近頃の直木賞
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東京から大阪に戻る週末、名古屋で途中下車した。徳川美術館で公開されていた国宝源氏物語絵巻を観るためである。この平安時代末に成立した絵巻は東京の五島美術館と徳川美術館で分蔵されており、五年に一度、互いに貸し借りをし全巻の公開を行っている。名古屋では一九九五年以来十年ぶりの公開となる。
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上野動物園にほど近い地下鉄千代田線根津駅から歩くことにした。東京芸術大学の重厚な建物を横目に見ながら、深い黄色に染まった立派な銀杏の木に目を奪われる。しばらくすると人波が現れる。まもなく閉幕する「北斎展」(東京国立博物館)を目指す人々である。
平日でありながら、入場するのに30分も並ぶことになった。中に入ってからも、小さな絵の前に人人人……。しかも展示総数が200を超えるというから、すべての作品の前に出るまでじっと待っていると、いつまでかかるかわからないほどの混雑ぶりである。おそるべし北斎人気。ここは見たい絵だけゆっくり鑑賞するのだと割り切る。重厚精緻な肉筆画もよいが、やはり驚嘆の技術で作成された摺物の数々がすばらしかった。超絶的オーラは実物によってしか感得することはできないのだと、あらためて思う。買い求めた400頁の図録はPowerBookより重い。あわせて以前からほしかった『北斎漫画』(小学館)の初摺原寸色刷り復刻も手に入れた。北斎による「絵のお手本集」、どこを開いても楽しい書である(ついでに、意匠という観点からまとめられた『光琳デザイン』(淡交社)も、尾形光琳をはじめとする琳派の単なるカタログに終わっていないよい書であった)。
続いて東京国立博物館の向かいにある東京都美術館に向かう。こちらでは「プーシキン美術館展」が開催中である。モネ、ルノワール、ゴーギャン、ゴッホ、セザンヌ、マティス、ピカソら、日本で人気の高い西欧近代絵画の収集で名高い「シチューキン・モロゾフ・コレクション」の作品群を観ることができる。これまたたいへんな混雑ぶりであったが、「北斎展」があまりにもすさまじかったので、相対的に空いているように錯覚させられた。これだけ見られたらいいと思っていたマティスの「金魚」。思っていたより大きな画面に踊る、輝くような色彩に酔った。ピカソの「アルルカンと女友達」にも息を飲んだ。
上野から日比谷線に乗り都立大学前駅を目指す。昨年度通っていた写真表現大学でお世話になった、木村幸子さんの初の個展がかの地のギャラリーで開かれているのである。浅い色合いの正方形の静かな写真が17点。ご本人と同じ穏やかな空気が満ちあふれていた。久しぶりの再会に時間を忘れて話し込み、さらに東京へ仕事で来ていたEarly Galleryの有田泰子さんとも旧交を温めることができた。
補足:Carl Zeissの単眼鏡がほしいと今日ほど思ったことはなかった。東京で美術鑑賞するには必須だと思う。千住博・野地秩嘉『ニューヨーク美術案内』(光文社新書)は、美術館巡り、絵画鑑賞のよき手引き書である。ただし取るべきは千住の担当箇所のみ。ゴッホの絵具・モネの眼・ルノワールの甘さ・注目すべきは耳・現代アートの楽しみ方など、芸術を読み解く楽しさを教えてくれる。「絵の前では何を考えてもいい」という千住のことばは至言であろう。後半の野地の担当箇所は凡庸で蛇足。
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シャープのワープロ専用機「書院」を買ったのはもう二十年も前のことになる。初めて手にした電脳機器である。まだ漢字もJIS第1水準くらいしかまともに表示することができないのに(第2水準は別にフロッピーを差し込んで表示させる)、今ならアップルのPowerBook G4が軽く買えるほどの値が付いていた。大枚をはたいたのは、どうにもならない悪筆から逃れるためである。もともと文章を書くことは嫌いではないが、肝心の自分の書く非芸術的な字はあまり好きではない。大量にテキストをものす必要もあったので、効率化と見栄えのために思い切ったのであった。
それゆえ美しい肉筆の文字には大いなる憧れといくばくかの妬みがある。
