問題として取り沙汰されて久しいけれど、両者を組み合わせることで一つの物語が生み出された。物の怪、死霊が登場するという点で、完全なるファンタジー、絵空事の世界である。しかし、見終えた後には現実的な手応えを感じた。この世に思いを残している死者とこの世でなすべきことを持たない生者という、相反する存在が一つの体で共存することのおもしろさがまずあるが、何よりこの絵空事に素直に入り込めるのは、一人の人間の成長と変化という「リアルな現実」を見て取ることができるからであろう。人間の成長譚をストレートに描きすぎると、独特の臭みのようなものを感じるが、この作品ではユーモラスな描写の効果でその種の臭みもうまく消されていると思った。

コンビニの前で意味なくへたり込んでいそうな今時の若者を、宮藤官九郎が違和感なく形象化している。田中邦衛や司葉子以下、ベテラン有名俳優陣のはつらつとした演技も、彼らの楽しさがよく伝わってきて好ましい。監督は劇場用映画初監督となる瀧川治水。脚本は、今村昌平監督の「うなぎ」「赤い橋の下のぬるい水」の冨川元文による。

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2004.11.08

蛇イチゴ

私たちは意識しようがしまいが、常に何者かになりながら毎日を過ごしている。家では子供として、父として、妻として……。外では友人として、上司として、同僚として、客として……。さらにそれぞれのキャラクターに色を付けるべく、優しい父として、物わかりのよい子供として、貞淑な妻として……と、これはもうあげていくとキリがないほどである。「蛇イチゴ」はある日突然家族がそれまで演じていた役割を捨て、仮面を脱ぎ去ったらどうなるかという物語である。何が真実であるかが厳しく問われる。

ベテランサラリーマンの父は、堅固で誠実な人柄で、周囲からも厚い信頼を得てきた人です。父は一家の要、敬い、慕ってやまぬ大樹のような存在です…ということになっていました。 そんな忙しい父を支え、家庭をきりもりする母は、ここ数年痴呆の重くなってきている祖父の介護を厭うこともなく、強く朗らかに毎日を受け止めています…ということになっていました。 温かい家族に見守られながら、幼い頃からの夢だった小学校の教師として働いている私ですが、職場で出会った優しい恋人と、もうすぐ結婚…ということになっていました。(公式サイトより)

「ということになっていました」との文言からわかるように、これらはすべて「仮の姿」である。父(平泉成)はリストラされ、あちこちに多額の借金を抱えながら、今も会社に勤めている振りをする。母(大谷直子)は気の休まらない家庭に不満を持ち、介護にも心底疲れ果て、ひどい円形脱毛症に悩んでいる。そして祖父の死をきっかけにして、それまでの隠された真の姿がすべて表に出る。葬儀に押しかけてきた金融業者によって父の秘密はばれてしまうし、祖父の死の危機に見て見ぬふりをした母もすっかり居直ってしまった。温かい家庭だと「勘違い」していた倫子(つみきみほ)の恋人は、「だまされた」といって離れていった。家庭崩壊である。そこに現れたのが、父から勘当された生来の詐欺師である長男、周治(宮迫博之)だった。

周治はいろいろな「顔」を使い分けることで、世間を渡ってきた。それは家族に対しても同様である。彼こそが人間関係とは互いにある役割を演じ合うことであるというのを、最もよく理解していた。周治の多面的な生き方は父のよくするところではなかったが、結局、そこにこそ真実があったのである。「蛇イチゴ」の実のある向こう岸、周治が飛び越えた川を倫子は飛び越えることができなかった。それはいつも「よい子」で生きてきた倫子だけが、仮面を脱ぎ捨てられずにいることを象徴しているのかもしれない。少しもの哀しいラストシーンは、しかし、なぜか温かい気持ちになるものでもあった。

西川美和監督はこれがデビュー作である。脚本も監督の手による。今年は「誰も知らない」でよい年となったであろう是枝裕和監督がプロデュースする。佳作。

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2004.11.07

笑う蛙

平山秀幸監督の代表作といえば、原田美恵子の凄みのある演技が強烈に印象に残る「愛を乞うひと」であろうか。思えば昨今社会問題として顕在化している児童虐待を、あれほどまでに明確に映像化している映画は珍しいと思われる。もっとも大作、秀作ではあっても、描くものがものだけに後味のあまりよくない映画ではあるのだが。好き嫌いというレベルでいうと、むしろ平山監督の映画では牧瀬里穂が好演した「ターン」や、「笑う蛙」でも主役を演じた長塚京三の「ザ・中学教師」がおもしろかった。あまり肩に力の入りすぎない娯楽作である。

笑う蛙」は藤田宜永の『』を原作とするもので、主演は長塚京三と大塚寧々である。これをそのまま映画化すれば、たいそう深刻かつエロティックなものになったと思う。でもこの映画ではそうならなかった。

