写真とことばの鬩ぎ合い
動物好きであるのにもかかわらず、プロの撮った動物写真にはほとんど興味が持てなかった(ついでに言えば花や植物も)。だから星野道夫のアラスカの写真なども「一般人の行けないところで撮っているから珍しいだけ」などという、あまりにも傲慢不遜に過ぎる感想を持っていた。それが彼の著書や足跡を紹介した雑誌などを読むにつれ、偏った認識を改めることになる。月並みな言い方になるが、そこにはアラスカとかの地に生きるものへの深い愛情や洞察、敬意が満ち溢れており、その意識こそが星野の撮る写真を生む原動力となっていることに気付かされたのであった。
本来、写真はそれだけで自立すべきメディアであろう。名取洋之助の名著『写真の読み方』(岩波新書、1963年)を思い起こすまでもなく、写真に添えられたことばによって、眼前のイメージの持つ意味は大きく変質する。また添えられた説明や警句は写真の喚起する想像力を著しく拘束しもする。しかし、おそらく星野の写真はそうではない。近時、「アサヒカメラ」2006年2月号に掲載された星野のホッキョクグマの写真群の美しさは、確かに一片のことばも必要としないが、それでもなお星野の写真は彼自身の思念に彩られた文章と組み合わさることで、さらなる輝きを放つと思われる。『アラスカ 永遠なる生命』(小学館文庫、2003年6月)、『アラスカ 風のような物語』(同、1999年1月)の二冊の写真エッセイ集を読むにつけ、そのことを強く感じた。
一方、復刊なった森山大道の名著『写真よさようなら』(パワーショベル、2006年4月)は、徹底的に無言を貫く。ことばの入り込む余地はどこにもない。全編、あたかもモノクロの抽象絵画のような図像がただひたすら繰り返される。個々の写真の解釈を求められるというより、写真集全体から漂い出る濃密な気配や意志や情念を虚心に見通すことが求められる。それはまさに鑑賞する側の創作行為である。見る側にその覚悟がないと、この写真集はそもそもまるで意味をなさないであろう。これは昨秋から今冬にかけて東京都写真美術館で開催され好評を博した植田正治の写真とも気脈が通じるとおぼしい。残念ながら写真展には行くことはできなかったが、同時に発売された写真集『植田正治写真集・吹き抜ける風』(求龍堂、2005年12月 )に収められる不思議な浮遊感を持つ写真をつらつらと眺めるにつけ、何を看取するかは鑑賞者次第だと思わされる。日本におけるピンホール写真の第一人者、田所美惠子の第一作品集『針穴のパリ』(河出書房新社、2006年3月)に収められる写真群もまた同様である。
森山大道の写真は全般的に「ことばに頼らない」意志を明確にしているが、必ずしも相性が悪いということではない。父の生まれ故郷を撮影した『宅野』(蒼穹舎、2005年5月)は、ことばが添えられていることで具体的な物語が見えてくるし(「あとがき」より)、なければないで森山調のモノクロスナップとして堪能できもする珍しい写真集である。また寺山修司・森山大道『あゝ荒野』(パルコ出版、2005年12月)などは、寺山のなまめかしい文章を自らの写真のキャプションにするという離れ業を演じている。もちろん寺山にも森山にもそのような考えはないであろうが。
あわせてふたつ。飯沢耕太郎『ジャパニーズ・フォトグラファーズ』(白水社、2005年12月)、赤瀬川原平『目玉の学校』(ちくまプリマー新書、2005年11月)は、言葉巧みな写真評論家と芥川賞作家の手になる写真関連本である。前者は現代日本写真家を概括的に述べ、後者は写真や目の原理をおもしろおかしく解説する。
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