2006.08.08

笑う大天使

笑う大天使川原泉の人気コミックを原作とする。この機会に読んでみたところ、ほぼ原作の進行通りに映画も作られていた。お城のようなお嬢様学校(ロケ地は長崎ハウステンボス)で起こる出来事はひたすらファンタジーの様相を呈し、それらはすべてCGとVFXによって巧みに形象化される。話が話だけに、荒唐無稽な展開もすんなり飲み込むことができた。

ただしいくつかの点で2時間枠に収めるための「方便」がある。とにかく枝葉の多い物語(マンガなのに文字が多いぞ)なので、「ハチミツとクローバー」と同様の刈り込みや単純化が行われている。中でも主人公の三人娘のうち司城史緒(上野樹里)を中心人物と定めたところは英断だと言ってよい。物語に揺るぎない大黒柱が出現することで、観客は安心して史緒に寄り添い、彼女らの世界に没入することができるだろう。映画で新たに採用された設定、すなわち史緒の話す関西方言や大好物のジャンキーな食べ物なども、庶民を表象する記号として有効に働いた。すばらしきかな、お城とチキンラーメンのアウフヘーベン。上野とともに活躍する関めぐみ(「ハチクロ」に続いて好演!)と平愛梨も魅力的である。ことあるごとに上流階級を相対化する三人娘の視点や行動は痛快であった。

監督の山崎貴は「ALWAYS 三丁目の夕日」に続いてマンガを映画化したわけであるが、妙に情緒過多かつ道徳的で胡散臭い前作より、ひたすら楽しませることに専念する本作の方がはるかにのびのびとしているように思われた。 監督について事実誤認でした。本作の監督は小田一生です。

「嫌われ松子の一生」(中島哲也監督)の破天荒さには及ばないけれど、いい意味で無節操なエネルギーに溢れる作品となった。渋谷シネ・アミューズで鑑賞。

公式ブログ http://www.michael-movie.com/

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2006.08.03

DVDで観たものだし

早く書かないと印象が薄れてしまう。いや、もう薄れているかも。

■ライフ・オン・ザ・ロングボード
定年後の人生はいかなるものか。これからますますこういうテーマの物語が出てきそうな気もするが、この映画では、今は亡き妻と若い頃に約束したサーフィンに挑戦することで、「損なわれた本当の自分を探す」のである。そういう意味では少年少女が「まだ見ぬ自分を探す」のと、趣向は同じであろう。ただこの種の若者の物語につきもののほとばしる青い恋愛はない(当然か)。種子島の海は気持ちがよさそうだなぁ、と脊髄反射的な感想を吐いておく。大杉漣が初老サーファーを熱演する。次は誰の番?

公式サイト http://www.ntve.co.jp/lotl2/index2.html

仮面ライダー■仮面ライダー The First
オリジナルの「仮面ライダー」を思い出させるオマージュに溢れたものである。本郷猛と一文字隼人の二人がショッカーによって「バッタ怪人」に改造されたものの、やがて洗脳から覚め、裏切り者として狙われるという一連の流れは、少年時代の青臭い記憶を呼び起こして感動させられた(世代限定)。ボディースーツもサイクロン号も、さらにはショッカーの怪人も、オリジナルの雰囲気を濃厚に残しながら今風に造型されている。デジタル合成の死神博士(故天本英世)も登場する。しかし、何より特筆すべきは1号と2号の「愛の確執」が主題として据えられていることである。なんと二人は一人の女性記者を恋愛対象として奪い合うのだ(変身までして!)。世界平和はどこへいったのか。恋愛の本能の前には悪なんてどうでもいいということか。お子様向け映画のよくするところではない(笑)。

仮面ライダー The First解説
仮面ライダー The First公式ブログ

■愛してよ
西田尚美も母親役をするような年齢になってしまった。小学生の息子と二人暮らしの母親が、彼への愛情をモデルとして成功させるという教育熱に読み替えてしまう。やがてその行為が日々の暮らしの無力感や寂しさを紛らわせるための手段と成り下がった時、息子は母親に疑問を持ち始めることになる。「愛する」「愛される」という見えない感情を、目に見える目的に形を変えて追いかけるうちに、もともとあったはずの感情がどこかに置き去りにされてしまう哀しさ。父親との距離感や都市伝説の扱い方もおもしろかったが、一にも二にも主演の西田尚美の全編にわたる熱演が印象的であった。