銀行の支店長を務める倉沢逸平(長塚京三)は、バーのママ(南果歩)に入れあげた挙げ句、マチ金に多額の負債を抱える。その埋め合わせとして銀行預金を横領するが、すぐに発覚して指名手配されることになった。逃走を重ねてたどり着いたのは、妻、涼子(大塚寧々)の実家の持つ別荘だった。涼子は涼子で平凡な夫婦生活に飽き飽きしており、夫の不祥事に乗じて家を処分し、別荘に移り住んでいた。思わぬ場所で鉢合わせをする二人。逸平は涼子に匿うことを願い出るが、すでに新しい恋人(國村隼)のいる彼女は自首を勧める。そして涼子は彼が離婚届に判を押すことを条件に、一週間だけ匿うことを約束した。かくして逸平の納戸生活が始まった。外界と彼を繋ぐのはわずかに空いた節穴のみ。そこから見える世界は……。

ギャグである。コメディである。精神的に成熟しない「大きな子供」ばかりが集まったかのような家庭劇が展開される。それぞれがそれぞれの立場から勝手なことばかり言ったりしたりする。そこがおもしろおかしいのだ。シリアスな場面はすべてはぐらかされて変なところに落とされる。なぜか心地よい。覗き見しながら妻への怒りを燃やす逸平(そんな資格なし!)の姿や、全員が出揃ってからのちぐはぐな攻防が見所であろう。こういう間の抜けた映画(わかりやすい感動などどこ吹く風)、好きである。映画を見終えると、「虜」という原題が「笑う蛙」という漫画的なものになったことも納得できよう。

典型的なB級邦画である。劇場公開時に見逃し(あっという間に公開終了)、レンタル店にも並ばないこの作品が、地上波で放映された。こんなこともあるのだなぁ。

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2004.11.05

オーバードライヴ

いささか古くさい例で申し訳ない。

「巨人の星」の大リーグボール
「あしたのジョー」のクロスカウンター
「タイガーマスク」のウルトラタイガードロップ
「サインはV」のX攻撃

他にもまだまだあるはず。

主人公たちが困難に直面する。そして復活する。その時には必ず「必殺技」をひっさげて復活する。決して丸腰で立ち上がるヒーローやヒロインはいない。しかもたいていは「別世界での鍛錬」を伴う。ああ、そういえば、ルーク・スカイウォーカーも惑星ダゴタに赴いて、ヨーダのもとでジェダイになるべく修行に励み、中途半端にフォースを身につけたのでありました。

乱暴に話を進めると、おそらくこうしたパターンはこの種のヒーローものには定番といっていい展開であろう。日本の古代物語にもよく見られる話型(貴種流離譚、異郷訪問譚)で、特に珍しいものではない。光源氏だって、都の政争から避けるため、須磨明石へ流離したけれど、しっかりと未来の后となる娘(これが貴族の必殺技)を明石君に孕ませて帰ってきたのであった(本来ならば折口信夫のことにも触れないわけにはいかないが、今はうっちゃることにする)。ようやく本題に。「オーバードライヴ」はまさにその貴種流離譚そのものの展開を持つ。

人気絶頂のバンド「ゼロデシベル」の記者会見で、天才ギタリストの弦(柏原収史)はヴォーカルの美潮(鈴木蘭々)から突然追放を宣告される。男女の痴話喧嘩の果ての騒動であった。泥酔した弦は謎のタクシー運転手に下北半島まで連れ去られ、そこで津軽三味線の後継者として芸を叩き込まれることになった。そのタクシー運転手こそが伝説の津軽三味線家元の五十嵐五郎(ミッキー・カーチス)であった。やがて腕を上げた弦は三味線王座決定戦「アルティメット大会」に出場することになった。しかし、そこには悪魔に魂を売り魔性の技を会得した倉内宗之助(新田弘志)がいたのである。さて戦いの結末は、そしてゼロデシベルの将来はいかに……。

ヒーロー(弦)が追放され、異界(下北半島)に赴く。そこで必殺技(津軽三味線)を身につけ、はなばなしく復活する。貴種流離譚そのままである。この映画は細部をリアルに描くことよりもとにかくストーリーを面白おかしく転がすことを優先している。もちろん同じモチーフ、同じ展開でも、もっとリアルに三味線修行を描き云々ということもできたはずなのに、この映画ではそれをやらなかった。したがってCG、アニメも含めて、非現実的な描写が続出する。「オーバードライヴ」はそういう映画なのである。だからそれは欠点や短所にはならない。わははわははと笑い飛ばせばよいと思う。すごい演奏だと嵐になって観客が吹き飛ぶし、ジミー・ペイジの置き土産だというダブルネック三味線だって登場します。

主人公の弦を取り巻く女性陣についても一言述べておこう。鈴木蘭々は久しぶりに見た。子供が小さい頃よく「ポンキッキーズ」を見ていた。スチャダラパーのBOZEと電気グルーヴのピエール瀧、そして安室奈美恵に鈴木蘭々が進行役を務めていた。なんとも中途半端にゴージャスな組み合わせであった。それ以来。懐かしい。また五郎の孫娘役の杏さゆりは、NHKの100語の英会話でおなじみである。コーパス君の女性アシスタントがまさか津軽三味線家元の孫でぬんちゃくを振り回すとは思ってもみなかった。テアトル梅田で鑑賞。

