2006.07.26

感動作の舞台は東京

TYO 01リリー・フランキーの書くものが好きであるのにもかかわらず、『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』(扶桑社、2005年)はすっかり出遅れてしまい、気がつけば大ベストセラーになっていた。天の邪鬼ゆえ、「いまさらなぁ」とちょっとした「リリー・ブーム」に冷めてしまったところがあったのだった。あろうことか、彼があの「情熱大陸」にまで出演していたのにはびっくりさせられた。少なくとも「汚い靴を履く女子のアソコは十円硬貨のニオイがする」(『女子の生きざま』1997年)と言い放つリリー・フランキーはどこにもいなくなってしまった。

身銭を切った一編である。中川雅也(リリー・フランキー)という人物の実人生に密着しているであろうこの作品が、虚構か実録かはこの際どうでもよい。古き良き時代の「私小説」が21世紀に飛び出したと考えるのが、最も適当であろうか。物語は主人公「ボク」の幼少期から40歳あたりまでの生活を描く。主たるテーマは家族との関係や母親への思いである。

帯の「超泣ける」「超感動」(いい大人が「超」って、言うな!!)がますますこちらを白けさせてくれるが、そもそもここで披露されるネタの多くはこれまでのいくつかのエッセイに小出しになっていたものだ。それを時系列に沿って並べ直して一編の物語に仕立て上げている。読ませる物語に構成するというあざとさがない分、キレとかコクはエッセイの方が優れていると感じた。もっとも感情移入のツボにはまった人には「世紀の大傑作」に映るだろうことも否定はしない。ベストセラーになったからけちをつけるわけではなく、リリー・フランキーはコラムニストとしてものす文章が本分、本領だと思う。もしこの先も小説を書くならば、「身銭を切らない」ものを読んでみたい。

#どうでもいいけど、もし書店でこの本を見かけたら、ぜひ帯だけでも読んでみてもらいたい。あまりの酷さに悶絶します。

次。吉田修一『東京湾景』(新潮文庫、2006年7月)。なんだかテレビドラマみたいな話(出会い系サイトで知り合った品川周辺の男女の恋愛)だと思ったら、すでにドラマ化されていた(フジテレビ系)。吉田修一は都会で働く若者の思いをうまく絡め取った『パーク・ライフ』で芥川賞を取った。行間に揺曳する空気感のえもいわれぬ心地よさについて、以前こんなことを書いた。

村上龍は芥川賞の選評で『パーク・ライフ』について、「何かが常に始まろうとしているが、まだ何も始まっていないという、現代に特有の居心地の悪さ」や「あるのかどうかさえはっきりしない希望のようなもの」がこの作品には存在するという。確かに『パーク・ライフ』には物語を強力に前に運ぶ推進力のようなものや、腑に落ちる展開、結末などはない。代わりに「何もしなくてもいい場所」で点景として存在する人々のかすかに揺れる感情の残滓だけが方々に投げ出されている。もちろんその感情の行方は記されることなく物語は閉じられる。

それがどうだろう、この『東京湾景』の饒舌さ加減は。ここには読者に想像させる余地などまったく残されていない。お節介でおしゃべりな人がひたすら自分のことを語って、「以上終わり」という小説になってしまっている。置き去りにされた読者は呆然とするしかない。いや、全面的に物語に身を委ね「感動した」とつぶやくか。こちらも帯には「奇跡のラブストーリー」、裏表紙には「最高にリアルでせつないラブストーリー」の文字が躍る。なんだか。吉田修一、ちょっと困った方向に流れているような気がする(重松清もね)。

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2006.07.16

キャラクター小説のお手本

まほろ駅前多田便利軒三浦しをんの『まほろ駅前多田便利軒』(文藝春秋、2006年3月)を一息に読み切った。bk1amazonで検索すると、いずれも発送まで1〜3週間となっている。どうやら出版社の在庫も払底しているようで、さすが直木賞の威力は半端ではない。今期の直木賞は森絵都とのダブル受賞であったが、森の本はあまり好みでないので読む気もなく、一方、三浦のそれは今住んでいる町田市をモデルにしたものであるということから、にわかに読書魂(そんなもの、あるのか?)を刺激されたのであった。いや、東京の他の場所のことを何も知らないだけなんですけどね。