カーテンコール■カーテンコール
邦画の公開はけっこうまめにチェックしているつもりだが、この映画は存在すら知らなかった。佐々部清監督の作品は、日本と韓国の高校生の遠距離恋愛を描いた「チルソクの夏」という佳作を観ている。この「カーテンコール」もそれと同じく両国にまつわる物語である。映画がまだ娯楽産業の中心にあった時代に幕間芸人として活躍した韓国人を、現代の日本人女性記者が探し出し、当時の家族に再会させるというものである。直球勝負の人情ものが苦手な人にはつらいかもしれない。幕間芸人を演じた藤井隆がよい味を出していた。伊藤歩はじっとしていても造作が派手なので、こういう地味な役柄にはちょっと合わない感じがした。

公式サイト http://www.curtaincall-movie.jp/

■空中庭園
角田光代の小説を原作とする(直木賞受賞作の『対岸の彼女』よりこちらの方がよほどよいと思う)。隠し事をしないというルールを持つ家族が、隠し事をし始めるとどうなるのか。そしていったん隠していたものを吐き出してしまうとどうなるのか。家族のあり方を考えさせてくれるかどうかはともかく、あけすけになりすぎることの怖ろしさを、文字通り背筋の寒くなる思いで見せつけられた。小泉今日子、怖い……。

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2006.07.31

ハチミツとクローバー

ハチミツとクローバー恋に落ちる瞬間を初めて見てしまった」という真山巧の台詞は、竹本祐太が花本はぐみ(右写真参照)に一目惚れした瞬間に吐き出されたものである。

「ハチミツとクローバー」を象徴するかのようなこの台詞のエッセンスを、映画では全面的に展開する。すなわち原作マンガに見られた細かなエピソードの枝葉を綺麗に刈り込み、5人の若者のストレートな恋愛話だけに話題を引き絞る。どちらがいいということではない。それぞれのメディアの特性を活かして作られていると解せられる。美大生の群像劇を描く原作マンガはうるさいくらい様々なエピソードを語ろうとするが(それこそが「ハチクロ」の魅力である)、映画でマンガと同じことをすれば、まったくまとまりを欠く悪しきオムニバスとなってしまうだろう。煌びやかな綾織物のごとき青春物語を楽しむなら原作マンガで、シンプルで力強い恋愛物語を楽しむなら映画で、そういうように感じた。

原作のキャラクターと映画の俳優のイメージのズレは致し方のないことである。むしろマンガのコスプレのような映画こそ工夫がないといえる(たとえば大谷健太郎監督「NANA」)。どの俳優も作中人物の持つ本質をよく理解してうまく演じていたと思う。原作への思い入れがよほど強い人以外、まったく問題にならないだろう。もっとも先に述べたように枝葉を刈り込んだため、各人物像の厚みという点においては若干の物足りなさを感じる憾みがある。5人の中心人物のうち、とりわけ山田あゆみ役の関めぐみがビジュアルも雰囲気もぴたりと決まっていた。ただし花本はぐみだけはマンガとは別物と考えた方がよいかもしれない。そもそもあのキャラを実写で再現するのは容易ではない。あくまでも監督、脚本家、演出家、そして蒼井優の生み出した花本はぐみである。この点について、私は蒼井に好意的であるがゆえ「あり」としたいが、原作ファンの意見などを聞いてみたいものである。

  恋が芽生え、つぼみが息吹き、
  花が咲くか、咲かないかは、
  わからないけれど、
  それまでの大切な時間のお話。

映画のパンフレットに記されたものである。「全員が片思い」というハチクロ・ワールドが、実は映画ではほんの少しだけ幸せな方向に振られている。それもまたよし。細部まで念入りに誂えられたセット、調度、美術作品の類はすばらしいリアリティを生み出している。同潤会アパートを使った男子学生の下宿や、いかにも昭和風の花本先生の一軒家も素敵だった。artekのダイニングセットを置く大学食堂なんてあるのかしら。おそらく自然光を最大限生かしているのであろう、少し輪郭がもの柔らかに見えるような絵作りも、「ハチクロ」にふさわしい演出として好ましく思われた。なんだか最後は思いつくままに。南町田グランベリーモール・109シネマズで鑑賞。