出光美術館で開催中の「平安の仮名 鎌倉の仮名」は、従来、文字史や書道史の観点から論じられることの多かったひらがなを、「和歌を記す文字」として捉え直そうという試みの展覧会である。古今和歌集成立から1100年、新古今和歌集から800年の記念すべき年にちなむ企画としては出色のものであろう。国宝2点「歌仙歌合」(伝藤原行成、久保惣記念美術館蔵、ただしこれは展示期間終了)、「見努世友」(出光美術館蔵)を含む平安時代から鎌倉時代までの古筆名筆を集成した展覧会は、見る悦びに溢れたものであった。ほの暗い中で見る流麗かつ優美な書体は、伝統的な文学を盛り込む器として、時には和歌以上の存在感を持って紙上に輝きを放っていた。図録の出来も秀逸。
さて、溜め込んでいた日本の美についての書を二つばかり。まず榊原悟『日本絵画の見方』(角川書店)は、広くわが国で人気を博す西洋絵画に比べて、一部の好事家のものになっているとおぼしい日本の絵についてわかりやすく解説した鑑賞手引書である。制作事情をはじめ、画材、表装、落款、画賛などの絵の要素と、掛幅・絵巻・屏風・襖絵などの画面のありようなどから、真贋や来歴、制作意図などを解く。もう一冊は高階秀爾『日本の美を語る』(青土社)。こちらは『日本の美学』に掲載された日本人の美意識についての対談を集めた書である。対談者は秋山虔、磯崎新、今道友信、大岡信、大橋良介、河合隼雄、河竹登志夫、小島孝之、佐野みどり、田中優子、芳賀徹、橋本典子、丸谷才一、山口昌男と、日本の各界を代表する豪華なラインナップである。 「見立て」「尽くし」「間」「笑い」「水」「橋と象徴」など多彩なテーマが語られている。高邁良質な知に圧倒される。
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自分で花や植物の写真を撮ることはあまりない。撮り方がよくわからないのだ(他はわかっているのかというツッコミは受け付けません :-P)。被写体そのものの美しさを主題化し再構築するだけの力が自分にはないのだと思う。だからもっぱら見る方に回る。
目黒にある東京都庭園美術館で開催中の「庭園植物記展」に出かけてきた。東松照明の印象的な「ゴールデンマッシュルーム 千葉」をあしらったチラシを見つけた時から、ぜひとも行きたいと思っていた展覧会である。この展覧会では日本における植物表現の歴史を辿ることを目的とし、江戸時代幕末期の植物画から現代の写真家による作品までを一堂に会して展示する。
アールデコ様式の旧浅香宮邸の建物全体に、まさに匂い立つような植物の絵や写真が飾られている。どれもが興味深く見飽きることがない。江戸時代から明治時代に描かれた植物画は、それらがもともと科学的な目的(カタログ・図鑑)でスケッチされたことを忘れさせるような美しさで、大変印象的である。また明治の頃から日本でも実用化された写真による植物の描写も、観察的手法でありながらモノクロの姿がたいそう美しい。生け花や植物をモチーフとした工芸作品も見応えがあった。
圧巻は現代の写真家による作品群である。先に紹介した東松照明は言うに及ばず、生々しい荒木経惟の花や極めて精緻な井津建郎のブループラチナプリント、鈴木理策の息づいているかのような吉野桜、色彩の渦を巻き起こす蜷川実花(ウインターガーデン一室がすべてニナミカワールドになっている)など、どれもがそれだけでも見に来た価値があるほどのインパクトであった。
図録の出来が秀逸である。こういうものを見ると、ますます自分で花の写真など撮らなくてもいいなと思わされることしきりである。11月6日まで。
補足 いくつかの写真集
蜷川実花の『Acid Bloom』(花の写真集)と『Liquid Dreams』(金魚の写真集)を手に入れた(ともに河出書房新社)。いずれ買おうと思っていた写真集であるが、今回の展覧会をきっかけにして矢も盾もたまらずという感じになってしまった。色彩が溶け出したような写真は好き嫌いが分かれるところだろう。しかし、理屈抜きにこのド派手な色彩が目を悦ばせてくれるときもあるのであった。それからこれも前からほしかった畠山直哉の『LIME WORKS』(amus arts press)もようやく見つけることができた。木村伊兵衛写真賞を受賞したこの写真集は、日本国内にある石灰石鉱山、石灰工場、セメント工場を撮影したものである。いわば植物(自然)の対極にある人工的風景である。これがはっとするほど美しいのだ。環境破壊などという道徳的なことは今は持ち出すまい。表現としてその美しさに敬意を表する。
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御贔屓の保坂知寿が主演(もっとも四季の場合は一つの役柄に複数の俳優を割り当てているので、当日お目当ての人が出ているかどうかは運次第)する「マンマ・ミーア!」を早く見たいと思いながら、大阪での開幕からすでに半年以上が過ぎ去ってしまった(チケットが取れないのだ……)。それでもなんとか夏休み中の座席を確保することができ、お盆明けの過日、真新しい大阪四季劇場に嬉々として出かけてきた。