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2004.11.02

笑の大学

月に一度の「映画の日」である。たまたま空いた時間があったので、何かを見に行くことにした。ちょうど「笑の大学」と「オーバードライブ」の2本が公開直後で狙い目である。ところが、後者を上映しているテアトル梅田は、独自に第1水曜日を「映画の日」にしている。ちぇ。仕方がないので、ワーナーマイカルシネマズ茨木で上映している「笑の大学」にする。混雑して座席がなくなると困るので、e席リザーブで予約をした(あいかわらず手数料を100円取るのはどうなんだろ)。

平日昼の時間帯にしては観客が多いのは、やはり1000円の威力だろう。私の真後ろに座っている人からの見えない圧力(おそらく120キロ超)と耳に喧しい鼻息が気になったが、それは言ってはいけない。しかし、映画が始まるやいなや、この巨躯男、大きな鼾をかき始めるではないか。それはもう映画館では言語道断だろうと思えるほどの「大音声」である。おそらく人よりは映画館によく出かけているはずだが、ここまで大胆不敵に熟睡する人に出くわしたのは初めてである。彼は1000円で仮眠場所を求めていたのだと思うことにする。「心頭滅却すれば火もまた涼し」である。

閑話休題。

笑の大学の舞台三谷幸喜の関わる映画は「12人の優しい日本人」「ラヂオの時間」「みんなのいえ」「竜馬の妻とその夫と愛人」に続いて5作目となる。「笑の大学」はテレビドラマ「古畑任三郎」でコンビを組んだ星護に監督を任せ、自身は脚本を担当する。三谷といえばまず舞台ありきで、過去のテレビや映画になった作品も、もともとは舞台用であったものが多い。「笑の大学」もそうした作品の一つであるが、他の作品と決定的に違う点がある。それは「笑の大学」が三谷作品のベスト、最高傑作であるという評価がすでにできあがっていることである。このハードルは極めて高い。しかも登場人物がたった二人の密室劇である。これをいかに2時間の映画として見せるのか。

昭和15年、警視庁保安課取調室。検閲官向坂睦男(役所広司)は、劇作家である椿一(稲垣吾郎)の書いてきた新作の検閲をする。「喜劇など上演する意味がない」とする向坂は、椿の試みをことごとく否定するが、椿は椿ですべてを受け入れながらさらにおもしろいものを作り上げてくる。期せずして、向坂の否定的発言は、皮肉にも脚本をどんどんおもしろくする方向に働いてしまうことになった。やがて芽生える友情。そして完璧な喜劇台本が完成する。ところが……。

密室でのドタバタ劇(つまりは演劇的な舞台設定)は「12人の優しい日本人」や「ラヂオの時間」でお馴染みのスタイルであるが、出演者の少ない「笑の大学」は、さらに濃密な演劇的時空間を意識させる。二人だけでどうなるかと思われた点については杞憂に終わった。舞台となる場面を変えるとか、新しい登場人物によって別の人間関係を構築するなどの方法が取れないだけに、すべては二人の器量にかかってくる。役所広司と稲垣吾郎の話芸、腹芸、演技が実に知的でスマート、さらに熱意も感じられ、しっかりと画面に惹き込まれた。冷徹な向坂が椿という触媒によって次第に変化していく様が破綻や飛躍することなく丁寧に描かれている。そしてこの映画にとってはそれがすべてであろう。星監督と三谷の挑戦は成功していると思う。

もちろん映画は映画であり演劇では決してないのであるが、そういうジャンル分けをひとまず忘れてもよいのではないかと思わされた2時間であった。ワーナーマイカルシネマズ茨木で鑑賞。

余談:ところで、三谷脚本の大河ドラマ「新撰組!」は、御贔屓の麻生久美子(おりょう役)が出ているのだけれど、一度もチャンネルを合わせたことがない。おもしろいのかなぁ。

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2004.10.31

バーバー吉野

放課後の誰もいない教室で、好きな女の子のリコーダーの匂いをかぐ。

この描写一つで「バーバー吉野」という映画を許せそうな気がする。

とある山あいの田舎町には古くからの言い伝えがあって、男の子は全員が「吉野ガリ」という髪型にしなければならなかった。町唯一の床屋「バーバー吉野」のおばちゃん(もたいまさこ)が刈るその奇妙な髪型の伝統は、100年以上も続いているという。ある日、誰一人として「吉野ガリ」を疑問に思っていないこの町に、東京から茶髪のかっこいい転校生がやってきた。クラスの女子は彼に夢中である。それを見た「吉野ガリ」の少年たちに、ある思いとたくらみが湧き上がってくるのだった……。

「バーバー吉野」は、伝統の名の下に自由や人権を弾圧する権力者(大人)に対し、自らの権利を獲得しようと戦う子供たちの物語である、と言ってしまうと、この映画にはかっこよすぎる説明になる。正しくは、なんとかして女の子にもてたい男どもが、日夜発情して大騒ぎする物語というところであろう。その大人と子供の攻防の象徴が「吉野ガリ」という変な髪型なのであった。一種の少年たちの精神的成長譚とも言えようが、やはり女子の気を惹きたい男どものもがく姿を描く映画という方がふさわしく思われる。だからこそ説教臭くなく愛すべき佳作になっていると思う。