公式サイト http://www.hachikuro.jp/

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2006.07.22

春の日のクマは好きですか。

春の日のクマは好きですかこれはチラシにもパンフレットにも書かれているのだけれど、「春の熊」といえば、もう抗いようもなく必然的に村上春樹の『ノルウェイの森』でのワタナベと緑の会話を思い出すわけである。父を亡くした緑から「気持ちのよくなるような」言葉を求められたワタナベが、彼女のために喩え話をする、その一つとして「春の熊」は登場する。

春の野原を君が一人で歩いているとね、向うからビロードみたいな毛なみの目のくりっとした可愛い子熊がやってくるんだ。そして君にこう言うんだよ。『今日は、お嬢さん、僕と一緒に転がりっこしませんか』って言うんだ。そして君と子熊で抱き合ってクローバーの茂った丘の斜面をころころと転がって一日中遊ぶんだ。そういうのって素敵だろ?(『村上春樹全作品1979-1989』第6巻、334頁)

監督のヨン・イに『ノルウェイの森』のこのくだりを意識したのかどうか、確かめるべくもないが、映画の基調となるトーンは、まさしくこの文章の醸し出すなんともいえない温かさや幸福感である。夢見がちな少女(ペ・ドゥナ)が、図書館の美術書に書き込まれた連続する愛のメッセージ(スタートは「春の日のクマのように君が愛おしい」)をたどり、まだ見ぬ「王子さま」を見つけようとする展開は、観る者に謎解きとラブコメの二つの楽しみを味わわせてくれる。

ラブコメとはいえ、けっしてドタバタ劇に終始することはない。なにより十九世紀の名画(ゴヤ・ルノワール・カイユボットなど)が各所にコラージュされ、絵画本来の意味と映画での意味を二重に重ね合わせようとする知的な遊び心が、映画全体にしっとりとした落ち着きや深みをもたらしている。その中を稀代のコメディエンヌであるペ・ドゥナが自在に泳ぎ回っており、彼女の理想の「王子さま」との恋から目が離せなくなった。意外な結末とさりげなく散りばめられた若い恋人ならではのエピソードの数々に、柔らかな、それこそふわふわの熊のぬいぐるみを抱いたような気持ちにさせられたのであった。シネ・リーブル梅田で鑑賞。

公式サイト http://www.harukuma.com/

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2006.07.01

火火

火火田中裕子の出演する殺虫剤のCMがおもしろくていけない。変な歌を唄いながらスキップし、「もうどうでもええねん」と自虐的につぶやいたり、薬剤が消える防虫剤のCMで「私が消えたらどないすんのん」と切り返してみたりする。前任者の沢口靖子のものも笑わせてもらったが、平素のイメージとのギャップが大きい田中のそれは、衝撃度がさらに大きい。芸達者であり、プロ根性を強く感じさせる。

その田中が、骨髄バンクの立上げに尽力した陶芸家、神山清子を演じる映画が「火火」である。神山は極貧の中、女手一つで子育てをしながら、陶芸家として筆舌に尽くしがたい苦労を重ねていく。やがて夢であった自然釉を成功させるものの、今度は息子が白血病に冒される。息子を救うためには骨髄移植しか方法はなく、そのためのバンク設立に力を尽くしていく。

「愛を焼き込む」というコピーは神山の生き方を象徴的に表す。自然釉を成功させるために一心不乱に仕事に取り組み、その背中で二人の子供たちに人としてあるべき姿を教えていく。映画は神山の取る厳しい行為のどれもが深い「愛」によって裏打ちされていることを知らしめる。田中の重厚な存在感と演技力は、そのことをよく訴えかけてきた。ただ実話をもとにしているとはいえ、ドキュメンタリーではない。ために人物のわかりやすい類型化や涙を呼び込む映画的演出の見えるところはやや気になった。とはいえそれらは些事である。総じてきまじめな映画であるといえよう。「もうどうでもええねん」という映画ではない。

「火火」公式サイト http://www.vap.co.jp/hibi/
骨髄移植推進財団(骨髄バンク) http://www.jmdp.or.jp/

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2006.06.21

ALWAYS 三丁目の夕日

ALWAYS 三丁目の夕日のっけから皮肉っぽい物言いで恐縮だが、さすが2005年度日本アカデミー賞12冠の映画である。私にはこの映画のどこが感動的なのか、さっぱりわからなかった。あらためて感じたことは、日本アカデミー賞で評価される映画は、私にはまったく合わないということだった。なんなんだろう、この生温い映画は。