ストーリーはこちらで。
一番の特徴は音楽であろう。1970年代後半に一世を風靡したABBAの曲の数々(全22曲)を一つのミュージカルとして再構成している。しかも驚くことに歌詞はオリジナルのままであるという(もちろん日本語訳されているが)。つまり劇のために歌詞を恣意的に変更することをせず、もともと無関係に成立していた曲を無理のない形にまとめあげているのである。脚本を作る段階では相当な苦労があったと思われる。
象徴的に機能する簡素なセットを背景にして、俳優たちの歌と踊りは破綻がなくまずまずであった。もっとも劇団四季の扱うミュージカルの常として、あざといほどの演出が目立ち、物語自体が深く心に染みるということはない。これについては「ジェットコースターに乗せられている」と思えばよい。欠点ではなく、そういうものなのだ。懐かしいメロディに気持ちよくなりながら、(一部の配役を除き)ひとまず最後まで楽しむことができた。
キャスト
ドナ:早水小夜子 ソフィ:五十嵐可絵 ターニャ:前田美波里
ロージー:青山弥生 サム:渡辺 正 ハリー:明戸信吾 ビル:松浦勇治
スカイ:田邊真也 アリ:八田亜哉香 リサ:宮崎しょうこ
エディ:川口雄二 ペッパー:丹下博喜
ドナ役で保坂知寿が出ていなかったのが残念だった。早水は容貌と歌の節回しが演歌歌手のようで、なんだか萎えてしまった(吉本新喜劇の浅香あき恵にも見えた)。ソフィを演じる樋口麻美も見たかったなぁ。前田美波里と青山弥生はさすがの貫禄と存在感を見せつけていた。保坂ドナならもう一度見たいけれど、そうじゃないならもういいか……。
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大阪千里丘陵の万国博記念公園を取り囲む形で走る外周道路には、中央環状線と中国自動車道を跨ぐための橋が二つ架けられている。東側が進歩橋、西側が調和橋という名をそれぞれ持つ。この名前が1970年に開催された日本万国博覧会のテーマ「人類の進歩と調和」から取られたのはいうまでもない。今から35年前、二つの橋から見える風景はやがて来る未来そのものであったはずである。
■「公式長編記録映画 日本万国博」(谷口千吉監督、1971年)
公開当時、圧倒的な興行記録を打ち立てたという伝説のドキュメンタリー映画がDVDになった。1970年の日本万国博覧会の準備から閉幕後までを3時間にまとめている。あくまでも記録映画なので、過剰な演出やあざといドラマはなく、淡々と時間軸に沿ってこの万博の姿を描き出そうとする。あれほどの国家的規模の巨大プロジェクトでありながら、意外にも素朴な手作り感覚に溢れていることが何とも微笑ましく思われた。いずれにしても思い出や記憶との相互作用の度合いによって、感動の質や深さも変わってこよう。そういう意味では見る人を選ぶ映画である。
■『EXPO'70 驚愕!日本万国博覧会のすべて』(ダイヤモンド社)
こちらは写真と文章で日本万国博覧会を回顧する。特に建築物に焦点を当てている。大阪万博最大にして最高の建築物は、岡本太郎の「太陽の塔」であろう。しかし、この書をつらつらと眺めていると、この塔に勝るとも劣らない個性的な造形が目白押しであったことに気付かされる。その多くは記憶の片隅に確かに残っており、これらが総合プロデューサー丹下健三以下、国内外で活躍する著名な建築家や美術家の手になることを知って、改めてこの万博の凄さに驚かされるのである。大阪万博で実験的に提示された前衛的な建築手法やデザインは、その後、世界各地で実用化されているという。
半年間で延べ6500万人もの人を集めた世紀の一大イベントの跡地には、深い緑をなす自然公園と当時の面影をかろうじて残す遊園地、そして永久保存が決まっている太陽の塔が静かに残されているだけである。太陽の塔の背後の池ではイサム・ノグチの巨大な噴水の脇を親子連れやカップルのボートが楽しげに行き交っている。この日常と非日常が交錯するシュールな風景こそが「人類の進歩と調和」の35年後の未来なのであった。
#イサム・ノグチといえば、「CASA BRUTUS EXTRA ISSUE イサム・ノグチ」というムックも見ていて楽しかった。また斬新なエキスポタワー(2003年に解体)を手がけた菊竹清訓は愛知万博の総合プロデューサーを務めている。
