2006.04.17

写真とことばの鬩ぎ合い

動物好きであるのにもかかわらず、プロの撮った動物写真にはほとんど興味が持てなかった(ついでに言えば花や植物も)。だから星野道夫のアラスカの写真なども「一般人の行けないところで撮っているから珍しいだけ」などという、あまりにも傲慢不遜に過ぎる感想を持っていた。それが彼の著書や足跡を紹介した雑誌などを読むにつれ、偏った認識を改めることになる。月並みな言い方になるが、そこにはアラスカとかの地に生きるものへの深い愛情や洞察、敬意が満ち溢れており、その意識こそが星野の撮る写真を生む原動力となっていることに気付かされたのであった。

本来、写真はそれだけで自立すべきメディアであろう。名取洋之助の名著『写真の読み方』(岩波新書、1963年)を思い起こすまでもなく、写真に添えられたことばによって、眼前のイメージの持つ意味は大きく変質する。また添えられた説明や警句は写真の喚起する想像力を著しく拘束しもする。しかし、おそらく星野の写真はそうではない。近時、「アサヒカメラ」2006年2月号に掲載された星野のホッキョクグマの写真群の美しさは、確かに一片のことばも必要としないが、それでもなお星野の写真は彼自身の思念に彩られた文章と組み合わさることで、さらなる輝きを放つと思われる。『アラスカ 永遠なる生命』(小学館文庫、2003年6月)、『アラスカ 風のような物語』(同、1999年1月)の二冊の写真エッセイ集を読むにつけ、そのことを強く感じた。

一方、復刊なった森山大道の名著『写真よさようなら』(パワーショベル、2006年4月)は、徹底的に無言を貫く。ことばの入り込む余地はどこにもない。全編、あたかもモノクロの抽象絵画のような図像がただひたすら繰り返される。個々の写真の解釈を求められるというより、写真集全体から漂い出る濃密な気配や意志や情念を虚心に見通すことが求められる。それはまさに鑑賞する側の創作行為である。見る側にその覚悟がないと、この写真集はそもそもまるで意味をなさないであろう。これは昨秋から今冬にかけて東京都写真美術館で開催され好評を博した植田正治の写真とも気脈が通じるとおぼしい。残念ながら写真展には行くことはできなかったが、同時に発売された写真集『植田正治写真集・吹き抜ける風』(求龍堂、2005年12月 )に収められる不思議な浮遊感を持つ写真をつらつらと眺めるにつけ、何を看取するかは鑑賞者次第だと思わされる。日本におけるピンホール写真の第一人者、田所美惠子の第一作品集『針穴のパリ』(河出書房新社、2006年3月)に収められる写真群もまた同様である。

森山大道の写真は全般的に「ことばに頼らない」意志を明確にしているが、必ずしも相性が悪いということではない。父の生まれ故郷を撮影した『宅野』(蒼穹舎、2005年5月)は、ことばが添えられていることで具体的な物語が見えてくるし(「あとがき」より)、なければないで森山調のモノクロスナップとして堪能できもする珍しい写真集である。また寺山修司・森山大道『あゝ荒野』(パルコ出版、2005年12月)などは、寺山のなまめかしい文章を自らの写真のキャプションにするという離れ業を演じている。もちろん寺山にも森山にもそのような考えはないであろうが。

あわせてふたつ。飯沢耕太郎『ジャパニーズ・フォトグラファーズ』(白水社、2005年12月)、赤瀬川原平『目玉の学校』(ちくまプリマー新書、2005年11月)は、言葉巧みな写真評論家と芥川賞作家の手になる写真関連本である。前者は現代日本写真家を概括的に述べ、後者は写真や目の原理をおもしろおかしく解説する。

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2006.01.16

子どもの情景

日本の子ども 子どもの時間 loretta lux

街中でスナップ写真を撮ることについての是非はともかく、少なくとも撮影者と無関係の子どもを誰彼なく被写体にするのは極めて難しい世相になっている。下手にそういう写真ばかりを撮っていると、何かの弾みでお縄になる可能性すらある……。なんとも住みにくい世になったと嘆息しながらも、自分の子どもに見知らぬ誰かが熱心にカメラを向けていたら、やはり警戒するだろうなと思い直す。いやはや。

子どもを写した写真は、彼らの存在そのものの魅力もさることながら、その背後に子どもらの生活や家族までもが透けて見えるようで、とりわけ感情移入の度合いが強いものである。個性的であればあるほど、不思議なことに普遍的な感情に訴えかける何かが炙り出されるように思われる。年賀状に刷られた子どもの写真にはさまざまな事情で批判が多いと聞くが、それとて見方を変えると興味深い「人生」を内包する「作品」となる。近頃手に入れた子供たちの写真集をいくつか。