それで読みながらまず思ったことは、「いずれテレビドラマか映画になるだろう、なっても不思議ではない、なるはずである」ということであった。なにせ主人公の二人のイメージイラストがこれだから(笑)。ジャニーズ事務所あたりが放っておくわけはない。なにより物語の軽やかな疾走感が視覚メディア向きであると思った。

まほろ駅前多田便利軒東京の西のはずれに位置する「まほろ市(幻!?)」の駅前で、いかなる依頼も引き受ける便利屋の二人組が、ペットの世話や小学生の塾の送り迎え、納屋の整理などの仕事を通して、その背後にあるより大きな社会問題と対峙し解決していく。殺人事件や強盗などといった反社会的犯罪と戦うというようなものではないが、物語の構えは現代版「銭形平次」「明智小五郎」「半七捕物帳」といって、まずはよいだろう。「探偵」という職業はさすがに21世紀には非現実的だということか、いかなる存在にもなりえる「便利屋」とはうまい設定だと思わされた。推理ドラマ的展開を持つ短編が六編収められる。彼らの関わった事件の謎解きに加えて、彼ら自身が何者であるのかということも、物語が進むにつれて徐々に解き明かされることになる。作中人物の設定と物語の展開が密につながっており、ごまかすところがない。さらに話の転がし方が上手い。これまでの業績の積み重ねで受賞者を選ぶことの多い直木賞にあって、久しぶりに作品単独で評価されたとおぼしきこの書は、しばし涼やかな気分にさせてくれる佳作であった(ライトノベルのようで重みがないという批判はあると思うけど)。

#小説の価値はともかく、受賞作品が連続して文藝春秋関係のものばかりなのはどうかと思う。あと早稲田出身者に集中。他がへぼいと言われればそれまでか。

虚構小説の創作および読解のための手ほどきとして、詰め将棋のごとき「正統的理屈」を教えてくれる大塚英志『キャラクター小説の作り方』(角川文庫、2006年6月)。この書は、大家(たいか)となった小説家が自らの威厳を世に知らしめるために書きたがる「凡百の文章読本」とは志の高さがまるで違い、「小説、文章の分析とはかくあるべし」ということを鮮やかにかつ冷徹に提示する。独りよがりな経験論、哲学の押しつけのないところが潔い。そしてその大塚の説く「キャラクター小説の極意」は、『まほろ駅前多田便利軒』にそのままぴたりと当て嵌まることに驚かされる。パターン、抽象、組み合わせ、リアリズム……。これは実際に読んでいただくしかない。

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2006.07.15

美しいものは好きですか

sapporo #1高いところに登っては、そこから針穴写真を撮っている。非日常的風景が独特の美しい文様となって浮き出る様を楽しんでいる。これは札幌テレビ塔から大通公園を撮影したもの。2006年の雪まつりが閉幕した二日後のものである。

高いところから取った写真のスライドショー(数分間)

その札幌テレビ塔には設計者を同じくする兄弟が日本各地に存在する。すなわち名古屋テレビ塔、通天閣、別府テレビ塔、東京タワー、博多タワーがそれである。『タワー』(INAXギャラリー、2006年6月)は、内藤多仲が設計したこれらの塔のうち、東京タワー、通天閣、名古屋テレビ塔の歴史や裏話を紹介する。写真も満載で見て読んで楽しめる一冊である。この夏は東京タワーか通天閣から写真を撮ってみたい。

発想の転換で驚くべき視点を得た『原寸美術館』(小学館、2006年7月)に日本編が登場した。監修者は現代日本画の第一人者である千住博であり、どの作品にも読み応えのある解説が付されている。何より肝心の絵の印刷が極めて美しく、画家の筆遣いと息づかいがあたかも目の前に立ち現れるかのようである。それはまさに「原寸」のものしかなし得ないものであろう。

きままに街中の子供を写真に収めるのが難しい世相である。そんなことを以前子供をテーマにした写真集のエントリーで書いたことがあった。『内なるこども』(青幻舎、2006年3月)は、2006年4月に愛知県豊田市美術館で開かれた同題の展覧会に関連し出版されたものである。内外新旧の写真家、画家、美術家による「子供」をテーマにした作品が収められる。無邪気、無垢の存在として類型化された子供観を大きく裏切ってくれる意外性に満ちている。とても刺激的である。