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行こう行こうと思いながら、雑事が積み上がったり、寒かったり、寝坊をしたりで、気がついたら終了まであと10日しかないということになってしまった。最低気温が氷点下という予報をものともせず(嘘、ちょっとめげていた)、京都国立近代美術館で開催中の「草間彌生展 永遠の現在」にでかけてきた。
鞄にローライコードを放り込み、ブロンプトンで最寄りの駅まで走る。京都はまだ前日の雪が残っているらしいので、ブロンプトンは駅前スーパーの買い物客の自転車の列に紛れ込ませておいた(あとで痛い目に、涙)。阪急京都線の終点、河原町駅から鴨川方面へ歩いていくと、ところどころに雪が残っているのが見える。京都のこのあたりは実に久しぶりで、昨年5月のfotologミートアップ以来である。あの日も散策した白川・縄手近辺でカメラを振り回す。平日(しかも寒い)ゆえほとんど人がいない。白川の疎水に沿って平安神宮まで歩く。いつ来ても、この辺はいい風情である。朱がまぶしい平安神宮の鳥居が見えたら、京都国立近代美術館に到着である。
草間彌生の作品は現代美術展で他の作家のものと並んでいるのを見たことがあるだけで、単独の展覧会に行くのは初めてである。草間といえば特徴的なドット模様がよく知られていると思うけれど、今回は1980年代以降の作品に初期の代表作を交えての構成になっており、彼女の活動の大きな流れを知ることができる。順を追って見ていると、どんどん愉快な気分になってくる。わかるとかわからないとか、そういうことはどうでもよくて、ひたすら気持ちがよいなぁと思うばかりであった。そして私は草間の作ったモノに触りたくて仕方がなかった。目だけでなく触覚でも感じてみたかった。あの特徴的な形態や素材は、触れてこそさらにあれこれと感じることができると思う(もっとも作品の保護を考えるとそれは無理な相談であろう)。ともあれ、表情も脳内も緩みっぱなしのまま、3階の展示会場をぐるぐると巡り続けるのであった。いやはやなんとも。
草間作品との悦楽の時間を過ごした後は、ついでに常設展示会場でアンセル・アダムスの美しいがちょっと単調な写真(不遜!)なども眺め、締めくくりにショップで図録と持ってもいない携帯電話用ストラップ(どうする気だ)を購う。夢心地で美術館を出ると、待っていたのは強烈な寒さ。いきなり現実世界に引き戻された。ああ。三条あたりまで戻り、古書店などを冷やかしてからイノダコーヒーに向かった。またそこで図録などを広げ一人ニヤニヤ。帰りの阪急電車でもニヤニヤ。
余談:これで終われば「本日もめでたしめでたし」であるが、おまけがある。帰り着いた駅で上に書いた「痛い目」が私の前に立ちはだかった。自転車を止めた場所に戻ると、なんとブロンプトンがない! ワイヤ錠3本で固定していたのに。しかし、盗まれたのではないことは明白である。なぜならなくなっているのは私の自転車だけではなかったからだ。つまり不法駐輪車両として一斉に撤去されていたのであった。ぎゃ。自業自得。自らの行為を呪いながらトボトボと愛車を引き取りに行きました。保管料三千円(プラス切断されたワイヤ錠)が寒空に消えていきました……。皆さんも自転車は定められた場所に止めるようにしましょう(言う資格なし>私)。
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人の日記やエッセイを読むというのはどういう心持ちがさせるのだろうか。
インターネットが特殊な環境でなくなり、情報を受けるだけでなく発信する人が爆発的に増えた。各自の興味・関心・専門に基づいた特殊な知識を開陳するものが、かつての「ホームページ時代」には多かった(もちろん今も多い)。それがここのところのブログ人気で、いわゆる日記やエッセイのようなものが格段に増えたように思う。もちろん以前からホームページに付随する形で日々の出来事を記すところもあったけれど、今のブログベースの日記・エッセイの隆盛とは比ぶべくもない。
ただあまたの日記やエッセイが公開されていても、続けて読みたいものはさほど多くない。基本的には本人を知っているとか、趣味が同じだとか、話が合うとか、何か特別な理由がないと読み続けられない(知り合いに機知や諧謔、教養に溢れた人が多いのは幸運である)。まれに書いている人についてまるで知らないのだけれど、文章がすばらしいので読みたいというところもあるが、こういうものにはなかなか行き当たらない。どこかのビールではないけれど、キレとかコクを感じさせてほしいと、自戒の念も込めて言ってみる。