■日本写真家協会編『日本の子ども60年』(新潮社)
1945年からの戦後60年間に撮影された、日本全国の子どもの写真を集めた写真集である。撮影したのは木村伊兵衛、土門拳といった大家から、市井の愛好家まで幅広い。すぐれて記録的な写真はすぐれて芸術的な作品としても自立している。表紙の写真からすでに「やられた」感がある。同内容の「日本の子ども60年 写真展」が全国で開催中である。東京展は終了したが、名古屋、京都、横浜で引き続き展覧される。

■橋口譲二『子供たちの時間』(小学館)
『十七歳の地図』(角川書店)と並ぶ名作であろう。ドキュメンタリー写真を得意とする橋口譲二の最良の資質が発揮された一冊だと思う。この写真集には日本全国の小学六年生一〇五人のポートレイトとともに、彼らのアンケート回答と作文が収められる。写真をじっと見た後、添えられた文章を読むと、あらためて一人一人には固有の人生があるという当たり前のことに気付かされる。見ているとたまらない気持ちになった。

■ロレッタ・ラックス『LORETTA LUX』(青幻舎)
旧東ドイツ出身のロレッタ・ラックスは、スタジオ撮影した子どものポートレイトを風景画や風景写真とデジタル合成する手法で、とにかく「美しい」作品を作り上げる。しかし、ここでの子どもは、無邪気だとか、無垢だとか、そういったステレオタイプとしてのありようから離れ、我々の内側をざわつかせる存在として画面に現れている。「子どもらしさ」を徹底的に排除する肖像写真に込められたものは、相当深く複雑であるように思われる。

■蒼井優『トラベル・サンド』(Rockin'on)
おまけ。十代最後の夏をアメリカで過ごした蒼井優。彼女とカメラマン(高橋ヨーコ)とコーディネーターの女性三人の旅にまつわるエッセイと写真をまとめた一書。ありていに言ってファンのための本だが、「人をどう写すか」という視点を得ることもできると主張しておこう。無理矢理だけど。

エントリー名を「子どもの情景」としたのは、シューマンを思い出したから。安易か。この中でよく知られている「トロイメライ」ももう何年も聴いていないなぁ。

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2005.12.09

読み解く写真

米田知子一枚の写真に何を見るのか。米田知子の写真は一見何の変哲もないようなスナップに見える。たとえば右の青い写真。人気(ひとけ)のないプールで若い恋人が穏やかに抱き合っている。世界中のいたるところで繰り広げられているであろう恋愛模様が、印象的なタイルの壁や青い水面によって美しく彩られている。しかし、この写真につけられたキャプションを読むと、その幸せな風景はたちまち違った相貌を見せ始める。

ハンガリーの工業化が進むさなかの1950年に建設が始まったドゥナウーイヴァーロシュは、1951年から61年までの間、スターリンヴァーロシュ(スターリン・シティ)と呼ばれていた。ここはハンガリーの社会主義政策の模範都市として、海外からの来賓によく紹介され、ユーリ・ガガーリンもここを訪れた。ドゥナウーイヴァーロシュは社会主義リアリズム建築の典型的な実例がたくさんある。

社会主義国家の国威発揚のために使われたプールで静かに寄り添う恋人。それは単なる点景ではなく、背後にある歴史や社会、哲学といったものを強く意識させる。彼女の一連の作品群はそういう失われつつある過去の記憶、負の遺産を現代の風景の中に透かしてみせる。写真として愉しみ、読み解いて思いを馳せる。『In-between ハンガリー・エストニア』(EUジャパンフェスト)でも、ベルリンの壁崩壊の引き金となった場所や対ソ連レジスタンスの隠れ家など、歴史的な場所の今を絡め取っている。凄みを感じさせる一冊である。

Lee Friedlander『Self Portrait』(MoMA)は1970年に刊行された写真集である。すべての写真にフリードランダー自身の姿や影が写し込まれている。彼の手法の歴史的意義(写真史における)はすでに論じつくされているようであり、ことさら述べ立てることはしないが、自己と場面は対立するものではなく、見る私は常に見られる私でもあるという両義性を意識させるそれは、優れて刺激的な営為であるといえよう。