小学校高学年の男子がやりそうな「おバカな行動」が続出する。冒頭のリコーダー・ネタもその一つだが、なんだかニヤニヤとさせられることが多くて、それがなんとも心地よいほのぼの感を生んでいる。物語の鍵を握る東京からの転校生の描き方が薄っぺらいとか、反体制派(子供)が是、守旧派(大人)が悪というわかりよい対立関係を強調しすぎるとか、映画の中には生硬な部分も散見される。しかし、総体的にはとても楽しめる映画になっていると思った。第13回PFFスカラシップ作品として製作された、荻上直子監督の長編デビュー作である。今後に期待したい。

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2004.10.16

イン・ザ・カット

若い頃のメグ・ライアンが好きだった私には、ここ何作かの「無理矢理ラブコメする姿」は、正直言って見ていて辛いものがあった。むろん老年や中年のラブコメディもある。しかし、メグ・ライアンのそれは、どう見ても「恋に恋するうら若き乙女」もしくは「美しき結婚に憧れる女性」の物語である。大学生には小学生を演ずることはできない。その種の違和感をどう精算するのか。はたして「ラブコメの女王からの脱却」を目指す彼女が選択したのは、女性性を全面的に強調したサスペンスであった。

タイトルの「イン・ザ・カット」は公式サイトの解説によれば、「ギャンブラーが、他人のカードを盗み見るときに使う言葉。意味は隙間、隠れ場所。語源は女性性器。転じて、人から危害を加えられない、安全な場所のこと」という意味を持つスラングであるという。とすると、このタイトルは実に見事にこの映画の内容をトレースしている。物語の端緒はフラニー(メグ・ライアン)の覗き見であり、殺人事件発生後は、物理的に隠れ家たる住居から引き出され、心理的には深く封印されていたとおぼしい性的な情熱をさらけ出す。そして凶悪な渦に巻き込まれながらも、最後には安息の場(男である……)を得るのである。この共鳴する関係はうまいと思う。主題曲の「ケ・セラ・セラ」も象徴的に響く。

結局、「イン・ザ・カット」はサスペンスらしい事件の謎解きよりも、ヒロインの内面的な変貌を描くことを主としている。したがってサスペンスとしては物足りない憾みがある。しかし、それもメグ・ライアンの新境地開拓のためとあらば、致し方ないことかもしれない。この映画が注目される最大の理由はそこにあるはずだから。ただメグ・ライアンほどの人生経験を積んだ女性がこの役を演ずると、どうしても新境地開拓というより単に自分の経験をさらけ出しただけという感じがしてしまう。難しいものである。

こうしてメグ・ライアンが濡れ場に挑んだ映画として記憶されるであろう本作は、荒木経惟の言う「メグ・ライアンのおっぱいが最近はやりの巨乳よりずーっとエロい」ということばに尽きるのかもしれない。もっともこの作品を女性が見た場合、どういう受け取り方をするのかということは気になる。結末には少しだけ救われたが、血生臭い描写があちこちにあって、苦手なものには辛い絵となることも言い添えておこう(私は目を細めて見た)。監督ジェーン・カンピオン、制作総指揮ニコール・キッドマン。なおサスペンスゆえにストーリーの紹介は極力控えることにした。あしからずご了承願いたい。

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2004.10.13

珈琲時光

台湾の侯孝賢監督が小津安二郎生誕100年記念のオマージュを捧げた。キャッチフレーズは「21世紀の東京物語」である。

小津の最高傑作と言われる「東京物語」は半世紀前の東京を舞台にしたものだった。尾道に住む老夫婦(笠智衆、東山千栄子)が東京で暮らす息子や娘を訪ねるというストーリーは、劇的なドラマも感動の押しつけもなく、淡々とそれぞれの人物の立場と感情を紡ぎ出す。その静謐な世界と映像美は、小津映画の最高峰にふさわしいものであると思う。「珈琲時光」が「東京物語」の嫡子であると名告る以上、どこまであの傑作に迫っているのか、公開前から気にならないはずはない。

物語はフリーライターの陽子(一青窈)、古書店に勤める肇(浅野忠信)を中心にして、彼らが陽子の両親や肇の親友たちと過ごす夏の日々を描く。人の生活とはこういうものだと言わんばかりのドラマのなさが、かえって重みを感じさせている。選ばれる舞台も今時の東京ではなく、高円寺、神保町、御茶の水といったいわゆる昭和的な空間が主となる。このことで、現代的な要素(携帯の多用、積極的なシングルマザーなど)を取り上げながら、どことなく懐かしい雰囲気を濃厚に漂わせることに成功している。また俳優陣の静かな佇まいと振る舞いもそうした雰囲気作りに寄与していると思われる。さらに小津的演出として、低いアングルからの視点、場面転換を印象づけるための乗り物、真横から撮影する食事の風景……。これらもまた懐かしさに連動する。