これはSFファンタジーである。昭和30年代風、東京らしい街、それらを物語の枠組みとする完全なる箱庭的SF映画である。その発想は完璧にステレオタイプに毒されており、たとえれば火星にはタコのような生物が住んでいると無邪気に信じているようなものである。町並みの昭和らしさはあまりにもあざとくて、ノスタルジックな雰囲気を醸し出そうと演出しているものの、どこまでも作り物臭く、これならば吉本新喜劇の舞台セットの方がよほど昭和っぽい匂いを感じさせるであろう。また脚本そのものもわかりやすく底の浅い人情話をいくつか組み合わせているだけで、これまた「いつかどこかで」見たり聞いたりした既視感を強く覚えるものであった。オリジナリティもリアリティもここにはない(巧みなCGならあるけど)。

そもそも、この映画が声高に叫ぶメッセージが、おおいに疑わしいのである。あの頃はほんとうによかったのか。貧しいけれど夢があったと言い切れるのか。夢といってもせいぜいテレビを買うとか、冷蔵庫を買うとか、そういうものでしかなく、大型液晶テレビがほしい、水を使わない全自動洗濯機がほしいという今の世の中と何が違うのか。結局、この映画の登場人物たちは、戦時中のもののない時代の反動として、ものに溢れた生活に過剰なる憧れ(それが「夢」だとしたらずいぶん即物的な夢である)を持っているに過ぎない。その「物欲」が「夢」に都合よく読み替えられている。やがて来る「一億総中流階級」指向へのきざはしが断片的に切り取られ、効率よくデフォルメされているだけである。「貧しいけれど、夢があった」「ほんとうの豊かさがあった」なんて笑止千万、それこそが「昼行灯の夢物語」である。

父親の病気で借金がかさみ、身売りする女がいる時代。子供が多すぎて生活が立ちゆかず、口減らしのために都会へ半ば強制的に集団就職させる時代。憧れの新商品を手に入れるために連日連夜働き、その陰で昔ながらの商売人が仕事を失っていく時代。映画で描かれるこれらの情景が真実であるかどうかはひとまずおくとして、「ALWAYS 三丁目の夕日」は当時の社会の抱える本質的な問題には何一つ答えようとはしていないし、そもそもその種の問題意識などはじめから持とうとしていないのであった。高度経済成長期の暗部をすべてなきものとし、夢見心地の上澄みだけを見せるやり方は、昨今の無責任なポジティブさを煽り立てる風潮に気味が悪いほど合致するものであろう。なにもかもを「ああ、夕日が綺麗だなぁ」ですませてよいものか。夕日の後には夜の深い闇が待っているのに。

俳優の熱演ぶり(堤真一など怪演だ……)がいっそうのもの哀しさを感じさせる。

公式サイト http://www.always3.jp/

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2006.06.15

嫌われ松子の一生

嫌われ松子の一生不幸せのファンタジー。不幸を娯楽化したらこうなるというお手本のような映画であった。しかし、そもそも不幸とはなんなのだろう。貧乏であることか。就きたい職につけないことか。他人のせいで裏街道に追いやられることか。望み通りの人生を送ることができないことか。

不幸のどん底に叩き落とされた松子の姿にどこか幸福感が漂っているのは、彼女が人生の岐路(あまりにも多すぎて、まるであみだくじだ!)において、いつも主体的に人生を選び取っているからではないのか。そうした主体性が彼女をして決定的に不幸からは遠いところへ連れ去っている。売れない作家と同棲し、ソープ嬢になり、殺人犯になり、やくざの愛人になり、最後は身を持ち崩して引きこもる……。上映後に感じる意外なまでの爽快感は、松子の生きるエネルギーに溢れた「前向きな不幸」によるものであるのは間違いないだろう。No.1ソープ嬢になるために明けても暮れても懸命にスクワットをする松子の姿こそ、彼女の生き方を象徴的に現している。