著名な人物のサイトに公開される日記やエッセーは、「生身のあの人」を知ることができるというミーハー精神を満足させてくれるありがたさゆえに、ついつい毎日アクセスしてしまうのであった。たとえばよしもとばななの日記は、取り上げる話題がそこらへんのおばちゃん風情でとてもおもしろい。まめに更新されるし、文章が長いのも読み応えがある。まめといえば町田康もそうだが、こちらはキーワードの羅列といった趣で、やはり個性が出るものだなと思わされる。写真家だったら、蜷川実花や川内倫子らの日記をよく読みにいく。芸能人では眞鍋かをりがアイドルらしからぬ放言、暴言で楽しませてくれる。
さて、よしもとばななはサイト上の日記を、定期的に本にして出している。商売としては一粒で二度おいしい。すでに新潮文庫から五冊が出ている。私は四冊目の『こんにちわ! 赤ちゃん』(新潮文庫、2004年7月)を買った。ここにはよしもとの出産体験記が記されているということと、書名の「こんにちわ」が日本語の誤用例として貴重だと思ったからである。文章自体はサイトで読んでいたから、いまさらどうもこうもない。
#日本語の誤用といえば、近時、北原保雄編『問題な日本語』(大修館書店、2004年12月)という本が出た。これについてはまた別に書くかもしれないけれど、ひとまず紹介だけしておく(言いたいことがいろいろ)。「最近の若いやつは」とつい言ってしまいそうになるあなた、ご一読を。
ネットにブログやサイトを持っていない人たちの日記やエッセーは本で読むことになる。もちろんそういう味わいも大好きだ(寝転がって読めるしね)。川上弘美『ゆっくりさよならをとなえる』(新潮文庫、2004年12月)には、小説と同じ匂いの川上弘美的空気感が充たされていた。心地よかった。書き起こしの一文がうまいなと思わされる。川上弘美といえば、「ほぼ日刊イトイ新聞」での糸井重里との対談も、二人の組み合わせが意外な感じがしておもしろかったなぁ。
いたずらに長いだけで、ひねりもオチもないまま終了……。
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何かと慌ただしい年の瀬。梅田に出たついでにいくつかの買い物をする。阪神百貨店の文具売り場で、気軽に使える万年筆がほしくて、ラミーのサファリを買った。カラフルなバリエーションの中から赤を選んだ。黒いモールスキン手帳にもよく似合いそうである。
その後、見よう見ようと思っていた劇団四季の「アイーダ」に行く。すでに1年を超えるロングランとなり、2月末をもって千秋楽を迎える。買い物でいっぱいにふくれたディパックを背に、梅田から大阪ビジネスパークまでBD-1を飛ばしていく。
「アイーダ」とくればヴェルディの同名オペラを思い出す。しかし、このミュージカルは同じ題材を扱うものの、音楽はエルトン・ジョン(曲)とティム・ライス(詞)の手になる完全な別仕立ての作品である。ライス自身はこの仕事をするまで「アイーダ」のストーリーも知らなかったという。そのライスの言葉を借りると、「ヴェルディの『アイーダ』から音楽だけ捨てて他のすべてを残しておいた」とのこと。ただそうはいうものの、そこはディズニー、必ずハッピーエンドで締めくくるという伝統はしっかり生きている。オリジナルの悲恋物語を悲劇的結末で易々と終わらせはしない。古代エジプトの物語を現代劇でサンドイッチにし、幸せな物語に変換してしまった。善し悪しの問題ではない。制作者、演出者の思想のありようとして、これもまた「アイーダ」の一つの形として認めるべきであろう。
転じて劇団四季のミュージカルとして見た場合、どうだろうか。「キャッツ」や「ライオンキング」などに比べて、激しい動きや群舞が少ないため、朗々と歌い上げる演歌歌手の大歌謡ショー(見たことはないけれど)のごとき印象を受けた。とにかく声が圧倒的である(濱田めぐみ、壮絶!)。声の存在感、力というものを、生々しく感じることができた。肉体そのものといってもよい声は、見るもののプリミティブな感覚に訴えかけてくる。優れて抽象化された舞台セットや衣装、シンボリックな色彩の使用などとも相まって、シンプルな表現方法がかえって骨太な力強さを現出させる。
悲恋ものを強引にハッピーエンドにしてしまうディズニー的手法に異論を持つ向きもあろうが、これはこれで楽しめた。なお物語が転がり始めるまでの第一部前半、やや退屈を覚え、夢の彼方に旅立っていたことは、小さな声で付け加えておくことにする。あとは泣く人がやっぱり多い……。大阪MBS劇場で鑑賞。2005年2月20日千秋楽。
【当日の主要キャスト】
アイーダ:濱田めぐみ・ラダメス:福井晶一・アムネリス:森川美穂
メレブ:有賀光一・ゾーザー:大塚俊・アモナスロ:石原義文
ファラオ:岩下 浩・ネヘブカ:井上麻美
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