おもしろおかしい仏像解説本といえば、みうらじゅんやいとうせいこうのものがよく知られている。山本勉『仏像のひみつ』(朝日出版社、2006年6月)は難しいことをたいへんわかりやすくまじめに解く良書である。読んでいて目から鱗がぼろぼろと落ちる。自分の蒙昧無知ぶりが恥ずかしくなるほどに。小中学生対象の仏像展覧会の内容がもとになっているという。丁寧に丁寧に語りかける文章は、「おじいちゃんが可愛い孫に語りかける口調」を思い起こさせる。イラスト、写真も満載で楽しい。

原寸美術館 タワー 仏像

最後にあと2冊。私の好きな女性写真家二人が、図らずも同時期に新書を刊行した。蜷川実花『ラッキースターの探し方』(DAI-X出版、2006年7月)と川内倫子『りんこ日記』(FOIL、2006年7月)である。蜷川の本は、彼女自身が半生を振り返る内容で、意外に知られていない「蜷川家」の裏側をうかがうことができる。天才特有の不遜さがかえって心地好い。川内の方は彼女のサイトで公開されている日記がそのまま一書に編まれている。「川内倫子」の名を外せば、そこらに転がっている誰かのブログと見分けがつかないほど、平々凡々とした日々の記録が続いている。作品を撮るローライとは違う携帯電話による写真が興味深い。

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2006.07.09

小説家の器量

見終えたのにもかかわらず、まだブログのエントリーにしていない映画がもう8本も溜まっている。本に至っては「予告編」の長々と続くリストから明らかなように、惨状というほかないありさまである。お片付けはボチボチと。

空を飛ぶ恋■『空を飛ぶ恋 ケータイがつなぐ28の物語』(新潮文庫、2006年6月)
2003年から三年間、「週刊新潮」に連載されていたKDDIの広告用短編を一書にまとめたものである。当代の人気作家28人が名を連ね、それを見る限りたいそう豪華なラインナップである。いずれも携帯電話をキーワードにして物語が紡ぎ出されるのであるが、同じモチーフを使うため、各人の技量才能得手不得手が如実に浮き彫りとなる。短編をよくする作家は少ない紙数をうまく使いこなしているのに対し、そうではない人たちのものは、闇雲に話を膨らませた挙げ句収まりがつかなくなったり、あまりにも矮小なことにこだわりすぎて話がちっとも見えてこなかったりで、とにかく酷い。これだけあれば好悪の感情に違いがあるのは当然なので、誰の作品がどうかというのは、直接確かめていただきたい。平野啓一郎のものが普段とまったく違う作風で驚いた。

新潮社のサイト http://book.shinchosha.co.jp/cgi-bin/webfind3.cfm?ISBN=120805-0

太陽の塔■森見登美彦『太陽の塔』(新潮文庫、2006年6月)
吉田戦車は『吉田観覧車』(講談社)の中で、大阪の万博公園にある太陽の塔のことを「神」と呼び崇め奉っていたけれど、私もあの塔に対しては同じような心持ちなので強い共感を覚えた。その「太陽の塔」を名に持つ小説、しかもファンタジーノベル大賞にも輝いているとあっては見逃すことはできない(文庫本になるまで見逃していたのは頬被り……)。無闇に青春を消費する大学生たちの姿は、いつの時代にあっても不変(いや普遍か)であろうか。変な妄想力と見当違いな行動力を持つ大学五回生がユーモラスに語られ、ケラケラと笑った後、なんだか他人事に思えないところにやるせなさを感じた。この小説のタイトルがなぜ太陽の塔でなければならないのか、いまひとつ判然としない憾みがあるけれど、同郷人のよしみで素知らぬふりをすることにする。太陽の塔ファンに悪い人はいない(決めつけ!)。上手い文章ではないが、ぐっと惹き込み読ませる力があると思う。

■江國香織『号泣する準備はできていた』(新潮文庫、2006年7月)
トヨタ・カローラ。長年安定した売れ行きを示し、多くの大衆にそこそこの満足感を与える力を持つ。どんな状況でも七十五点くらいを取るやつ。江國香織の小説を読むと、そのカローラを思い出す。一つ一つの短編は巧妙かつ強引に枠組みや人物配置が決められているようで、私にはどれもこれも作り物臭く感じられたのだが、かといって本を投げ捨ててしまいたくなるほど酷いということもない。まさに「そこそこ小説」である。江國は本作で2004年に直木賞を受賞した。長年のご活躍、ご苦労様……。