中島哲也監督はドラマチックすぎる松子の一生を、あたかもディズニー映画か宝塚歌劇かというようなド派手な演出で彩っていく。スクリーンに明滅する強烈な色彩、効果的に挟み込まれるCGとアニメーション、物語と密接な関係を持つ魅力的な歌曲群、一歩間違えば悪趣味、自己満足の謗りを免れないような演出が、どれも見事にプラスに働いている。相当個性的であった前作「下妻物語」をも、その面では完全に凌駕しているといえよう。もちろん松子を演じる中谷美紀をはじめとして、個性的すぎる俳優陣の熱演は、いわずもがなである。これまで小綺麗なだけで印象の薄かった中谷美紀、もしかすると一世一代の演技かもしれない。

インパクト大。いや、特大。好き嫌いはきっと分かれる。画面から溢れかえるエネルギーを存分に味わい尽くしたい人に。ワーナーマイカルシネマズ茨木で鑑賞。

公式サイト http://kiraware.goo.ne.jp/

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2006.06.07

花よりもなほ

花よりもなほ是枝監督は「花よりもなほ」について、パンフレットの中でこう述べている。

この映画、弱かった人が努力して強くなるといった”成長物語”の類ではないんです。
”弱いもの”が弱いまま肯定されるというか…周囲の人たちとの関係の中で、その”弱さ”の意味が変わっていく。

「一人一人をそのまま認めよう」というスタンスは、主演する岡田准一の先輩アイドルグループの「国民的歌謡曲」以来、もうすっかり食傷気味であるが、あえてこのことについて語るとすれば、「花よりもなほ」の主人公が「変わらない」まま周囲に認められたのは、「変わらない」部分にこそ尊重すべき真実や価値があったからであって、なんでもかんでも「そのままでいい」ということにはならないということだろう。偽善的言辞に惑わされてはならない。

変化がない、成長がない、と是枝監督はいうが、実はそうではないと思う。すなわち岡田演ずる青木宗左衛門は、「仇討ちの空しさ」「自らの弱さ」「他者の尊重」といったこと、江戸の武士にあっては認めがたいこれらの考えを、誰に憚ることなく全面的に肯定するだけの器量を身につけて、それを実行したのであった。これが青木の変化、成長でなくしてなんであろう。信念は確かに変わっていない。しかし、それを実行できるようになるのは大いなる成長である。青木を日頃から見ている長屋仲間は、そのことを知ってか知らずか、「変化せず変化していく彼」を認めると同時に、己の取り柄がなさそうな人生(されど懸命に生きる)に誇りを持っていくようになる。これまた変化であり、成長である。まさに青木たちは「糞を餅に変えた」のだ。是枝監督はこの台詞を何度か劇中で使っていたから、「変化のない変化」をしっかり意識していたのは間違いない。

是枝監督の作品は、どれも真実のありようと幸せの佇まいというものを静かに描こうとする。私はそのように受け取っている。「幻の光」、「ワンダフル・ライフ」、「ディスタンス」、そして「誰も知らない」。主題や題材は違えども、常に「私にとっての本当の真実や幸福」を考えさせられる(餅に変わる糞はあるのか!?)。時代劇である本作もまた同様である。テレビドラマ「タイガー&ドラゴン」の好演が印象的だった岡田は、ここでも悩める弱い武士をきめ細やかに演じていた。宮沢りえはうまいが痩せすぎ(関係ないか)。長屋の面々もみないい味わいだ。キャラがきちんと立っていた。見終えた後、なんとなく笑みがこぼれるような映画だった。過剰演出のわかりやすい悲喜劇を期待する向きには合わない映画であろう。間違っても「泣ける映画」ではない。ワーナーマイカルシネマズ新百合ヶ丘で鑑賞。

なお岡田が属するV6のメンバーが総出演する「ホールド・アップ・ダウン」も早くに観ていたのだが、これはアイドルが順番に顔を見せるだけのドタバタ劇でつまらなかった。よって特に語ることもなし。SABU監督の「弾丸ランナー」や「MONDAY」「Drive」などはわりと好きな映画だったのだが。

「花よりもなほ」公式サイト http://www.kore-eda.com/hana/

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2006.06.04

雪に願うこと

雪に願うこと北海道にしかない競馬がある。ばんえい競馬である。旭川、帯広、岩見沢、北見を巡回するこの競馬は、もともと農耕馬として使われていた体重1トンほどの巨躯を誇る馬が、ぬかるんだ障害付きの馬場を橇を引きながら豪快に走るものである。一般の平地競馬で見られるサラブレッドが500キロ前後であるから、 彼らがいかに大きな馬であるかがよく知れよう。その迫力たるや。第十八回東京国際映画祭でグランプリに輝いた根岸吉太郎監督の「雪に願うこと」は、このばんえい競馬を舞台にした映画である。