全編、自然光だけで撮影された映像は、独特の空気感と広がりを感じさせて、とてもすばらしいものになっている。東京の空気はこれほど綺麗なのかと驚かされた。パンフレットによると、すでに撮影済みのシーンでも、別の日に光の状態がよければ、幾度でも撮り直しをしたそうである。俳優やスタッフにはたまらないことだろうが、できあがる作品にとってはこれ以上の幸せはない。そういう部分にふんだんに資金を投入する撮影のあり方に深い共感を覚える。

丁寧に作り込まれた「珈琲時光」は、淡々と流れゆく人の生活のある部分をきちんと浮き彫りにした。「21世紀の東京物語」になりえているかはにわかに結論を出しにくいが、一過性の刺激や感動を一方的に押しつけるジェットコースター・ムービーがもてはやされる今、こうした静かで穏やかな映画の存在は貴重である。テアトル梅田で鑑賞。

珈琲時光 公式サイト

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2004.10.09

花とアリス

論理的なドラマだけを展開するのではなく、また感覚的な映像美のみを追求するわけでもない。いい意味での緩い作りがとても好ましく、私にとっての岩井俊二作品のベストとなった。2時間15分、決して長くはない。

花(鈴木杏)とアリス(蒼井優)は幼なじみである。冬のある日、花は通学途中に見かけた高校生・宮本(郭智博)に一目惚れする。春になり、二人は宮本のいる高校に進学する。なんとか宮本に近づこうとする花は、彼の所属する落語研究会に入ったところ、ある事件が起きる。花はそのチャンスを逃さず、宮本を記憶喪失だと暗示にかける。そして自分は宮本から愛の告白をされたと言い含めるのであった。その嘘を取り繕うため、さらに嘘をつくことになる花。やがてアリスまで巻き込む大騒動となるが、今度は宮本がアリスに恋心を抱くようになる……。

もとはショートフィルムとしてネットで配信されていた作品の劇場公開版である。主役の二人、鈴木杏と蒼井優がとてもよい。それぞれが与えられたキャラクターを明確に演じており、時にシリアス、時にコミカルな凸凹関係は、女性版「弥次喜多」(旅はしないけれど)を見るような思いがする。前作の「リリイ・シュシュのすべて」について、「優れて美しくセンスのよい映像と心に染み入る音楽を持ちながら、肝心の脚本と描写には絶望的なまでに映画としての訴求力を欠いていた」とかつて述べたことがある。それはあまりにも作中世界のすべてを没個性的に一般化しすぎたことによる。ステレオタイプ化された総体としての「14歳の心理と行動」には目新しさもおもしろさもなかった。それが「花とアリス」では細部を細部としてきちんと描いているため、物語そのものに沈潜しやすい。そして一人一人が生きている(登場人物を絞り込んでいるのが奏功)。しかもそこには美しい絵と音が満ちあふれている。描写は軽やか、だが存在は重い。

ああ、褒めすぎかもしれない。騙された人、ごめんなさい。書いていることに嘘はないつもりです(笑)。

花とアリス 公式サイト

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2004.10.08

ディボース・ショウ

「バーバー」や「ファーゴ」で名を馳せたコーエン兄弟の新作は、意外にもラブコメディであった。メイキングの中で「自分たちには商業的すぎる」と語ったことが本音であるならば、その思いが映画の出来映えに影響してしまったのではないだろうか。ジョージ・クルーニー、キャサリン・ゼタ・ジョーンズ、ジェフリー・ラッシュ、ビリー・ボブ・ソーントンらの豪華な俳優陣を揃えても、監督が作品を愛していなければ、いいものにはなりようがない。

ディボース・ショウ公式サイト

マイルズ・マッシー(クルーニー)は、離婚訴訟専門の辣腕弁護士である。どんなに不利な係争でも必ず勝利を得る。夫の浮気現場をおさえたマリリン(キャサリン・ゼタ・ジョーンズ)は、多額の慰謝料を手にするはずのところ、夫の雇ったマッシーの巧みな戦術のために、何も得られないままとなった。マリリンは次から次へと富豪を狙い、結婚と離婚を繰り返すことで莫大な財産を築こうとしているのであった。その後もさまざまな手を使い、あくどくも合法的に相手の財産を手に入れようとするマリリン。そんな危ういマリリンに次第にマッシーは惹きつけられていく。やがて二人は……。

結婚を金稼ぎのための方便にするヒロインとその悪巧みを知りながら心惹かれる弁護士。敵対するはずの者が恋に落ちるというのは、ラブコメの王道であろう。最後はお約束通りのハッピーエンドとなるが、どうにも爽快感がないのである。変わり者や個性の強すぎる者、おかしなエピソードなど、ラブコメらしい仕掛けも十分あるし、主役の二人の演技にも特に気になるようなところはない。おそらくラブコメならではの破天荒さに欠けているのだと思う。「それはないだろう」という出来事を覆すさらに嘘臭いエピソード。その繰り返しと揺曳を楽しみながら、結末まで走っていく。それこそがラブコメの楽しみだと思う。ところが、この映画では深刻な事態も「何となく」過ぎ去り、その解決方法も「何となく」生み出される。だからノレないのだ。