アフリカの自然を空撮によって捉えたRobert B. Haas『驚異の大地アフリカ』(ナショナルジオグラフィック)は、「Through the Eyes of the Gods」という原題を持つ。まさに「神の視点」。魔術的なまでの大地のうねりや神秘的としかいいようのない動植物の営みが、見るはずのない位置から次々と切り取られている。写真の質は必ずしも優れているとはいいがたいものの、これだけの大きな版の写真集がわずか2800円というのも驚きである。

綺麗なもの、志の高いもの、思慮深いもの、そういうものに触れるのは実に幸せなことである。

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2005.11.20

杉本博司 時間の終わり

杉本博司上下が白と黒に色分けられた写真。どこかの海を写したものだと知り、以来その作家がとても気になっていた。杉本博司が代表作を収めた評論集『苔のむすまで』(新潮社)を刊行したのは今年の夏のことである。深い思索の跡がうかがえる文章は、杉本の写真と疑いなく同質のものであり、読む者は彼の文章の背後にある「何か」に思いをいたすことになる。

形而下から形而上へ。視覚が絶対的な権力を有する写真でありながら、見えているものはむしろ問題ではない。無限遠の向こうにある建築物や鈍い光を放つ映画館のスクリーン、そして白と黒の間で揺らめく水平線。ここでは写真から立ち上がってくる気配や感情、思想、伝統、歴史などこそが重要である。人類の叡智といってもよい。むろん他の写真家にもその種の思索を強いるものはあるだろう。しかし、杉本はそれなくしては作品自体が意味をなさない。それくらい徹底している。見る者に考えること、感じることを強要する杉本の写真は、楽な気持ちで鑑賞できるような甘い顔を決して見せない。

それは杉本が展覧会において、会場全体を作品とする姿勢にも通じる。会場は単なる展示場ではなく、これもまた杉本の作品そのものなのである。森美術館で開催中の展覧会「杉本博司 時間の終わり」の非常なる緊張感に満ちた空間は、ミニマルアートやコンセプチュアルアートの最も良質な部分を存分に味わわせてくれる。極めて刺激的であった。

補記:私が訪れた日はロシアのプーチン大統領が六本木ヒルズにやってくるということで、ものものしい警備体制が敷かれていた。これも「杉本的」に考えるならば……。備忘録代わりに記しておくことにする。

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2005.11.17

浅草の鬼海さん

鬼海ぺるそな「情熱大陸」(TBS系)で鬼海弘雄が取り上げられたのは、『PERSONA』(草思社、2003年)が刊行された直後のことだった。家族や親類に支えられながら、好きな写真の世界で生きている姿を描こうとしていた。番組の中では鬼海の収入のことにも話が及んで、要するに「写真だけで食っていくのは大変だ」ということなのであった。華やかそうに見える世界の裏側には残酷なことも多いのだろう。

件の番組では浅草寺でポートレート撮影する鬼海を映し出していた。じっと人の流れを見ながら、これはという人に声をかけて撮影させてもらう。それをひたすら繰り返す。鬼海のポートレートのおもしろさは、本来多面的な存在であるはずの人間の一面だけを切り取り、ことばによってそれをデフォルメする点にあるとおぼしい。写真に添えられた一言が写真の中の人物の生き様を一挙に炙り出すように機能している。見る者にはわずかな情報しか与えられないのに、なぜか背後に広がる大きなドラマを感じさせるのだ。想像力が刺激されて愉快痛快としか言いようがない。

新しい『ぺるそな』は新たな写真と鬼海のエッセイを加えた普及版である。前作からぐっと買いやすい値段(2300円)になって嬉しい。人を撮る、人を見る楽しさを堪能できる。

鬼海の担当するエッセイ http://web.soshisha.com/archives/cat8/

さて、溜まってきた写真関係の本を一挙に大掃除することにする。

蜷川実花『Floating Yesterday』(講談社)
ひとつ前のエントリーで感想を述べたように、ニナミカ色全開の中に見え隠れする影が印象的である。凝った装幀で紙質も悪くないのに、常に買いやすい値段を守り続けるのは、この人の信念なのだろう。もちろん数が出るということが安くできる最大の理由なのだろうが。

野口里佳『in-between チェコ、キプロス』(EU・ジャパンフェスト)
欧州シリーズのトリを務めるのは野口里佳である。引き気味の視点から撮影された写真が居並ぶ。何を中心に置いているのか考えさせられる手法は健在である。それを読むことが楽しい。

『in-between 13人の写真家 25カ国』(EU・ジャパンフェスト)
シリーズに加わった13人の写真家による共演。全員が「食」「言葉」「人」「石・壁」などといった共通のテーマで撮った写真がまとめられている。普段のスタイルや被写体から離れた写真に、意外性の妙味が横溢する。