東京でビジネスに失敗し、かつて捨て去ったはずの故郷に戻るしかなくなった若者(伊勢谷友介)が、兄(佐藤浩市)の経営するばんえい競馬の厩舎で仕事をすることになる。映画は若者が自分自身に向き合って次に進むべき道を見つけるまでを描く。こうまとめてしまうと、よくある成長物語のように思われるが、実際に筋立てとしては極めて古典的な作りで、取り立ててどうこういうものはない。それでも最後まで飽きずに見させるのは、ひとえにばんえい競馬と冬の北海道に圧倒的な魅力があるからである。

そのあたりに転がしておけと思われるようなメロドラマでも、競走馬の巨体から立ち上る湯気や吐く息の白さ、剛健な筋肉、さらに万物を赤く染める朝日や広大な雪原が象徴的に映し出されてくることで、なんだかかけがえのない物語を見せられているような気がしてくるのだ。これではまったく褒めているように聞こえないかもしれないが、しかし、この映画の真価はそこにこそあると思うのである。けだし自然に人事を象徴させる手法は日本の古典文学以来の伝統である。だからまるで走らないけれど懸命に生きている鈍馬に、自らの生き方を重ねる主人公の陳腐な思考回路も許したくなる。兄弟の絆とか家族の暖かさとか、そういう道徳臭いのもいつもなら鼻につくのだが、この際どうでもいい。すべてがより大きなものによって生かされている。昨今流行の「泣ける」という単純な思考回路で見るべきではない。佐藤浩市は泥臭い役がよく似合う。伊勢谷友介も変にキレた現代風青年をやるより、ずっとよかった。また小泉今日子が中年のおばさん役を演じているのは見物だった。

ばんえい競馬に史上初の女性調教師が誕生したことを報じていたのは、記憶に新しいところである。次に北海道に行った折には、ぜひともばんえい競馬を見てみたい。それにしても根岸監督の代表作である「遠雷」を見たのは、もうずいぶん前のことだなぁ。調べてみたら1981年だった……。動物園前シネ・フェスタで鑑賞。

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2006.05.26

間宮兄弟

間宮兄弟観る前の唯一の心配は、この映画の原作者が江國香織であるということであった。独りよがりな生温い世界が展開されていると嫌だなと思っていた。しかし、それは杞憂に終わった。原作がいいのか(未読である)、脚本が見事なのか、そのあたりは判然としないけれど、全編を貫くからりとしたトーンと俳優陣の並々ならぬ力量によって、この映画にはとても心地好い時間が流れていた。

物語は一応ストーリーらしきものがありはするが、基本的にはシチュエーション・コメディー的場面の積み重ねが中心となる。そういう造作からいえば、荻上直子の「かもめ食堂」と似たものがあると感じた。両者が描き出そうとしているのは起承転結のある物語ではなく、主人公達の醸し出す空気感とか価値観であるという点、二つの映画を似たものとして並べるのはあながち的外れなことでもないように思われる。どちらも大いに楽しめる。

間宮兄弟を演じる佐々木蔵之介と塚地武雅のかけあいがいい。とりわけこれまでコミカルな役柄とは縁がなさそうな佐々木のはじけっぷりが微笑ましくもある。趣味というにはあまりにも濃すぎる二人の完結したライフスタイル(=オタクだ)は、他者を寄せつけない限りにおいて「永遠の微温」を保つことができるのだろう。ところが彼らはそれを自ら打ち破ろうとする。異世界の存在である「女性」を招き入れることで誘発される化学反応の妙味といったら! また間宮兄弟のペースに巻き込まれていく沢尻エリカ(ビデオ店バイト)と常盤貴子(小学校教師)のヒロイン二人もいい。オタクな二人を厭うこともなく、コケティッシュな魅力を振りまくことを忘れない。兄弟にとっての「世界に開かれた窓」はあまりにも刺激的である。

自分の好きなものを好きだと貫き通す心地よさを思い出させる。さまざまな「モノ」にあふれる間宮兄弟の部屋は、一度じっくりと見てみたいと思わせるものがあった。森田芳光監督作品。梅田ガーデンシネマで鑑賞。

公式サイト http://mamiya-kyoudai.com/

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