どうせならコーエン兄弟らしいブラックユーモアたっぷりの実験的な「アンチ・ラブコメ」でもやってくれたらよかったのに。「餅は餅屋」ということを改めて知った。ラブコメが似合いすぎるあの女王様の新境地を描く映画についてはまたあらためて。

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2004.10.04

アイデン&ティティ

原作みうらじゅん、監督田口トモロヲ、脚本宮藤官九郎。演じる役者は峯田和伸・中村獅童・大森南朋・マギー・麻生久美子。これだけの人を集めて作られた「青臭い青春映画」は、意外なまで剛毅木訥でごつごつとした味わいであった。まさにストレート勝負の「アイデン&ティティ」。

バンドブームはあっという間に終わった。中島(峯田和伸)率いるスピードウェイ(中村獅童・大森南朋・マギー)は辛うじてメジャーデビューを果たしたものの、本当にやりたい音楽と売れる音楽のギャップに悩んでいた。メンバーの間にも微妙な亀裂が走る。「ロックって何だ?」と悩む中島の前に、ある日ボブ・ディランそっくりのロックの神様が現れた。ディランのメロディで啓示を与え続ける神に対して、中島は何を思い、どんな行動を起こしていくべきだろうか。中島を静かに鼓舞する恋人(麻生久美子)は、「君が何を伝えたいか、君自身のアイデンティティは何なのか、それが問題だ」と言い放つ。やりたいことを続ける楽しさと苦しさを抱えて、メンバーはステージに向かう……。

B級邦画としては、キャスト・スタッフの豪華さは特筆すべきものである。しかし、公開時にはほとんど話題になっていない。麻生久美子が出るというので楽しみにしていたのに、関西での公開はなかったか、あっという間に終わったか、どちらかである。惜しいことである(いや、麻生がというのではなく、映画が知られないまま消えたことがである)。映画自体は日本の古い物語によく見られる伝統的な貴種流離譚(苦境に陥った英雄が援助者の力で復活し繁栄する)の話型に沿ったもので、何のけれんもないシンプルな作りになっている。佳作といってよいだろう。

「やらなきゃならないことをやるだけさ。だからうまくいくんだよ。」

けだし至言である。閉塞した状況にある時に見ると、いろいろと考えさせられたり、身につまされたりするかもしれない。ただあまり小難しいことを考えずに、娯楽的な音楽物語として楽しむ方がよいと思う。人生教訓的なものを引き出そうとすると、たちまち俗っぽい腐臭にまみれてしまうだろうから。

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2004.09.12

スウィングガールズ

エンドロールが終わって劇場内が明るくなると、観客の多くがニコニコしていた。そして歩きながら口々に印象に残った場面の話をしている。そんな幸せな映画である。

矢口史靖監督の映画が好きである。脱力感満点(ついでに低予算度満点)の「ひみつの花園」でやられ(主人公を怪演した西田尚美にもやられた)、「ワンピース」「アドレナリンドライブ」「ウォーターボーイズ」「パルコフィクション」など、どれも気に入っている。「くだらない」と言ってしまえばそれまでかもしれないが、矢口の娯楽に徹する方法論が個人的なツボをストレートについてくるのである。新作の「スウィングガールズ」もまた、これらの系列に連なる快作であった。「ウォーターボーイズ」で相当儲けたはずなのに、持ち味のチープ感漂う雰囲気を失っていないのは、ファンとして嬉しい限りである。矢口は嬉しくないかもしれないけれど。

夏休みの補習をサボるために、友子(上野樹里)は12人の仲間を食中毒で倒れた吹奏楽部の助っ人に引きずり込む。しかし、誰も楽器などできない。そこにリコーダーとエレキギターとベースしかできない3人が加わる。難を逃れた唯一の吹奏楽部男子生徒である拓雄(平岡祐太)は、苦肉の策として彼女たちにビックバンドジャズを叩き込もうとする。ようやく形になってきて音楽の楽しさを感じ始めた頃、吹奏楽部の部員が復活してくる。不完全燃焼のまま活動を終えたガールズ……。一度スウィングする楽しさを覚えたら、もう止めることなどできない。東北学生音楽祭出場を目指して、暴走気味に彼女たちのビッグバンドへの愛は動き出す。

最初の動機は不純だが、やっているうちに本気になる、そして最後は感動的なフィナーレとくれば、これはもう大ヒットした「ウォーターボーイズ」とまったく同じ結構である。そこここに配されるコミカルなシーンと吹き替えなしで驚くほど聴かせるジャズの名曲の数々。一人一人があの年代にしか存在しえないキュートさや一途さや馬鹿っぷり(いい意味で)を見せつけてくれた。ふざけ半分の軽薄な演技や演出に見えるのだけれど、その背景には初めて手にした楽器であそこまで音楽として聴かせるほど集中的に練習してきたという真剣さがある。そういうものは自然と演技にも滲み出てくるだろう。だから結果的にただ軽くておもしろいだけの映画にはなっていない。愛すべき秀作であると思う。上野樹里と豊島由佳梨が特に光る。