金原ひとみの芥川賞受賞作『蛇にピアス』が文庫化されていた(集英社文庫)。帯と折り込み広告に集英社のキャンペーンを担当する蒼井優が微笑んでいる。小説自体は「文藝春秋」掲載時に読んでいたけれど、解説が村上龍だったので買った。綿矢りさの『蹴りたい背中』はまだか。

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2006.07.07

吉田(電|観覧)車

吉田戦車による「車」シリーズの第2弾、第3弾である。第1弾の『吉田自転車』(講談社文庫)の脱力感が新年度の憂鬱さを蹴り飛ばしてくれたように、この『吉田電車』(講談社、2003年9月)と『吉田観覧車』(講談社、2006年6月)も梅雨時の鬱陶しさを爽快に吹き飛ばしてくれた。

吉田観覧車 吉田電車 夜のミッキー・マウス

吉田は筋金入りの鉄ちゃん(鉄道マニア)ではなく、また偏執狂的な遊園地リピーターでもない。電車については「嫌いじゃないけど、そういう企画だからあれこれ乗ってみる、そのついでに大好きな麺類を食べる」というスタンスだし、観覧車に至っては「高所恐怖症をネタにするため」だけに全国各地の遊園地を巡っていくのである。こういう具合だから、各所訪問の記録は脱線に脱線を重ねる。もはや目的や着地点すら見えないものも少なくない(乗る前に引き返してしまうことも!)。しかし、その緩いアバウトさこそが吉田の行動と文章の真髄であろう。しかも単なる痴呆的独善的馬鹿騒ぎで終わらず、ちらりちらりと毒を吐きながら的確な観察眼を披露する。褒めすぎか。

タワーの下にレストランがあったので、窓の外の離発着と「あやや命」などという落書きとともに回転を続ける観覧車をながめながら、よくのびているスパゲティをいただいた。(『吉田観覧車』128頁)

地味でありながら強烈な既視感と共感を覚える文章だと思う。私もこういうのをつるつると書きたい。

そういえばディズニーランドには観覧車がない。谷川俊太郎の『夜のミッキー・マウス』(新潮文庫、2006年7月)を吉田本の後に続けて読んで、そんなことをふと思った。さて、この詩集から何が見えるか。この問いには谷川自身のあとがきが答える。

「この詩で何が言いたいのですか」と問いかけられる度に戸惑う。私は詩では何かを言いたくないから、私はただ詩をそこに存在させたいだけだから。

嗚呼。私自身の感じたことは「永遠と刹那」か。少しだけ格好をつけてみる。吉田的ではないな。

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2006.06.28

センセイの仕事場 2

大学の先生が自分の授業の様子を一書にまとめる。商品価値はどのあたりにあるのか。

■松井孝典『松井教授の東大駒場講義録』(集英社新書)
理系の科目が憎い、というほどではなかったものの、どうしてよいものやらと悩まされた中学高校時代であった。その中で唯一、地学だけは大好きでうきうきと勉強していた。趣味のようなものであった。「地球、生命、文明の普遍性を宇宙に探る」という副題を持つ地球惑星物理学の権威による「惑星地球科学II」の授業本を手に取ったのは、そういう昔々の思い出のなせるわざである。

歯が立たなかった……。

脳内の欠片をかき集めたところでどうにもならないほどの圧倒的な高峰がそびえていた。それはそうだろう、日進月歩のこの世界であるから、そんな遙か昔の幼い知識だけではどうにもならないのは当然である。おもしろそうな匂いがするだけに、それを十全に理解しきれない自分自身の貧しい知力を呪わしく思う。いずれ再挑戦したい。

■石原千秋『学生と読む「三四郎」』(新潮選書)
では文系の授業はどれも得意であったのかといえば、そうではない。特に国語が苦手で、どうしても点が取れなかった。とりわけ夏目漱石と小林秀雄には嫌な思い出しかない。漱石の『こころ』は風通しの悪さばかりが鼻について、ちっとも物語に入り込めなかったし、小林の一連のエッセイ風評論は、独特の論理の飛躍について行けず、何を言っているのかほとんど理解できなかった。もちろん試験では赤点連発である。トラウマ……。