大西みつぐ『ほのぼの旅情カメラ』(えい文庫)
「水」をテーマにして日本各地を撮り歩く。なにげないスナップでありながら、一枚一枚に強い説得力を感じる。それは、おそらく大西が「切り捨て御免」ではなく、被写体に深い関心や愛情を持ちながら丁寧に写しているからではないだろうか。滋味に富む一冊。

藤田一咲『ローライフレックスの時間』(えい文庫)
この人は写真よりもカメラが好きな人なのだろうと思った。掲載される写真は、どれもカメラ雑誌の作例のように見えるのは私だけのことなのか。えい文庫からたくさん同じような本を出しているから、きっと人気はあるのだろう。資料をつけるなら、ローライの全機種を網羅してほしかった。

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2005.11.16

代官山でニナミカ

floating yesterday代官山を箱根山や六甲山と勘違いして「攻めるぜ!」と言うヤンキーがいた。嶽本野ばらの『下妻物語 完』でのお話しである。代官山にはこの物語の主人公桃子の愛するブランド店があるため、小説で親しんでいた私はなんとなく昔から知っているような気がしていたが、実際に訪れるのはもちろん初めてである。漠然とした印象で若い人(中高生)であふれかえっている落ち着きのない街かと思いきや、さにあらず。ロリータ姿の小娘どころか、夕刻の街を歩いているのは、20代30代とおぼしき人たちばかりである。なんだか少しいい気分になりながら、目的地へと向かう。

蜷川実花が新作を発表した。旅をテーマにしているという。その写真展が12日から代官山のギャラリー「speak for」で始まっている(12月4日まで)。ちょうど新宿に出かける用事もあったので、仕事を終えた後にさっそく行ってみたのであった。

地下二階にあるギャラリーに降りる階段でまず驚く。蜷川と親交のある関係者からの祝いの花で埋め尽くされているのだ。とにかく花・花・花……。誰もが知っているような芸能人の名前をたくさん発見して一人興奮する私はおのぼりさんです :-P

今時の音楽が流れる空間に、色に溢れたいつもの「ニナミカの世界」が展開する。しかし、今回のものはどこか影を感じさせるところがこれまでと印象を異にする。境界を曖昧にするほど溶け出した色に加えて、このなんとも言えない暗さ。そこにドラマのようなものを感じることができ、同じく世界各地の風景や人々を写した初期の『Pink Rose Suite』から確実に別の場所へ歩を進めていると思った。

写真はアクリルパネルに貼られたお得意の形で展示される。艶々した質感は彼女の写真に相応しいものだろう。大きなB0サイズと見やすいB4サイズのほか、マッチ箱くらいの小さなパネルが数百枚はあっただろうか、とにかく見応えがある(販売もしていてB0は55万円、B4は9万円とのこと。他の美術品の価格を考えると、決して高くはないと思う)。新作写真集も買い求め、すっかり満たされた気分で、夕闇の代官山の雰囲気を味わいながら駅まで元気よく歩いた。

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2005.09.04

動物園のスライドショー

ようやく使い方がわかってきたFlickr!。

インターフェイスそのものはFotologがわかりやすかったし、好きだったけれど、もはやまともに使えないので忘れるしかない。Flickr!の楽しみの一つは自分でアルバムのように写真を組むことができる点である。しかもそれをスライドショーで楽しめる。

ここのところ一枚ずつアップロードしている天王寺動物園の写真をまとめてみた。数分間おつき合いいただける方、下のタイトルをクリックすると、スライドショーが始まります。

天王寺動物園 2005年夏

#書きかけのエントリーが溜まっていることは内緒(^^;

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2005.08.27

夏の天王寺動物園

Tennoji Zoo #1 Tennoji Zoo #2
僕も町が象を飼うことには賛成だった。高層マンション群ができるのはうんざりだけれど、それでも自分の町が象を一頭所有しているというのはなかなか悪くない。
 村上春樹「象の消滅」(『パン屋再襲撃』1986年、所収)

8月18日のエントリー「どこかへ行きたい」を書いた後、動物園に行きたい気持ちが抑えられなくなった。ローライを持って天王寺動物園に行ってきた。真夏の午後、園内はひっそりと静かである。どの動物も好きなだけ眺めることができた。とてもよい気分だった。

天王寺動物園 http://www.jazga.or.jp/tennoji/

まずはペンギンときりんの2枚をFlickrにアップロードした。これからしばらく続けようと思っているので、よろしければ御覧下さいませ。上の2枚とも、クリックするとFlickrにジャンプします。