それにしても土手を転がる自転車の中学生と、ルイ・アームストロングの名曲に乗って展開する猪のシーンには、本当に腹の底から笑わせてもらったなぁ。屈指の名場面(笑)。ワーナーマイカルシネマズ茨木で鑑賞。

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2004.09.02

忍者ハットリくん・ザ・ムービー

今年公開された日本の漫画やアニメを原作とする実写版映画は、思いの外、よい出来であった。特に「CASSHERN」(紀里谷和明監督)と「キューティーハニー」(庵野秀明監督)はそれぞれの世界観を存分に活かした佳作であろう。何より監督やスタッフ、俳優がその世界を愛していることがきちんと伝わってくるのがよい。そして今度の「忍者ハットリくん・ザ・ムービー」もまた、負けず劣らず制作者や出演者の愛が感じられる映画になっていると思う。

伊賀の里で修行を積むハットリカンゾウ(香取慎吾)は、父ジンゾウに命じられて東京へ最後の修行に出ることになった。「主以外に姿を見せてはならない」という掟を守りながら、主に選んだ小学3年生のケンイチ(知念侑李)とともに共同生活を送る。ケンイチの担任サトーが元甲賀忍者のケムマキ(ゴリ)であることを知ったハットリくんは、かつての恨みを晴らすべく勝負を挑むが、多くの甲賀忍者がもはや忍びの道を捨てたという。サトーもまた同じであった。同じ頃、都内では謎の連続事件が発生していた。被害者はいずれも外傷がないまま意識不明の重体になっている。やがて彼らは元甲賀忍者であることが判明、ハットリくんとケムマキはケンイチを連れ去った謎の事件の犯人と戦うべく、山中の廃寺へと向かう。「ハットリカンゾウ、ただいま参上!」。

特撮とCGを駆使した冒頭のアクションシーンからスクリーンに目が釘付けである。当初は香取慎吾のためのプロモーション映画かと危惧していたが、ハットリくんの世界が完全に香取を取り込んでおり、素直に物語を楽しむことができた。また全体の構図が単純な勧善懲悪でないことも好ましく感じた。ビジュアル面での演出は、異形異世界のものをあたかも現実の存在としてリアルに見せる方向で味付けすることもできるだろうが、ハットリくんではあえて変な雰囲気、世界観を隠そうとはしない。そのリアリズムからの決別や割り切り方が実に潔くて好感が持てる。きちんとハットリくんに感情移入ができるように仕向けられているため、「やりもしないで諦める方が格好悪いでござる」とか「掟だから守るのではなくて、自分が守ると決めたから守るのでござる」などというお約束のクサイ台詞も、天の邪鬼な気持ちにならず、すんなりと受け入れることができた。途中で目頭を熱くしていたのは秘密(笑)。

鈴木雅之監督はフジテレビの人気テレビドラマを数多く手がけている。思えば「王様のレストラン」「ショムニ」「古畑任三郎」などは好きでよく観ていたのだった(レンタルビデオでだが)。これなら続編も観たいと思う。TOHO CINEMAS 高槻で鑑賞。

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2004.09.01

ディープ・ブルー

毎月1日は映画の日である。先月は夏休み中の日曜日とあって、とんでもない混雑であったが、今回は夏休み直後の平日で比較的ゆったりとしているはずだ。「なんでお前がそこにいる」という突っ込みは受け付けません(笑)。

先週末に公開された二本の映画「ディープ・ブルー」と「忍者ハットリくん・ザ・ムービー」を観ることにする。いつも利用するワーナーマイカルシネマズ茨木では「ハットリくん」しかやっていないので、梅田に出てナビオ・シネプレックスへ行こうかと思ったのだが、ネットで公開劇場を調べてみると、開館間もないTOHO SINEMAS 高槻で両作とも上映中であった。近いのでそちらにする。

ワーナーマイカルシネマズには「e席リザーブ」というインターネット上で座席を購入できるシステムがあり、よく利用する。せっかく観る気で行ってもチケット売り場が長蛇の列だと気分が萎えるからである。ただ座席を指定できなかったり、手数料を取られたりする。楽にチケットを手に入れられるのだから、それについては仕方がないかと思っていた。しかし、TOHO SINEMASのネット予約は両方ともクリアしているのである。これはいい。考えてみれば当たり前のサービスではないのか。嬉々として2作分2000円(映画の日だから)のお買いあげである。

劇場はJR高槻駅に直結である。新しくできた商業ビルの5階にある。1階にはそれなりの規模の書店(新刊書中心)があるし、2階にはスターバックスやタリーズもある。高槻は隣町なのに梅田とは反対方向になるため、これまでほとんどまともに来たことがない。でもこれならしばしば来てもいいかと思わされた。肝心の劇場は今時のシネコンと大きく異なるところはない。いつも思うのだが、これだけスクリーン数があるなら、一つ二つはマイナーな邦画・洋画に割くことはできないのだろうか。どこもかしこも同じプログラムというのは、これまた文化的ファシズムを生むことになるのに。もちろん商業的側面を抜きにはできないのはよく承知しているけれど。