成城大学での石原ゼミの「近代国文学演習I」の実践報告である。石原は「ごくふつうの大学生が通う大学」の「いまどきの大学生」がいかに漱石を読み解いていくか、その一部始終を報告する。作品は「三四郎」。石原の読みの方法は作者を切り離したテクスト論であり、それまでの国語の授業でお行儀のよい「正統派読解術」ばかりを学んできた学生にとっては戸惑うことばかりである。そこがおもしろい。また成城大学の裏側も少しだけ垣間見ることができ、興味深い。全体的に物語仕立てで気楽に読み進められる。同時期に刊行された石原の『大学生の論文執筆法』(ちくま新書)は、本書の実践編的な趣である。同じネタの使い回しがあるのはいたしかたのないことか。

■柴田元幸『翻訳教室』(新書館)
高校の英語か地理の先生になりたかった。それなのに、今の英語のできなさ加減はどうなのだ。まったくもって情けない。いや、そんなことはどうでもよい。本書は柴田の東京大学文学部で開講された「西洋近代語学近代文学演習第1部 翻訳演習」の内容を、ほとんどそのまま文字化したものである。異なる文化、社会、歴史を持つ二つの言語にどう橋渡しするのか。学生とともに一語一語にこだわり磨きをかけていく作業は、知的好奇心を掻き立てられ、極めてスリリングである。授業のゲストに村上春樹やジェイ・ルービンまで登場する。うーむ。

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2006.06.22

センセイの仕事場 1

センセイの書斎手に入れた本はどんなに酷いものでも捨てたり売ったりできない質で、そうなると必然的に家の中が本であふれかえることになる。同業者に比べるとかなり少ない方だと思うのだけれど、それでも分散して収めている三カ所(大阪陋宅・東京寓居・東京職場)の書架は、どれも大きな地震の時にはじゅうぶん危険な存在になりうるであろう。自ら招いたこととはいえ、笑えない話である。

本をどう集め、どう読み、どう管理するかというのは、職業上の必然もさることながら、修養と趣味が大きく関わってくると思われる。それが明確な形になって現れるのが「書斎」であろう。私は他人の書棚や書斎を見せてもらうのが好きで、といってもそんな機会はあまりなく、たまさか発売される書斎本などを買ってはひそやかに「お宅訪問」を楽しむのがもっぱらである。

内澤旬子『センセイの書斎』(幻戯書房、2006年6月)は、「三省堂ぶっくれっと」や「季刊・本とコンピュータ」などに連載されていたイラストによる書斎ルポが一書にまとめられたものである。作家や学者をはじめ、翻訳家、評論家、芸術家、さらには古書店や図書館まで、31の「書斎」が幅広く紹介されている。写真はいっさいなく、すべて手書きによる細密画のようなイラストが、それぞれの書斎の主の思いや考え方を味わい深く伝えてくれる。

整然とした巨大書庫にため息をつくもよし、ゴミ捨て場のようなカオスに安心するもよし。知の生み出される場所は千差万別、一つとして同じものがないところは、まさに書斎が「脳を写す鏡」であるまぎれもない証しであろう。

登場する「書斎」

林望(書誌学者)、南伸坊(イラストライター)、森まゆみ(作家)、柳瀬尚紀(翻訳家)、養老孟司(解剖学者)、逢坂剛(作家)、米原万里(翻訳家)、石井桃子(児童文学者)、佐高信(評論家)、金田一春彦(国語学者)、品田雄吉(映画評論家)、千野栄一(チェコ文学者)、石山修武(建築家)、上野千鶴子(社会学者)、杉浦康平(デザイナー)、静嘉堂文庫、書肆アクセス ほか

http://www.genkishobou.com/

内澤旬子さんにはこんなおもしろい記事「アジアのトイレ」もあり。
http://www.asiawave.co.jp/TOIRE4.htm

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2006.06.03

国語国文学を巡るあれやこれや

「学問界の斜陽産業」の代表のように思われている国語国文学関連の学会に、皇太子が出席したというニュースがあった。皇族をそんなところに引っ張り出すのは、さぞかしたいへんだったろうなと別の意味で心配になる。閑話休題。年々減っていく受験者数に苦戦する国語国文学の世界も、こと出版ということになると、意外なまでの活況を呈している。