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2005.08.18

どこかへ行きたくなる

コヨーテ7号創刊号(森山大道特集)と第2号(星野道夫特集)を買って以来、しばらくその存在を忘れていた雑誌「Coyote」。旅と写真をテーマにするこの雑誌の第7号を書店で見かけた。なんとも魅力的な「動物園で会いましょう」という特集を組んでいるではないか。動物園で「いかに素敵な時を過ごすか」という部分をしっかり考えさせてくれる。動物を眺めながら、気のおけない友人ととりとめのない話をするというのがいいなぁ。ピンホールカメラや二眼レフを持って、のんびりした気分で動物たちの写真を撮りに行きたくなった。

旅心を呼び起こす書をもう一つ。六月から刊行開始になっている『In-between』というシリーズものの写真集がある。日本の写真家13人がEU加盟国25カ国を写すというもので、全14巻のうち7巻までが発売された。どれも興味深いのだが、野村恵子と松江泰治の2冊を買ってきた。野村はイタリアとスウェーデンを、松江はイギリスとスロバキアをそれぞれ担当する。

沖縄を写した『Deep South』が印象的だった野村のイタリアとスウェーデンは、やはり彼女の強い色が炸裂している。野村の写真の特徴は濃密な空気感とそれを伝える強烈な色彩であると思うが、ここでもそれは健在である。いかにも色彩に溢れていそうなイタリアだけでなく、やや淡泊なイメージのあるスウェーデンでも同じような調子で見せるところに、野村の個性と力が横溢している。実に力強い。

一方の松江は大型カメラで地上のありようを丁寧に掬い取るスタイルを得意とする。彼の精緻な写真から私が思い出すのは、かつて大流行した「SimCity」というゲームである。手前から奧まで一つの文様として立ち現れる都市の図。松江の写真はまさにそういうものとしてある。固有なのに匿名。永遠にやむことのない人間の営みの結果としての都市を、普遍的な「絵」または「図」として提示する。野村と同じく松江もまた自身のスタイルを貫いている。

涼しい部屋でこれらを繙いていると、どこかに行きたくなる気持ちを抑えがたい。暑さに負けずにね。

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2005.07.26

森山・石内・エルスケン

■森山大道『BUENOS AIRES』(講談社)
森山大道にとってブエノスアイレスという街は40年来の憧れの地であったという。唐突に思われた両者の結びつきも、あとがきに述べられたこの一言で氷解し、さらに繰り広げられる紛れもない森山調の圧倒的な写真群を見るにつけ、彼らの関係性の必然を見る思いがする。決してラテンアメリカのなんたるかを知る写真集ではない。これもまた過去の書と同様、すぐれて森山大道という写真家の美意識を顕現した一冊であろう。それにしても森山の撮る動物は、どうしてああも人間臭く危険な雰囲気を発散させているのだろう。

■石内都『マザーズ 2000-2005 未来の刻印』(淡交社)
世界最大の規模を誇る国際現代美術展「ヴェネツィア・ビエンナーレ」は今年で51回を数える。この100年を超える歴史を持つ展覧会の、今回の日本館の代表に選ばれたのが石内都である。本書は同展の公式カタログとして出版されたものであり、中核となる「mother's」の他、初期三部作「絶唱・横須賀ストーリー」「アパート」「連夜の街」を収録する。亡くなった実母の遺品を淡々と写す「mother's」では、物言わぬ品々の静かな説得力に心を打たれるし、サイズは小さいとはいえ、幻とされる初期の写真集をまとめて見られるなど、石内の業績を知るにはよい写真集である。笠松美智子とサンドラ・フィリップスの解説も読み応えがある。

■Ed van der Elsken『セーヌ左岸の恋』(エディシオン・トレヴィル)
エルスケンが全盛の頃、かのブレッソンやドアノーよりも評価されていたらしいが、本書はその彼のデビュー作にして最高傑作の誉れ高いものである。ドキュメント写真のように撮られたものを再構成し、そこにオリジナルの虚構の物語を付与するというコンセプトやスタイルは、当時多くの写真家に衝撃を与えたらしい。今となってはそのスタイルは珍しくもなく、さらに付与された物語の陳腐さに、逆にそういうものは取っ払った方がよくはないかとすら思えるところだが、掲載された写真はいずれも今にも動き出しそうな生々しさを持つ。ローライの写真を堪能できる。

写真集を見るのは楽しい。値段の高いのだけがちょっと困りもの。

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