ゆったりとした座席に身を沈め、「ディープ・ブルー」を観る。ベルリンフィルの演奏する美しい旋律が流れ、ひたすら青い世界がスクリーンに展開する。「WATARIDORI」にあった人的演出はなく、海の生物の生きる姿がそのまま映像に絡め取られている。海洋生物好きは必見であろう。私はあまりの心地よさにしばし夢の世界に旅立ってしまったこと(しかも複数回……)をこっそり告白しておく。

シャチの狩りのシーンではアザラシやクジラが可愛そうでした(まるで子どもの感想文)。

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2004.08.17

ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS

1954年に誕生した初代ゴジラから数えて28作目、50周年記念作品「ゴジラ ファイナルウォーズ」をもって、このキング・オブ・モンスターもメディアから姿を消すという。監督が北村龍平というところですでに期待薄ではあるが、登場予定の怪獣はどれも懐かしい東宝チャンピオン祭を思い出させるもの(ガイガン・ミニラ・ヘドラ・モスラ・カマキラス・マンダ・クモンガ・アンギラス・キングシーサー・エビラ)で、それだけは楽しみにしている。併映されるハムスター映画目当ての子供に紛れながら、劇場で観ることになるだろう。

さて表題の作品は昨年末に劇場公開された27作目である。薄っぺらい近頃のゴジラシリーズは好きではなく、金子修介が監督した「ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃」(これは傑作だと思う)以外は、劇場はもとよりビデオでもほとんど観賞していない。これも先日レンタルで出たので借りてきた次第である。

何度もゴジラが日本を襲うのは、ゴジラの骨から作られた機龍(メカゴジラ)があるためだといい、それを放棄することで真の平和を得ることができるという論理は、すぐさま現代社会の核の存在や抑止力の問題を思い起こさせる。テーマや問題提起そのものは現代的ではある。しかしながら、結局はゴジラと機龍を戦わせなければならない必然性(=全面核戦争!)に、怪獣プロレス映画の限界や哀しさがある。観客層を考えると、ゴジラ映画は「ボウリング・フォー・コロンバイン」にはできない。初代ゴジラが極めて社会への問題提起に富んでいたことを思うと、同じようなテーマを選びながら天と地ほどの差がある。

映画の中のちょっとした場面に心は躍るものの、取り上げようとした重大かつ今日的なテーマがきちんと形象化されていないので、終わってみればあっさりとした印象しか残らなかった。これで残りあと一作か……。

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2004.08.14

サンダーバード

カウントダウンとともにオープニングのアニメが始まり、あのテーマ曲が流れ始めた。モダンにアレンジされているが、紛れもない「サンダーバード・マーチ」である。鳥肌が立ち、全身が痺れた。懐かしい友達が帰ってきた。しかし……。

国際救助隊サンダーバードは世界各地で発生する災害から人々を助け出す謎の組織で、今や世界的なヒーローとなっている。しかし、かつて彼らに救助してもらえなかったことを逆恨みするフッドは、サンダーバードに復讐を企んだ。フッドは宇宙空間に浮かぶ5号をミサイルで攻撃し、その救助に向かった兄弟のいない本拠地トレーシーアイランドを乗っ取ることに成功する。すべての制御を敵に奪われたサンダーバードは最大の危機を迎える。この危機から兄弟や父親を救うため、まだ正式隊員ではないアランが仲間とともに反撃に転じたのだった……。

イギリスと日本以外ではほとんど知られていない「サンダーバード」が、ハリウッド資本によって実写化されると知った時、勧善懲悪を強調した単なる冒険活劇になったら嫌だなと思った。果たせるかな、その心配は現実となってしまった。これはかつてのサンダーバード物語の前史で、末弟のアランがサンダーバードに加入するきっかけになる事件を描く。誰からも認められなかったアランが絶対的なヒーローとして悪と対峙し、最後は勝利を収めることで望みのものを手に入れる。けだし、ハリウッド映画の常套手法であろう。そしてそれはオリジナルのサンダーバードが持っていた最大の魅力を消し去ることになってしまった。

オリジナル・サンダーバードは、高度に発達した科学技術がひとたび暴走すると人知の及ばない大災害をもたらすという、まさに21世紀の我々が直面する問題を40年も前にテーマ化していたのである。このドラマの魅力は、善悪の戦いにあるのではなく、人類の存在を揺るがすほどの大災害から人々を救助し、過信しすぎた科学技術へ警鐘を鳴らし続けたことにある。この先見性に先進メカが組み合わさって、かつての子供たちは熱狂したのである。それはあたかも小さな子供が赤い異形の車に乗る消防士に憧れるのに似ている。

その視点を失ったハリウッド・サンダーバードは、続編を作ることになっても次々に敵役を生み出すしかないだろう。技術は最新にして旧態依然の内容しかない空疎なハリボテ映画にしかならない。たとえば原子力発電所の深刻な事故をきちんとした科学的な根拠を提示しながら救助活動をする、超高層ビルで発生した同時火災(911が脳裏をよぎるが)か