■山口仲美『日本語の歴史』(岩波新書、2006年5月)
上代から近代までの日本語の歴史を、各時代で注目すべきトピックに焦点を当てて解説する。日本語の歴史を論じる書は、おおかた時代をおって文字・音声・文法・語彙などをまんべんなく記述するのであるが、総花的で飽きてくるのがたいていである。その点、何が大切かを明確に知らせてくれるこの書き方は、一点豪華主義ではないが、なんとなくとてもいいことをしっかり知ったような気になる。専門的な知識がなくてもすんなり飲み込めるであろう。気になるのは、いつもの山口流の「軽すぎる語り口」と「はしょりすぎる論の展開」か。

■鈴木日出男『高校生のための古文キーワード100』(ちくま新書、2006年5月)
大学受験用に「でる単」とか「豆単」を持っていたなぁ。懐かしい。ありていにいえば、この書はその古文版である。鈴木氏によって「厳選された」100の古語を、有名作品の例文を紹介しながら解説する。語釈は机上版の小型辞書とさほど変わらないが、語誌や表現価値(ニュアンス)を解説する部分は興味深く読める。新書というサイズの制約のためか、量的に食い足りない嫌いがある。語の選択基準が明らかでないので、本当に高校生に役立つかどうかはよくわからない。

■鈴木健一『知ってる古文の知らない魅力』(講談社現代新書、2006年5月)
あまたの古典文学を貫く共有の感覚、影響または連鎖の関係を論じる。鈴木氏は本書でそれを「古典文学における共同性」と呼ぶ。この「共同性」があるがゆえに、過去との往還や同時代のつながりが強固なものとなって存在し続けるのだという。確かに枕草子の「春は曙」が清少納言個人による画期的な発見だとは誰も思っていないだろうけど。各作品の個性の彼方に透けて見える大きなもの(それこそが文化であり、歴史であろう)に気付くことができるかも。あくまでも「かも」。

■坪内稔典『季語集』(岩波新書、2006年4月)
地球温暖化が進めば、日本はやがて亜熱帯になって明確な四季を失うのだろうか。ああ、つまらないことを言っています、私。和歌や俳諧に欠かせない季節を感じさせることばは、古くからこの国に住む人の生活と深い関係を取り結んでいる。関心を持つ人も多いため、季語にまつわる書は枚挙に暇がないほどである。この本には「バレンタインデー」や「サーフボード」などの新しい季語を伝統的なものに交えて掲載する。坪内氏の視点による歳時記エッセイである。パラパラめくって好きなところを読むのが楽しい。

若い人に日本語日本文学を学ぶブームは来ないのかしら。その前に実利主義一辺倒の風潮をなんとかしないといけないか。

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2006.06.02

小森陽一『村上春樹論』

文学を読む楽しみの一つは「行間を読む」ことにあるだろう。作者の手を離れた作品はもはや読者のものであり、いかなる解釈が付与されようとも異議を唱えることはできない。それが作者の意図するところをうまく説明する場合もあるだろうし、予想外の正解を与えられて新たな命を吹き込まれる場合もあるかもしれない。逆に錯誤、妄想に近い解を与えられるかもしれない。作家と評論家が敵同士であることは、そういう意味において正しい。私たち素人は好きなように読んで楽しめばよいのだ。

では人文科学の世界に住む人間が文学と付き合うときはどうなのか。少なくとも「科学」の名の下に行われる読解行為は、それがいかなる「解」を導き出そうとも、あらゆる点において客観的な説得力を持ち得るものであってほしい。近現代文学研究者の小森陽一が、当代きっての人気作家である村上春樹の『海辺のカフカ』を俎上に載せたのが、『村上春樹論』(平凡社新書、2006年5月)である。

  目が眩んだ……。

極めて衒学的な書である。オイディプス神話に始まり、ユング、フロイト、デリダ、バートン版『千夜一夜物語』、カフカ、フーコー、漱石、源氏物語、はてはナポレオンにヒットラー、大日本帝国、ヒロヒト、9・11……。『海辺のカフカ』にこれだけのもの(まだまだある)を持ち込む手法に、なかば感服、なかば呆れながら、読み終えた。そこで確かに思ったことが一つだけある。

  そこまでやるか。

小説は村上春樹の手を離れ、実態の見えない現代社会を映す鏡として読み解かれた。そういう読み方もあるかもしれない。しかし、にわかには従えない。小森は村上春樹や『海辺のカフカ』を論じたのでは、断じてない。村上春樹を借りて、自らの博学ぶりを披露し、現代社会を論じるのに忙しい。そういう印象だけが強く残った。好き勝手に背景を論じたものなら、かつて類書を山ほど生み出す嚆矢となった『磯野家の謎』の方がはるかに良質だと思う。「東大の先生」という権威が付随するから始末に負えない。

ついでに。ネット上での読者と村上春樹のやり取りを収録した『これだけは、村上さんに言っておこう』(朝日新聞社、2006年3月)は他愛がなくて微笑ましい。ファン以外はおもしろくないと思うけれど。

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2006.05.21

スポーツは愉し

マグナム サッカー中学生の頃に夢中になったスポーツが三つある。テニス、サッカー、F1である。

テニスは部活で覚えた。今は体がついていかない。サッカーは友人達と草チームを作り、部活のない時に練習や試合をした。高校で部に入り、大学の頃はその同窓生チームで社会人の下部リーグに参加していた。これも今は体がついていかない。F1はテレビ放映やDVDなどまったくない時代ゆえ、レース情報誌を読んでうっとりし、タミヤのプラモを作って喜んでいた。もちろん昔も今も自分ではできない。

爾来、四半世紀が流れた……。嗚呼。今でも観るのは大好きである。

■『マグナム サッカー』(PHAIDON、2006年1月)
マグナム・フォトのことを今さら語る必要もあるまい。戦後間もなくキャパやブレッソン、シーモアらによって結成されたこの世界的に有名な写真家集団は、スリリングなドキュメンタリー写真によって巷間に知られている。そのマグナムに所属する者たちが撮りためたサッカーにまつわる写真を集めたのが、この写真集である。ここにはビッグネームやスーパースターの姿はない(例外としてペレとマラドーナの写真が各一枚あるのみ)。ルワンダの難民キャンプでサッカーに興じる少年たち、タリバン敗走後の荒野でボールを蹴るアフガニスタンの村人たち、侵攻してきたアメリカ軍戦車の横でリフティングをするグレナダの青年、ブラジルの神学校でサッカーをする大人、イタリアの肢体不自由児のための施設でプレーする子供たち、パブで勝利の雄叫びを上げるリバプールの熱きサポーターの面々……。民族も宗教も国家も越えて、「サッカーを愛する」という一点で結びつく市井の人々が登場する。老いも若きも、男も女も、「愛するもの」の前では等しく一個の人間として存在する、その当たり前の美しさにうちふるえるほどである。サッカーを捉えた「決定的な一瞬」が、世界の歴史や文化や現状をこれほどまでに生々しく語るとは。

■田中詔一『F1ビジネス もう一つの自動車戦争』(角川oneテーマ21新書、2006年5月)
アイルトン・セナ存命時代の頃の人気はないとはいえ、今でもF1関係の情報誌や書籍は数多く刊行されている。しかし、たいていのものは華やかな表舞台のみを憧れの視点で描くか、もしくは蘊蓄を傾けながらマニアックな技術論を講釈するか、はたまた訳知り顔で下世話な裏話を暴露するか、そんなところに終始するばかりである。本書はホンダの第三期F1プロジェクトに関わるHRD(ホンダ・レーシング・ディベロップメント)の前社長が、明かしうる限りの事実をもって現在のF1の舞台裏を説いている。もともとが国際マーケティングのプロである田中は、凡百のF1本とはまるで異なる立場からビジネスとしてのF1の世界を語っているのである。これまであまり公にならなかったことが述べられており、F1好きには興味深い内容になっている。前世紀の終わり頃からF1がおもしろくなくなっていった元凶は、マックス・モズレー、バーニー・エクレストン、フェラーリの三者であろうことは、誠実なF1ウォッチャーであれば誰しも気付いていることであろう。そのあたりの事情も経済的または政治的な側面から説明がなされている(もちろん田中はメーカー連合側の人間なので、その点は考慮する必要がある)。もう少し深いところまで書いてほしいという部分もありはするが、啓蒙的な新書ゆえ、いたしかたないところもあるのだろう。F1好きに薦めたい。

■北杜夫『マンボウ阪神狂時代』(新潮文庫、2006年4月)
熱狂的なタイガースファンである芥川賞作家のものした、かの球団関連のエッセイを集めた一書である。60年代から80年代の話が中心で、最近の「強い虎」のことしか知らない世代には、別世界のような内容であろう。同じネタの使い回しがやたら多く、読んでいて飽きが来た。古くからの阪神ファン以外には薦めない。

テニス本は今のところなし(^^;。

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